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安心問答(浄土真宗の信心について) このページをアンテナに追加 RSSフィード

2009-11-27 「布団は何枚もある」という布団一枚があるだけです(nowhereさんの

「布団は何枚もある」という布団一枚があるだけです(nowhereさんのコメント)

nowhereさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

(中略)

この距離感の原因は本願に明らかです。すなわち「唯除五逆 誹謗正法」です。ただいま救う弥陀の心を遠ざけているのは、過去世からの私の作ってきた罪悪です。それが、今の私の心には「名号の功徳を信じない心」「他のものをあて力にする心」「月を遮る蓋」となって顕れているのでしょう。(nowhereさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091125/1259106607#c1259196562

「五逆の罪、誹謗正法の罪」を造ったから、自力があるのでありません。

誹謗正法については、以下のお言葉にあるとおりです。

問うていはく、なんらかの相か、これ誹謗正法なるやと。

答へていはく、もし無仏・無仏法・無菩薩・無菩薩報といはん。かくのごときらの見をもって、もしは心にみづから解り、もしは他に従ひてその心を受けて決定するを、みな誹謗正法と名づくと。(教行信証信巻・往生論註引文

仏も仏法もないといい、その考えを自分で考えたり、人から聞いてそう思うのを誹謗正法というと言われています。

しかし、無仏、無仏法という心や造った罪は、自力そのものではありません。コメントにある表現を使えば、「月を遮る蓋」ではなく、「蓋の下の水」にあたります。

誹謗正法の者だから他のものをあて力にするともいえますが、誹謗正法の罪を造ってきたから自力の心があるというのであれば、罪を消さねば自力の心が無くなることはないということになります。

五逆謗法の罪については、尊号真像銘文にいわれていますが

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり。五逆のつみびとをきらひ誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり(尊号真像銘文

五逆罪、謗法罪の罪の重さを知らせて、もらさず救うという本願のこころであって、「お前たちは五逆誹謗正法の罪を造ったから現在助からないのだ」と私を、はねつけられているのではありません。

罪を造っているものなら、なおさら救ってみせるという大慈悲の現れが「唯除五逆誹謗正法」の御文です。

この蓋は一枚ではなく、幾重にも重なってできている。T会長の例えでは「下の心を覆うたくさんの布団」のことでしょう。この蓋を取らずして、布団を剥がさずして、名号を受け取ることはできるのでしょうか。「ただいまの救い」に遇えるのでしょうか。答えは否でしょう。(nowhereさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091125/1259106607#c1259196562

いろいろ出てくる心はあっても、救いを隔てているのは、阿弥陀仏の本願を疑う心1つであり、自力の心だけです。

いくつも見えても、実体は1つです。

蓋というのも1つのたとえですから、救われていない状態を「蓋ある水」といわれたのであって、蓋を取るとは、「救われなさい」ということです。

コメントの表現を使えば、名号を受け取る=蓋を取るですから、別のことではありません。蓋を取って名号を受け取るのでもなければ、名号を受け取って功徳がわかってから、蓋が取れるのでもありません。

(中略)

そして時満ちて、自力がそのあて力にしていたものを、すべて自ら手放したとき(宿善開発)、弥陀は名号を回向し、行者は全領するのではないでしょうか。(nowhereさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091125/1259106607#c1259196562

いくつも段階はありません。

あて力になったものを手放して、初めて回向される阿弥陀仏ではありません。仏智不思議の名号は、現在ただ今回向されているのです。有る段階になってから初めて回向されるのではありません。

手放さないと、布団を一枚一枚とっていかないと救われないのであれば、ただ今救われることはありません。

ただ今回向されている名号を聞いて救われたのが、自力がなくなったということです。言葉が違うだけで同じ事です。

布団は残っていません。

といいますか、最初からないのです。布団があると思っている計らいを捨てて、現在救うぞと働いておられる阿弥陀仏に救われてください。

2009-10-01

本願から除かれるということについて(Kさんのコメント)

Kさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

「除かれた者が助かる」は、除かれるのと助かるのとは同時をイメージして書きました。

除かれるかどうかはあまり大事ではないのでしょうか?(Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090929/1254209918#c1254234625

回答します。

尊号真像銘文の親鸞聖人のお言葉をもう一度紹介します。

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり。五逆のつみびとをきらひ誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり(尊号真像銘文

親鸞聖人が書かれているように「ただ除く」というのは、「罪の重きことを示して、全ての人をもれなく救う」ということです。

罪の重さから言えば、「五逆誹謗正法」の者は、救われません。それをことさら「ただ除く」といわれたのは、罪を罪と知らない者に、罪を知らせるという御心だと言われています。

罪を罪と知らされる人は、すでに本願を知らされている人です。罪の深さを認めて、回心懴悔する人は、罪の大小によらず阿弥陀仏の本願に救われた人だと言うことです。

この「ただ除く」といわれた阿弥陀仏の御心からいえば、「除かれたかどうか」ではなく、罪を罪と知らせ、慚愧の心を起こさせ、救うという阿弥陀仏のお慈悲の現れだと言うことです。

「除かれたかどうか」というよりは、どのような者を除くと言われているかという本願の相手はどんな者かということを知ることが大事です。

「唯除五逆誹謗正法」は私の姿というよりは「罪の重い人をももらさず往生させるという弥陀の大慈悲を知らせる」ために「五逆、謗法の罪の重さを知らせる」お言葉ということでしょうか?(Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090929/1254209918#c1254234625

阿弥陀仏の救いを、「十方衆生」とみるか、「私一人」と聞くかによって、受け取り方は変わると思います。もちろん林遊さんのコメントにもありましたが、他人に対して「誹謗正法」と言う言葉ではありません。

「ただ除く」と、私に強く抑止されたお言葉だと聞けば、私の姿になります。

阿弥陀仏の立場から言えば、コメントに言われるようなことになります。

罪の重さを知らないということは、罪を罪と認めず逃げ回る姿です。自らをたのむ自力の心の人だと言うことです。それでは本願に救われないと歎異抄3章に書かれています。

そのゆゑは、自力作善のひとは、ひとえに他力をたのむこころかけたる間、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あわれみ給いて願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。(歎異抄3章

自力作善の人とは、今回のエントリーでいえば、罪を罪と知らずに、自分は正しいと自力をたのむ人のことです。そんな人は、他力をたのむ心がありませんから、阿弥陀仏の本願でも救われません。

しかし、罪を罪と知り、自力の心をひるがえして、阿弥陀仏の本願をたのむという回心があれば、阿弥陀仏の浄土に往生することができます。

煩悩具足の凡夫である私たちは、どんな行いをもっても生死を離れることができないことを哀れに思われて願を起こされた御心は、悪人成仏のためであるから、他力をたのむ悪人は、最も往生の正因であるといわれました。

五逆、謗法、闡提の者でも必ず救うということから言えば、その者に罪を罪と知らせ、自力の心を離れて、回心懴悔させ、阿弥陀仏の本願に救うという御心で「ただ除く」と言われたのです。

そうしますと、そのような弥陀の大慈悲を知ることが大事なのですね。それが阿弥陀仏の本願に向かうということでしょうか?「ただ今救われる本願」は「罪の重い人をももらさず往生させるという弥陀の大慈悲」と同じことでしょうか?(Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090929/1254209918#c1254234625

今まで説明したとおりです、どんな罪の重いものでも救う本願ですから「逆悪もらさぬ誓願」と親鸞聖人は言われました。

「ただ除く」と厳しく悪を抑止された本願のお言葉は、このようにして必ず救うという阿弥陀仏の大慈悲の現れでもあります。

だからといって、悪を知るためにまず善を実行してからでないと助からないというのは、大きな間違いです。それでは、悪人が善人にならねば助からないことになります。

こういうと「それでは、悪をしてもよいのか?」という方もありますが、生活一般のことから言えば、悪にほこっていいわけはありません。信仰を求める上でも、悪をしてよいといっているのではありません。

悪人成仏とは、悪人は悪人のまま、逆謗は逆謗のまま救うという本願です。

自力の心をひるがえして、阿弥陀仏をたのむことが大事です。

阿弥陀仏の御心から言えば、ただ今救われることが大事な事です。ただ今救う本願に、ただ今救われて下さい。

2009-09-29 元会員さん、Kさんのコメントにエントリー(2つ)

「除かれるか除かれないか」と「助かるか助からないか」は同じか?(Kさんのコメント)

Kさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

まず、「除かれるか除かれないか」と「助かるか助からないか」は同じことでしょうか?

五逆罪法謗罪を造っているものであれば除かれると仰っているのでしょうけれど助からないとは言われていないと思います。「除かれた者が助かる」というようなことではないかと。(Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090926/1253967558#c1254144665

回答します。

「除かれるか除かれないか」と「助かるか助からないか」は違います。

前者は、本願に誓われた五逆謗法の罪人について、罪の重さを問題にしていることになります。

後者は、本願に救われるか救われないか、南無阿弥陀仏を心得るか心得ないかということです。

もちろん罪の重さを問題にして、罪を造った者は結果として往生出来ないといわれているお言葉ではありません。

唯除五逆誹謗正法については、以前のエントリーで紹介した、親鸞聖人のお言葉を紹介します。

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり。五逆のつみびとをきらひ誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり(尊号真像銘文)

五逆、謗法の罪の重さを知らせるためにただ除くといわれているのであり、この二つの罪の重いことを知らせ、心をひるがえさせ、南無阿弥陀仏を与えて、全ての人をもらさず往生させると弥陀の大慈悲を知らせるお言葉であるといわれています。

「除かれた者が助かる」という言い方は適当ではありません。

そうなると、一回除かれてからでないと助からないということになってしまいます。

また、除かれた者が、一度除かれたあと、除かれない身になることになってしまいます。

罪の重さからいえば、五逆・謗法罪は、除かれている者であるということは変わりません。除かれた姿のまま救うということであって、除かれてから救われるのではありません。

五逆罪・謗法罪をすでにつくっている人ならば、すでに本願から除かれています。

罪の姿から見れば、助からないものは、助かりません。

阿弥陀仏から見れば、罪に関係なく助けるということです。

除かれるかどうかという問題ではなく、大事なことは阿弥陀仏の本願に向かうことです。

除かれてからではありません。ただ今救われる本願です。

2009-09-25 謗法罪について考える(maryさんのコメント)

謗法罪について考える(maryさんのコメント)

maryさんよりコメントをいただきました。有り難うございました。

念仏誹謗の罪は恐ろしいといわれていますが、さして謗っている自覚もない、無邪気な心であってでもよくない行いだということでしょうか?なぜそんなに重い罪だと仏教で教えられるのでしょうか?(maryさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090924/1253783454#c1253832747

回答します。

謗法罪とは、自覚も大事ですが、自覚無く造る場合もあると思います。

もう一つは、なぜ謗法罪が重い罪かといいますと、仏が嫌われている罪だからです。具体的にどんなことが謗法罪かというと法を自ら謗り、人にも謗らせることによって、自他共に苦しませることです。

謗法とはどういうことかについて、曇鸞大師はこのようにいわれています。

もし無仏・無仏法・無菩薩・無菩薩法といはん。かくのごときらの見をもって、もしは心にみづから解り、もしは他に従ひてその心を受けて決定するを、みな誹謗正法と名づくと(往生論註・注釈版聖典P298)

(大意)真実を覚った仏もいなければ、その法もないしでたらめだと否定すること。またそのように思い込んだり、人から聞いてそう思って宣伝するようなことを、みな誹謗正法と名付ける。

仏の説かれた正しい教えを信じなかったり、自分中心の考えで行動をすると、お互いが衝突し、自他共に苦しめることになります。

こういうことをいわれて自覚をしている人は、すでに謗法の罪を造っているということになります。

そこで、最初のお尋ねに関して、「自覚が無い場合も謗法になるのか」ということですが、阿弥陀仏の本願に救われるという事に関していえば、「ただ今救う」という本願を否定する心があれば、謗法罪ということになります。

しかし、親鸞聖人は本願に誓われた「唯除五逆誹謗正法」についてこのようにいわれています。

造っているから救わないという本願ではないのです。

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり。五逆のつみびとをきらひ誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり(尊号真像銘文)

(大意)

「唯除五逆誹謗正法」とは、「唯除」とはただ除くということである。五逆罪を造った人を嫌い、謗法の罪の恐ろしさを知らせるためである。この二つの罪の重いことを示して、慚愧の心を起こさせて、全ての人をもらさず往生しなさいと知らせるお言葉である。

五逆罪、謗法罪の罪は仏が嫌い除かれている大変重い罪です。もちろん、恐ろしい罪だから造ってはならないということが最初にあります。

しかし、本来は、本願の目当てである私たちが、逆謗の機であるとはっきり知らせるためです。重い罪を重い罪と知らせて、慚愧の心を起こさせて心を生まれ変わらせ、南無阿弥陀仏を与えて、一人も漏らさず救おうとされているのが阿弥陀仏の善巧方便であるといわれているのです。

ただ、「このように懴悔しなければ救われない」という条件をつけていわれたものではありません。「逆悪もらさぬ誓願」といわれるように、阿弥陀仏の本願はどんな逆悪も救うのですから、「懺悔できたものだけ救う」ということではありません。

慚愧の心を起こさせるのも、阿弥陀仏のお仕事なのです。

ただ今の救いを、ただ今と思えずはねつけるので、救われると慚愧の心が起こされるのです。そのままといわれても、条件をつけようとするから、救われると法を謗っていたと知らされるのです。

では、何をしたらよいのかといえば、ただ今救われることです。

謗法罪を造らないことはとても大事な事です。しかし、阿弥陀仏は「謗法罪を造ったら救わないから造るな」と本願には誓っておられません。もらさず救うから、救われて下さいという仰せです。

繰り返しになりますが、だから謗法罪を造ってよいということはありません。「唯除五逆罪誹謗正法」といわれたのは、阿弥陀仏の大慈悲による善巧方便のお言葉で、私がそれに乗っかって悪をしてもよいということでもありませんし、他人を攻撃する言葉に使うものでもありません。