とりとめもなく

とりあえず、何か別のことを最新エントリページにしたいので、書くだけ。
読み返しはするかもしれないが、今回はあまり校正しないつもり。


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内心の自由は保証されていない云々のエントリを読んだ当初は頓珍漢な感想しか浮かばなかったが、いろいろフォローエントリーなどを読んで、これはかつて交わされた「表現の自由にヒモ」論議に近いところにあるのだな、と思った。
その流れでいけば、内心の自由を声高に主張するという「行為」は、あくまで行為として、批判対象となるだろう。


だがしかし、かつては少なくとも、「儀礼的無関心」は容認されていたのではないか。
今もそれは容認されているのか。
恐らく容認されてはいるのだろうが、そう取らない人がいないかどうかというのは気になるところ。


私の勝手な用語法では、儀礼的無関心を容認するということは、内心の自由を容認するということだ。容認というか、容認するも何もひとつの存立条件のようなものであって、「保証」となるとよく分からない。
ただ了解事として、相手の中に、自由にならないものとしてそれを仮構している。自分が、自分の行動とは裏腹におそらく相手が期待する感情を抱いていない事実によって、相手もそうに違いないと思う。


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はてなブックマーク - 「内心」は不自由だし、ポルノを楽しむのは「悪」だ - ohnosakiko’s blog
で、ある人が『僕にはああいう「良心」はない。』と言っているのが興味深かった。
そしてその発言者は、きっと「良心」など無くても、犯罪者にはならないのではないか、と思っている。
ゆえに、最終的に犯罪者とそうでないものを分けるのは「良心の有無」だけかというと、少し違うのではないか、とも思っている。
「良心」が無くても犯罪を犯さないとすれば、そこに何か別のものがありそうだが、それを確かにあると言ってしまうと色々問題が生じる。
現実と妄想は区別できるんだよ、という言い訳が容易に通ってしまいかねないからだ。


ただし公的な場とそうでない場を区別してはいる。
公的な場というのは、他者の顔が見える場といったら良いか。
そこでは、全く自由でないある規範のようなもので行動しているな、とあくまで後から思うのだが、何が良いことなのか悪いことなのかという事いぜんに、その規範が先行しているような気がする。戦争中、相手軍の兵士を撃つのが善といくら上官に叩き込まれていても、相手の目をみたら撃てなくなってしまう、そんなような。
かといって、その規範があれば犯罪を起こさない、というわけでもないだろう。


私にとってのコミュニケーションとは、その規範のなかでの出来事だ。
そこでは、相手の内心を知ろうとする場合ももちろんあるが、必ずしもそうでない場合も多い。そうでない場合のコミュニケーションも本来のコミュニケーションではないとは思わない。
たとえば意見の一致とは、言葉の一致であって必ずしも内心の一致ではない。
この規範は、何より内心の自由を認め合うことと結びついているように感じる。


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ネットでつぶやかれる内心と、公的な場で表明される内心とは違うものだ、と考えている。
ネットには顔がない。一方で、顔の見える場で表明される内心(たとえば、著作とか対談における発言とか)は規範を意識している。
本来公的な場に出ないようなものが、公的な場に出てきている。


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儀礼的無関心に戻ると、それを考えるときしばしば私のなかに浮かぶのは、戦時中の永井荷風のあり方である。伝記とか読まなくても、ネットで「永井荷風 戦争」とか検索すると、その逸話に触れることができるかもしれない。
皆が内心に篭るような時代にあって有効な議論が、必ずしもつねに有効ではないことを、頭のどこかに置いておきたい。
だからこの事は、誰のブログにもリンクせずに言っている。


ちなみに、永井荷風自然主義の作家ではないことも重要かつ興味深い。


蛇足だが、かつてデモに行かない人間が君には良心がないのか、と言われた時代がこの国にもあったのだが、それを経験している人の「良心」に対する反応は少し違うのかもしれない。
たとえば、少し前に「正論原理主義」と言った某作家とか。