自分が不幸になるときは他人も不幸にしないと気がすまない人達

表題をいいかえれば、藪から蛇を出したがる人達とでもなるのだろうか。


暫くこのブログから遠ざかっていたので、長文が書けるのかどうか不安で、今回はリハビリのようなものである。
たんに、気付いたんだけれど似たような人がいますね、というだけの話。
リハビリだからというわけではないが、別にそれらを分析してどうしようというつもりはない。たぶんそんな能力もない。(ついでに言うと、リハビリとはいえ、これから再びしばしばブログを書くようになるかというと、そんなつもりも余り無かったりする。)


最近でははてなブックマーク - 「男子臭いバス乗れない」女子悲鳴でにおい対策 : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)でのコメントに多くの、<そういうタイプの人>が観察される。
百歩譲って、臭いに対して女性はもっと寛容であっていいんじゃないの、そういう批判ならまだ分からなくない。しかし、女性の化粧・香水臭さも勘弁してくれ、というようなコメント多すぎないか、これは。(しかもご丁寧に、生物学的に女性の方が、とか言い出す人もいたりする!)
男子学生の臭いへの苦情を学校に言ったら、「いやいや女性だって臭いじゃないですか」と学生課の人が返してきたりしたらきっと苦情言った本人は仰天するだろう。まさにヤブヘビ。恐ろしや。(とはいえ、ネットと違ってリアルでそんな事はあまりないのだけど)


基本的にはあまり関係のないことだろう、と思う。女子短大としてずっとやってきた地方の学校なんかが少子化を見越して共学化したものの男子学生の数が少なく、その男子学生から苦情が出た。そういう例があったならそれはそれできちんと応対すればいい。女性の臭いが問題ならば、そういう時点で問題にすれば良い。まだ起きていないことを、まるで文明史を論じるかのように心配しなくても。
もっと言うなら、本当に女性の臭いがこの社会で問題化しているのかどうかについても疑問だったりする。結局反動なんじゃないの、と思ってたりする。常日頃から女性の臭いが気になっているというより、女性が男性に対して文句を言ってきた場合にのみ想起される体験に過ぎないのではないの、女性に文句を言う人達の体験って。
「そんな事いうなら、じゃあ言うけども」などと、女性からの苦情をケンカ売られたと勝手に思い込んでケンカを買っただけの事なのではないか。しかし、結局、「そんな事いうなら」でしかなく、そんな事が言われなければ楽勝で我慢できていた。ならば誰が何と言おうとずっと我慢していればいい。我慢できる所から何も言わないというのも、臭い敏感化社会への、微々たるものかもしれないが抵抗の第一歩だろう。


でも言いたくなる人達がいるんだよね、そしてタイプとして似たような主張があちこちで見られるなあ、というのが今回のブログの中心であって、上記はややダラダラ書きすぎたかもしれない。
罪というか悪というか間違いというか、要するにそういった責められポイントを自らや自らが属するもののみではなく遍在させることで希薄化する。こういった事は昔から行われがちであった。「だって皆やってるよ」みたいな。
がしかし、昨今は戦略的確信犯でもなく幼稚さゆえにでもなく、こういった事が行われる例が見られるような気がする。まるでそれが正義なのだと言わんばかりに。常に誰かに自己実現を阻まれていると感じているかのような、自分は不当に虐げられていると思っているかのような人がやはり多いのだろうか、なんて、冒頭で分析しないとか言いつつ、書いてしまった。
ボロが出ないうちに、<そういうタイプの人>が他に見られた例を挙げて終わることにする。

当初の問題提起(a) <そういうタイプの人>のヤブヘビ主張(b)
自転車の無灯火やアイポッド運転は問題だ クルマのケータイ運転や、カーステレオも何とかしろ
アニメやマンガの行き過ぎた性描写は問題だ 純文学にだって、過激な性描写はたくさんあるぞ
アニメ・ゲームでオタクは女性を差別しているのではないか 一般女性からの、オタクへの差別のほうがひどいよ
タバコの煙を何とかしろ クルマの排気ガスはいいのか
ネットはデマが多くて問題だ マスゴミのほうがひどい
男子学生の臭いは・・・ 女性の香水は?


ブコメでも書いたが、<そういうタイプの人>がこういう主張をするとき、真にその主張(b群)が解決されることなどは余り望んでおらず、むしろ(a群)の問題を無問題化したいという欲望が透けて見えるところに、大きな特徴がある。
言い換えれば、(a群)の問題が無問題化されるのであれば、(b群)など彼にとっては問題ではないのだ。エロマンガを楽しめるなら多少の被差別は構わないといったところ。


また、世代間格差という問題があって、若者が中老年世代に対して向ける目が年々厳しくなっている。これなどは、分配的正義の問題として理解できなくはない。老年の方々にいま少し我慢してもらえれば、若者に金が回るかもしれないという期待がある。しかし、今回挙げた例では、他人を少し不幸にすることがゼロサム的に自分の幸福度をアップさせるわけではない。女性が香水をつけなくなっても、男性の匂いが許されることには繋がらない。純文学の性描写を厳しく排しても、それでマンガの自由度が増すわけでもない。
にも関わらず、他所の不幸を望むところにも特徴がある。


おわり

とりとめもなく

とりあえず、何か別のことを最新エントリページにしたいので、書くだけ。
読み返しはするかもしれないが、今回はあまり校正しないつもり。


・・・・・・・・


内心の自由は保証されていない云々のエントリを読んだ当初は頓珍漢な感想しか浮かばなかったが、いろいろフォローエントリーなどを読んで、これはかつて交わされた「表現の自由にヒモ」論議に近いところにあるのだな、と思った。
その流れでいけば、内心の自由を声高に主張するという「行為」は、あくまで行為として、批判対象となるだろう。


だがしかし、かつては少なくとも、「儀礼的無関心」は容認されていたのではないか。
今もそれは容認されているのか。
恐らく容認されてはいるのだろうが、そう取らない人がいないかどうかというのは気になるところ。


私の勝手な用語法では、儀礼的無関心を容認するということは、内心の自由を容認するということだ。容認というか、容認するも何もひとつの存立条件のようなものであって、「保証」となるとよく分からない。
ただ了解事として、相手の中に、自由にならないものとしてそれを仮構している。自分が、自分の行動とは裏腹におそらく相手が期待する感情を抱いていない事実によって、相手もそうに違いないと思う。


・・・・・・・・


はてなブックマーク - 「内心」は不自由だし、ポルノを楽しむのは「悪」だ - ohnosakiko’s blog
で、ある人が『僕にはああいう「良心」はない。』と言っているのが興味深かった。
そしてその発言者は、きっと「良心」など無くても、犯罪者にはならないのではないか、と思っている。
ゆえに、最終的に犯罪者とそうでないものを分けるのは「良心の有無」だけかというと、少し違うのではないか、とも思っている。
「良心」が無くても犯罪を犯さないとすれば、そこに何か別のものがありそうだが、それを確かにあると言ってしまうと色々問題が生じる。
現実と妄想は区別できるんだよ、という言い訳が容易に通ってしまいかねないからだ。


ただし公的な場とそうでない場を区別してはいる。
公的な場というのは、他者の顔が見える場といったら良いか。
そこでは、全く自由でないある規範のようなもので行動しているな、とあくまで後から思うのだが、何が良いことなのか悪いことなのかという事いぜんに、その規範が先行しているような気がする。戦争中、相手軍の兵士を撃つのが善といくら上官に叩き込まれていても、相手の目をみたら撃てなくなってしまう、そんなような。
かといって、その規範があれば犯罪を起こさない、というわけでもないだろう。


私にとってのコミュニケーションとは、その規範のなかでの出来事だ。
そこでは、相手の内心を知ろうとする場合ももちろんあるが、必ずしもそうでない場合も多い。そうでない場合のコミュニケーションも本来のコミュニケーションではないとは思わない。
たとえば意見の一致とは、言葉の一致であって必ずしも内心の一致ではない。
この規範は、何より内心の自由を認め合うことと結びついているように感じる。


・・・・・・・・


ネットでつぶやかれる内心と、公的な場で表明される内心とは違うものだ、と考えている。
ネットには顔がない。一方で、顔の見える場で表明される内心(たとえば、著作とか対談における発言とか)は規範を意識している。
本来公的な場に出ないようなものが、公的な場に出てきている。


・・・・・・・・


儀礼的無関心に戻ると、それを考えるときしばしば私のなかに浮かぶのは、戦時中の永井荷風のあり方である。伝記とか読まなくても、ネットで「永井荷風 戦争」とか検索すると、その逸話に触れることができるかもしれない。
皆が内心に篭るような時代にあって有効な議論が、必ずしもつねに有効ではないことを、頭のどこかに置いておきたい。
だからこの事は、誰のブログにもリンクせずに言っている。


ちなみに、永井荷風自然主義の作家ではないことも重要かつ興味深い。


蛇足だが、かつてデモに行かない人間が君には良心がないのか、と言われた時代がこの国にもあったのだが、それを経験している人の「良心」に対する反応は少し違うのかもしれない。
たとえば、少し前に「正論原理主義」と言った某作家とか。

神様に聞け、ということ

テキトーなブコメをしてしまったのではないかと、今一度はてこはだいたい家にいるを読み返してみた。
コメント残そうか迷ったが、そこまでの内容なのかという逡巡があり、また返答いただいても、議論が深まるのかどうかも分からない。だから、ただ目を通していただければ、という気持ちで以下記す。


まず、「ファンタジー」という言葉が、やや曖昧で、それが上記ブログの不幸な結果につながっている。多くの人は、それを表現物として解釈してしまったきらいがある。夢物語は夢物語でも、おそらくもちのすけさんが当初言及したときの「ファンタジー」は、表出以前のもので表現物としては想定されておらず、近い言葉で言えば「妄想」なのだろう。
という前提にたって読み返してみると、少なくともはてこさんの苛立ちというか不安というか危惧というか、はよく分かる。
多分、ここに書かれているエピソードが重要なのだ。
つまり年上の内気な独身男性から雰囲気のあるお店に誘われ、お食事をしている最中に「あのさあ、こんなこと聞くのアレなんだけど、女性ってレイプ願望あるっていうよね、あれ何でなの?」と聞くような事態が起こってしまっていることが。
これが「内気な」男性だからまだ深刻でないようにみえるが、逆に言えば、内気な男性がそういう事を言えるくらいに、いまの言説空間には、"女性の多くはレイプ願望を抱いている"というような、本来憶測であっても口にできないようなものが一個の言説として染み渡ってしまっている。
染み渡っているという事は、それは、内気な男性のみならず、どこの誰とも分からない、場合によってはすぐ隣に住んでいるかもしれない粗暴な輩にも恐らくは行き渡っている。
この事態にどう対応したら良いものか、という危惧から、恐らくもちのすけさんの言葉が出てきていると理解する。


「レイプ願望」という言葉だけが、あまり考察のないまま一人歩きしている。そんな現状では、同じ「レイプ」という言葉で、粗暴な輩の「願望」と、女性の「願望」が一致してしまう。どこかでそれらを切り離せないものか・・・・・・。


そこで、持ち出されたのが「被害者がいないから、ごっちゃにしてはならない」なのだが、ここでもはてこさんは大分、しかし曖昧ゆえに無理もない、誤解をされてしまった。しかも二つの点において。


一つ目について言うと、正確を期すれば、されたいファンタジーにも被害者はいるのだ。
このへんは大野さんの言うのが正しく、「願望」(=妄想、ファンタジー)の内容そのものとしては、外形的にみれば、少なからぬ部分で、「したい」も「されたい」も一致している筈なのだから。たとえば、その願望が表出した表現物(レディコミ)などのなかに、一方的に女性がモノのように扱われ蹂躙されるようなものが全く無かった訳でもないだろう。
もうひとつ言っておけば、少なからぬ部分で、「したい」も「されたい」も一致しているからこそ、大野さんが引いた大澤真幸とかジジェクの議論が成り立つのだろう。


「されたいファンタジーにも被害者はいる、しかし、同時にいないのだ
余計に人を惑わすような言い方だが、はてこさんのブログで、上記のような言い方がなされていたらどうだったのだろうと夢想する。
したいファンタジーにも、されたいファンタジーにも被害者はいる。しかし、ファンタジーを抱くものがファンタジーのなかで取る位置が、その両者では決定的に違っている。
されたいファンタジーの被害者は自分自身であり、したいファンタジーの被害者はあくまで他人である、ということ。
被害者が自分自身であれば、たとえば自殺が殺人罪にならず被害者もいない如く、害的行為は自分自身のなかに内包されている。つまりコンテンツの中身の外形としては被害者はいるが、実質はいないのだ、と。
あるいは、両者の違いをこのように言い立ててる事も可能かもしれない。現実との距離が大きく違っているのだ、と。
願望を抱くときそこでは欲望する自分が肯定されているのだから、自分を否定するようなものとは両立しない。あるいは隔たりが大きい。つまり被害者が自分自身であるような願望と、自分自身を害するという現実とは、同時には決して両立しえない。一方、したいファンタジーの場合においては、ごくごく一部のならずものにおいてのみと注釈せねばならないだろうが、願望と現実がまさしく両立しかねない。


だからこそ、両者を「ごっちゃにしてはならない」という事になるのだが、これもブログの読者にただ「違う」と解釈されてしまった部分がある。これが二つ目の曖昧な点。
より正確に言えば「内容は同じものかもしれないが、しかし違うのだ。だから区別しなければならない」ではないか。ややこしいが、しかし、簡潔にかつ正しく言うならこう言うしかないのではないか。そして、同じ内容の妄想を違う内容として捉えよというのは無理にしても、同じ内容の妄想を、妄想を抱く主体によって、区別して扱うことは不可能ではない。


・・・・・・・


したいファンタジー、されたいファンタジー。両者の「願望」の内容が一致したとしても、一致しているのは内容だけでしかなく、肝心の「願望」する主体を考慮せずに、同じものとしてそれぞれ「願望」した主体にたいして区別せずに当てはめてしまうのは、乱暴である。
と結論付けると、なんか当たり前のように聞こえてしまうし、悪く言えば対処療法的なものでしかない。はてこさんも何のために長々エピソードを書いたか、あるいは、「レイプ願望」という言葉を誰かまた男に今後も口にされ、その度に手紙を書かねばならないのか、ということだ。


もしあのブログで書かれていたことを、より身近な我々の問題として考えるなら、「レイプ願望て実際どうなの」と男から言われてしまうという現実と、自らの妄想を口にしてしまう事をわりと簡単に許してしまいがちな我々の意識について、もう少し考えた方がいいのではないか。
そのような意識は、そのような現実を予想しているのか。また、予想していなかったときに生じるであろう落差に出会ってない、もしくは落差に鈍感な人によって主に妄想が語られている、そういう事は全くないのか。


以前大野さんが引用していらした、ジジェクの文章を私も興味深く読んだのだが、密かに強姦を妄想していた女性が実際に強姦にあったときの落差には、遥かに遥かに及ばないにしても、似た構造のものとして、被虐の妄想を容易に口にしてしまう人がいるとするなら、それが望まない人から、加虐の側から口にされてしまうという現実があったときに生じるであろう落差を、その人はいま少し感じても良いのかもしれない。
妄想を語ることは、妄想を語られることによって裏切られたりはしないのか


むろん、その落差を充分体験したうえでそれでも妄想を語るんだ、という人もいるだろうし、この対立はそう簡単には解消するとも思えない。
それでもそれを承知で私は、以前からそうであるように、少なくともネット上、なかんずく匿名においては、また性的なことに関してはとくに、欲望、願望、妄想の表明に関しては、「神様に聞いて」という立場に立ちたい。


おわりです。


※追記
深夜遅くなって再訪してみたら、どうやらTBを承認いただけなかったようだ。
自分が書いた事を再読してみたら、相手の事をあーだこうだと言えないくらいに何が言いたいのか分かりづらい所もあって成る程こりゃ無理もないかなという気もしたが、何かのトラブルでTBが飛んでいなかったとしたらせっかく書いたのが流石に悲しくなるので、文章を若干手直ししたうえで、念のためここでidコールさせて頂くことにする。id:kutabirehateko
迷惑だったかもしれないが、これ以上はもう何もしないし、これも承認されなくても無論全く構わない。

知事の昔の小説うんぬん

日頃から敬愛させて頂いている某芥川賞作家でもあり地方自治体のトップを勤めておられる方が昔書いた小説を、ある程度線引きに意識的な人はそんな事はもうしないんだが、未だにあれを持ち出して、閣下の書いた小説がOKならエロマンガもOKなんじゃないでしょうか、という人がいる。


・・・・・・。


中上健次というもう死んでしまった小説家がいて、晩年、マンガの原作をやった事があるらしい。
らしい、というのは、最近どこで読んだか忘れたがそこから引いた話なんだが、彼は、マンガである事ができないのに、すごくイラだったらしい。
何かというと、比喩。


「彼は、麻薬が切れた中毒患者のように寒くもないのにブルブルと震えていた」
「彼女は、地平線の彼方をゆく船を見送るような目で、僕を視界に入れながらどこか遠くを見ていた」
定例会見での都知事のように言いたいことだけ言うと、彼は去ってしまった」


赤字の所を、マンガでそのまま忠実に描写することは不可能なのだ。対象との距離感がマンガと小説とは違う。ワンクッションおいて、事物を構築し直すからだ。


とはいえ、ものすごく決定的に違うという事はない。世の中には主に自慰目的であるかのような小説は存在するし、小説のようなものがマンガではなく大衆娯楽の中心としてもっと部数が出ていれば、問題にならないとは限らない。
そして中心となる可能性は、恐らくもうほぼ無い。

健全・不健全

前に言ったことの繰り返しに近いこと。


たとえ心のなかで(ちっともありがたくないな)と思っていても、「ありがとう」と言うこと=<人から物を頂いたら「ありがとう」と言う行為>は健全な行為だ。


そして、人が貴方に物をあげようとしているとき、それを内心(ちっともありがたくないな)と思うこと、が健全か不健全かなんて、どうでもいいこと。
ここについて、あーだこうだとべき論を議論することじたい、国家や社会に内心を統制させてしまうような危うい、私からしてみれば不健全なことだ。


おわり。

表現への規制に関して思っていること

何を書こうとしているか、実は余り決まっていない。
殆ど感想に近いものとなる可能性が高いので、例えばこの問題の実務的な面について問題意識を抱いている人などは、ここで読むのを是非止めて欲しいブコメばかりあちこち残してきて何も書かないのはちょっと一方的な気がしただけだ。


最初に違和感を抱いたのは次のような類の意見。
「表現というものは、凡そ何だって程度の差はあれ暴力的なのだから、あれこれ区別せずその存在を甘受すべきだ。それによってより文化が豊かになるし、またそもそも区別なんてできない。だから規制しようとすると全てを規制しないとおかしい。子供にもすべて晒して良い。」
(似たようなものとして、「多かれ少なかれ、人はそれぞれ何かに対して恐れを抱いている。だから、そのようなものを規制の根拠にしてしまえば、多くのものが規制されてかねない。また不安感じたいも曖昧だ。」というのもある。)


例えばテロを非難するアメリカこそがテロ国家なのだとか日本にいて安穏な消費生活をしている人だってただそれを非難する事はできない我々も加担しているのだ、とか、そういう語りは昔からある。
しかし俯瞰的に通常イノセントに見えている側の暴力をあばき出す、というのではなく、暴力を言われた側がそちらも暴力だなどと返してみたり暴力を遍在させてるのには正直ついていけなかった。返す刀に含まれる暴力になどたいした問題意識があるとは思えず、しかも悪くするとあちこちに暴力を散らすことで自らの暴力を軽減化させるようなものに見えてしまう・・・・・・。


暴力を区別して語るのは一方を正当化するものだという議論も昔からあったけど、逆に暴力を区別しないことが正当化に繋がっている(かのように見える)このような議論を目にしまうと、暗い気持ちになって、区別してるじゃないか、といってみたくなる。


一家揃って『名探偵コナン』を見ることはあってもまさかそこで続けてエロDVDを見る事はないだろうし、女性がいる職場で週刊大衆を堂々広げたりはしないだろうし、程度の差はあれ大抵の人は「区別」を持ち込んでいる。
何だって暴力的だ区別なんてできないと放言する人には、自分の娘の前でエロ本読むのか、と問うてみればいい。(そんな事したら奥さんに殺されます。)


区別ということでいうと、今は放送にかんする倫理が厳しくなったようでそんな事は少なくなったのだろうが、中高生のころ家族でテレビを見ているときエロティックなシーンに出くわして、それまでも充分静かに見ていたにも関わらず、改めて静けさが際立って迫るかのような長い居心地の悪さを感じた人は結構いるのではないか。これも区別のひとつなのだが、しかしあの居心地の悪さというものは果たして解消すべきものなのか。親子でフランクに性について語り合ったりすべきなのか。


どうも違う気がする。親をまず他者化すること、自分のなかに親と違う部分を見出すことが内面=近代的自我の獲得の第一歩なんじゃないか。たとえば親に対して秘密を持てること。中でも、性というより人間の根幹に触れる部分に関しては、親と語り合ったりできないこと。
もしかしたら内面を保持したり育て上げたりするためにこそ、区別された場が必要なのではないか。TVなどでエロティックなシーンに出くわした後に、それについてオープンに語り合ったり細やかに解説するとしたら、それこそ親に馴致された内面となり、そこには、「青少年」の「健全な育成」という目的をもって子供の隅々まで関与していこうというのと同じくらい、デストピアな臭いが漂う。子供には良いも悪いも全て晒して選ばせるだって?親にオナニーなんて見られたくないし、親だって薄々分かっていても見たくはないだろう。
(親子関係から離れて付け加えるならば、例えば職場が堂々とヌード写真を張ることができない場であるというのは、貴方がゲイであってもオタクであってもそれを表明しないで済む場でもあるということ。)


たとえば表現規制に反対するものが、それでも家族の前ではエロを隠したりするのは、この内面獲得のプロセスに無意識に従っている。つまり場をきちんと形成している。無意識にでも、自分が内面を獲得したのはその区別された場の恩恵だということをわきまえているかのようですらある。
そして、この区別の延長させていけばそれは、規制を積極的に推進する人はともかくとしても、規制に反対しない人が求める「場」と結果として重なる部分は少なからずあるのではないか。セカンドレイプに値するとか女性蔑視であるという理由で制限を求める人達が出来を期待する「場」と、オタクと称されてしまう人を含めたいていの人が実行している行為から延長された「場」を、重ねる事は全く不可能なんだろうか。
規制反対派のなかには、「表現規制に反対するためにオモテに出ざるをえないが、そっとしておいてくれ」という二律相反に悩まされている人がいるが、片方は隠れろ、片方は隠れたいのだから、本当は、規制反対しない派の一部と利害的にも一致しているはず。
ではなぜこの二者が対立してしまうかというと、おそらく重視している「場」が異なっているのだ。


民主主義(というより自由民主主義)は自分の内面を語ることを迫られないことを基礎にしている、と思っている。端的にいえば、選挙では誰が誰に投票したかを分からせない。無記名投票によりより内面を反映させつつ、誰の内面かは必ず切断しておく。内面まで賛否を問うような社会は、民主主義と称しても、連合赤軍的なものに行き着く。
語ることを迫られないというのは、ときに、自ら語ることをしないというのと表裏一体であったりするような気がする。誰かが語れば、自分も語って良いと思ったり、そうやって多くの者が語りだせば、あるいは語るべきという雰囲気すら出て来はしないか。
インターネットのようなどちらかというと公的な空間で、自らの性遍歴をあけすけに語る人がいて、耳を傾けるべき内容のものがそこそこあるせいか、あまりそれを否定的に捉える人はいない。しかし、その地続きで幼児への性的興味を語る人もまた居ることを考えると、ネットというのはそういう場なのか、という疑問も生じてくる。たとえばゾーニングを主張するような人が自らの性体験をネットにおいて語る、というのはどういう事態なのか。
おそらくネットをどういう場と捉えるかにかかっているのだ。これがもし表現の場であれば、昨今のような状態となっても致し方ないと思う。しかしこんな公的に開かれた場所が、表現の場なのか。


表現は制限を嫌う。というか制限されない事によって表現が表現足りうる。例えば文学の歴史というのはそういうものだった。過去どれだけの文学が、とりわけ性的な内面を赤裸々に語ってきたか。そういう文学の成立とともに、近代的自我は、親や日常空間から「自分」を秘匿しつつ、一方であけすけに内面を語り合うことで内面を獲得し、あるいは確認しあい、成立してきた。
しかしかつてはそれらはたいていが書籍の形となっていて、図書館や本屋で出会うものだった。自分の本棚をあまり他人に見せたくないという人は多いと思う。かように日常からは区別されてきたものが、ネットやアニメ文化の拡大により日常に侵食してきたのが、規制論者がでてくる遠因でもあるんだろう。


整理する。
一方で隠しつつ、一方で語る。近代的自我というのはこの二つの場において歩んできたと思うのだ。(三島のようにゲイが主人公の小説を書きながら、ゲイであることが公然となっているかのような例もあるから万遍なく絶対なものとはいえないが。)
そして、そのようなものであれば、オタクと称されてしまう人達にだって語る場というものが必要だという事になる。それがない世界は、大げさにいえば自我を認めない=人である事を認めない世界くらいのものに感じられるだろう。
規制推進派に、あたかもそういう場を認めないかのような人がいるのは度し難いが、一方で、規制反対派のなかに、隠す場というものを軽視しているとしか思えないような人がいる。
しかし、より緩やかな前者の中には、隠れていればいいよという人もいて、また規制反対派だって、恐らく日常においては隠している。ここでの対立は、それぞれが軽視しがちな二つの場の一方について配慮すれば、収束はしないまでもそれほど激化することはないのではないか。


長くなったが、じつは最後まで一番肝心な問題ついて放置している。人によっては此処こそが一番の問題だろう。リンク張らない限り読まれる事は少ないブログだし、最初に感想みたいなものに過ぎない、と断っておいて良かったとしか言い様がないが、その問題とは、「隠された場のみ」から「隠された場と語る場の両輪」へ青少年をどう移行させるか、という問題だ。
これに関しても凡庸な事しかいえないが、学校など親子関係以外の社会的な関係の場さえ用意されていれば、青少年に対して一定の制限は仕方ないのではないか。教科書とか推薦図書的なものだって、それらをもって、語るものとしての自我形成には充分と思えるし、親子関係の間ですでに性的なものが憚られるものとなっていれば、社会的にもそれがおおっぴらには出来ないものとして受け止めるだろう。ひいては、一定の年齢まで禁止される事も受け入れることはそれほど難しいとは思えない。


・・・・・・


日常において区別しているのだから、規制されるべきものとそうでないものも全く区別できないという事にはならない。できないのではなく非常に難しいという事なのだ。であれば、例え区別が可能であっても一切を規制すべきではないというラジカルな立場を除けば、残るのは、誰がどのようにどういう基準を持てば困難さを軽減できるかというようなテクニカルな問題だけなのだと思う。そしてテクニカルな問題はまだ区別を諦めるところまで突き詰められていないように思える。

何も語っていないに等しい内容だが、終わる。

内心=表現ではない

id:NaokiTakahashiさんに名指されていたので何か書くべきかと思っていたら、Apemanさんが圧倒的に詳しく書いていて、もう話としては殆ど終わっているような。


ともあれ私はNaokiTakahashiさんの次のような発言に反応したのです。(すいません。具体的にどのエントリかは略します。)

じゃあ脅しみたいに表現の自由に言及するのやめたら? それやってる限りこちらの態度は軟化できん。

表現の自由に手を出さず倫理の範囲でやるなら反対なんかしないさ。

倫理とかの話をするなら俺もこうは言わないよ。

ああ、これなら話が早いなあ、と。
で、それを念頭において
改めて最近のApemanさんのエントリから抜き出してみると、
表現行為に対する現状以上の法規制を主張したことは一度もない。」
「「表現の自由キリッ」を批判するのは「表現に対する法規制はできる限り回避すべき」という前提があってこそ、というのははっきりしている。」
と、ハッキリ念が押されている訳です。つまり私はこれを、自分が当初からやっているのは倫理の範囲内の事である、という事のApemanさんからの再表明である、と解釈しました。誤解があるのなら、もう一度言っておくよ、と。
NaokiTakahashiさんは、脅し「みたいに」であるとか、表現の自由に「手を出す」という曖昧な書き方をしてらっしゃるので、はっきりしませんが、そのはっきりしない所を敢えてはっきりさせれば、
・読み手のバイアスによっては、脅し「みたいに」聞こえるかもしれないが、書き手にそういう意図はない。
表現の自由にただ言及するという意味では「手を出して」いるかもしれないが、否定したり規制を主張したりといった意味では「手を出して」いない。
となります。(念のためいうと、これもあくまで私の解釈ですが。)


ここまで書けばお分かりかと思いますが、もう話、終わってますよね?
更にいうならNaokiTakahashiさんもApemanさんの所でこういう書き方をしているのです。「個人のレベルでそんな道義的責任を追及されるのは、さすがに不当に思えます。」
Apemanさんの当初の主張が法規制ではなかったことを、ご自身が分かっている。


蛇足的にいえば、「規制を主張しているように聞こえる」のは、書き手だけの問題ではありません。余りにも誤解する人が多ければ書き手の責任の比重が大きくなったり或いはその逆もあるのかもしれませんが、基本的には双方の問題であって、書き手がその意図は無いよといえば、それまでです。あとは読み手の責任。そこで読み手がそれ以上書き手の隠された意図を問題にするのは、場合によってはそれこそ人の内心にすら「手を出し」かねない行為でしょう。


以上の事柄はApemanさんのエントリの繰り返しみたいな話で、書くまでもない事だったのかもしれませんが、以下は私見です。
私は、今回の行き違いのもっとも大きな原因は、表現は内心そのものである、あるいは、表現は内心そのものをトレースしたものであるべきだ、みたいな素朴な、<表現=内心の表出>という考え方(捉え方)にあると思っています。


「被害者のことを思え」などと言われると、本当に内心でもそう思わねばならないかのように感じて、「洗脳するのか」とか「興味関心を押し付けるのか」となってしまう。そんな、ハナっから出来るわけない事を。
我々は思っていること(内心)をすべて口に出して(表現して)生活している訳ではありません。思っていても口に出さないことができるし、いいかえれば、口に出さないことで思っているかのように装うこともできます。
さらにいえば、ときに思うよりさきに口が動いたり、書くことで初めて考えがまとまったり(あるいは当初と逆の結論に導かれたりして)、という事が数多くあり、そもそも「内心」なんてものがアプリオリにあるんだろうか、なんて考えたりもするのですが、話を複雑にしかねないのでやめます。
話を戻すと、巷間よくいわれる「思え」というのは、言い換えれば「自身があたかもそう思っているかの如く他者に見えるように行為せよ」と、いう事ではないのでしょうか。私には、そうとしか解釈できません。なぜならば、洗脳などできる訳がないのですから。倫理的な範囲の話=行為がどうあるべきかの話をしているのですから。興味関心を迫っているって、いまどんな社会なんでしょうかここは。
もっと単純な言い方をすれば、NaokiTakahashiさんにおかれては、女性の人権の事など一切興味関心が無くてもいいのです。ただし、その事を表明しさえしなければ、です。
内心そうは思っていないからといって、内心女性の事など何も考えていないからって、別に口に出さなきゃならない訳ではないのです。ある内心が存在するからといって、必ず表出しなければならないなんて事があるのでしょうか。まして言うべきでない局面においておや。(それにしてもTwitterなどの、あたかも内心を時系列にトレースしたかのように表現できるツールが普及している事の弊害、という訳でもないのでしょうが・・・・・・。)
なんか余りにも当たり前のことを人に畏れ多くも言っている気がして恥ずかしいというか少し気が引けてきたので、このあたりで。


慌てて付け足しておくと、私がここで「女性の人権に一切興味関心がなくてもよい」などと言明することじたい、メタに自分の言っていることを裏切っていますから、それは議論上の仮定であると言わねばなりません。あくまで私は、女性の人権を己ができる範囲で考えて行動するべきだ、と思っている、と言い直しておきます。実際、そう思います。
しかし、私のほんとうの内心を、いったい誰が知りえるでしょう?