示談ですか?

京都教育大学の事件、示談ですか。
レイプされたあげくにミクシィなどで、あんなところにのこのこ出かけていくからだとか誘ったんだろうとか言われ、裁判でも事細かに証言しなくてはいけないとなったら、そりゃ示談するでしょう。
もし私の友人が被害者になったとしたら、「女性の人権のために戦ってほしいけれど、でもこれ以上苦しむのは見てられないし仕方ない」と示談することを勧めるかもしれない。
ミクシィなどで「加害者の輝かしい未来が台無しになった」とか言っている人は、本当に加害者のことを考えていっているのでしょうか。私は違うと思います。自分のことしか考えてないのだと思います。
一人の人間がなんの落ち度もなく不幸になるという実例を見て、それは怖いとその人達は思ってしまったのです。だから、無理矢理でも被害者に落ち度を見つけるのです。わけの分からない飲み会などに行くからそういうことになったのだと主張して自分を納得させます。自分ならそんな飲み会に行かない。なんの考えもなく飲み会に行った。だから、被害に合うのだと考えます。
もしくは加害者は悪くない。教育者を目指す立派なスポーツマンだ。そんな人達が強姦などをするわけがない。被害者が誘ったのだ。被害者が悪いんだ。となります。
どっちにしろ普通に生きている私に害は及ばないと思い込むことによって、もしかしたら自分が被害者になってしまうかもしれないという恐怖から逃れることができます。
または、この事件の場合は少し違うかもしれませんが、凶悪犯罪が起きたときによくあるように、犯罪者を全く人間的なところのないモンスターとすることによって、安心をすることができます。血も涙もないモンスターなのだから、死刑にしてもよしという考えが生まれます。
モンスターはそれほど周りにいないでしょうし、もしいたとしてもすぐモンスターと分かるので、それはそれで安心です。
しかし、本当にそうでしょうか。一見立派に見える人が凶行に走ることがあるという風に考えるほうが自然ではないでしょうか。スーフリの和田さんのようにいかにも特異なプロフィールな人間が悪に走るというのはありそうなことですが、教育者を目指すスポーツマンが凶行に走るということも実はありがちなことではないでしょうか。
犯罪者が捕まるとだいたい普通の人だったとかいい人だったという声が関係者から出ます。
そんなもんなんじゃないでしょうか。私たちの心の中にも善と悪は根付いているので、犯罪者まで地続きになっているのではないでしょうか。私はそう思います。
だから、私は誰にでも被害者になる可能性があると思います。そういう覚悟を持って生きていくべきだと考えます。
自分の安心のために、被害者を責めないでほしいと思います。被害者は被害を受けただけで充分つらいのだから、それ以上言ってはいけません。
被害者を自分の安心のためにバッシングするという日本の風潮が嫌です。
これはみっともないとしか言えません。
海外には宗教があるので、被害者をバッシングしなくても安心できます。日本は宗教の代わりに世間体があるので、被害者をバッシングします。世間体というものの代わりになにか自分の信じるものを持っていれば、そんなことはしません。日本人は自分なりの信仰なり信念なりを持つことから始めたほうが良さそうです。