トナカイ語研究日誌

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現代歌人ファイルその30・高柳蕗子

 高柳蕗子は1953年生まれ。明治大学文学部日本文学専攻卒業。1985年「かばん」入会。高柳の短歌はポンポン言葉が飛び出してくるような威勢のよさが特徴であり、決してべたべたした抒情性があるような作風ではない。奇想ともいえる意味不明な世界観が凄まじい速度で繰り出されてくるため、読み手側としてはその面白さと愉快さに身を浸すだけでも精一杯である。

  殺人鬼出会いがしらにまた一人殺せば育つ胃癌の仏像

  肝臓が大牛に化けてのし歩くあっと驚く瀕死の富豪

  吸血鬼寄る年波の悲哀からあつらえたごく特殊な自殺機

  早起きの老人ばかりの暗殺団不吉なことは内緒にされる  
  流刑星姿かわいい生き物をブタと名づけて喰らう悲しみ

  大花火ひろがれば不滅の胎児ドーンとさずかる私の閉経

  丸顔に箱かぶせたらロボットになって行っちゃったあたしのマー君

  父王に似た長鬚の山羊ひいてナルスモニナのぶらぶら王子
 いまいち意味がよくわからないが、とにかく笑える。シュールで奇抜なイメージの連続砲撃である。少しSF的な要素があるところもまた楽しい。この威勢のよさはひとつに体言止めの効果というのが挙げられる。体言止めでぴしっと決めることの連続が昂揚感となり、読んでいて凄まじい快感を与えてくれるのだ。このあたりの技術は笹公人にも通じるところがある。また、それぞれの句の頭文字を揃えた歌など、言葉遊び的な志向が強いところも特徴的である。最後の歌の「ナルスモニナ」とは「何もするな」をひっくり返した言葉である。
 高柳蕗子の父親は俳人高柳重信である。重信は前衛俳句の代表といえる俳人であり、多行書きと非写実的なイメージで意味を超えたところにある世界観を構築している。

  月下の宿帳
  先客の名はリラダン伯爵   高柳重信


  夜のダ・カポ
  ダ・カポのダ・カポ
  噴火のダ・カポ
 リラダン伯爵って誰だよ、と思わずつっこんでしまいたくなる(19世紀フランスの詩人である)。完全な虚構俳句の世界である。そして高柳の歌にもこの虚構性と滑稽味が如実に受け継がれている。

  のろわれた私は王女にあるまじきことをするため片足あげる

  闇を脱ぐ闇姫見にゆくイタチおいで私はこんなに裸

  花を摘む花占いにみせかけてパパの昔の恋人ちぎる

  かわいがれず撫でまわすうちに一夜明け蜜柑になったあたしの赤ちゃん

  珍獣を奪い合い二隻の船が沈む目と鼻 ほら愛してる

  白木蓮もういないあの人たちがあたしのために使ったティッシュ

  「パパ……!」と息呑めばパパそっくりの痴漢も驚いて降りてった

 しかし高柳の歌は単なるナンセンス短歌ではない。その背後には明るいのにどこか歪んだエロスが渦巻いている。父の重信は非常に魅力的な人物であったらしく、高柳もしばしばその「ファザコン」ぶりを歌の中にさらけ出している。「パパの昔の恋人ちぎる」なんていうのはその典型であろう。ちなみに「高柳重信読本」という本では重信の実妹が兄への熱い思慕を語ったりもしている。

  いつまでも少女でいるその代償は絞殺される毎晩の夢

  みんな淋しいのに忘られただけで黴びてあたしの蜜柑の弱虫!

  神々の足匂う夜更け薔薇盗りに出たきり私のかわいそうなママ

  ひつじひつじ今日は右の空が青いあはは右手あげてあゆめば

  完成した羽の模様におどろいて蛾はあと少し子供でいたい

 これらの歌は濃厚な「少女性」に満ちている。汚れを恐れ、成長を拒否する。そしてその裏側にあるのは複雑な家族環境である。「パパ」へ少しねじれた愛情を抱く一方で、「ママ」に対する複雑な感情も抱えている。父・重信は蕗子の実母と離婚したのち俳人の中村苑子を内縁の妻としているのだが、そういった経緯が反映されているのかもしれない。シュールで奇想天外な世界を支えているのは、実は濃厚な家族性なのである。濃厚な家族性をはらんだ作品は私小説性を強めそうなものに思えるが、高柳家の場合はむしろ逆の方向に向かった。自己の内部にある感情を整理するために、あえて虚構と奇想の世界を創りあげる必要があったのだ。そしてその世界観の共有こそが父娘の最大の絆だったのであろう。