白鳥のめがね このページをアンテナに追加 RSSフィード

2004-11-07 …男が女を押し倒さないんだ」と(『<私>という演算』)

[]チェルフィッチュの『労苦の終わり』について(前編)-第二版-

金曜日、チェルフィッチュ岡田利規の新作をSTスポットに見に行く。

演劇作品であって、お話としては、いくつかの主となるエピソードが緩やかに結び合わされ、その周辺にディテールが散在しているといった感じ。まずお話の内容を整理しておこう。

核となるのは次の二つのエピソードだと言って良い。

A:二股かけていたフリーターの男が、二年くらい付き合っている前からの彼女を切って、一年くらい付き合っている新しい方の彼女と結婚することになる、という話。

B:その結婚相手の女の子がルームシェアしていた相手の、高校の先輩にあたる女性が、実は長い別居状態にあって、その夫と別居するに至ったいきさつの話。

Aのエピソードから始まって、こちらが展開される場面の方が長く、Aの語りから派生するようにしてBのエピソードが浮かび上がってくるのだが、AとBは同等に照らしあうような仕方でひとつのモチーフを構成している。男女関係とか共同生活といったモチーフの上に、結婚や恋愛をめぐるいくつかの主題が緩やかに結び合わされている。

Aは、結婚を決めたいきさつ、結婚しない方の女の子との別れかた、結婚の公表や新生活の準備のプロセスを描くなかで、これから結婚する前の不安というテーマへとつながってゆき、舞台上では新居を探しに行く場面で話は途切れる。

Bは、仕事や生活の疲れが溜まったところで、些細なことから口論してしまった結果として別居することになったいきさつが、妻の側と夫の側から語られることになる。共同生活を営む時に、どのような気配りや配慮が必要なのか、といったモラルの問題が浮かび上がるが、こちらは長引く別居状態がどう解消されるのか見通しのないまま終わる。

同時並行するいくつかの語りは、結婚生活の始まりから解消までのひとつの物語りを描くかのようだ。まるで、ひとつの物語が二つのエピソードへと因数分解されて、二つの未完の物語りとして展開されているかのようでもある。

この印象は、語り手や演じ手と物語られる登場人物との対応関係が上演のなかで揺らいでゆくという独特の手法の中でさらに加速されてもいるのだが、その点については後でまた触れることにしよう。

二つの隣り合うエピソードが併置されることで、決定的な事件の次に何が来るのか、その解決は先延ばしにされたままで作品は終わることになっている。観客は、やがて登場人物たちに幸せな解決が訪れるかもしれないと想像することもできるし、破局が訪れるかもしれないと想像することもできるが、何がどう解決するのかは誰にもわからない。

これは、常に何かが終わりつつ常に何かが始まっているという、現実の生活のあり方に類比的な形象として舞台を完結させる効果を、奇妙にも持った構成だったと思う。こういう類比的関係には、「リアル」という言葉に人が負わせたくなる全てがすっかり入っているといってよいだろうが、リアルの一言ですませるにはあまりに豊かであまりに問題含みな事柄だ。

この作品で語られる出来事は、様々に主題を紡ぎ出しつつ、語りにおける主題の提示としては十全であっても、作中の出来事としては未完のものとして提示されている。同じ出来事が、様々な語り手によって別の側面から浮かび上がるという仕方で語りは進むのだが、語られる出来事の同一性は揺らがない。

ここでいきなり、チェルフィッチュの活動をちょっと振り返っておく。

『マンション』『恋と自分/とんかつ屋』『ユビュ王』『マリファナの害について』『三月の5日間』『クーラー』と、『労苦の終わり』までの近作を振り返ってみると、岡田さんが自分の作風の中で常に新たな模索を重ねながら、しかし実験を実験として終わらせずに作品として完結させるような創作を続けてきたことがわかる。手法の拡張が主題の探求と歩調をあわせて進展しているみたいだ。

これは、STスポットという場が創作にとって良い刺激を送り続け活動の支援を続けてきたからこそ可能なことだったとも言えるだろうけど、ともかく岡田さんの歩みを追い続けることができたのはとても幸せなことだった。

いや、STに限らず、岡田さんは日本の舞台芸術をめぐる状況をうまく味方につけることができている。そして、創作の深化が社会的な認知とうまく噛み合っている。それはとても幸せなことだ。

さて、『労苦の終わり』の系譜をさかのぼると、『ユビュ王』『マリファナの害について』*1『三月の5日間』と、続いてきた流れの中に発展してきたものだといえる。これは、同一の出来事が、出来事としての同一性を保ちながら、様々な視点から語られるという構造をもった作品群である。しかし、この系譜は、岡田さんの可能性のひとつの方向性でしかない。そして、おそらく『労苦の終わり』でほとんど進化の頂点を極めている。この方向性を開拓する余地は、いまのところ、あまり残されていないように見える。

『マンション』『恋と自分/とんかつ屋』の二作は、語りの多様性の中で、語られている出来事そのものが同一性を失って、語りの可能性によって出来事が可能性の束の中に解消されてしまうような構造をもっている。そして、どんなわけか、岡田さんはこの方向性での探求を中断したまま、語られる出来事が同一性を保つという方向性での創作を重ねている。

それは、主題の探求をしたいという欲求が、手法に制限をもたらしたということなのかもしれない。ある内容的な主題の提示は、ある出来事の語りという仕方で遂行するほうが、無難ではあるだろう。

その点で考えると『クーラー』は、系譜の間で分類しきれないという点でちょっと特異な位置にあるかもしれない。基本的には語られる出来事は同一性を保っているが、語る場面は可能性のゆらぎの中にあって、語りの場面のあり方は『マンション』に近い。その話をしているとまた字数が際限なく増えてしまいそうなので、今回は置いておく*2

と、ここまで読んでもらえば結論は予想できるだろうが、私には、語りの構造の揺らぎのなかで語られる出来事も揺らいでゆくという方向性に、岡田さんの作風の可能性がかなり豊穣に開かれたまま残されているのではないかという予感がある。おそらく、その方向性に見合った主題を岡田さんが見いだせるかどうかに全てはかかっているのだろう。これは、かなり難しいことかもしれない。

その点でひとつ重要なのは、岡田さんの演劇論で中核をなしているイメージとは何なのかという問題だ。http://homepage2.nifty.com/chelfitsch/engekiron.htm


岡田さんの演劇論4.1にはこんな言葉がある。「イメージは、言葉や仕草がそこから汲み上げられてくるところの源泉である。」4.2にはこんな言葉がある「俳優は、人が聞いたらあきれる位の多くの情報量を含んだイメージを形成しておくのでなければいけない」

このあたりについて、私なりに注釈をつけてみたい。

岡田さんにとって、「イメージ」とは作中で語られる出来事そのもののイメージというわけではないだろうが、しかし、そこには密接な関わりがあるだろう。

劇中の語り手が、物語る状況に置かれていることを想像することが、この「イメージ」の把握と密接に関連しているはずだ、この状況の具体的な想像内容そのものが「イメージ」と呼ばれているのではないとしても。

そして、「イメージ」は、作品の内容やモチーフ、テーマ、といったものとも、深く浸透しあったものとしてあるはずだ。

おそらく、岡田さんの語る「イメージ」とは、生きているそれぞれの人間の現実を構成しているもの、その構造のことではないかと思う。身体的に総合されている認知の基層から、顔や体の表面に現われる微細な運動までを結んでいる、つまり、私たちが他人や世界と出会うこと、馴染むことを可能にしている構造が、全体として起動されるような中核的なもの、のことを「イメージ」と岡田さんは呼んでいるのではないかと思う。

岡田さんの課題は、語られる具体的状況の同一性から「イメージ」を解き放つことにあるといえるのかもしれない。そこで、可能性の選択の中に限定されないものを作品の形象へと具現化できるのかどうか。可能性の発散の中に、イメージが浮き上がる一方で、イメージは次々と消滅もしているはずだ。


さて、チェルフィッチュは岡田利規個人ユニットということなんだけど、繰り返し出演しているおなじみの役者さんもいて、なんとなくひとつの劇団風のまとまりも無くは無いという感じだ。今回は、岡田作品に繰り返し出ている役者に加えて、オーディションで選ばれた役者さんたちもいる。

岡田演出の独特な方法論は、見る側も演じる側も、慣れていない場合にこそ新鮮な効果を発揮する側面もあると思うので、この、「なじみ」と「出会い」との絶妙なブレンドは、いかにも岡田さんらしく、賭けと計算が着実に結び合わされるような戦略だと思う。

続きはこちら。

http://d.hatena.ne.jp/yanoz/20041108

*1:『マリファナの害について』については、http://www.enpitu.ne.jp/usr9/bin/day?id=90425&pg=20031116に書いた

*2:クーラーについての記事はhttp://d.hatena.ne.jp/yanoz/20040825#p1を参照。『恋と自分』の公演宣伝用に書いた文章へのリンクもある