白鳥のめがね このページをアンテナに追加 RSSフィード

2004-11-08 私たちはこんな声で語る(関口涼子『発光性diapositive』)

[]チェルフィッチュの『労苦の終わり』について(中篇-Ver. 1.2-)

http://d.hatena.ne.jp/yanoz/20041107#p1からの続き。

『労苦の終わり』の系譜をたどる話から、語りなおそうか。

『マリファナの害について』は、一人芝居だったのだけど、語り手が友達のことを話していて、その話し方をまねながら話しているのかと思うと、いつしか、話題になっていた友達にすりかわってしまう、という手法が開拓されていた。その点、落語と比較したがる人も多かったようだ。そのモーフィングのような移行において、演者と役柄の同一性が入れ替わるという手法は、『労苦の終わり』において、さらに拡大されて活用されている。複数の役者が、複数の役柄の間を、行ったりきたりするなかで、語られる事柄は多様な照明を受けて立体的に浮かび上がる。

語りと演技の間のモーフィングのような移行、その中で、語り手は事件の報告者として観客に語りかけていたかとおもうと、いつしか語られていた人物になりきってしまって再現的な演技を始めたりする。

その移行の一方の極にはナレーションのレベルがあり、その水準では上演についての説明がなされたりする。「これから『労苦の終わり』って芝居をします」とか、「もうすぐ休憩です」とか。

他方の極に、再現的な演技がある。そこで上演は、いわゆる普通の芝居と同じ位相にどこまでも接近する。

虚構として完結したものとして、いわば「可能世界」のひとつに定位できる「語られている出来事」と、演劇が上演されている舞台の現実との間に、様々な階層(レイヤー)が設定されていて、書かれた虚構と見られる現実の間を架橋するような仕方で、上演行為が生成する。架空。

おそらく、岡田さんの手法のなかで、語りと演技の間のモーフィングというのは、応用的に後から見出されたものだ。『マリファナの害について』は一人芝居という条件のなかで、語りの中から再現的演技を発生させるという手法を発明するきっかけになったわけだ。だが、語るというパフォーマンスを、日常の語りの有様へと類比的に接近させてゆくという手法が、より基本的なものとしてある。だらしないおしゃべりに伴う、突発的で自発的な、不審ですらあるノイジーな仕草挙動の強調だ。

『マンション』は、対話のレベルでこの手法を確立したものだろう。この基本的な手法を再現的演技の枠のなかに収めると『三日三晩、そして百年』(タイニイアリス版)のような、ざらついた手触りをもった、しかし端正な演劇作品になる。たとえば、青年団のような同時多発的な会話のように、グループ内での会話といった方向に、この基本的な手法を開拓してゆくことも、不可能ではないだろう。

そんな、可能性のマッピングのなかに『労苦の終わり』を置いて考えてみる。

すると、語りと演技のモーフィングという手法を最大限に効果的なものとする主題を見出した作品として『労苦の終わり』を評価することができるだろう。おそらく、このモーフィングの手法は、それに相応しい主題がなければ、単なる実験やこけおどしに堕してしまいかねない、ある種の極端な手法であると思う。

ひとつは、夢をめぐる主題に応用したこと。ひとつは、他人の気持ちや考え方がその場では理解しきれないことをめぐる問題、具体的にはプロポーズの場面や夫婦喧嘩の場面、に応用したことだ。この二つは、実は、他者問題といった仕方で、緩やかに、しかししっかりと、結びついた主題を構成しながら、作品全体の基調をなしている。

http://d.hatena.ne.jp/yanoz/20041122に続く。