蜷川幸雄のキッチンを見た

SANDWICH (第3号)に大岡さんが批評を書いていたので
http://backno.mag2.com/reader/Back?id=0000150611

気になって蜷川幸雄演出の公演、キッチンを見てきた。
http://www.wonderlands.jp/index.php?itemid=235

見終わって、大岡さんが書いていることを読み返してみて、特に付け加えることも無いなあと思う。大岡さんは消費行動に社会批判というバグをすべりこませると言っているけど、レストランなり飲食店なりに入ったときに、ふと舞台のイメージを思い出すという経験をするひとはたしかに多いだろう。そこから先に何を考えるかは、別問題としても。

調理場でのアクションが加速していくところでは、ニブロールの舞台を見ているときに感じるのと同じような、運動が複雑にからみあうことに直面するときの高揚をおぼえた。たしかに見ごたえ十分で、公式サイトを見ると「調理実習」もしたというけど、それにかけた手間や資金は報われたというわけだろう。

あれなら、実際の厨房をカメラで撮って見せたら同じことではないか、と考える人も居るかもしれない。でも、俯瞰する視点から厨房全体の運動する様子を見るというのは、実際のレストランではありえないことなので、これは舞台でしか見えてこないことだ。それも現実の何がしかを舞台を通してはじめて見えるような仕方で造形していると言うべきなのだろう。

これだけ大規模な公演をペイするものにするためには、お客が集められるようなキャストで固める必要があったというわけか。しかし、群像劇だからスターだけでは舞台は作れない。なので、テレビに出ているようなタレントと、舞台一筋で研鑽を積んできた俳優とが混在している。だからだろうか、発声がきちんと舞台にはえるタイプの俳優と、ただ大声出しているだけの俳優と、声が通らないタイプの俳優との声の質の違いがとても印象に残った。音が小さくても、劇場のはしばしまで通る声というのがあるんだな、ということが、あらためて良くわかった。

でも、そういう俳優の質の多様さというのが、戯曲が描こうとする厨房の人々の多様さとして結実していたとまでは言えないだろう。

観客動員のために話題性ある人を集めるのではなくて、オーディションでキャストを集めて仕上がった舞台の素晴らしさでお客が集まるという風になったなら、日本の演劇シーンも本当の意味で成熟したということになるのだろうなあというようなことを思わないでもなかった。