カノコトと新生呉羽

http://www.h5.dion.ne.jp/~olounge/の「移動式WALLプロジェクト」五月の企画として上演されたカノコト(演劇)と新生呉羽(ダンス)による合同公演を見に行ってきた。
http://www.h5.dion.ne.jp/~olounge/ido2222/ido055gastu.html

カノコトの「空を飛べるのに、なぜ歩くの?」では、鉄パイプで組まれた二メートル四方くらいの正方形のフレームのなかに、戸田裕大さんが上半身裸で、下の辺に足をおき、上の辺を両手でつかんだ姿勢で立っていて、その両手両足がロープで幾重にも縛り付けられている、という状態で全てが進行する。

客入れ前から客電にうすぼんやり照らされて、その状態がうかがえる。フレームは、他の二人が支えていて、その支えがないと倒れてくるようになっているらしい。

開演すると、か細い声で、わたし、わたしたち、とくりかえす呟きがはじまる。その声が大きくなっていくと、君、君たち、という言葉がまざりはじめ、それが、わたしたちは君たちを許す。だが、忘れない、というフレーズに結実する。

そこから、近年厳しく弾圧されている日本の反戦活動家グループについての言葉や、国連大学前に居座るデモンストレーションをしていたクルド人親子と対面し、握手した思いでなどが語られていく。アフタートークでの説明によると、反戦活動家グループの言葉は、実際当事者が発表したものを、許可を得て用いたのだという。

途中で、脇で支えていた二人が、フレームを前に倒す場面があった。前傾した姿勢のままで、吊り下げられた状態で留まるように、フレームの上には鎖があって天井で支えられている。

その姿勢で、日本での年間の自殺者三万人、それを33回くりかえすと、日本人が満州で殺した人数と同じになるねと中国からの留学生は言った、といったことが語られる。

もとの姿勢にもどり、反戦活動家のモノローグなどに話題がもどりつつ、声を押し殺したような語りが続く。最近の犯罪者には有名芸能人と同姓同名の人が多いなんてつぶやきが何故か織り交ぜられたりしていて、ある程度社会的広がりを持ったさまざまな話題をさまようかのようなモノローグが続く。そして、最後にタイトルにもなった「空を飛べるのに、なぜ歩くの?」という言葉が声に出されて終わる。

照明の変化はあり、途中、テープ録音された音声なども使われていた。

カノコトは何度も見たことがあり、戸田さんからはクルド人難民への関心なども個人的に聞いていたりもしたので、わたしの感想はちょっと身びいきする所があったりするのかもしれない。

ともかく、今までの作品よりも構成上も、言葉の上でも、よりシンプルに核心を突くような小品になっていたのではないかと思う。核心?戸田さんはトークでも言っていたけれど、今演劇でできることは、直接の関係を無理やりにでも開いていくことではないか、というようなことを言っていた。

忘れ去られている人々、忘れ去られようとしている人々と何らかの関わりを持ちたい、という姿勢を、客席へと無理やり関わらせようとする、その仕組みは舞台に造形されていたと思う。

トークでは、この作品で戦争を止めたいのか、という質問もだされ、戸田さんは、そういう意図はない、と否定していた。政治的な題材を取り扱う必然性がどこにあるのか、という問いは様々に投げかけられてしかるべき上演ではあっただろうが、単なる政治的アピールではないことは、どこか脈絡を欠いたテープ音声の挿入(今ちゃんと覚えていないけれど、あなたは誰なんだ?という問いに、答えになっていない若い女の声がかぶさっていくもの)だとか、ラストのいささか詩的なフレーズにも示唆されていただろう。

カノコトで上半身裸というのは繰り返し使われたモチーフではあるけれど、動かないことで、その裸身が訴える力は増していたようだ。トークで新生さんもおっしゃっていたが、ではあなたはどう存在しているのか、と問いかけるような力があった。

新生さんのダンスに関しては、あまり強い印象は残っていない。プラスチックの使い捨てコップを口にくわえたまま踊ったり、客に同じ類のコップを渡しておどるよう促して、でも踊らなかったらそのままほっておいたり、少女期におしっこしたいけどそのまま遊びたいときに尿意をごまかそうとして行っていたんだと語りながら、足を蹴り上げる仕草をしてみたり。しかし、即興であることを忘れさせるほどこなれた進行で、逆に言えば、本当の意味での即興性が持っている緊張感には欠けるところもあったということかもしれない。

ただ、アフタートークで新生さんのMMACとの関わりのいきさつを聞いて、MMACの歴史について理解を深めることができたのは良い機会だった。

http://www.mmac.pos.to/