世界のナベアツのアホになる3について(1)

 世界のナベアツの3のネタは、それ自体としては、障害者を差別するものではないと思う。むしろ、差別していないと積極的に評価することさえできる。悪意ある仕方でナベアツのネタを利用したがる人間もいるかもしれないが、それはナベアツの評価とは別の問題だ。私の結論は以上なのだけど、そう考える理由を以下に示したい。

0.私が言いたいことの概要とちょっとしたいきさつ

 世界のナベアツの「3の倍数と3の付く数字でアホになります」というネタが知的障害者への差別に関連して問題視され議論になっていたことをわたしは遅れて知った。

 私個人は、この議論を読むまで、ナベアツが演じる「アホ」が知的であれ何であれ障害を持つ人のことを連想させるなんて思いもしなかったので、ちょっとびっくりした。

 お笑い番組のネタが問題視され、抗議によって放映されなくなったり、謝罪があったりするということは今までも度々あり、珍しいことではない。今回のナベアツの3のネタに関しては、問題の指摘があった後、そういう成り行きにはなっていないし、社会的には許容されたと見て良いのだろう。

 そこで、あえて議論を蒸し返す必要もないのかも知れないけれど、個人的に考えたことをちょっと書き残しておきたいと思う。

 私は、世界のナベアツのこの芸は、とても練り上げられたものだと思うし、さりげないがなかなか画期的なものではないかと思っている。一言にまとめれば、ナベアツのネタは、それ自体の構成上は、描かれる対象として健常者も障害者も同等に扱っている。

 私は差別という問題について専門的な知識を持ってはいない。あくまで、お笑い番組を好んで見る人間として、お笑いを楽しむために、自分で考えられる範囲で考えたことをできる限り簡潔に書いておきたい。

1.「3のネタ」を分析してみる
 問題となっているナベアツのネタは
「3の倍数と3が付く数字の時にアホになります」と宣言して、1から順番に数字を数えていくとき、該当する数字のときに、顔をゆがめ姿勢をだらしなく崩し声を甲高く裏返してみせる
というシンプルな構成になっている。

 話を単純化すると、障害者差別という観点から、この3のときの演技が、知的障害者を含めたある種の障害者の様子に似ており、それは、ある種の障害者をアホ呼ばわりしていることになり、障害者を蔑視することにつながっている、といった指摘がなされているわけだ。

 ここには、様々な問題が複雑にからみあっている。それを解きほぐして考えたい。

 ネタの構成上、ナベアツはある種の振る舞いの類型を「アホ」の典型だと言っていることになる。だが、それをある種の障害者に結び付けているのは、そこに類似性を見いだしている観客の側であり、ナベアツが障害者の真似をしているとか、障害者をアホと呼んでいるとか、そうは簡単に言いきれない。

 3のネタの成り立ちを考えてみると、「○○になる」と宣言してその様子を誇張して演じてみせるという点で、ものまね芸と同じ形になっていると言える。そこで、ナベアツの3のネタを単純化して考えて、「ある種の知的障害者のマネをした上で、ある種の知的障害者をアホと呼んでいる」というネタだとみなしてみる。その上で、障害者差別として非難されるべきものかどうかを考える。

2.知的障害者をものまね芸のネタにすること
 ものまね芸というのは、例えば誰か有名人の名前を挙げて、その特徴を誇張して演じてみせるという形になっている。そこで、似ているように見えるのが面白いわけだけど、ある人物の特徴として共有されているイメージへの期待が満たされるわけだ。
 ものまねが特定の人物ではないこともある。例えば、鉄道員のマネだったり、柳原可奈子のショップ店員のマネだったり、職業的な類型がマネされることもある。そこには外国人や特定の人種のマネなども含まれる。
 ものまねによる誇張に「毒がある」と言われるようなとき、そこには価値を相対化するような批評性が働いている。マネする相手の価値を引き下げて見せたり、見下してみせたりする場合がある。これは日常的にも、相手の言い方を小ばかにするのにマネしてみせるということはよくある。外国人の発音の癖のマネが侮蔑的な表現として用いられることもある。
 だが、真似すること自体が侮蔑であるわけではない。
 清水ミチコによる森山良子や松任谷由美のマネは、誇張を伴っているけれど、侮蔑ではない。鉄道員のマネが鉄道員に対する侮蔑であるとは限らない。山下清画伯のマネ*1山下清への侮蔑であるとは言えない。むしろそれは親しみの表現である場合もある。くりぃむしちゅ〜の有田みたいに、プロレスファンがプロレスラーの真似をしたりする場合は、それは愛着の表現でもある。

 同様の理由で、ある種の知的障害者のマネをすること自体が常に知的障害者への侮蔑となるとは言えない。知的障害者のマネを一律に排除することのほうが、むしろ別の形の差別であるとさえ言えるのではないか。
 社会に一定の割合で知的障害者が居るなら、むしろ一定の割合で、知的障害者のマネがマスメディアにあったほうが良いと私は考える。問題は、あくまで、(1)その表現自体が侮蔑的であるかどうか、(2)侮蔑的表現を助長する要素があるかどうか、である。
 (1)ナベアツの3のネタについては、たとえそれがある種の障害者のマネであると言えるとしても、侮蔑的ではないと思う。少なくとも、積極的に侮蔑を示す要素は含まれていない。誇張が侮蔑として機能する場合はあるが、誇張そのものが侮蔑の表現になるわけではない。
 (2)ナベアツの芸が侮蔑的な表現を助長するかどうかについては、より慎重な判断が求められるだろうが、その点においても、積極的に侮蔑を助長する要素は含まれていないと言えると思う。その点で異論があればうかがいたい。*2
 障害者の場合、職業的人物類型や人種的類型以上に、誇張が侮蔑につながりやすいということも考えられる。そうであるからこそ、むしろ排除しないように慎重になるべきではないかと思う。

3.知的障害者をアホと呼ぶこと
 アホという言葉には、関東と関西でニュアンスの違いがあると言われている。これも、個別のケースにおいて判断すべき微妙な問題がある。そういう違いはあるが、アホという言葉が親しみを込めて使われる場合が関西では多いようだ。ともかく、アホに侮蔑的な意味合いがある場合もあれば、そうでない場合もある。
 さて、一律に、知的障害者に対してアホという言葉を使ってはいけないとは限らない。単純化して言えば、健常者に対して用いられるアホという言葉を、障害者に対しては使わないようにする、ということ自体が別の仕方での差別であるとさえ言えると思う。
 もちろんそう言うだけでは乱暴な考え方で、アホという言葉が持っている侮蔑的な作用が、知的障害者に対しては働きやすいのだから、利用を控えることがより穏便で慎重なマナーだ、とは言えると思う。しかし、アホという言葉を知的障害者に対して用いることを禁止したり、タブーにしてしまってはいけないだろう。それこそ、差別を成り立たせているものを裏返しの仕方で強化するようなものではないかと思う。
 これは、いわゆる「言葉狩り」をめぐる議論と関連することだろう。今は議論の詳細に立ち入らないけれど、侮蔑的な意図を持って言葉を用いようとすれば、隠語や転用という仕方でいくらでも言葉を侮蔑的に使うことができる*3
 表現が侮蔑かどうかは、個々の文脈において常に慎重に判断すべきであり、侮蔑的な表現が行われた場合にどのように対応すべきかも、それぞれのケースにおいて慎重に対処すべきことだと思う。
 そうした観点から言って、侮蔑的にも用いられることが言葉の来歴上明らかな言葉を排除しないことの方が、侮蔑的表現に対する対応力を社会的に底上げするには有益ではないかと私個人としては考える。そういう考えは、あまりに理想的な発想かもしれないけれど、侮蔑的表現を排除して地下に潜らせてしまう事の方が問題を悪化させると思う。
 この点についてはいろいろ考えるべきことがあると思うけれど、極度にデリケートな問題だと思うので、これ以上立ち入らない。私が言いたいことは、知的障害者をアホと呼ぶこと自体を一律に排除することは良くないということ、ナベアツの芸がたとえ知的障害者をアホと呼んでいるとしても、それは、ネタの構成上侮蔑的ではない、ということだ。

 4.ナベアツというキャラクターがアホになりたがること
 3のネタには、舞台上のナベアツがあらかじめ撮られた映像のナベアツとかけあうというバリエーションがある。
 はじめは、映像のナベアツがアホになるとき、生のナベアツはアホにならないよう、交互にアホになる約束なのだが、片方だけがアホになることが連続する30番台になると、「ノーマル」なナベアツを続けるより、アホになった方が楽しいみたいにして、映像のナベアツも、リアルなナベアツも、どっちもアホになるという展開になる。
 ナベアツはアホになりたいのであり、「2人」が競ってアホになろうとしているクライマックスの場面では、アホになっている状態の方が肯定的なものになっているのだ。
 この展開に、アホになりたがるのは、アホを侮蔑したら楽しいからなのだ、と言えるような動機を読み込める要素はないと私は思う。むしろ、ナベアツはただひたすらアホになりたいという感じだ。

 3のネタは、バリエーションとして、5の倍数になったときナルシストになるとか、何かの倍数で犬になるとか、誰かを探している人になるとか、そういう倍数の組み合わせを展開するものもある。
 ナベアツの芸では、「ノーマル」なナベアツも、アホも、ナルシストも、犬も、誰かを探している人も、入れ替え可能、交換可能になっている。ナベアツというキャラクターは、単なる数字の違いによってノーマルだったりアホだったりナルシストだったり、犬だったり、誰かを探していたりする。アホなナルシストだったり、アホな犬だったり、アホに誰かを探している人だったりすることもある。それぞれが入れ替わり可能な状態であって、ナベアツにとっては、アホであることも、ナルシストであることも、犬であることさえも、数の組み合わせによって入れ替わるものであって、固定された宿命ではないのだ*4
 そういうわけで、ナベアツは、アホであることを特定の誰かの宿命みたいに固定してもいないし、侮蔑しているわけでもないのだ。そういう意味で、特定の誰かを差別するようなネタではないと、私は考える。

5.とりあえず中間まとめ
 基本的なアイデアとしては一発芸的でありながら、様々なバリエーションで展開可能で、ミニマムには一発芸としても披露できる。そこに「3」という、ありふれた数字、「サン」という良く使える音に当てて流用が効くようになっているところなど、見事に設計されたネタだと思う。
 世界のナベアツというのは、芸名のようでもあるけれど、キャラクターの名前でもある。芸人としてのナベアツは、放送作家としてもキャリアを積んできた人だそうだから、ぱっと出の新人ではない。
 3のネタの巧妙な設計やその順を追った展開の見事さなども、メディアへの露出をマーケティング的に計算できるプロの発想だと思う。
 この件については、そういうことを知ろうとしないで、「近頃の他の芸人と一緒でどうせすぐ消えますから無視しましょう」とかとコメントを書いている人もみかけるが、そういう先入観で発言するのは単に無責任で何の解決にもなっていないし、差別者の態度とあまり変わらないのではないかとも思う。

 さて、この記事については、これだけでは自分が考えられる範囲でも考えが不十分であると思っていて、はじめは

5.ある種の障害をアホの典型としてしまう問題について

という項目を立てようと思っていた。この領域に入ってこそ、差別と関わる最もデリケートな問題に踏み込めるのだから、上のような話はくその役にも立たない抽象的なおしゃべりだ、という批判を受けるかもしれないなとも思う。
 でも、この論点に踏み込むにはかなり時間がかかりそうなので、とりあえず、途中まででアップしておきたい。何かご意見をいただけたら、それも踏まえて、余裕があれば、もうすこし考えてみたい。

 この件については、いくつかのネット上の発言を参照したけれど、とりあえず、次の二つだけリンクしておく。
http://d.hatena.ne.jp/yoshi365/20080625/p1
http://d.hatena.ne.jp/naoya_fujita/20080624/1214332638

*1:それが虚構のキャラクターとしての山下清のマネであったとしても、虚構のキャラクターとしての山下清像がすでに実在の山下清のマネであると言えるだろうが

*2:ここでは、主観的に侮蔑であると感じる人が居るかどうかは問題にしない。あくまで、パフォーマンスの要素として侮蔑を示すものがはっきり含まれているかどうかを判断基準にすべきだと考える。たとえばある種のコントで、障害を持った人に暴力が振るわれたり、集団から排除されたり迷惑がられたりするような場面があれば、それは明らかに問題で放映すべきでないが、単にマネをしているだけであれば、放映すべきでないとは言えない。もちろん、この点でも複雑な問題がある。たとえば、表面上は侮蔑していないが、背後には侮蔑的なメッセージがこめられているような場合をいくらでも考えられるだろう。それは、個別のケースをそれぞれ慎重に検討すべき問題で、判別の基準を一般的に示すことはできないだろう。

*3:例えばゆとり教育を受けた世代を侮蔑する表現としての「ゆとり」など

*4:悲劇が事態を避けられない宿命として表象するとすれば、喜劇は常に、事態をやり直しできること、宿命を逃れるものとして表象する