尖閣上陸・ここだけの話【伊藤祐靖】

 伊藤です。尖閣上陸についてはあちこちで、語ったり書いたりしてきたが、今日は、どこにも発表してない、ここだけのお話。

 崖に国旗を設置して下山を始めると、下の方が騒がしい。巡視船からのサイレンと「直ちに上陸をやめなさ〜い」というアナウンス、県警ヘリが超低空で飛んでいる音が入り乱れている。上陸をしようとする者と阻止しようとする者との大捕物が始まったに違いない。見たい、見たい! これは、絶対に見なきゃな。灯台から少し登ったところに水路付近を一望できる場所がある。あそこは、この世紀の大鬼ごっこの特等席だ。そう思って300mの高低差を骨折覚悟で一気に駆け下りた。持っている技術のすべてを使って、視界が狭くなりながらやっとの思いで辿り着くと、「シーーーン」。
 あれ? 巡視船はどこだ? ゴムボートも走ってない? ヘリは、どこに行ったんだ? 
つまんね〜の!!
 がっくりうなだれて、トボトボと下山を再開した。重い足取りで灯台付近まで降りてくると、海に向かって旗を振っている人が居る。何で、海に向かって旗を振ってんだ?
ごっこやってんなら、最後の最後に出てって、みんなと一緒に拘束されようと思ってたけど、捕物やってないなら、このまま第一桜丸に戻っちまおう。
 巡視船は、2隻しかいない。その2隻とも、1kmは離れてる。死角を辿って、水路にさえ入ってしまえば、あとは200mで船に戻れる。でも、問題は、ここ灯台から水路までの平坦で見通しの効く岩盤をどう突破するかだ。……そんなもん匍匐しかない。匍匐には幾つかの種類があるが、私は2種類しか使わない。1つは、アリゲーター。その名の通り「ワニ」のような格好で進んでいく。背筋などの運動量は大きいが、肘から肩までの長さの高低差があれば、身を隠しながら、高速かつ最小の痕跡(身体を引き擦らないため)で移動することができる。もう1つは、ワーム(虫)。これまた、その名の通り「尺取虫」のように進む。虫や蛙が鳴きやまないくらい、つまり動いているかどうかほとんどわからない速度で敵の至近距離を通るため、時速10m以上は出さない。
 目測距離90m。5年ぶりに本気の匍匐前進を開始した。まずは、アリゲーター。だが、進み始めて、すぐに止まった。止まったどこじゃない。地面に突っ伏した。10mも進んでいない。400mを全力で走りきったときのように呼吸が激しい。泥も砂も干乾びた海草も一緒くたに吸い込むので、口の中がジャリジャリした。そんなもん、かまっちゃいられない。肺からは、血の匂いがする。まだ、あと80mもある。このままアリゲーターは、無理。下半身を引き擦る普通の匍匐に変更。考えてみたら、誰に追われてるわけじゃなし、痕跡なんかどうでもいいんだ。

 ところが、普通の匍匐も残り40mで止まった。半分を過ぎ、這っている状態で水路が見える距離まできたが、右、左と2歩進んでは、次の右を動かす気になるまで30秒は目をつぶり、口の中をジャリジャリさせながら激しく呼吸した。
残り、10m。酸っぱいものがコップ一杯分くらい湧き上がってきたので、口から出した。俺は、何をやってるんだろう。何で這ってるんだろう。俺は、亀なのかもしれない。そういや、子供の頃、親父は私のことを亀と呼んでいた。まだ歩けなかった頃、海に連れて行かれ、砂浜に放されると、這って、親父を振り切って一目散に海に向かっていったらしい。それが、生まれたばっかりの海亀に似ていたので、それ以降、親父だけが私を亀と呼んだ。変な時に変なことを思い出すもんだ。でも、這ってる幼児に振り切られる大人ってどうなんだ?
 最後の2mは、波の寄せるタイミングを見ながら、海に滑り込んだ。1分くらいは、呼吸もせず、ただ海水に身を任せてクラゲみたいに漂っていた。そうこうするうちに体温も下がって、ようやく動く気になってきた。浮力って、なんて偉いんだ! 
 静かに深く呼吸をしてからフィンを装着し、水路の出口まで行った。巡視船の方向を見ると、いつの間にか降ろされていたらしいゴムボートがこちらに向かっている。距離200m。あいつは、この水路に入ってくるに違いない。L字の水路の屈曲部、突き当たりでボートから降りるだろう。ということは、屈曲部を曲がって奥に行き、岩の間に潜んでいりゃ、わかりっこない。奥まで泳いでいくと、いい具合に岩の隙間に身体が入った。口と鼻だけが僅かに水面に出る。これなら、よっぽど運が悪くない限り見つかりっこない。潮も今は、下げの初期だから、水位が上がってきて溺死することもない。揺りかごみたいな心地よさに、寝そうになった。
 5分経った。ゴムボードは来ない。
 10分経った。まだ来ない。岩の隙間から身を出し、「痺れを切らす時って最悪のタイミングで身を晒すことが多いよな〜」と思いながら、意を決して屈曲部に行った。角から海を覗く。ボートは、いない。……な〜んだ。拍子抜けして、また出口に行き、第一桜丸の方を確認して、さあ近づこうと水中に顔を入れたとたん、残像の中に黄色のライフジャケットがいたような気がした。浮上して、もう一回、第一桜丸を見た。間違いない。船上にいるのは、黄色のライフジャケットを着た海上保安官だ!
 や〜めた。夜なら同じ船にいたって、わかんないように乗船できる可能性はあるが、昼間じゃ、どうやったって無理だ。そうか、水路に来ないと思ったら、ゴムボートは、第一桜丸に向かってたのか……。な〜んだ、吐くまで本気の匍匐をした上に、水路行ったり来たり、……さっきまでの俺は何だったんだ。でも、考えてみれば、上陸した者が船に帰ってくるのは当たり前だ。待ち受けて拘束すれば効率がいい。
 がっくり。観念した私は、重い足を引きずりながら、9人の上陸者の前に姿を現した。上陸メンバーの中で紅一点、やや高揚した様子の浅野久美さんに言われた。
「いや〜珍しいものを見させて貰いました。本物の匍匐前進!」
そりゃ、見ね〜わな。弾も飛んで来ないのに、自主的にここまで、するバカは、なかなかいない。しかも、無意味。