権利が存在するかどうかは置いといて。
僕は「ある個人史の終焉」を読んで、素晴しい文章だと思った。
自らの思いを伝えるために、何時間も費やし、苦心し、考え抜いた文章であることはすぐにわかった。
だからこそ、そのコンテンツを作り出した者の権利は尊重しなければならないと思った。
それと同時に、その素晴しいコンテンツ自体に対し敬意を払わねばならないと思った。
私には、全文転載などできない。作り出した者の権利は尊重しなければならないからだ。
敬意に値するほどの文章を、苦心して書いた文章を、一時の迷いで完全に削除しようとしている作り出した者に対し、考えなおしてはどうだろうかと勧めること、私に出来るのはそのぐらいだ。
心がまえ
ここから下の2章は、私が著作権に対して常日頃考えていることを文章化したものだ。
あくまで一般的な著作権の話であり、今回のことに言及するものではないこと、だからこそわざわざ章を分けて記述している。
「読ませない権利」に関して書くには、一般的な著作権まで書く必要がどうしてもあった。
しかし一般的な著作権の話まで記述する機会を与えてくれたid:TERRAZIに感謝したい。
著作財産権なんて、カネで維持する権利にすればいい
著作権とは、一般にとってはあまりにも余剰な権利である。
そんな権利がなにかを書いた瞬間から付与され、それが死後50年も保持される。
僕がこうやってテキトーに書いた文章でも、「ある個人史の終焉」のような名文でも、ミッキーマウスのような未だに莫大な財産を産み出し続けているものでも、まったく平等に与えられる権利だ。
しかしそれは、本当の意味で平等なのだろうか。
コンテンツの価値に応じた権利を
所論あるとは思うが、「そのコンテンツが幾ら稼げるか」というのはコンテンツの価値を測るひとつの物差しになる。
それを利用し、カネで維持する権利にすべきなのだ。
無条件で与えられる権利期間は短かくていい。書いてから1年以下。
それ以上の権利を望むものは役所にカネを払う。最初の更新は1000円程度でいい。次の更新は2000円、次の更新は4000円と増やしていく。
更新のたびにそのコンテンツの価値を考え、延期か、打ち切りかを選択させるこの方法を採れば、権利の飼い殺しは格段に減るはずだ。
義務の付加による誤解からの開放
そもそも「その著作物を自分のモノだと主張できる権利」と「その著作物でカネを稼ぐ権利」の二つが同一視されているのが問題ではないだろうか。
多くのひとにとって、「その著作物でカネを稼ぐ権利」は必要ない。むしろ煩わしいぐらいだ。
なのに「転載だ」だの、馬鹿なことを言っている者もよく見る。
転載が本当の意味で問題になるのは、そのコンテンツそのものでカネを稼ごうとしている場合のみだ。
しかし、自身が持つ権利が侵害されたと盲目的に考え、「転載禁止」とか叫ぶのだ。
カネを稼ぐ気がないのなら、そんなもの気にしないでいたほうがいい。どれだけ心がラクになることか。
著作財産権をカネで維持する形式にすれば、こんな誤解も減るだろう。
カネを稼ぐための権利がカネを対価に得られていないから、妙なのだ。
著作権なんて、放棄してしまえばいい
著作権とは、一般にとってはあまりにも強力な権利である。
そんなものが、無条件に付加される。
権利は強力なほうがいいのだろうか。
実は違う。
強力な権利には、重い義務が課せられるからだ。
読ませない権利について
ここで「ある個人史の終焉」の話に戻る。
「そのコンテンツが幾ら稼げるか」というのは、ひとつのものさしであると先に書いた。
それに付随させてカネを稼ぐための権利を与えるべきとも。
ここではもうひとつの物差しについて書く。
コンテンツの価値
そもそも、著作物は書いた人のモノなのだろうか?
僕は違うと考える。
著作物は読み手のモノだ。そこから得た感動までひっくるめて著作物の価値なのだから。
つまりもうひとつの物差しは、「そのコンテンツにどれだけの人間が心を動かされたか」だ。
怒りでも、悲しみでも、希望でもいい。動かされた人間の数が重要だ。
「ある個人史の終焉」はカネは稼げないかもしれないが、その意味では価値が高い文章だ。
それに付随した権利と義務
だがここで、価値に付随した権利として著作権を与えるのも違うと思う。
著作権の大部分はカネを稼ぐための権利。これでは作者は満されない気がする。
満たされる権利があるとしたら、それは賞賛を受けること。それに付随する義務は罵声を受けとめることだ。
心を動かす文章は、強い光と影を産み出してしまう。これは避けられないことだ。
その放棄
彼は文章を削除するという行為で、この権利を放棄し、義務から開放された。
「読ませない権利」などが問題なのではなく、賞賛を受ける権利を放棄するにはその方法しかなかっただけなのだ。
id:TERRAZIが転載したことで、「ある個人史の終焉」はまだまだ多数の人間の心を動かすだろう。
そこに作者はいないなら、それでいいのかもしれない。
事実僕も、転載されたものを読んだひとりなのだから。