途上採集手帖

2008-12-04 少年時代の泉靖一が見た高橋文太郎

 ご頒布をお願いしていた『高橋文太郎の真実民族学博物館―埋もれた国立民族学博物館前史』が届いたので、昨日一日読みふけった。西東京市(かつての保谷市)の「高橋文太郎の軌跡を学ぶ会」の方々がまとめられた本で、同地で生まれ暮らした民俗学者高橋文太郎と、高橋文太郎が渋澤敬三らとつくろうとした国立民族学博物館の構想と実際について叙述している。地元の人々による写真や証言も数多く収録されており、読んでいて面白く、資料としても価値のある一冊だ。
 高橋文太郎については、泉靖一が子供の頃に抱いたその印象を記している文章がある。泉靖一は京城帝国大学文化人類学を学んだ後に母校の教員になり、戦後明治大学東京大学文化人類学を講じていた。『泉靖一著作集7』(読売新聞社1972年)の「泉靖一《年譜》」には次のようにある。

一九二五年(大正一四年 一〇歳) 東京郊外保谷に家を新築、一家転居。三〇〇〇坪の土地を借りて農園を作る。四月、豊島師範付属小学校に転校。
一九二七年(昭和二年 一二歳) 九月、父の京城帝国大学文学部教授への転任(四月)に伴い、京城府へ転居、同時に、京城府公立東大門尋常小学校へ転校。翌二八年卒業

 ここに記されている家を新築し農園を作った3000坪の保谷の土地が、高橋文太郎の所有する土地だった。高橋家は大地主武蔵野鉄道現在西武池袋線)の経営にも参画していた。泉靖一の『遥かな山やま』(新潮社1971年)によれば、泉靖一の父・哲は高橋文太郎が在学していた明治大学政治経済学部教授をつとめていて、その縁で高橋家の敷地内に農園をつくることになったらしい。池を掘って築山をつくり、畑を耕し鶏を飼い、冬以外は外で夕食をとった。また大きな鉄鍋を焚火にかけて豚汁を作り、高橋文太郎をはじめとする明治大学学生たちと豚汁を食べながら焚火を囲んだという。どうも、「コミューン」のようなものを目指していたようである。
 泉靖一は『遥かな山やま』の中で、高橋文太郎について次のように記している。

 文太郎さんは、明治大学山岳部の幹部であるとともに、山の民俗学に興味をもっていた。大きなルック・ザックを負うて、山に行ったり、山から帰ってくるときの彼に、私はよく出会った。小学生であった私にとって、それは別の宇宙に出かけ、別の宇宙から帰ってきた人のように、思われてならなかった。夕もやが立ちこめた桐畑をとおって、高橋さんの家の桜林にさしかかったとき、木の下道を静かに歩いている山姿の文太郎さんにあうと、私は挨拶するのも忘れて、彼をみつめてしまう。おそれににたあこがれであった。〔中略〕
 東京の町のなかから、武蔵野に移った小学生は、自然のなかにはいって、自然に興味をもちはじめた。ちょうどそのときに、高橋さんがあらわれて、私は、高橋さんをとおして山の香をかいだ。おそらく、そのまま東京にとどまって、中学高等学校大学へと進学していたら、高橋さんに山につれていってもらったであろう。ところが、昭和二年、私の家族は、保谷の素晴らしい「農園」も手放して、朝鮮に移った。それいらい、私は、高橋さんの書いたものを読む機会はあったが、とうとう、ふたたびお目にかかる機会を失ってしまった。だが、不思議なめぐりあわせで、高橋さんが、すくなくとも若い時代の高橋さんが、ほんとうに大切にしていた明治大学山岳部部長を、昭和二十四年から二年間、私はつとめることになった。最後に高橋さんと別れてから、それまでの二十数年間は、私のひどい放浪時代であった。〔11-13頁〕

 泉靖一が戦後高橋文太郎たちがつくろうとした国立民族学博物館を設立しようと邁進したことも、自分には「不思議なめぐりあわせ」のように思える(国立民族学博物館初代館長になった梅棹忠夫は、もし泉靖一が急死しなかったならば、彼が初代館長になったはずだと述べている)。あと、泉靖一が「山よりも忘れがたい人である〔同前、111頁〕」と回想する渋澤敬三とのあいだで高橋文太郎をめぐってどのような会話がなされたのかとても興味が惹かれるのだけれども、これについて知ることのできる渋澤敬三の文章も泉靖一の文章も、まだ見つけることができていない。

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