えいちゃん牧師の部屋

2018-12-14

奈良県民クリスマス ゲスト:小坂忠牧師

 *小坂牧師は昨年に、大きな手術をされましたが、

  すばらしい声量で、主の賛美を聞かせてくださいました!

  神様の後押しと支えを感じる伝道的なコンサートでした。

  

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橿原アルルにて

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『人知を超えた神の愛を知る』―内なる人が強められてーエペソ3章14−21節 12月2日(日)港

『人知を超えた神の愛を知る』―内なる人が強められてーエペソ3章14−21節

 パウロは獄中で信徒のために何を祈ったのか。

第1に内なる人を…強めてくださるようにと祈った(16節)。

 内なる人とは、キリストを信じて新しく生まれ変わり、心に御霊を持つ人となり、霊の目が開かれた人である。では、なぜパウロは内なる人が強められるようにと祈ったのか。それは、神を信じてもなお古い自分〈外なる人〉が旧態依然のために、この世の影響を受けやすい。エペソの教会のクリスチャンたちは、試練の中で信仰がゆらぎ、不安や恐れが彼らの心を覆っていたと思われる。そこで、パウロは彼らの内なる人を強めてくださいと祈った。

 では強められた内なる人とはどのような人か。「実際に会ってみると弱々しく、話は大したことはない。」(第二コリント10章10節)とパウロの評価は良くなかった。しかし、彼は御霊によって内なる人が強くされていたゆえに「どうか御父が、その栄光の豊かさに従って、内なる人の働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。」(16節)と祈っている。

 第2にキリストが心に定住されるように祈っている(17節)。

紀元400年頃活躍した神学者アウグスティヌスは「私たちは、神に造られたのであるから、神のもとに帰るまでは平安がない。」と自らの体験を語った。「あなたがたは、イエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄に満ちた喜びに踊っています。あなたがたは信仰の結果である魂の救いを得ているからです。」(第一ペテロ1章8、9節)しかも、御霊(共におられるキリスト)の内住という体験は、いかなる時であっても信仰に固く立つことができる原動力となる。

 第3に人知をはるかに超えたキリストの愛を知って欲しいと祈った(17b-19節)。では、人知を超えたキリストの愛を、人はどのようにして知ることができるのか。それは、クリスチャンが神を信じた時に自動的に神の愛を知るのではなく、その愛を知ることのできる御霊(霊性)を受けたからである。ですから、私たちの霊性(どれだけ御霊に満たされている)が、いつでもキリストの愛をキャッチできる状態でなければならない。

 さて、私たちは神を信じていても様々な試みがある。それは悩みや苦しみ、悲しみや痛みかも知れない。しかし、それらを自分の力で乗り越えようとするのではなく、御霊によって強められた内なる人により、試みを乗り越えるようにとパウロは祈っていた。 

 信仰生活が守られ、支えられる秘訣は、外なる人(肉性)ではなく、内なる人(霊性)を強める御霊によって歩むことであると教えられる。「御霊は弱い私たちを助けてくださいます。」(ローマ8章26節)

「宣べ伝える人がいなければ」―港教会宣教60周年記念礼拝― ローマ書10章15節 11月25日(日)

 「宣べ伝える人がいなければ」―港教会宣教60周年記念礼拝― ローマ書10章15節

 1945年の敗戦後、日本国民は貧しい状況に置かれた中で、MBミッションはまず援助物資、続いて日本人の魂の救いのために宣教師が遣わされた。その後、港キリスト教会はジョナサン・H・バーテル宣教師から、武田洋牧師、小松博康牧師、園山洋輔牧師、砂山智牧師と引き継がれ60年の歳月が経った。

 そして60年の宣教で127名の受洗者が与えられ、34人の方々が天国に旅立たれた。ただ港教会の今後のことを考えると、会堂の維持、あるいは教会の後継者となる若い人がいないというのが港教会の現状である。

 さて、この度教会史の編集において、港教会の60年の宣教の歴史を紐解くことによって、港教会が、この港区に建てられた意義と目的を神様の視点で捉えることができ、それだけでなく、宣教60年の間において、多くの犠牲と労苦と祈りがあったということも再認識できる。

 そういう意味において、この度港教会宣教60周年の教会史が発行されたことはとても意義深い。しかも、この教会史は記念誌と違って、当時の教会の状況や信徒の様子をリアルに垣間見られる。そして、宣教60年の歴史の中に神様がどのように働いてくださったのかを知ることができるだけでなく、これからの港教会の進むべき道の示唆を与えてくれるのではないだろうか。

 確かに教会の現状は厳しいが、今ある教会の現状に目を注ぎすぎることなく、神なく、心虚しく、魂の滅びに向かっている同胞の心のうめきに耳を傾け、そして、世の終わりにおける魂の刈り取りは主にお委ねし、これからも、福音の種をこの港地区に蒔いて行きましょう。

 何よりも神様は、港教会を主の御用のためにまだまだ必要としてくださっているのではないだろうか。是非この宣教60周年を機に、これまで以上に港教会のことを覚えてくださり、そして皆様の祈りの中に加えて頂き、港キリスト教会の宣教の灯火が消えることのないようにと願うばかりである。

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「神の家族の特徴」エペソ2章18−22節 11月18日(日)港

    「神の家族の特徴」エペソ2章18−22節

 クリスチャンはこの地上にて2つの家族を持つ。1つは血肉の家族、もう1つは霊的家族(神の家族)である。では神の家族とはどのようなもの(特徴)か。

 第1の特徴は新しい親子関係にある。

親とは天のお父様であり、クリスチャンはすべて同じ霊の父を持つ。そして神の子どもは、霊の父が語られたみことば、すなわち聖書によって養育される。そして、みことばに聞き従うことと神の御旨を大切にする。

 

 神の家族の第2の特徴は互いに愛し合い、互いに赦し合う関係にある。

子なるイエス・キリストは「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」(ヨハネ15章12節)と教えられた。

 さらにイエスは、赦し合うことも大切にするようにと命じられた。

パウロも、エペソ4章32節で「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」と勧めている。愛し合うことと赦し合うことが人間関係において平和をもたらす最も良い手段であり秘訣である。

 イエス・キリストの贖罪(罪の身代わりによる十字架)にあずかっているクリスチャンは、この2つの大切な戒めを大切にして生きる者である。

 

 第3の神の家族の特徴は土台がしっかりしている。

パウロは、その土台とは使徒預言者であり、礎石はイエス・キリストであると論じた。

 使徒預言者によって神の福音が語られ、それを信じた人々によって教会が生まれた。今日も同様である。神のみことばが語られなければ救われる人も起こらず、新たなる教会は生まれない。つまり教会の土台に据えられるものとは福音に対する信仰告白である。教会は見える建物がどのようなものであるかよりも、まずクリスチャン一人一人の信仰告白がどのようなものであるかが問われる。

 さらにパウロは、使徒預言者という土台を支えるのがイエス・キリストという礎石であると語る。それらの土台を基として組み合わされた、つまり私たちクリスチャンが成長して行くことによって、さらにしっかりとした教会が建てられる。

 その目的は、福音宣教の拡大と救霊のためであり、神の御名があがめられるためである。それは神の家族の一員であるクリスチャン一人一人に託された光栄な使命である。

2018-11-16

 「神の家族の平和とは」 エペソ2章11−18節  2018年11月4日(日) 港

 「神の家族の平和とは」 エペソ2章11−18節 

 いかなる国も、軍備を強固にして国境を守らなければならないというのが世界の実情。人々は平和を願うが、平和は遠のくばかりである。

 では、聖書が教える平和とはどのようなものか。聖書は神と人間との関係は非常に悪い状態であると教える(コロサイ1章21節)。しかしエペソ2章11−18節において、神と敵対関係にあった人間がいかにして神との平和を持つことが出来たのかを説明している。

 パウロは11、12節においてユダヤ人には神の救いの希望があり、異邦人はないと語る。ユダヤ人から見れば異邦人は、神の契約のしるしのない無割礼者で、汚れた者であった。またユダヤ人はメシヤを待望していたが、異邦人にはメシヤ思想すら無縁であった。ユダヤ人は聖なる民として数えられ、異邦人は汚れた者として神の民としては加えられなかった。

 パウロがこのように言ったのは、異邦人を蔑む(さげすむ)ためでなく、異邦人にとってどうにも出来ないのろわれた運命を変えてくださり、敵対関係にあった神との和解の道を備えられたのがイエス・キリストであるということを、異邦人クリスチャンに知らせるためであった。

 次に「キリストの血によって」とはどういう意味かを説明しているのが13節−18節である。

旧約時代、ユダヤの民が犯した罪のために神との関係が悪くなっている状態を、動物の犠牲(いけにえ)によって神はご自分の民と和解された。同様にイエス・キリストが十字架でご自身のいのちを犠牲にされたことによって、父なる神はイエス・キリストを信じる者と和解される。

 本来、神と人間との間には2つの壁がある。ひとつは律法を完全に守らないと神の救いにあずかれないという壁。もうひとつは、罪を犯さないなら神のさばきを免れるという壁である。ところがキリストは、人が乗り越えられない不可能な2つの壁をクリヤーしてくださった。キリストは、律法を完全に守られ(ローマ書10章4節)、何の罪も犯されなかった。父なる神は、その聖い完全な犠牲(十字架の死)を良しとされた(へブル7章27節)。

 イエス・キリストこそ神との平和、神の救いにあずかるための条件を唯一満たす方である。時として平和を乱すのが私たちの自我や利己的な欲望である。罪により神との関係を悪くした結果、人は死後、永遠に神から離される。ですから、あなたもイエス・キリストを信じ、平和な神の家族の一員となりましょう。

「眠っている人たちの希望」テサロニケ第一4章13−18節 召天者記念礼拝   2018年10月21日(日) 召天者記念礼拝 

  「眠っている人たちの希望」テサロニケ第一4章13−18節 召天者記念礼拝

   

 4章13節で死者を「眠った人たち」と書いている。実に不思議な言い回しである。普通死んだ人を眠った人たちとは言わない。聖書が言う「眠っている」とは、いつか必ず目を覚まして起きるという意味である。そのことを具体的に説明しているのが、第一テサロニケ4章13−18節である。

 まず、はじめに13節でパウロは死んだけれども、眠っているのですという言葉で、身近な人を亡くしたクリスチャンたちを励まそうとした。とはいえ身近な人の死は悲しいものである。場合によっては、悲しみからいつまでも抜け出られないという事もある。死とは何か誰からも聞くこともなく、知るすべもなく身近な人の死に直面される人が多いのではないだろうか。

 続いてパウロは、眠っている人たち、つまり死んだ人々について、望みのない人たちのように悲しんではいけない理由を14節以下で説明している。

 14、15節でパウロは、イエスの復活の事実に目を向けさせ、イエスの復活を信じている者の希望について語る。つまり、キリストを信じて死んだ人は、やがてよみがえりキリストと共にこの世界に現れると証言している。しかも15節で、キリストの再臨の時に、まずキリストを信じて眠っている人たちがよみがえってキリストに出会う。もし、キリストの再臨の時に生きているなら、そのあとによみがえる。

 続いて16、17節で、それらの出来事をさらに時系列に説明している。まず、パウロはキリストを信じて死んだ人は、どのような希望があるのかを語る。それは、この世の終わりにおいてキリストが空中まで降りて来られ(空中再臨)、まずキリストを信じて眠った者たちがよみがえり、それから地上に生き残っている者たちも一瞬に空中まで携挙されて空中で主とお会いする。つまり、キリストの再臨までに死んだ信者たちは先によみがえり、次にキリストの再臨の時に生きている信者たちは、よみがえりのからだに変えられて、空中で先によみがえった人々と共に主にお会いする。

 アモス書に「イスラエルよ、あなたの神に会う備えをせよ」というみことばがある。聖書の預言によると、今日はいつ主が来られてもよい時代であるゆえに、召された人たちにお会いする時が近づいているのではないだろうか。何よりも召された人たちは、私たちと会える時を心待ちにしておられるはずである。ですから、私たちは復活信仰と再臨信仰による希望を持ち、共に励まし合って、各自に託された信仰生涯を全うして行きましょう。

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2018-09-29

2018年 9月11日〜14日 東京から埼玉へ 

 京都から新宿行きバス

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  JR大塚駅


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 鴻巣宿資料館(中山道

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 東京 代官山蔦屋書店

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大阪梅田駅周辺(新宿バスタから梅田

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「神の愛による救い」 エペソ2章1−5節 2018年9月23日(日)港

   「神の愛による救い」 エペソ2章1−5節 

 本来、物質に命はない。しかし仕事上、この線は電気が通っているか、あるいは通っていないかと言うよりも「生きてる」か「死んでる」かと言うほうが伝わりやすく、危険が伴う仕事上適切な言い方である。このように「生きている」か「死んでいる」かという言葉は、生きている私たちには強いインパクトがある。

 ところで、聖書は「死に」ついて曖昧ではなく明確に教えている。

『人間には一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている。』(ヘブル書9章27節)と書いているが、死は必ず来ることを否定する人はいない。ところが「死後にさばきが定まっている」ということには、戸惑い、あるいは異議を唱える方もあるだろう。

 さらに、聖書は死んでも天国につながる永遠のいのちについて教えている。もし、この永遠のいのちを受けないなら『永遠の滅びという刑罰を受ける』(第2テサロニケ1章9節)と教えている。

 以上は2章2節の『自分の背きと罪の中に死んでいた』とはどういう意味かの説明である。つまり肉体は生きているが、背きと罪によって魂は死後、神による永遠の刑罰を免れない。このような状態を聖書では「霊的な死」と言う。そして、「霊的な死」にある人の生き方についての説明が2節―3節で、まことの神を知らないと、悪い霊の働きに晒され、悪い影響を受けるだけでなく、気づかないうちに悪い霊に従って歩むようになると教えている。

 さらにパウロは3節で、すでに神を信じている私たちもまた、かつては欲望に対しては無力で、欲望に支配されて生きていた者であったと証言している。

 つまりパウロは1−3節において、私たちは神から離れているゆえに、神のさばきを受けることを深く認識させて、4、5節にある神の恵みによる救いの有難さを分からせようとしたのではないか。

 例えば、体に潜む病に気づかないと、適切な治療は受けられない。同様に私たちも、罪は神の御怒りは免れないことを知ってこそ、神に救いを熱心に求めるのではないだろうか。

 では、何故に神は御子のいのちを犠牲にしてまで私たちを救おうとされたのか。

 それは、第1に神は愛なるお方ゆえに、ひとり子イエス・キリストを十字架につけてまで私たちを救おうとされた。

『私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛がある』(第1ヨハネ4章10節)

 第2に神はあわれみ深く、恵み深いお方だから。もし憐れみ深く、いつくしみ深いという神の属性がないなら、私たちの救いは永遠になかったはず。この神の一方的な恵みによる救いを受け取るために、私たちがなすべきことは、良い行いや良い人間になろうとする努力は不要。ただ神のみことばを信じるだけである。 

「教会とは」 エペソ1章20−23節 2018年9月16日(日) 港

「教会とは」 エペソ1章20−23節  

    

 パウロは、「教会はキリストのからだである」と教えていることから、教会をキリストと関連付けて教会とは何かを考えてみよう。

 20節「キリストを死者の中からよみがえらせ」たのは、全能の父なる神の力により実現した。そして、そこにはキリストの父なる神への全き信頼があった。教会がキリストのからだということにおいて、

 まず第1に、教会は神に全き信頼する集合体である。つまり、イエスを信じて教会に集う一人ひとりが、どれだけ神に信頼して主に仕え、奉仕しているのかということであり、教会は、人間同士が信頼し合う集合体であるよりも、いかに神に信頼しているかの集合体である。

 次に、20節「天上でご自分の右の座に着かせ」られた。つまりキリストは教会のためにとりなしてくださっていることから、第2に、教会は神に祈られ、神に祈る集合体である。教会が祈りを途絶えるなら霊的いのちを失う。毎週の礼拝の祝福のための祈りが必要であり、お互いのためのとりなしの祈りが不可欠である。そして、祈りにより宣教が前進し、諸問題も熱心な祈りと願いにより解決される。神はすべてのことを働かせて益としてくださる(ローマ書8章28節)。何よりも、キリストは教会のためにとりなしをされているゆえに、教会は決して揺らぐことはないと信じましょう。次は22節父なる神は、「すべてのものをキリストの足の下に従わせ」、キリストを教会のかしらとされた。

 第3は、教会はキリストに従う群れの集合体である。ここでキリストに従うとは、神のみことばの教えに従うことである。主に喜ばれる教会とは、みことばを愛する集合体であり、日々みことばに生かされ、みことばに従う集合体である。

 ゞ飢颪箸蓮⊃世某頼して主に仕える集合体。

 教会とは、祈りの火を絶やさない集合体。

 6飢颪箸蓮⊃世里澆海箸个暴召集合体。

  『神様の偉大さを知る』  エペソ1章15-19節 2018年9月2日(日)港

    『神様の偉大さを知る』  エペソ1章15-19節 

 私たちが信じている神はどのようなお方であるかをよく知るようにと勧めているのが17−19節である。

 17節では、パウロは、エペソ教会内にて間違った教えに惑わされているクリスチャンたちに、自分たちが信じている神はどのようなお方であるのかを知るために、知恵と啓示の御霊が栄光の父から与えられるように祈り願っている。

 聖霊によって与えられる知恵と啓示によって偶像崇拝から守られ、まことの教えか、あるいは偽りの教えかを見分けることができる。

『助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。』(ヨハネ14章26節) 

 続いて18節で、「心の目」がはっきりと見えるようになって、神様を信じている者に与えられる望みや富がどれだけすばらしいものであるかを知ることができるようにと祈り願っている。

 この「心の目」は新約聖書ではここだけの言葉で、人間の精神活動の根本である知・情・意の領域を含むものであり、神に召された者は「心の目」で、つまり聖霊によって開かれた心で、神を見、世界を見、社会を見、人を見、自分を取り巻く課題や問題を見なければならない。

 最後は19節で、パウロは神の働きと神の力の偉大さとはどのようなものかを特別な言葉で表現している。神の大能の力=ドミュナスの働き=エネルゲイヤによって、信じる者に働く=エネルゲイア、神のすぐれた力=ドミュナスと訳している。エネルゲイアから「エネルギー」が、ドミュナスから「ダイナマイト」という言葉が生まれた。ところが、私たちには神を深く知る理解力や知恵を曇らせてしまう罪の力という肉の弱さがあり、しかも罪の力には歯が立たない。

 しかし、イエス・キリストは神を深く知るための妨げとなる罪の力から解放してくださった。さらに、イエス・キリストを信じるすべの人に内住しておられる聖霊の働きによって、より深く神について知ることができる様にしてくださったのである。“神を深く知れば知るほど、信仰はより深められていく”

 

『私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あな

 たがたに与えてくださいますように。』 (エペソ1章17節)

 

 

 

「神をほめたたえよう(掘法廖 歐仰の確信−  エペソ1章13−14節  2018年8月26日(日) 港

c 「神をほめたたえよう(掘法廖 歐仰の確信−  エペソ1章13−14節  

 

 13、14節から信仰の確信を持つための大切なこととは何かを見ましょう。

 第1に救いの確信の土台は聖書にある。

 パウロは「真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じたことにより.......聖霊の証印が押され.......聖霊は御国を受け継ぐことのできる保証です。」と語っている。つまり、聖書に書かれていることを信じた結果救われる。なぜなら、聖書は絶対的な権威を持ち、さらに聖霊の保証がある。「聖書はすべて、神の霊感(霊)によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。」(第2テモテ3章16節) 

 

 第2の救いの確信の土台とは、キリストが十字架に架けられたという歴史的事実と救いの約束。

 イエス・キリストを信じて救われるとは、当時のローマの総督ポンテオ・ピラトによるイエスの十字架刑という歴史的事実と聖書の数々の約束に基づく。「キリスト・イエスの贖い(十字架の死)を通して、価なしに義と認められる(神の子とされる)からです。」(ローマ書3章24節)

 

 第3は聖霊を受けている。

「約束の聖霊によって証印を押されました。」(13節)この証印には所有権と保証という二つの意味がある。 ―衢権とは、主が、「わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っており、わたしのものは、わたしを知っています。」(ヨハネ10章14節)と言われたように、私たちは、羊のように迷いやすい者である。しかし、主は私の牧者で、いつも私たちを導き、守ってくださる。それは、主を信じる私たちに聖霊の証印(刻印:所有の印)が押されているからである。 次に∧歉擇箸蓮△錣燭掘平世桓身)のものであるという認証である。所有権だけでなく、特別なもの、あるいは大切なものとして保護してくださり、あらゆる侵害から守ってくださるという絶対的な保証である。次に「聖霊は私たちが御国に受け継ぐことの保証です。」(14節)この保証とは、手づけ金(約束手形)を意味し、イエスを信じた者には聖霊の保証(手づけ金)がある。それは、天国に行く確かな保証となる。

 第4は信仰の確信による心(感情)の変化が起こる。

 神を信じた結果、心に平安が与えられる。しかし、気分がすぐれないことがある。それでも、主はあなたを愛しておられる。病にかかって気持ちが落ち込む。しかし主は決して見放さず、見捨てられない。悩み苦しみの絶えないことがあっても、主の助けと励ましと慰めがある。

 先の見えない不安な人生であっても、主は先立って導いてくださる。誘惑に負けて罪を犯すことがあっても、真実を告白するなら赦される。感情に左右される信仰ではなく、みことばを土台とした信仰によって、神をほめたたえつつ、神とともに歩んでいきましょう!

2018-08-25

「神をほめたたえよう(供—罪から解放された者— エペソ1章7−12節 2018年8月19日(日)港

「神をほめたたえよう(供—罪から解放された者— エペソ1章7−12節 

 私が5歳か6歳の時に、同い年の男の子に石を投げて大怪我をさせた。そのために祖母が、当時では高価な箱入りの卵を持って友人の家に行き謝ってくれた。それで、その後も私はその友人と遊ぶことができた。しかし当時の私は、祖母が仲介者となってくれていたことなど知るすべもなかった。

 さてパウロは7節で、「このキリストにあって、私たちはその血による贖い、そむきの罪の赦しを受けています。」とイエス・キリストが私たちの罪の赦しのための仲介者であると語っている。では、そむきの罪とは何か。パウロローマ書5章12節で「ちょうどひとりの人(アダム)によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、それというのも全人類が罪を犯したからです。」とアダムによるそむきの罪はすべての人類に引き継がれたと語る。

 さて、私が友達を怪我させたという罪(成人なら傷害罪)は、箱入り卵と謝罪した祖母の行為によって友人のご両親に赦された。しかし、いかなる人であれ、またいかに高価なものであっても罪人が赦されるための代償にはならない。つまり人間の努力や良い行いなどによる救いの道はないのである。しかし、神は罪人の救いのために、罪なき神のひとり子イエス・キリストを私たちの罪の身代わりとされた。

『神は。罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためでした。』(第2コリント5章21節)

 罪人の仲介者となってくださったイエス・キリストを信じることによって、アダムの罪の結果もたらした永遠の死という恐ろしいさばきから救われたのである。神の一方的な愛と恵みによって罪から解放された者にとって、いつくしみと憐れみに富み給う神は賛美されるに最もふさわしいお方である。

2018-08-24

「神をほめたたえよう(機法—神に選ばれた者— エペソ1章1−6節 要約 2018年8月5日(日)

   「神をほめたたえよう(機法—神に選ばれた者— エペソ1章1−6節

 

 この手紙が書かれた目的は、エペソ教会の異邦人クリスチャンたちが、異端の教えに惑わされずに真理に立ち返るためである。

 さて、パウロの宣教がおよそ30年を経過する中で、伝道の働きのゆえに迫害を受け、しばしば命の危険にさらされるという多くの苦難を経験していた。

 その彼が、1章で繰り返している言葉が「神がほめたたえられますように」、あるいは「神をほめたたえるために」である。

 ではパウロがどのような状況の中にあっても、神を心からほめたたえることができたのはなぜか。それはパウロの神の救いについての認識の深さにあるのではないか。

 第1に、神の一方的な恩恵による救いという認識 青年で優秀な律法学者であったパウロは、クリスチャンを迫害する側にいた。しかしある時に、ダマスコ途上で復活の主に出会いクリスチャンとなる。このような経験は、彼の努力や願いや功績ではなく、神からの一方的な恵みによる。

 それゆえに、パウロの救いの神学は実に確かなものである。それは、天地万物の創造以前からすでに選ばれていたというものであり、しかも、人がその過去における罪を一切問われず、ただキリストを信じることにより、全ての罪は赦され、神の子どもとされ、聖なる者としてくださるというものである。

 神は人類が罪を犯かすはるか以前に、救いの計画を持っておられただけでなく、救おうとする人をも前もって選ばれていたと捉えていたのがパウロである。

 第2に、神の愛からくる必然的な行為による救いという認識 「神のみむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」 私たちの救いをご自身のみこころとされ、罪の贖いのために御子イエスのいのちさえも惜しまずに与えられた神こそ、心からほめたたえるにふさわしいお方である。神がなぜ私のような者を選び、救ってくださったのかを知るすべはない。

 たとえその理由は分からないとしても、世に比類なき神の救いにあずかっている事実に、感謝と喜びをいつまでも持ち続けるのみならず、パウロのように、いかなる時であっても心から神の栄光をほめたたえる者となりたいものである。

 

「世の終わりに備えよ」ダニエル書9章24節―27節 要約 2018年7月29日(日)

 「世の終わりに備えよ」ダニエル書9章24節―27節 

 今から約2600年前に書かれたダニエル書9章24―27節を中心に世の終わりの預言について学ぶ。この箇所はダニエル70週預言である。

 この70週預言とはペルシャのアルタシャスタ王によるエルサレム再建命令(ソロモン王による第一神殿は、BC586年バビロン帝国が破壊)が出てから7週目(49年:1年を1日:エゼキエル書4章6節))に再建完了、さらに62週(434年)経過してメシヤが断たれる(キリストの死)。その後エルサレムはAD70年(ヘロデ王による第二神殿)にローマ軍により破壊。イスラエル人は祖国を失う。1948年のイスラエル共和国再建までのおよそ1900年流浪の民となる。

 つまり、ダニエル69週とはユダヤ人についての預言であり、69週の後に挿入された教会時代は7年間の患難時代の前に終わる。クリスチャンは患難時代に入る前に地上から空中まで携挙されて、患難時代から守られる(大患難後の携挙説もある)。

 7年の患難時代の前に(?)北の王国といくつかの同盟国が、ある日イスラエルを攻め入るが(エゼキエル38章)、神のご介入によりイスラエルは圧倒的に勝利する。

 その頃に復興ローマ連合国(10の国)が興り、連合国のリーダーが中東和平条約を締結させる。その結果エルサレムに第三神殿が建設される。

 さて、前半の3年半は平和であるが、後半の3年半(大患難)は、復興ローマ連合国のリーダー(反キリスト)が、ユダヤ教を迫害し、世界の政治、経済、宗教を統合する(恐怖時代:黙示録13章)。

 大患難の終わり頃にハルマゲドン(メギドの丘)周辺に世界各国の軍隊が集結し世界戦争勃発となる。その最中にキリストの地上再臨により戦争が終結する。つまり、聖書が言う世の終わりとは、人類の滅亡ではなく時代の終わりである。神が人間に託された時代の終焉を意味する。

 続いて、キリストによる平和な世界統治が始まる。その期間は1000年間で地上千年王国と呼ばれる。その後は、永遠の御国の到来である。 

「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。」(ヨハネ5章24節)



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