えいちゃん牧師の部屋

2018-08-25

「神をほめたたえよう(供—罪から解放された者— エペソ1章7−12節 2018年8月19日(日)港

「神をほめたたえよう(供—罪から解放された者— エペソ1章7−12節 

 私が5歳か6歳の時に、同い年の男の子に石を投げて大怪我をさせた。そのために祖母が、当時では高価な箱入りの卵を持って友人の家に行き謝ってくれた。それで、その後も私はその友人と遊ぶことができた。しかし当時の私は、祖母が仲介者となってくれていたことなど知るすべもなかった。

 さてパウロは7節で、「このキリストにあって、私たちはその血による贖い、そむきの罪の赦しを受けています。」とイエス・キリストが私たちの罪の赦しのための仲介者であると語っている。では、そむきの罪とは何か。パウロローマ書5章12節で「ちょうどひとりの人(アダム)によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、それというのも全人類が罪を犯したからです。」とアダムによるそむきの罪はすべての人類に引き継がれたと語る。

 さて、私が友達を怪我させたという罪(成人なら傷害罪)は、箱入り卵と謝罪した祖母の行為によって友人のご両親に赦された。しかし、いかなる人であれ、またいかに高価なものであっても罪人が赦されるための代償にはならない。つまり人間の努力や良い行いなどによる救いの道はないのである。しかし、神は罪人の救いのために、罪なき神のひとり子イエス・キリストを私たちの罪の身代わりとされた。

『神は。罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためでした。』(第2コリント5章21節)

 罪人の仲介者となってくださったイエス・キリストを信じることによって、アダムの罪の結果もたらした永遠の死という恐ろしいさばきから救われたのである。神の一方的な愛と恵みによって罪から解放された者にとって、いつくしみと憐れみに富み給う神は賛美されるに最もふさわしいお方である。

2018-08-24

「神をほめたたえよう(機法—神に選ばれた者— エペソ1章1−6節 要約 2018年8月5日(日)

   「神をほめたたえよう(機法—神に選ばれた者— エペソ1章1−6節

 

 この手紙が書かれた目的は、エペソ教会の異邦人クリスチャンたちが、異端の教えに惑わされずに真理に立ち返るためである。

 さて、パウロの宣教がおよそ30年を経過する中で、伝道の働きのゆえに迫害を受け、しばしば命の危険にさらされるという多くの苦難を経験していた。

 その彼が、1章で繰り返している言葉が「神がほめたたえられますように」、あるいは「神をほめたたえるために」である。

 ではパウロがどのような状況の中にあっても、神を心からほめたたえることができたのはなぜか。それはパウロの神の救いについての認識の深さにあるのではないか。

 第1に、神の一方的な恩恵による救いという認識 青年で優秀な律法学者であったパウロは、クリスチャンを迫害する側にいた。しかしある時に、ダマスコ途上で復活の主に出会いクリスチャンとなる。このような経験は、彼の努力や願いや功績ではなく、神からの一方的な恵みによる。

 それゆえに、パウロの救いの神学は実に確かなものである。それは、天地万物の創造以前からすでに選ばれていたというものであり、しかも、人がその過去における罪を一切問われず、ただキリストを信じることにより、全ての罪は赦され、神の子どもとされ、聖なる者としてくださるというものである。

 神は人類が罪を犯かすはるか以前に、救いの計画を持っておられただけでなく、救おうとする人をも前もって選ばれていたと捉えていたのがパウロである。

 第2に、神の愛からくる必然的な行為による救いという認識 「神のみむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」 私たちの救いをご自身のみこころとされ、罪の贖いのために御子イエスのいのちさえも惜しまずに与えられた神こそ、心からほめたたえるにふさわしいお方である。神がなぜ私のような者を選び、救ってくださったのかを知るすべはない。

 たとえその理由は分からないとしても、世に比類なき神の救いにあずかっている事実に、感謝と喜びをいつまでも持ち続けるのみならず、パウロのように、いかなる時であっても心から神の栄光をほめたたえる者となりたいものである。

 

「世の終わりに備えよ」ダニエル書9章24節―27節 要約 2018年7月29日(日)

 「世の終わりに備えよ」ダニエル書9章24節―27節 

 今から約2600年前に書かれたダニエル書9章24―27節を中心に世の終わりの預言について学ぶ。この箇所はダニエル70週預言である。

 この70週預言とはペルシャのアルタシャスタ王によるエルサレム再建命令(ソロモン王による第一神殿は、BC586年バビロン帝国が破壊)が出てから7週目(49年:1年を1日:エゼキエル書4章6節))に再建完了、さらに62週(434年)経過してメシヤが断たれる(キリストの死)。その後エルサレムはAD70年(ヘロデ王による第二神殿)にローマ軍により破壊。イスラエル人は祖国を失う。1948年のイスラエル共和国再建までのおよそ1900年流浪の民となる。

 つまり、ダニエル69週とはユダヤ人についての預言であり、69週の後に挿入された教会時代は7年間の患難時代の前に終わる。クリスチャンは患難時代に入る前に地上から空中まで携挙されて、患難時代から守られる(大患難後の携挙説もある)。

 7年の患難時代の前に(?)北の王国といくつかの同盟国が、ある日イスラエルを攻め入るが(エゼキエル38章)、神のご介入によりイスラエルは圧倒的に勝利する。

 その頃に復興ローマ連合国(10の国)が興り、連合国のリーダーが中東和平条約を締結させる。その結果エルサレムに第三神殿が建設される。

 さて、前半の3年半は平和であるが、後半の3年半(大患難)は、復興ローマ連合国のリーダー(反キリスト)が、ユダヤ教を迫害し、世界の政治、経済、宗教を統合する(恐怖時代:黙示録13章)。

 大患難の終わり頃にハルマゲドン(メギドの丘)周辺に世界各国の軍隊が集結し世界戦争勃発となる。その最中にキリストの地上再臨により戦争が終結する。つまり、聖書が言う世の終わりとは、人類の滅亡ではなく時代の終わりである。神が人間に託された時代の終焉を意味する。

 続いて、キリストによる平和な世界統治が始まる。その期間は1000年間で地上千年王国と呼ばれる。その後は、永遠の御国の到来である。 

「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。」(ヨハネ5章24節)



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2018-07-27

「聖書を基とする信仰(供法-みことばに聞く-ルカ24章44節〜53節 2018年7月22日(日)

     

 地上で最後となるメッセージを通して、主が弟子たちに願われたものが2つある。まず第1に、聖書全体を学ぶようにとのメッセージである(44節)。

 主が言われた、「モーセの律法と預言者たちの書と詩篇」とは聖書全体のことを指す。つまり聖書全体から神について、キリストについて、人間等々について学ぶことの勧めである。比較的分かりやすい新約聖書だけでなく、難解と思われる旧約聖書を学ぶことによって聖書の理解をより深めてくれる。

 バランス良く聖書を学ぶために、日々のデボーション(みことばを読み、神に祈る時)で用いるテキストが良い助けとなる。また聖書教理を学ぶならさらに聖書の理解は深められる。

 

 さて、次に主が願われたのは、ご自身の十字架の死と復活を信じる者に与えられる罪の赦しと救いの福音を全世界に宣べ伝えるようにとの願いである。第2は、聖書を悟る(理解する)ことにより、神のみこころを知るというメッセージである(45節)。

 これは、聖書を悟ることなくして神のみこころを知ることは難しいということである。

 では、この聖書を「悟る」とはどういう意味なのか。「悟る」とは「理解する」という意味であり、聖書を理解するあるいは分かるためには心が開かれる必要がある。

 43節で、「イエスは、聖書を悟らすために彼らの心を開いて」と書かれている。つまり、聖書を理解するためには心を開かなければならない。

 聖書を読むだけにとどまらずに、祈り心を持って聖書を読み、黙想し、熟慮し、熱心に学ぶという心がけが求められる。実は信仰の土台(もとい)において、聖書を読むだけでは不十分であり、まして聖書を開かないなら、神に祝福される信仰生活を維持するのは極めて困難である。

 しかし強制的ではなく、律法的ではなく、神の恵みによって互いに励まし合ってみことばの中に満ち溢れている恵みをともに分かち合って行きたい。

 

「みことばを教えてもらう人は、教えてくれる人と、すべての良いものを分かち合いなさい。」(ガラテヤ書6章6節)

   「聖書を基とする信仰(1)」―日々のデボーションを大切にールカ24章13〜35節 2018年7月15日(日)

 

 エルサレムからエマオに向かう2人の弟子たちは、愛する主が死なれ、大きな悲しみの最中にあった。しかし、道中にて復活されたイエスが現われた時に、彼らはイエスとは全く気づかなかった。ところが、道々主によって聖書全体からご自身について教えられ、彼らの心は燃やされた。  

 その日の宿を取った食卓にて、主がパンを取って神に祈られた時に、2人の目は開かれイエスだと分かった。これらの出来事から、確かな信仰を持つための秘訣とは何かをみましょう。

 

 確かな信仰の第一の基とはデボーション(静まる時)にある。2人が、復活の主にお会いする前は、落胆し、希望を失い、その信仰は全く弱っていたであろう。しかし、復活の主からみことばを聞き、心を動かされ、さらに食卓での主との交わりによって霊の目が開かれ、2人は復活の主を認識できた。

 

 私たちも日々みことばに耳を傾けて、みことばに教えられ、みことばに導かれるなら、私たちの心は満たされ(燃やされ・動かされ)、生ける神と交わることにより、世の誘惑や悪の力から守られる。ここにデボーションの大切さがある。

 「朝ごとに、立って主をほめたたえ、賛美し、夕べにも同様にすること。」(歴代誌第一2章30節)

 次に、確かな信仰の第二の基とは、デボーションの継続にある。弟子たちのエマオでの体験は、後々の信仰の歩みにおいて大切な教訓となり、よみがえりの主は、いつでも、どこでも、共にいてくださるという貴重な体験をしたのである。

 「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつもあなた方ともにいます。」(マタイ28章20節)

 私たちが確かな信仰を持ち続けるためには、日々のデボーション(理想は朝早く)の確保と継続にある。どうしても時間が取れない場合もある。それでも、1日のどこかに空いた時を逃がさず、主との交わりを持つことが、デボーションを継続させる良い方法である。

「信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。」

                                    (ローマ書10章17節)

「最後の晩餐の意義(供法廛襯22章14−23節 2018.7/1(日) 港キリスト教会

「最後の晩餐の意義(供法廛襯22章14−23節

  

 イエスは弟子達に、全人類の救済を意味する聖さんの時を、世の終わりまで(主の再臨まで)持ち続けるようにと命じられた。それゆえに、聖餐の意義を知ることは重要である。

 晩餐の第1の意義は、福音宣教にある。どんなに罪深い人間であっても、キリストを信じるなら、罪ゆるされ、神の子どもとされる。それは福音を信じたからである。それは言うまでもなく、だれかから福音を聞いたからである。

 ですから、この聖餐に与るたびに、キリストの十字架による救いの福音をお伝えするという尊い使命があることを忘れないようにしたい。

 晩餐の第2の意義は、神に感謝することにある。聖餐は原語で、「ユーカリスト」とも訳される。これは「ユウカリステオ:感謝する」という言葉から来ている。イエスは、私たちの罪の身代わりによる十字架の死を覚悟されて、パンと杯を取って天の父に感謝して祈られた。ところが、私たちは苦しい状況や、厳しい状況の中でも神様に感謝できるのかを試みられる。

 翻って主は、十字架の苦難を前にして、父なる神に感謝されたのは、天の父がどのようなお方かをよく知っておられたからではないか。

 それは、死からよみがえらせることのできる父なる神への絶対的な信頼から伺える。でも、私たちは神様を信じているのに、感謝できないことがあるかも知れない。それでも、必ず感謝できる時が来るという信仰を持って、主の聖餐に与りたい。

 晩餐の第3の意義は、神の赦しにある。イエスを裏切ったユダは、キリストの内に神を見ることのできる一番近い所にいたのに、神に背き続け、赦される機会を逃して自ら命を絶った。

 

 では、すでに神に赦されているのに、赦しの確信のないままクリスチャン生活を送ってはいないだろうか。もしそうなら、キリストの十字架による救いの事実から、神に赦されているという確信をしっかりと持って、主の聖餐に与りましょう。

 「このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによること  です。」(エペソ1章7節)

 「最後の晩餐の意義(機法廖修錣燭靴了が近づいた―ルカ22章7−15節 2018.6.24 港キリスト教会 

 「最後の晩餐の意義(機法廖修錣燭靴了が近づいた―ルカ22章7−15節

 

 イエスと弟子たちが共にした最後の晩餐と言われる過ぎ越しの食事は特別なものであった。第1に、晩餐は前もって備えられていた。イエスはペテロとヨハネに食事の用意を依頼された。ところが彼らは心配そうに、「私たちは、どこで用意しましょうか」とイエスに尋ねた。

 当時、この祭りにはたくさんの人々がエルサレム(270万人)に集まるので、場所の確保は難しかった。ところが、イエスは前もって場所を予約しておられた。しかも、ペテロとヨハネがイエスの言いつけられた通りにした結果、人知をはるかに越える不思議を体験した。

 イエスは神の御子で、その計り知れない能力により将来の全てを予知される。ですから、私たちは全てをご存知で、どんな時でも助けてくださる神を信頼して行きましょう。

「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」(詩篇37篇5節)

 

 第2に、晩餐は主が心待ちにしておられた。恐ろしい十字架刑を前にして、弟子たちと食事をするこの時を、イエスが心から待ちわびておられた理由とは何か。

 それは、イエスの罪の身代わりによる十字架の死と復活よって、私たちの罪による永遠のさばきから解放され、天国の道が備えられる時が、まもなく来るからである。

 今も生きておられ、とこしえにおられる神におゆだねし、将来を見通されるだけでなく永遠までを導いて下さる神を信じて生きることは、実に幸いなことである。

「人の道は主の目の前にあり、主はその道筋のすべてに心を配っておられる。」(箴言5章21節)

「後悔から悔い改めへ」 ―イスカリオテ・ユダを追いつめたもの−ルカ22章1−6節 要約 2018.6/17 港

「後悔から悔い改めへ」 ―イスカリオテ・ユダを追いつめたもの−ルカ22章1−6節

 ユダがイエスを裏切るまでに追いつめたものとは。第1は、不純な動機。会計係であったユダは、お金を盗むだけでなく、イエスについて行けば何か得があるという野心を抱いていた。

 ところが、イエスの状況が悪くなり、自分にとって徳がないと計算した彼の心にサタンが入った。イエスの弟子になる動機の不純さは、結果的にイエスを裏切るまでに彼を追い詰めた。私たちも、どのような思いで主に従い、教会で奉仕をしているのかを自己吟味することは大切である。

 主は、「あなたがたは,神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」(マタイ6章24節)と教えられた。

 

 次に彼を追いつめたものとは。第2は、放置したままのパン種(悪の根:罪)。ユダはイエスを裏切り、祭司長たちからお金(銀貨30枚)を受け取った。しかし、イエスが捕らえられた時に「事の重大さ」に気づき後悔した。

 その直後にユダは自ら命を絶った。実はこのような事態になるまでに、イエスに赦される機会は何度もあった。イエスは、最初から彼の野心と盗みを知っておられ、彼が悔い改めるのを待っておられたはず。

 しかし、ユダはイエスの愛を知りつつ罪の力に身を委ね、サタンに心を奪われた。そのまま放置していたパン種(悪の根)を悪事のエサにされたのである。

「主はすべてのものを、ご自分の目的のために造り、悪者さえもわざわいの日のために造られた。」(箴言16章4節)。またパウロは、「あなたがたの高慢は、よくないことです。あなた方は、ほんのわずかなパン種が、粉のかたまり全体をふくらませることを知らないのですか。」(第一コリント5章6節)と悪いパン種に注意するようにと警告している。

 どの弟子たちも、初めのうちは野心を抱いてイエスに従っていた。そして、彼らもイエスを見捨てた。しかし、死からよみがえられたイエスに出会って、悔い改めへと導かれ、これまで弟子たちが抱いていた不純な動機は、福音宣教という尊い使命のために生涯を献げる弟子へと変えられた。

 これくらいはと放置された小さなパン種(悪の根:罪)が、やがて大きく膨らみ、ユダ自らをイエスの裏切りへと追い詰めた。神の救いの計画の実現のためのシナリオ(台本)をユダは知らないうちに描いていた。

 ユダにとって最悪のシナリオが、神には最善のシナリオとなる。なぜ、ユダが悲劇のヒーローになったのかという理由を知っておられるのは神のみである。

 

 私たちの心の中のすべてをご存じの神を恐れて生きて行くことが、人生の安全保障である。もし、心の中にわずかでもパン種(悪の根:罪)があるなら、そのまま放置せず、できる限り早いうちに取り除こう。

 そのためにどうすれば良いのか。それは、罪を取り除くために十字架で血潮を流された神の御子イエス祈り、後悔するのではなく、悔い改めるなら、神に赦され、神に祝福され、神に見守られ、神と共に歩む新しい人生が始まると聖書は約束している。

「世の終わりに備えよう」ルカ21章7-11、25−33節 要約 2018年6月3日(日)港キリスト教会

     「世の終わりに備えよう」ルカ21章7-11、25−33節

 主イエスは弟子たちに、世の終わりの前兆について教えられた。世の終わりには、国と国、民族と民族との戦争が頻発し、方々で大きな地震が起こり、疫病や飢饉が多発する。

 しかし、主は、これらは産みの苦しみの始まりに過ぎないと言われた。今日、世界中で起こっている世の終わりが近いのではと思われる自然災害や人的災害は始まりに過ぎない。

 将来、未曾有の天変地異が起こり、世界最終戦争勃発後にイエス・キリストの再臨がある。キリストの再臨には2つの説がある。空中再臨(患難前携挙と患難後携挙)と地上再臨である。

その日時は、だれも知らない。しかし、その時期は聖書から知ることができる。

 

 それは、中東和平条約が結ばれる時であり(ダニエル書9章27節)、それと同時に、世界は7年の患難時代に入る。その頃の世界は地中海沿岸を中心とした10の強国が誕生し(ダニエル7:19−24)、中東和平条約締結の仲介者が10カ国のリーダーとなり、やがて、彼は世界のリーダー(反キリスト)となり、世界の政治・経済・宗教を支配する。

 

 7年間の患難時代において、戦争によってもたらす世界不況、天変地異による疫病と飢饉などにより、人類の三分の一が死ぬ。

 そして、患難時代の3年半後に、一方的に和平条約が破棄されて大患難期に入る。

その終わりの時に、イスラエルにあるメギド(ハルマゲドン)の丘で、世界最終戦争が勃発する。

 その直後にキリストが、地上から携挙(患難前か患難後に?)された聖徒とともに、地上に降りてこられ、ご自身の権威によって世界をさばき、統治され、地上での千年王国の始まりとなる。その千年の終わりに、キリストの最後の審判により、サタンや悪霊たちは地獄に投げ入れられ、人々を天国と地獄に定められて、人類の歴史は終結する。

 では、クリスチャンは世の終わりにいかに備えれば良いのか。第1に、日々御言葉信仰にしっかりと立って歩む。「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。」(マタイ24章35節) 

 第2は、日々の忠実な信仰生活。「愛するものたち。これらのことを待ち望んでいるのなら、しみも傷のない者として平安のうちに神に見出していいただけるように努力しなさい。」(ペテロ第二3章14節) 

 第3は、日々目を覚まして祈り生活の継続。「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。」(第一ペテロ4章7節)

2018-06-08

 「満ち足りる心で献げよう」 ルカ21章1−4節 2018年5月27日(日)港キリスト教会 

    「満ち足りる心で献げよう」 ルカ21章1−4節

 ある時、宮の献金箱に金持ちたちが投げ入れた献金と、ある貧しいやもめが、レプタ銅貨2枚を投入れるのを見て、イエスは、「この貧しいやもめは、誰よりも多くを投げ入れました。」と言われた。この所から、献金の大切な心得とは何かを見ましょう。

第1に、主はどのような思いで献げているのかをご覧になられた。

金持ちたちは、あり余る中から献金として投げ入れた(レプタ銅貨の128倍以上価値ある銀貨?)。主は彼らが献げたものは献金であると認めておられた。しかし、主はどのような思いで献げるかを注視された。イエスが、やもめの献金を褒められたことから、金持ちたちの献金の姿勢において問題を感じ取られたのではないだろうか。

 第2に、主は信仰の伴ったささげ物であるかをご覧になられた。

やもめは、生きる手立ての全てを投げ入れた。それは、彼女が持っていたすべてを献げたことを意味する。やもめが献げたレプタ銅貨2枚は、これから生きていくための全ての必要を神の御手にゆだね、神に信頼して行くという信仰が伴う献金ではなかっただろうか。まさに献金は、どれだけ神様に信頼しているかのバロメーターでもある。

 

 イエスが見られたのは、人々の献金額ではなく、一人一人がどんな思いで、またどのような神への信仰を持って献げたのかをご覧になられた。

 パウロは「あなたがたは、すべてのことに、すなわち、信仰にも、ことばにも、知識にも、あらゆる熱心にも、私たちから出てあなたがたの間にある愛にも富んでいるように、この恵みのわざ(献金)にも富むようになってください。」(第2コリント8:7)

 聖書は、献金は強制ではなく、また掟ではなく、恵みのわざであると教えている。ですから、私たちクリスチャンは、強いられてではなく、いやいやながらではなく、自ら進んで、喜んで、心から献げ、恵みのわざに富む者となりましょう!

「教会の誕生」―神の霊を受けた人々によって― 使徒2章1〜13節 5月20日(日)ペンテコステ礼拝 港キリスト教会

「教会の誕生」―神の霊を受けた人々によって― 使徒2章1〜13節 

 ユダヤ暦の小麦の収穫祭は、イエスの復活から50日目(ペンテコステ)にあたる。その日120名ほどの弟子たちが熱心に祈っていた時に、天から聖霊が降り、弟子たち全員が聖霊を受け、彼らは突然他国の言葉で話し出した。

 聖霊は目で見ることはできない。しかし、その聖霊の働きによってもたらされるものによって、その存在を知ることができる。例えば、電気は目には見えないが、裸電線に触れた時に電気を感じその存在を知る。聖霊を受けたペテロの説教を聞いて、人々は心を刺され、悔い改めた結果、彼らの鈍い心が開いた。これらは、ペテロの説教とともに聖霊の働きによってもたらされた。

 しかし、この聖霊体験の50日前に、ペテロは大祭司の中庭で、イエスという人は知りませんと力を込めて3度も否んだ。肉の思い(肉の心)は、時として、自分では思ってもいないことを言い、また思いもよらない行動をとる。あるいは、自分では悪いと分かりつつ、やめられない。してはいけないと分かりつつ、やってしまう。パウロは、これらを原罪(悪の法則)であると解いている(ローマ書7章)。

 肉の思いは、修行や努力、あるいは道徳的な教えを身に着けることによっては制御できない。しかし、聖霊に満たされた彼らは、やりたいことが出来るようになったのではなく(肉の思い)、なすべきことが出来るようになり(神のみ旨)、なせるはずがないことが出来るようになった(神のみわざ)。この時が教会の誕生、そして世界宣教のスタートの日となった。このように弟子たちは、神の尊い働きに用いられるためには聖霊降臨(ペンテコステ)が必須であった。同様に、私たちも聖霊に満たされることが大切であることを今一度確認したい。

 聖霊に満たされるために、まず聖霊に満たされるように神に祈り求め、聖霊様が喜ばれないことを一掃し、聖霊様が喜ばれることを熱心に求め、自己に生きるのではなく、聖霊様に明け渡して、自己を主に委ねなければならない。120名ほどの弟子たちは、10日間の祈りとみことばの備えている時に聖霊が降り、その日のうちに、救われる人が一気に3,000名と拡大した。

 

 私たちも、生き生きと信仰生涯を送り、喜んで主の教会に仕え、救霊の働きをするために。またこの世の誘惑や罪の力(肉の思い)から、またサタンや悪霊の力から守られ、それらに打ち勝つために、聖霊の力は必須である。

「どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和を持って満たし、 

 聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。」ローマ15章13節

「神のものは神に返しなさい」 −信仰のボーダーラインとはー ルカ20章19−26節 2018年5月6日(日)港キリスト教会

    「神のものは神に返しなさい」 −信仰のボーダーラインとはー ルカ20章19−26節 

 主が語られた、「カエサルのものは、カエサルに、神のものは神に返しなさい。」の意味とは何か。

律法学者、祭司長たちは「私たちが、カエサルに税を納めることは、律法にかなっていることでしょうか。」と質問した。

 もし、イエスが税を納めなさいと言えば、反対の立場のパリサイ人や民衆から反発され。税を納める必要はないと言えば、ヘロデ党の者は、イエスを国家反逆者としてローマ政府に訴える。

 どちらもイエスを窮地に追い込む。しかし主は、デナリ銀貨を手にし、表の肖像人物について聞かれ、彼らは「カエサルです。」と答え、イエスは「では、カエサルのものはカエサルに。神のものは神に返しなさい。」(私訳:カエサルにはそれに見合うもの、神には神に見合うものを返すべき)と答えられた。

 このイエスの言葉は、今日のキリスト者にとって大切である。それは、キリスト者が国家とどう関わり、どう関わってはいけないのか、また、社会における責任をどう果たすべきかを教えている。まずカエサルのものは、カエサルにとは?キリスト者は国家の法律に従うことを命じられている。ペテロは、「すべて人の立てた制度に、主のゆえに従いなさい。」(第一ペテロ2:13,14)、またパウロは、「すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人達のために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過すためです。そうすることは、神の前に良いことで、喜ばれることなのです。」(第一テモテ2:1,2)と勧める。

 ただし、世のいかなる権威も、神を恐れることと神に従うことを超えることはない。次にあなたにとってカエサルとは?それは、国家、社会、職場、学校、家庭などにおいて、神が定めた秩序を保つために、キリスト者は従順(聖書の教えに)であることが求められる。もし世の権力が信仰の良心を脅かすなら、敵意を抱かず逆らわず、祈りととりなし、最終的に信仰の良心に従う。最後に神のものは神に返しなさいとは?神は神、世は世と切り離す二元論は律法的となる。

 しかし、神からのものを、この世で正しく管理し、良いことのために用いるなら、神から恵みを受ける。そして、神から恵みを受けた者が神のために見合うお返しできる。イエスも喜んでご自分のからだを、父なる神にお返し(罪を赦すに値する)された。主の十字架による死の犠牲は、信仰の模範の頂点である。

 ますます世界はボーダレス化(国境のない)する中、信仰もボーダレス(境目なし)で。それは、カエサルのものと神のものとを使い分ける要領のいい信仰者になりかねない。聖書は、寛容であるようにと勧めているが、信仰が寛容になると、曖昧から妥協、妥協から堕落に陥りかねない。たとえ生真面目で、要領が悪く、損をする生き方と思われても、世のものは世に、神のものは神にお返しするボーダーライン信仰、つまり何が信仰的で、そうでないのかという境目を、神のみことばから正しく身に着ける者となれますように!

2018-05-03

  「平和の町エルサレム」 −主の再臨を待ち望む教会− ルカ19章41節―46節  2018.4.22 港キリスト教会

  「平和の町エルサレム」 −主の再臨を待ち望む教会− ルカ19章41節―46節 

  主イエスエルサレムに来られた時、過ぎ越しの祭りで、遠方からも多くの人々が、罪の贖いのための生け贄を宮にささげに来た。しかし、主はエルサレムをご覧になり涙を流され、宮では憤りを覚えられた。

 さて、ここから主の涙と主の憤りから、二つの教訓について学びましょう。

 第1は、主が流された涙の意味について。それは、近い将来エルサレムが完全に破壊されることを、主は知っておられたからである。しかし、ユダヤ人にとって、雄大、かつ神が住まわれる都が、破壊されることは絶対にありえないことだった。

 しかし、主の預言通りAD70年、ローマ軍によってエルサレムは破壊された。主が事前に民の悲惨を予告されたが、多くのユダヤ人は災難に遭った。その原因として、民は霊的な盲目状態にあり、メシア(救い主)が来られたことに気づいていなかったからではないか。

 しかし、イエスの警告を信じていたクリスチャンたちは、エルサレム滅亡の前に、ヨルダン川を渡り、ぺレアに難を逃れた。これらの出来事は、終末時代に生きる私たちにとって、極めてよく似た出来事ではないか。

 今日世界は物質主義、民族主義、自国主義を標榜し、ますます世界は混迷し、平和の秩序は崩れつつある。主がエルサレムの都をご覧になられて涙された様に、今日の時代を憂いておられるのではないか。

 エルサレムの破壊は、まさに今日の罪に満ちた世界が、やがて主によって裁かれるという予表(予型)でもある。

しかし、難から逃れたクリスチャンたちは、激しい迫害の中で福音を宣べ伝えた。まさに終わりの時代における教会の宣教は急務である。

 第2は、イエスの憤りについて。イエスは宮に入り、商売をしている者たちを追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。遠方から宮に来る者にとって、生贄の動物や、他の品物が売られていることは便利であった。

 しかし、そのことをうまく利用してお金儲けを企む商売人に対して主は憤られた。宮の利益のためにと言いつつ、自分たちの私腹を肥やしていた。主は、「わたしの家は、祈りの家でなければならない。」と言われた。

 神殿は、神との会見の場所、賛美と喜びをもって神を礼拝する場である。

今日の教会も世の利益を求める場ではなく、神があがめられ、賛美され、ほめたたえられる所である。そこに何人のクリスチャンが集まっているかが第一義的なことではなく、そこにどれだけのクリスチャンが、祈り心を持ち、へりくだって主に心からの礼拝をささげているかが重要ではないか。

 

 主が涙された都、憤られた宮のように現世的で世俗的な教会にならないように、警戒しなければならない。何よりもまず救霊のために祈り励みましょう。今私たちは、主が間もなく来られる時代に生かされているように思えてならない。「あなたがたも用心していなさい。人の子は、思いがけない(not expect:期待しない)時に来るのです。」(ルカ12章40節)

大和高田市 おかげ祭り  2018.4.28-29日

大和高田市って?

高田おかげ祭り

担当 産業振興課

高田おかげ祭り 高田おかげ祭り

「高田おかげ祭り」は、平成9年秋に始まりました。

おかげとは、江戸末期から明治初年にかけて、暴発的に大群衆となって、伊勢神宮をめざしたおかげ参りに由来するもので、本市を東西に貫く伊勢街道は、このおかげ参りの群集が通り、沿道の人々は、大いに施行と呼ばれる奉仕をおこない、たいへんなにぎわいをみせたことが知られています。

このおかげ参りのにぎわいと楽しさを今に再現して、商店街の活性化をはかり、今も続く「商い文化」を発信しようとしています。

龍王宮、片塩地域商店街を主なエリアとして、おかげ踊りパレード、うまいもん市おかげ市大道芸など、盛りだくさんのだしものが準備されて、祭り当日は、まるで、往時のおかげ参りがよみがえったかのようなにぎわいをみせています。

今年は、あなたも、おかげ踊りの輪に入って、江戸の昔にタイムスリップしてみませんか。


 

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大和高田市駅(近鉄南大阪線

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「天国への道」2018.4/29 MB平野キリスト教会のMebicにて  ヨハネ14章6節

「天国への道」2018.4/29 MB平野キリスト教会にて

 先生が小学3年生ころ野球をしていた時に、ボールがお腹に当たりました。しばらくお腹を押さえていると、ある友達が突然、「盲腸か分からんよ、ほっといたら死ぬで!」と言うので、何か怖くなり、家に帰りおばあちゃんに、「僕、盲腸か分からない、ほっといたら死ぬから、すぐに病院に連れて欲しいね」と必死で頼みました。

 もちろん、それを聞いた親は、「そんなん大丈夫やで」と言ってくれたのです。子供ながら、死は恐いものと思っていたのです。

 

 では、みんなはどうですか?死なんて考えない!死なんて怖くない!そんなの関係ないと思っていますか?

実は多くの人が、死についてあまり考えません。いや考えたくないのです。  

 それは学校、社会、家、誰も死とは何かを教えてくれないからです。ですから、たくさんの人が死とは何かを知らないまま生きているのです。

 しかも、死とは何か知らないだけでなく、死んでその後どうなるかも知らないで、たくさんの人が死んでいくのです。どうしたいいのでしょうか?

 この前、ふと夜の月を見ていた時に、すごいなあと思いました。それは、人類が月に行ったことです。今は月よりもっともっと遠い惑星に行けます。人類はますます進歩していくのです。

 では、人間の知恵や能力やまた科学の力で天国に行けるようになりましたか? NO! 

 WHY?それは私たちの心がきれいでないからです。聖書はそれを罪と言い、しかもその罪のために人間は死ぬようになったのです。それだけでなく、天国にも入れなくなったと教えているのです。

 HOW? 神様の言葉である聖書の約束を信じるだけで良いのです。

「わたしは、道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」ヨハネ14章6節

 海外旅行に行く時に必ず持たないといけないものとは何でしょうか?それは、パスポートですね。

 私たちが、イエス様を信じたときに、この人はわたしを信じて罪が赦されていますというハンコが心の中に押されるのです。その印(パスポート)を持っている人だけが天国に入れるのです。それが「わたしを通してでなければ」という意味です。

 私たちの罪の身代わりのために十字架で死なれ、死んで三日目に墓からよみがえられたイエス様こそ神の御子であり、私たちの救い主なのです。

 皆さん、イエス様を信じていますか。そして天国行きのパスポートをしっかりと持っていますか?