「世界の希望の光」 ヨハネ3章16−21節 クリスマス礼拝 港キリスト教会 2018.12.23

  クリスマス礼拝 「世界の希望の光」 ヨハネ3章16−21節

クリスマスの象徴は光であり、光は闇を照らす。ではその光はどのような闇を照らすのか。

第1に心の中にある闇(罪)を照らす。「すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた」(ヨハネ1章9節)。
まことの光とはキリストのことである。イエスの誕生の時に、夜番の羊飼いたちは、主の栄光に照らされてひどく恐れた。人が神からの光を恐れ、戸惑うのは罪深い存在だからである。
人は誰にも知られたくない心の闇(罪)を持ち、心を裸にされることを恐れる。なぜなら、神は全知であり、すべてを明らかにされるからである。しかし、神は断罪するためではなく、罪により神と人との壊れた関係を回復するために、キリストをこの世界に遣わされた。
その目的は「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」(ルカ5章31、32節)である。
もし私たちが神の招きに答え、悔い改めるなら、神と和解し、罪の赦しと永遠のいのちにあずかる。「この御子の内にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。」(コロサイ1章14節) 

第2に未来の不安という闇を照らす光である。今日の世界情勢は、第一次世界大戦前の状況と酷似しているとある学者が言った。さらに世界的な異常気象は深刻な食糧不足と大きな災害をもたらし世界の経済活動は失速しかねない。世界情勢の不安の中で自国愛主義を唱えた結果、世界戦争の火種が生じたのではないか。
今日、世界の多くの人々は、将来に希望を持てず不安な思いに包まれている。では将来に希望の光があるのか。それは、キリストの再臨にある。この世の全ての闇を打ち砕くために、そして平和な御国と新天新地を建てるために主が来られると聖書は約束している。
「見よ、その方は雲とともに来られる。すべての目が彼を見る。彼を突き刺した者たちさえも。地のすべての部族は彼のゆえに胸をたたいて悲しむ。」(黙示録1章7節) 

第3に死という闇を照らす光である。
死は身近なものであるが、死に対しては無頓着で、死と向き合わない人が多い。それは、死についての明確な答えと解決がないからである。聖書には「キリストは死を打ち滅ぼした。」と書かれている。キリストは、私たちの罪の身代わりによる十字架で死なれ、三日目に死からよみがえられた。この復活こそ、キリストが神の御子である証明であり、復活の主を信じるなら罪赦され、神のさばきから逃れ、天国に行けることの保証である。

 神の御子キリストの光は、罪という闇からの救いの光であり、不安な将来に照らされる希望の光であり、死の恐れから解放される永遠のいのちの光である。

奈良県民クリスマス ゲスト:小坂忠牧師

 *小坂牧師は昨年に、大きな手術をされましたが、

  すばらしい声量で、主の賛美を聞かせてくださいました!

  神様の後押しと支えを感じる伝道的なコンサートでした。
  


橿原アルルにて

『人知を超えた神の愛を知る』―内なる人が強められてーエペソ3章14−21節 12月2日(日)港

『人知を超えた神の愛を知る』―内なる人が強められてーエペソ3章14−21節

 パウロは獄中で信徒のために何を祈ったのか。
第1に内なる人を…強めてくださるようにと祈った(16節)。
 内なる人とは、キリストを信じて新しく生まれ変わり、心に御霊を持つ人となり、霊の目が開かれた人である。では、なぜパウロは内なる人が強められるようにと祈ったのか。それは、神を信じてもなお古い自分〈外なる人〉が旧態依然のために、この世の影響を受けやすい。エペソの教会のクリスチャンたちは、試練の中で信仰がゆらぎ、不安や恐れが彼らの心を覆っていたと思われる。そこで、パウロは彼らの内なる人を強めてくださいと祈った。
 では強められた内なる人とはどのような人か。「実際に会ってみると弱々しく、話は大したことはない。」(第二コリント10章10節)とパウロの評価は良くなかった。しかし、彼は御霊によって内なる人が強くされていたゆえに「どうか御父が、その栄光の豊かさに従って、内なる人の働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。」(16節)と祈っている。

 第2にキリストが心に定住されるように祈っている(17節)。
紀元400年頃活躍した神学者アウグスティヌスは「私たちは、神に造られたのであるから、神のもとに帰るまでは平安がない。」と自らの体験を語った。「あなたがたは、イエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄に満ちた喜びに踊っています。あなたがたは信仰の結果である魂の救いを得ているからです。」(第一ペテロ1章8、9節)しかも、御霊(共におられるキリスト)の内住という体験は、いかなる時であっても信仰に固く立つことができる原動力となる。

 第3に人知をはるかに超えたキリストの愛を知って欲しいと祈った(17b-19節)。では、人知を超えたキリストの愛を、人はどのようにして知ることができるのか。それは、クリスチャンが神を信じた時に自動的に神の愛を知るのではなく、その愛を知ることのできる御霊(霊性)を受けたからである。ですから、私たちの霊性(どれだけ御霊に満たされている)が、いつでもキリストの愛をキャッチできる状態でなければならない。

 さて、私たちは神を信じていても様々な試みがある。それは悩みや苦しみ、悲しみや痛みかも知れない。しかし、それらを自分の力で乗り越えようとするのではなく、御霊によって強められた内なる人により、試みを乗り越えるようにとパウロは祈っていた。 
 信仰生活が守られ、支えられる秘訣は、外なる人(肉性)ではなく、内なる人(霊性)を強める御霊によって歩むことであると教えられる。「御霊は弱い私たちを助けてくださいます。」(ローマ8章26節)

「宣べ伝える人がいなければ」―港教会宣教60周年記念礼拝― ローマ書10章15節 11月25日(日)

 「宣べ伝える人がいなければ」―港教会宣教60周年記念礼拝― ローマ書10章15節

 1945年の敗戦後、日本国民は貧しい状況に置かれた中で、MBミッションはまず援助物資、続いて日本人の魂の救いのために宣教師が遣わされた。その後、港キリスト教会はジョナサン・H・バーテル宣教師から、武田洋牧師、小松博康牧師、園山洋輔牧師、砂山智牧師と引き継がれ60年の歳月が経った。
 そして60年の宣教で127名の受洗者が与えられ、34人の方々が天国に旅立たれた。ただ港教会の今後のことを考えると、会堂の維持、あるいは教会の後継者となる若い人がいないというのが港教会の現状である。

 さて、この度教会史の編集において、港教会の60年の宣教の歴史を紐解くことによって、港教会が、この港区に建てられた意義と目的を神様の視点で捉えることができ、それだけでなく、宣教60年の間において、多くの犠牲と労苦と祈りがあったということも再認識できる。
 そういう意味において、この度港教会宣教60周年の教会史が発行されたことはとても意義深い。しかも、この教会史は記念誌と違って、当時の教会の状況や信徒の様子をリアルに垣間見られる。そして、宣教60年の歴史の中に神様がどのように働いてくださったのかを知ることができるだけでなく、これからの港教会の進むべき道の示唆を与えてくれるのではないだろうか。
 確かに教会の現状は厳しいが、今ある教会の現状に目を注ぎすぎることなく、神なく、心虚しく、魂の滅びに向かっている同胞の心のうめきに耳を傾け、そして、世の終わりにおける魂の刈り取りは主にお委ねし、これからも、福音の種をこの港地区に蒔いて行きましょう。
 何よりも神様は、港教会を主の御用のためにまだまだ必要としてくださっているのではないだろうか。是非この宣教60周年を機に、これまで以上に港教会のことを覚えてくださり、そして皆様の祈りの中に加えて頂き、港キリスト教会の宣教の灯火が消えることのないようにと願うばかりである。




「神の家族の特徴」エペソ2章18−22節 11月18日(日)港

    「神の家族の特徴」エペソ2章18−22節

 クリスチャンはこの地上にて2つの家族を持つ。1つは血肉の家族、もう1つは霊的家族(神の家族)である。では神の家族とはどのようなもの(特徴)か。

 第1の特徴は新しい親子関係にある。
親とは天のお父様であり、クリスチャンはすべて同じ霊の父を持つ。そして神の子どもは、霊の父が語られたみことば、すなわち聖書によって養育される。そして、みことばに聞き従うことと神の御旨を大切にする。
 
 神の家族の第2の特徴は互いに愛し合い、互いに赦し合う関係にある。
子なるイエス・キリストは「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」(ヨハネ15章12節)と教えられた。
 さらにイエスは、赦し合うことも大切にするようにと命じられた。
パウロも、エペソ4章32節で「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」と勧めている。愛し合うことと赦し合うことが人間関係において平和をもたらす最も良い手段であり秘訣である。
 イエス・キリストの贖罪(罪の身代わりによる十字架)にあずかっているクリスチャンは、この2つの大切な戒めを大切にして生きる者である。
 
 第3の神の家族の特徴は土台がしっかりしている。
パウロは、その土台とは使徒預言者であり、礎石はイエス・キリストであると論じた。
 使徒預言者によって神の福音が語られ、それを信じた人々によって教会が生まれた。今日も同様である。神のみことばが語られなければ救われる人も起こらず、新たなる教会は生まれない。つまり教会の土台に据えられるものとは福音に対する信仰告白である。教会は見える建物がどのようなものであるかよりも、まずクリスチャン一人一人の信仰告白がどのようなものであるかが問われる。

 さらにパウロは、使徒預言者という土台を支えるのがイエス・キリストという礎石であると語る。それらの土台を基として組み合わされた、つまり私たちクリスチャンが成長して行くことによって、さらにしっかりとした教会が建てられる。
 その目的は、福音宣教の拡大と救霊のためであり、神の御名があがめられるためである。それは神の家族の一員であるクリスチャン一人一人に託された光栄な使命である。