あなたの評価はご自分で。 - 本のメモ - 人生がうまくいく、とっておきの考え方

人生がうまくいく、とっておきの考え方―自分を信じるだけで、いいことがどんどん起こる! (PHP文庫)

人生がうまくいく、とっておきの考え方―自分を信じるだけで、いいことがどんどん起こる! (PHP文庫)

今まで自己啓発本のたぐいはあまり読んでこなかったので、ここ最近の偏食でちょっと消化不良かも。知識欲を満たす読書とは違って、啓発本は実行して初めて意味がある感じの本だけに、本を読んで頭の体操、リフレッシュが好きな自分としては、ちょっと新鮮な感じ。

さて今回は、数年前本屋でまとめ買いした中の一冊。
今までずっと存在を忘れていて、昨日たまたま見つけて読んでみたという感じの本です。

この本のメッセージを自分なりに要約すると、
’自尊心を持つと気持ちが楽になれるよ。そのためにはどうしたらいいだろうね?その方法を紹介するよ。それは自分の評価は他人に委ねないこと。自分の評価は自分で行い、決して他人と比較をしないこと。’
といった感じになるのだろうか。

自分のことを振り返ってみると、確かに精神的に辛いと感じている時期というのは他人からの評価が気になって気になって仕方がなくて、かつそれが得られないときだったりする。

例えば友人関係だってそうだし、就職活動をしているときや職場にいる時だってそう。

自分の価値を他人からの評価に委ねてしまっている以上、精神的な安定はいつまでたってもおとずれなかったのだ。

確かに、他人からの評価を抜きにしても、自身だけで高い自己評価を維持できていればこんなに素晴らしいことはない。


最後に、例のごとく印象的だった箇所を引用しておく。

私たちの課題は、自分をより愛することではなく、自分をより嫌わないことだ。
高い自尊心を創りだす必要はない。高い自尊心は自然な状態なのだ。
有害な正しくない考え方を取り除けば、おのずと自分に好感が持てるようになる。

自分を無条件に受け入れるということは、
まず自分についての様々な事実を認め、共感と理解を込めて自分の欠点を見つめ、自分の不完全さを受け入れて、「自分には良くない部分もあるが、それでも私は自分が好きだ」と言えることであり、自分を許すことであり、過去を解き放って、将来のことを大切にする姿勢を身につけることである。
それはまた、自分が他人とどれだけ違っていても自分をそのまま受け入れることでもあり、「私は私らしくあればいい」と自分に言えることである。要するに、あるがままの自分を温かい気持ちで理解することである。

仏教にも通じる考え。あるがままの自分を受け入れる。

私たちは他人に認められたいと思うと、彼らに依存することになる。この状態は精神的な不安定の原因にもなる。自分のことは自分で判断するように心がければ、他人の気まぐれな態度の影響を受けることはない。他人に認められても有頂天にならないし、他人に批判されても落胆しなくなる。要するに、他人に好かれようと好かれまいと、永続的な精神的安定が得られるということだ。

自分が否定的な感情を持たないで済むように他人を変えようとするのは、壁に頭をぶつけて「壁よ、私を痛い目にあわせてくれるな」と哀願するようなものだ。
私の感情は完全に私の支配下にあるのだから、私が経験する精神的苦痛の責任を負っているのは他人ではなくわたしである。
つまり、不幸なことがおこっても、自分で判断して、不幸と考えないようにすれば感情まで不幸になる必要はないのだ!
同じような目にあっても怒る人と怒らない人、悲しむ人と悲しまない人などが存在するのが何よりの証拠。

罪悪感に意味はない。後悔しても過去は変えられない。

人生のある時期についての感情は、実際に起こった出来事よりも、むしろどの記憶を呼び戻すかに左右される。
よって、楽しい記憶を強調することで、人生の質を高めることができる。

過去の出来事が私にまだ影響を及ぼしているのなら、それは必然的結果ではなく、自分がそれを選んでいるからだ。

他人に行動様式を改めさせたいのなら、そうしたほうが得であるという根拠を示す必要がある。

自分がが他人の行動様式に不満を示すのは自由だが、相手が自分の行動様式に不満を示すのも自由である。

他人の不完全な部分にこだわると、彼らの長所も見えなくなる。
他人の行動はあくまで彼らの責任であり、私たちの責任ではない。
彼らに不満を感じ、注意するだけの時間と労力があるのなら、自分の行動を高める時間に割くべき。

我々が競争する理由=他人に認められることで、自尊心を高めたいから。
それよりも、自分の能力を最大限発揮することをモチベーションにしてがんばるべき。


ここからは心理操作してくる人たちへの対策Tipsの引用。

「私のことを思ってくれていないの?」
こういう仕方で愛の証を示して欲しいと頼む人は、私たちを愛していない。彼らは私たちを人間というよりむしろ所有物とみなしている。

他人に何らかの恩義がない限り、他人の思惑どおりに行動する義務はない。

「もしそんなことをしたら、世間がどう思う?」

  • > 他人がどう感じるかは予想できないが、私は自分の考え方でいいと思う。

「私のためにそれくらいしてくれても損にはならないでしょ?」

  • > 確かに損にはならんかもしれんが、しようと思わない。

「私をがっかりさせないでください」

  • >もし私の計画があなたの計画と一致すれば、どちらにも好都合なんだけどね。

私をあなたの計画に入れてくれて光栄だが、私の計画とは一致しないようだね。

「みんな文句言わずにやってるぞ」

  • > たとえ他人と違っても私は自分らしくあることに満足している。


おまけ。

他人の行動指針は私の行動指針とかなり食い違っているのだから、彼らが私の望み通りに行動することを期待するのは理不尽だ。

一口食べるたびにさらに食べるべきかの決定を下すようになると、もう十分に食べたという体からの信号をキャッチできる。

自己責任をつけるには。
過去に被害にあったり迷惑をかけられた状況を思い出す。
そこで自分がそれを引き起こしたと想定して、どうしたらそれが防げたかを考えてみる。
回避できたと思える段階までさかのぼってみる。

自分でできる人たちを手伝う義務はわれわれにない。

おしまい。