2004-11-28
■戦いのルール

戦い、というものは、共通のルールを決めてそのルールの範囲内で行われるとは限らない。昔、学校の教科書に出ていた蒙古襲来絵詞の一部に、元寇の際、単騎の鎌倉武士が、複数の蒙古兵に取り囲まれて矢で射られている場面が出ていたが、鎌倉武士のルールでは、単騎対単騎で、相互に名乗り合った上で(「やーやー、我こそは・・・」)「正々堂々と」戦うべきものが、そういうルールとは無関係の蒙古兵にはまったく通用せず、散々やられてしまった、ということである(単騎で出ていって名乗ったところ、蒙古兵にどっと笑われて、思い切り矢が飛んできた、という話をどこかで読んだ記憶がある)。
告発サイトについても、似たところがある。確かに、正々堂々と名乗った上で告発する、というのは、一つの立派な態度である。しかし、違法不当な意図がなくても、様々な理由で、「名乗れない」人はいると思うし、「名乗れないから言っていることもデタラメだ」とも、必ずしも言い切れない。既に指摘したように、一種の非正規戦、ゲリラ戦の戦士であるから、そういう人々に、正規戦のルールをいくら説いても、そもそも考え方が違うので、通じないのではないかと思う。
では、どうすべきか?というところが問われるわけであるが、世の中に不平不満の種は無数に転がっているので、誰かが誰かを告発したいという衝動をゼロにはできないし、インターネットという、誰でも気軽に情報が発信できるツールができた以上、誰かを告発したい人に使うなというわけにも行かないし、トレーサビリティと言っても、日本国内ですら匿名性が完全に保障されたPHSデータ通信サービスがあるくらいなのに・・・、と、考えるだけで頭が痛くなってくる、それだけ難しい問題なのである。私には、一刀両断で、「これなら大丈夫!」という名案は浮かばない。
■プラハ少年少女合唱団の指揮者、少女性的虐待で逮捕

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20041128-00000212-yom-int
性的虐待は合唱団メンバーの少女少なくとも9人に対して行われたという。同合唱団は12月、東京オペラシティでのクリスマスコンサートなど、日本公演を行う予定になっている。
これでは、犯罪被害者が合唱しているように見えて、聴衆としても楽しめそうにないですね。
http://www.japanarts.co.jp/html/genre/G-vocal_chorus/bambini2004/profile.html
■逃げ回る検事

今日、検察庁へ送致された身柄事件の関係で、午後1時30分前後ころ、東京地検へ行き、担当検事に面会を求めたところ、検察事務官(以下、「事」)が出てきて、
私: (持参した書類を渡し)お忙しいと思うが、短時間でも担当検事にお目にかかって話したい
事: 今日は件数が多く、また、検事は、その被疑者をまだ取り調べていなくて、会えません
私: 後ほど改めて電話します
その際、午後4時30分から5時ころ、電話してほしいと、その事務官から言われたので、午後4時40分ころ電話してみると、
事: 勾留請求することになりました
私: 電話でいいので、検事と話したい
事: もう帰りました
私: 忙しいのに、帰るのは早いんですね
事: ・・・
要するに、「逃げている」のであろう。そもそも、弁護士が検察庁まで直接出向いているのに、連絡から何からすべて事務官任せにしている横着さが、他人事ながら情けない。
昔、亡くなった伊藤検事総長の著書で、「騙される検事」というのがあって、騙されながら成長する検事像が紹介されていたが、「逃げ回る検事」では、成長しないし、関係者からも信頼されないと思う。対立当事者であるから、意見が合わないことがあるのは当然だが、きちんとした対応をすれば、納得はできなくても理解はできるし、そういったやり取りの中で信頼というものも生まれるものである。
その検事の実名を書くのはかわいそうなので差し控えておくが、おい、逃げ回っている検事、今頃、どうせ勉強もせずに家でテレビでも見ているんだろうが、そんなことしているようでは、誰からも信頼されないし、良い仕事はできないぞ、と声を大にして言っておきたい。
■冬のスマタ

http://www.oigawa-railway.co.jp/050420huyunosumata.htm
今日、たまたまテレビで知りました。寸又峡温泉は、静岡勤務の時に行ったことがありますが、風光明媚で良いところです。こういう商才がある人がいるとは意外です。
ちなみに、こちらが「冬のソナタ」です。
■世界にまたがる告発サイト

http://blog.goo.ne.jp/hwj-ogura/e/695a2f0cd1c0f1daf6c98e1522f31fa7
小倉先生は、「告発内容の真実性に対する検証可能性」について、提案を含めて論じられており、参考になります。
ただ、この種のサイトをいろいろ見てきた(見せられてきた)私の感想としては、こういった告発サイトの運営者は、「正規戦」を戦っているのではなく、「非正規戦」「ゲリラ戦」を戦っているわけですから、「姿形を見せて戦いなさい!」と言っても、「はい、わかりました」とは応じてくれない場合が多いでしょう。ベトナム戦争の際の、ジャングルの中に潜み、様々なトラップを仕掛け、物陰から攻撃しては消え、米兵を徹底的に苦しめ撤退にまで追い込んだ南ベトナム民族解放戦線の兵士のように、目的のためには手段を選ばないという性格が強いと思います。以前、世界各国でサービスを提供しているISPの、米国法人が提供している無料ホームページサービスに日本語で出されていた告発サイトについて、全然別個の組織である日本法人が提供しているものと誤解し、日本法人を債務者として仮処分決定を得た弁護士の方から相談を受けたことがありますが(残念ながら実効性は何もないです)、今後も、このような事態は減ることはないでしょう。
私は、こういった告発サイトへの対応として、運営者を見つけ出し徹底的につぶす、ということも、対応の一つとしてはあり得ると思いますし、違法・不当な目的(恐喝など)のために告発サイトを装っているようなものについては、むしろ、そういった強い措置が必要であると思っていますが、何らかの根拠らしきものに基づいて「告発」してくるサイトについては、「告発」されたほうも、自社サイト内等できちんと反論を行うとか、非や不備などがあれば早急に改善するとか、多面的な対応策を講じる必要があるのではないかと感じています。
■<旧商工ファンド>公正証書作成、関連会社で代理人業務

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20041128-00000006-mai-soci
司法書士は契約者が作成に合意したかどうか確認をしていなかった。
こういう、いい加減な人や会社に依頼されて公正証書を作成しているのは公証人です。公証人と言えば、裁判官、検察官出身者が大多数で、巨大な「司法利権」そのものです。利権のぬるま湯に首までどっぷりと浸かっているので、いい加減な人や会社が依頼してきた公正証書作成に機械的に応じるようなことになってしまっているのではないかと思います。そうしてできあがった公正証書により、多くの社会的弱者が追い込まれ苦しんでいるわけです。
だからこそ、公証人に、年寄りでポンコツのヤメ判、ヤメ検などではなく、新進気鋭の人材が続々と登用されるような制度作りが必要でしょう。
■UFJ銀検査忌避、元副頭取が指示認める 任意聴取で

http://www.asahi.com/national/update/1128/007.html
以前、「逮捕へ」という記事が、各マスコミで一斉に出ましたが、どうも逮捕はないようですから(はっきりとはわかりませんが)、逮捕がない場合、「誤報」として、担当者や責任者は厳しく処分されなければならないのでは?と思いますが。
人の、それも、メガバンクの元副頭取のような人の身柄の取扱いについて、「逮捕へ」と大きく報道しておいて、後になって「あれは間違いでした」だけでは済まないでしょう。
■「ウイニー事件で、p2p関連技術開発が萎縮しているのだろうか」を読んで考えたこと

http://www.ofours.com/bentenkozo/archives/2004/11/p2p.html
を読んで、いろいろと考えさせるものがあった。
特に、最後の、
一方、弁護人の冒頭陳述での主張からすれば、弁護人は、ウイニーの社会での有用性を説得的に証明し、社会に組み込むときのバランスを評価し、被告人の行為の正当性を立証するものと思う。弁護人の見識の深さが問われる裁判になるのではないだろうか。
という部分には、共感を覚えるともに、ここが、京都地裁で行われているwinny幇助公判の、正に、歴史の中での本質的な部分になるのではないかと強く感じた。そう感じた背景には、私自身が、日本では旗色が悪くなっている「行為無価値論」が、「結果無価値論」では突き破ることのできない限界を、この問題では突き破ることが、もしかしたらできるかもしれない、と感じていることがある。学問的には他愛ない話になると思うが、一実務法曹の雑駁な感想ということで、少し述べたい。
違法性の本質について、日本における主要な行為無価値論は、「法益侵害という枠組みの中で、行為の態様なども考慮し、より的確な違法性評価を行う」という、一種の「結果無価値・行為無価値二元論」と言えるのではないかと思う。ただ、結果無価値論と異なると思われるのは、根本のところで、「行為は行為者の仕業である」という発想があることではないかと思っている。そこが、結果無価値論者からは、徹底的に叩かれてきたところでもある。
「行為者の仕業」という発想は、マイナス面ばかりではなくプラス面も併せ有する。その仕業の有用性、長い目で見た場合の社会への貢献、といった、「目の前にある法益侵害」を超越した価値、といったものを、そこで読み込んで行くことが可能だからである。
例えば、歴史上有名な華岡青州の場合、江戸時代に麻酔薬を開発するという偉業を成し遂げたが、母と妻を人体実験に利用したことにより、妻は失明するという事態を招いている。いくら本人の同意があったとはいえ、江戸時代に京都府警、京都地検があれば、傷害罪で起訴されているであろう。しかし、現在、華岡清州に対する評価の中で、こういった「傷害」行為を犯罪視する論調はない。換言すれば、法益侵害行為を超越する行為の有用性、長い目で見た場合の社会への貢献、といったものが評価されているのではないかと思う。法益侵害性だけを見ていただけでは、華岡清州の真価を的確に評価したことにはならないし、身を捨てて人体実験に協力した母や妻も浮かばれない。華岡清州にも、麻酔薬を開発して金儲けしたいとか、有名にないたいという気持ちがあったかもしれない。そういった部分だけを取り上げ、江戸時代に京都地検の検事がいれば、「被告人華岡は、麻酔薬を開発できれば多額の金員が入手でき、また、自己の名声も手に入る、などといった野望を抱き」などと冒頭陳述で糾弾されるかもしれない。しかし、華岡清州の真の目的は、そのようなところにはなかったことは、歴史が証明している。
別の例を挙げると、赤穂浪士の場合、やったことは、凶器準備集合、銃砲刀剣類所持等取締法違反、吉良上野介邸(住居)への侵入、多数の人の殺傷、吉良上野介の首をとるという死体損壊等の犯罪を犯しており、法益侵害で見ると、許し難い大罪を犯している。しかし、今、彼らを、その法益侵害性で非難する人はいない(いてもごくわずかである)。やはり、武士としての生き方を貫き、私利私欲を捨てて主君の仇を討つという、行為の素晴らしさが高く評価されているわけで、法益侵害性を見ているだけでは、赤穂浪士の真価を的確に評価することはできない。
要するに何が言いたいかというと、上記のような意味での行為無価値論は、そういった法益侵害を超越した価値、歴史の中でのその行為の位置づけ、といったものを反映させることができる考え方なのではないか、ということである。確かに、法益侵害はしてはならないし、そういった行為を幇助すべきでもない。しかし、目の前に法益侵害というものがあっても、それを超越した価値というものがある場合に、人は行為に出るべき場合があり、そういった行為こそ、社会的に相当な行為として、違法性が阻却される場合があるのではないか。
そういった考え方を法廷に持ち込み裁判所を説得しようとした場合、正に、弁護人の見識の深さ、洞察力、歴史の中における事件の位置づけ、といったものが問われるのではないかと強く感じている。
■新司法試験の回数制限について

昨日のコメント欄で、上記の点についてのコメントがありました。なかなか難しい問題ですが、少し考えてみました。
私が合格したころの司法試験は、約2万3000名が受験し、500名弱が最終合格するというものでした。極めて低い合格率で、「苦節何年」「十何年」という人が、ゴロゴロといましたし、中には「数十年」という人もいて、私の周囲では、回数無制限の一本勝負が延々と続いていました。
それだけ合格率が低いと、実力があるから合格する、というわけには行きません。ほんのちょっとしたこと(その日の体調、問題に対するちょっとした対応の誤り等々)で、相当の実力者でも不合格になってしまいます。事実、最終合格後、修習開始までの間に、アルバイトで答案の採点をやっていると、深みのある、本当に良い答案を書いている人がいて、なぜこの人がまだ受験生をやっていて、こんな答案が書けない自分が、「合格者」として採点なんかやっているんだろうと何度も思った記憶があります。そういう状況の中で、受験回数を制限すれば、何回か受験して、本来、合格しても良いのに、不運にも不合格になってしまった人が、不条理にも排除されることになりますから、決して正しいこととは言えないでしょう。
しかし、合格率が上昇し、「一定以上の実力がある人は、運不運といったものに左右されることなく、ある程度確実に合格する」という状態になれば、逆に、「そういう状態の中で繰り返し不合格になる」という人は、適性に問題があると判断され受験回数制限により排除されることにも、合理性が生じます。
また、上記のような合理性を前提に、回数制限に引っかかってしまう人は、野球でアンパイアが3ストライク取られたバッターに「ストライク、バッターアウト!」とコールしてバッターボックスから排除しダッグアウトに送り込むように、司法試験という場からは退出してもらい、別の有意義な人生を歩んでもらうということも、その人にとって、また、社会にとって、必要かつ有益ということも言えるでしょう。
問題は、上記のような、「一定以上の実力がある人は、運不運といったものに左右されることなく、ある程度確実に合格するという状態」というものを、どこで線を引いて認定するかでしょう。「もともと高い合格率と受験回数制限はセットのように思っていましたが」というコメントは、そのあたりを指していると思います。これは、どのあたりで、多くの人のコンセンサスが得られるかにもよりますから、「ここだ」と決めうちするのは難しいと思います。
私の感覚で言わせてもらうのであれば、合格率が5割を下回るような試験で、回数制限(新司法試験で予定されているような3回程度)を導入すると、、「一定以上の実力がある人は、運不運といったものに左右されることなく、ある程度確実に合格するという状態」下のものとは言い難いのではないか、と思っています。
ただ、回数無制限とか、制限するにしてもかなりの回数受験可、ということにすると、受験生が増えることにより合格率はますます下がりますし、一種の、底の見えないアリ地獄のような状態になりかねません。
http://imak.exblog.jp/1365569/
で、司法研修所の廃止、ということが提案されているのを読みましたが、司法研修所できめの細かい教育を受け、そういった教育による一種の「刷り込み」に支配されているともいえる法曹の固定観念を大胆に捨て、パラダイムを転換して、司法試験を、純粋な資格試験化するということが必要になっているのかもしれません。
ただ、そういった方向へ踏み出す場合は、現在の司法研修所の2回試験(卒業試験)を、形を変えた上でより厳格化し、「完全法律家」になるためのハードルを高めに設定して、司法試験と2回試験の間に、自主的に相当勉強する必要がある、という制度作りが必須だと思います。
そうなると、2回試験で合格できない人はどうするか、という問題が生じて、一種の堂々巡りなんですけどね・・・。
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- 「逃げ回る検事」について
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>法益侵害というものがあっても、それを超越した価値というものがある場合
結果無価値・行為無価値といった立場に関係なく、違法性がないとするはずです。問題は、優越的利益を判断する際にどのような利益・価値をとりあげるのか、どのように衡量の判断をするのかというところで、これは結果無価値・行為無価値といった問題(事前判断か事後判断か、行為規範か制裁規範か)とは別次元の問題になります。
内部告発も含め、いろんな場面で、告発を余儀なくされる状況というのは、多かれ少なかれ起こりうるものであること(残念ながら)。そして、単なるクレーマではなくて、告発することの苦しみなり痛みを、理解できるかどうかと。
その告発に耳を傾けることができる(許容し、理解する)社会を作れるか。その仕組みをどう作るか、あるいは、どう作ることができるかという問題と思っています。そして、そこに思いすることができるかどうかと言うことではないでしょうか。
そうなったら、恐くて誰もまともな告発なんかできなくなります。
企業側弁護士に、トレーシングされて、すぐ信用毀損だ、業務妨害だ、と逆告訴されるのがオチとなります。どっかのサラ金みたいに。名も無き庶民が社会悪を告発するとき、会社同僚や自分の家族のことまで考えて悩みに悩んだ末、勇気ある人が断腸の思いで告発するのが、真の告発の実態なんです。
訴訟における勝敗は、必ずしも真実に立脚しない。
訴訟における勝敗や資料の有無で、すべてを決っしようとする発想は、神を恐れぬ所業です(^_ ^),,,,,
人は、神に近づこうとして、悩み、苦しむのです。
それなら、トレーサビリティをワザワザ論じるまでもないですね。