大和但馬屋日記

はてなダイアリーからの移行中

勝ち組とか負け組とかは本当にどうでもよくて

あちこちで取り沙汰されてる件。まあ、表題の通りでそれはどうでもよい。それより、その元になつた新納氏の発言に着目したい。

ゲームっていうのはゲームそのものを楽しむより、ゲームの体験を人と話すのが楽しいんです。

これを受けて茉森先生が自分でゲーム作りを否定してしまっている気がしますが。と仰つてゐるけれども*1、自分の受止め方はさうではない。
このインタビューはおそらく「世界樹の迷宮」発売後に行はれたもので、すでに一定の評価がネットを中心に固まつた後に出てきたものだらうから、その言葉がどこまで真実かは読者として知り様がない。しかし、だからこそ、まづは額面通りに受止めることにしよう。
で、作り手として「ゲームの体験を人と話すのが楽しい」といふことを知つてゐたとして、できることはなんだらうか。答はひとつ、「体験を人に話したくなる様なゲームを作ること」しかないのではないか。唯一この点において、小賢しいマーケティング論やサブカル的論考の入り込む余地はない。ゲームそのものを楽しむよりとは言つてゐるけれど、そもそも楽しめないゲームが話題になる筈がないこと位は知つてゐての発言だらう。
勿論、マーケティングが重要でないといふつもりはない。「世界樹の迷宮」において「手描きマッピング」「古代祐三FM音源サウンド」「『ウィザードリィ』の様な手応へ」といふセールストークは非常に周到なものであつたし、それに釣られた連中は多からう。たとへばワシがさうであつたやうに。でも、これで釣れる層なんて数としてはたかが知れてるんぢやないのか。普通に考へれば今のゲームのマーケティングとしてはニッチに位置付けられる層だらう。で、さういふところに下手に餌を投げ込んで、失敗したらどういふ反応が返つてくるかも想像に難くない。見てくれだけの中途半端な内容だつたら誰も「人に話したくなる様な体験」を共有せぬままに終るだらう。マーケティング的に成功だつたなんて成功例を見てからしか言へないことだし、見てからなら誰でも言へる。今ネットの一部が「あるゲームの楽しい体験談」に満ちてゐるのは、そのゲームが「人に話したくなる体験」をさせてくれるからであつて、他の何ものでもない。ワシは発売日以来keyword:世界樹の迷宮から言及リンクのほぼ全てに目を通してゐるけれども、そこにあるものの全部ではないが多くは「ゲームの体験」をそのまま言葉にしてゐると思ふ。他人の感想に合せて楽しいと言つてゐるやうなものばかりではない。「いや本当はそんなのばかりぢやないの?」と誰かがいふならば、ぢやあワシの日記もさう読まれてゐるわけだな。心外だが仕方がない。
だから、これもまた結果論にすぎないけれど、「世界樹の迷宮」は真に「体験を人と話すのが楽しい」ゲームに成り得てゐるから、それを作つた新納氏にはそれを言ふ資格がある。開発段階からそこを見据ゑて狙ひ通りのものが作れたといふのであれば、それは単純に賞賛されて然るべきことだと思ふ。逆に、仮令もし狙ひを外して大ゴケしてゐたとしても、開発時に同じ狙ひを持つてゐたならばそれはそれで立派なものだと思ふ。成功と失敗とに関らず、自分の作つてゐるものが面白いと信じてゐなければ「体験を人と話すのが楽しい」なんて思へるはずがないのだから。
蛇足ながら、百歩譲つて「勝ち組」といふ言ひ方を肯定するとしても、そこに属するのは作り手本人であつて作品を持上げる側ではあるまいよ。

  • 2007年02月09日 yabu_kyu
  • 2007年02月07日 setofuumi game マーケティング云々はどうとでもいえるという部分で頷く

*1:id:matumori:20070205 この記事の大意には異論ないです

政治的に正しいかどうかも本当にどうでもよくて

ゲームを好きな人が「脳トレ」をどうみてゐるかについては、まあ仰る通りといふか、そこは自明のこととしてはじめから問題視してゐない。[id:yms-zun:20070202#kawashimano]で引用した自分の過去発言にもある通りである。
ワシが気にしてゐるのは「論理の一貫性」についてのみ。前の記事ではそれがうまく伝はる様に書けなかつたのだらう。
たしかに「ゲーム脳」と「脳トレ」は直接比較する対象ではないのかもしれない。しかし、ゲーム好きが「脳トレ」を単なるゲームとしてしか見てゐないとしても、「脳トレ」を社会現象たらしめたのはさういふ見方をしない層、TAKESAN氏の言葉を借りれば元々、余り、ゲームに関心が無い人だと推察できる。では、「ゲーム脳理論」に感化され得る人は? 「あるある大辞典」で納豆に飛び付いて「騙された」と怒る人たちは? かなりの部分で重なつてゐるのではないかとワシは思ふし、それぞれの重なりの大きさやその事の良否の評価は別として、だとしたら同じ目で「脳トレ」ブームを見直す必要はないのか、と言つてゐる。ただそれだけのこと。「脳トレ」やる人は自分が「ゲームで遊んでゐる」とは思つてゐない可能性があるし、実際ソフトの中でもそれ自身が「ゲームである」と悟らせるやうな表現は注意深く排除されてゐる様にワシには思へた。そこから推察できるのはゲーム脳を信用しかける人が、脳トレの登場によって、ゲームを「見直す」のではなく、「脳トレ」は「脳トレ」であつてゲームとは違ふと認識されてゐるのではないかといふこと。まあ巧くやつたものだと感心する。
しかし、やり方として、一見科学的な裏付けがある様に見せかけてゐるといふ点で「ゲーム脳」も「脳トレ」も「あるある」も「水からの伝言」も同じである、といふのは理屈として間違つてゐるだらうか。ワシにとつて重要なのはその一点。菊地誠氏が「まん延するニセ科学」を通じて訴へようとしてゐるのは「『科学』に必要以上の期待をかけてなんでもかんでも押付けるな」といふメッセージだと読み取つた。ワシもそれを支持する。であれば、研究途上の仮説にすぎないものをゲーム仕立てにして「さも効果がある様に見せかける」のはどうなのか。ゲーム業界の活性化のためならば無視して済ませてよいことなのか。単にバブルに浮かれてゐるのとどう違ふのか。
仮に、もしも仮に「ゲーム脳理論」が科学的に正しいと立証され、かつ「脳トレ」がトンデモ科学と認定されたとしたら、その時ゲームに関る人たちは「私達は社会にとつて害悪でした、綺麗さつぱり廃業します」と白旗を上げるのか? そんな訣ないよね。科学とか関係ないんだよね、本当は。
つまるところ、良きにつけ悪しきにつけ、「科学つぽいもの」の威光を背負つたものをワシは警戒しますよ、さういふものに対してこそ「科学的な思考法」を援用しますよ、といふ話。商業的教育的あるいは政治的な目的の背後に「科学」が利用されるのは健全なことではない。さうしたものから注意深く「ニセ科学」を切り離す方法について科学者が真剣に取組むのに賛意を示しながら「脳トレ」ブームについて何も考察する必要を感じないのだとしたら、それは一貫性を欠いた思考だと思ふ。他の人がどうしようと知らないけれど、ワシはその立場はとらない。自分の利害に関ることについて、害する側に「非科学的だ」といふなら利する側にも同じ定規を当てる必要がある、それが科学的な思考法といふものだ。定規は気に入らない相手の頭をひつぱたくためにあるのではない。政治的な思考ならそれは「あり」だらうが、そんな言説にワシは一切興味がない。詰らないもの。
ええと、まだ全然巧く言へてないな。とりあへず「ゲーム脳を否定するなら同じ様に『脳トレ』を否定しろ」とか「ゲーム脳理論の否定として『科学的な誤り』を指摘するな」といつてゐるのではないことには注意して頂きたい。両者が繋がつてゐないことになつてゐるとしたらワシにとつては気持悪い、といふことだ。「そんなの当り前ぢやないか」といふことならばつけ加へることは何も無い。
それはそれとして、ゲーム好きとしての自分が通す筋は一つ。脳に害悪があらうがなからうが関係なく、そして脳に効用があらうがなからうが関係なく、ついでに勝ち組とか負け組とかも関係なく、ワシは好きなゲームで遊ぶよ。根つから好きだから。以上。

  • 2007年02月08日 bluesy-k