大和但馬屋日記

この日記について

2018年02月11日日曜日 映畫觀賞しぐさ

マジンガーZ INFINITY」と「ガルパン最終章第一話9.1ch」と「この世界の片隅に ULTIRA上映」を觀た。面白かつた。思ふところはまた追ひ追ひ。

上映中の計測行爲などはもつてのほかだと思ふけれども、續くやりとりでマナーが強調されていくのを見ると「ああまたか」とモニョモニョしてしまふ。ネットでよく目にする映畫館のマナーネタに、實際の上映前の注意も含めて「息苦しいなあ」と思ふことも屡々。行儀よくすることに氣を取られて、身じろぎ一つせずに頭を低くして息を潜めてゐると時々馬鹿馬鹿しく感じる。映畫つて我慢しながら觀なきやならんものなのかと。「皆我慢してるのだからさうしろ、それが嫌なら來なくて結構」つていふのが映畫業界の人の言葉ならばもうハイさうですかさやうならと囘れ右するしかない。もはや明らかな笑ひどころでも声一つ上がらないことも多く、正直「何なんだコレ」と思ふ。「好きに振舞ひたいならば家で一人でビデオでも配信でも見とけ」はい御尤も。でもそれは「他人の行状が氣になるならば」と言ひ換へても成立つわけで。

ここ數年は*1以前の自分からは考へられない囘數の映畫を觀てゐるけど、元來映畫好きではなくて滅多に行かなかったのは映畫館の中でジッとしてゐるのがどちらかといふと苦痛だからだし、映畫が好きになつてもそこは變らない。別に傍若無人に振舞ひたい訣ではないが、マナーマナーとうるさい上映前の注意や、マナーにうるさい映畫好きの人たちの壓力にはうんざりだ。「樂しむ」といふことにすら我慢を強ひた末に、樂しい映畫で笑ひ聲ひとつ起こらないのつて、どうなのかしらね。

小さめの劇場で「普通の人」と觀る「この世界の片隅に」はとても樂しかつた。世間で大ヒットしてゐる映畫もある程度はさうだ。「一般人」から半歩拔けて一端の映畫好きを氣取る樣になると「意識高い」感じでマナーマナー言ひ出してネットでさういふ意見が目立つ樣にもなるんだらうけど、映畫に近しい仕事をしてゐる人までがそんなことを言つてゐる樣ではねえ。そんな事をしても客は減りはしても増えないだらうし、空氣の讀めない素人を追出して快適さにふんぞり返るのが目的ならもつと高額にした限定上映でもやつてたらどうですかと思ふ。

客を選ぶ方法なんて幾らでもある。それをしないで注文ばかりつけるのは怠慢といふものだ。

*1:ぶつちやけガルパン以降

2018年02月03日土曜日 滋養なんてどこにあるんですか

名古屋茶屋に向けて自轉車で走り始めたら二十分ほどで息か切れて猛烈な眩暈がした。昡暈が收まるまで立止つて、近くの店に逃げ込んで榮養補給。明らかにハンガーノックだ。昨日が健康診斷でバリウムを呑んだ後だから、下劑の效果もあつて榮養が不足してゐたに違ひない。空腹感がないことが決定的に危ふかつた。「ガルパン」9.1chを觀ようと思つてゐたが間に合はなくなり斷念、その後の「この世界の片隅に」復活上映に向けてゆつくりと移動した。

この世界の片隅にイオンシネマ復活上映は、本上映とは異なる圓盤收録版だつた。いくつかの「誤り」が修正されてゐる。そんな間違ひ探しの樣な目で觀賞しながらも、エンドロールが終つてクラウドファンディングの部分が流れる頃には今までにないくらゐに泣きさうになつてゐたのだつた。どこでスイッチが入つたのかは自分でもわからない。

2017年12月12日火曜日 心の鑑

日本人は何故『この世界の片隅に』いながら「あの時代」を追体験しようとするのか - Togetter

穿つた貝方は作品だけでなく己れの見る目までをも傷つける。作中の晴美ちやんとほぼ同年代の父は映畫を見て自分の體驗をポツポツと語つてくれた。マイマイ新子と同年代の母は庖丁を使ひながらその手を止めることなく後ろを向いて家族と話をする。手許を注視しないと野菜ひとつ切れないであらうこの人とはスキルのレベルが違ふ。子供の頃から短刀を持歩く時代の人を何だと思つてゐるのか。かういふのは杓子を定規の代りにして作品を引叩かうとする剩りに自分の頭を叩いてゐる。作品に對する反應は見る人の心をそのまま映し出す。この作品が空つぽだといふなら、それはさういふことなのだ。

すずさんと同年代の祖母に見せたかつたなあ、といふのが心殘り。

2017年12月04日月曜日 他者を縳る快感の虜囚

この世界の片隅に』舞台挨拶、広島凱旋パーティにおいて「憲兵役声優」の憲兵衣装を批判する人達 - Togetter

「反戰映畫のパーティーで憲兵のコスプレをするなど怪しからん」と噴上る人達、思想警察そのものなんですけど自覺なささう。

その昔、「三年B組金八先生」でまさにさういふのをやつてたなあ。

2017年09月18日月曜日 誰かにとつての夢と惡夢

昨日のシンガポールGPの公式ダイジェスト。フェラーリにとつては惡夢そのもの。再生はリンク先で。

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さて、夢と惡夢といへば「この世界の片隅に」。そのブルーレイ盤が届いたので觀賞してゐたら、随分と映畫に手を加へてゐることが判つた。ざつと氣附いた變更箇所は以下の如し。

  • 玉虫が樹液から距離を置いてゐる
  • 三月十九日の空襲時、すずさんの足許の籠の中の土筆を削除
  • 六月二十二日、呉驛頭で晴美ちやんのランドセルが消滅しない
  • 同日、防空壕を出てから漏斗口に向ふ途中、行く手を覆ふ黒煙を削除
  • 同じシーン前後、街をひらひらと白い包帯の樣な布が舞ひ飛ぶ樣子の追加
  • 色温度の調整

下三つが判り易い様に同じ条件で撮影してみた。上がiTunesStoreで配信されてゐる上映と同じ版、下が修正後のブルーレイ版。

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左のカットの巨大な黒煙が消えたのはおそらく映畫完成後にまた明らかになつた事實が反映されたのだらうか。包帶はよく分らない。右の漏斗口の縁にも一枚ヒラヒラしてゐて、この後起ることを考へると不吉の象徴にも見える。

色温度については普通に映畫らしい6500Kに合せたものになつてゐるので、某映畫の如き眞つ赤つ赤に改惡されてゐる訣ではない。

それにしても、ここまで手を加へたものとは別に「長尺版」を作らうといふのである。たぶんこれら既存のシーンもまた相當に手を加へられるに違ひない。それをいつ觀られるのかは分らないけれど。

2017年08月08日火曜日 ジブリの影を追ふのはやめよう

中島春雄さんが亡くなつた。昭和に「男の子」だつた人なら何らかの形で中島さんのアクションを目にしてゐた筈。有難うございました。

「メアリと魔女の花」についてのインタビュー記事。

映画『メアリと魔女の花』はニセモノなのか(前編) : 深読みチャンネル : 読売新聞(YOMIURI ONLINE) 1/5

讀むのが苦痛なプロレス記事だ。訊き手に容赦がない樣に見えるのは顔馴染み同士だからだらうし、讀み手がそれを失禮に感じても當人同士には問題がないのだらう。そんな内輪のプロレスノリを晒け出すなよと言ひたい。

【映画『メアリと魔女の花』はニセモノなのか】〜読売新聞のインタビュー記事をめぐる反響 - Togetterを見てもプロレス的な人脈の話ばかりでつまらない。作品に力がないものだから人の話ばつかりしてるし、人の話しかしてない人はそもそも作品なんか見ちやゐないだらう。近年話題のアニメ映畫みてみ? 皆樂しさうに作品の中身の話してるよ。中の人とお付きの記者が制作會社の存在意義について堂々巡りの議論なんかしてないよ。それがすベて。ジブリの組織的な後繼者なんて要らない。「この世界の片隅に」も「君の名は。」も「シン・ゴジラ」も高畑宮崎に關つたことのある人達の手で作られたものだし、關りのない人達だつていいものを作れるのだから、「元ジブリ」しか賣りにならない作品なんて要らないんだよ。本物か僞物かなんて全然どうでもいいことなんだよ。

スタジオポノックを指してジェネリックジブリなんて揶揄もある樣だが、映畫館で「何か知らんがすごいもんを見た」と鼻息を荒らげる樣な體驗をさせてくれないなら毒にも藥にもなりはしないし、藥でないならジェネリックなんて呼べもしない。ジェネリック醫藥品は紛れもなくちやんと效く藥なのだから。ジェネリックジブリなんて褒め言葉はジブリの数分の一のコストで同等の質の作品を作れるところに言つてやれ。

八月八日はツインビーを遊ぶ日。とりあへずWindows用「出たな!! ツインビー(PCエンジン版)」で。

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勿論メローラとウインビーしか見てゐない。

2017年06月04日日曜日 腕が伸びるキャラといへば

Nintendo Switch用「ARMS」のオンライン體驗イベントがあつたので參戰してみた。

腕が伸びるキャラクターによる格闘アクションゲームといふことで當然「べラボーマン」が聯想されるところだが、遊んでみた感觸としては中距離戰と近接戰しかない「バーチャロン」といふイメージ。左右の手にジョイコンを握つてパンチの仕草をするのは中々樂しいし、握つたジョイコンをハの字型に構へるとガードになるのも愈々「バーチャロン」といふ感じなだけに、敵を追尾しようとしてつい兩手を逆ハの字に開いてしまふから困つたものだ。といふかこの操作法なら「バーチャロン」も作れるよ! 出して今すぐ!

とまあ樂しくはあるのだが我が家のネット環境はオンラインゲームを遊ぶにはもはや死に體となつてゐて、すぐに切斷されてしまふ。これは製品版を買つても遊べたものではないな。「ARMS」はまあ諦めもつくが「スプラトゥーン2」のことを考へると氣が重い。環境のせゐで遊べないなんてなあ。

で、ろくに遊べないので「この世界の片隅に」のBDと同時に注文したら届いた「普通の女子高生が『ろこどる』やってみた」のBD BOXを觀てゐる。オープニングがずつと「響け! ユーフォニアム」のオープニングと混ざつた状態で記憶されてしまつてゐるので懷かしくも違和感がある。

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もうかういふものだと。

2017年06月01日木曜日 ゲームはー、ケームーコー

この世界の片隅に」ブルーレイ版&DVD版發賣決定。九月十五日豫定。時期的に當然追加パートはないだらうが、音聲バランスは何卒配信版の樣なイコライズをしないでいただけると嬉しい。

この報に接してゲームメーカーのケムコがコメントしてゐる。それで初めてケムコが呉にある會社だと知つた。どこにあるか調べたこともなかつたけど廣島といへばコンパイルのイメージしかないから驚いた。ケムコといへば「スペースハンター」「ダウボーイ」「スパイvsスパイ」等のファミコン初期作品以降觸れたことも殆どないが、當時から今まで存續してゐるのは凄いことなので頑張れ。

2017年05月10日水曜日 ほんまにうちやあボーッとしとるもんぢやけえ

朝食の仕度をしようとオーブントースターを開いたら、既に燒けて冷めたトーストが出てきた。昨日燒くだけ燒いて食べ忘れたらしい。道理で晝が來る前に腹が空いた訣だ。何が氣味惡いって、毎朝野菜と果物と卵とヨーグルトでスムージーを作つて飲んでゐるのだが、昨日はそれを作る準備だけして作り忘れたことに家を出てから氣が付いて、「まあパンとコーヒーだけでもいただいたからいいか」と納得してしまつてゐたのだ。コーヒーしかいただいてゐなかつた。うちやあそんとにボーッとしとつたんぢやらうか。

この世界の片隅に」の各種動畫配信サービスでの販賣が始まつた。iTunes Storeで購入したら、ストリーミングではなくダウンロードの買ひ切りだつたのでどこでも好きな時にスマホで鑑賞できることになつた訣だ。訣だが。

「うちはようボーッとした子ぢゃあ言はれとつて」の聲を聞いた瞬間、再生を止めてしまつた。こんな風に、スマホの畫面で消費的に再生するには未だ早すぎる。

2017年03月25日土曜日 豐橋探訪

父の實家で北條家の疑似體驗を樂しんだ後は當然映畫を觀返したくなるものだが、「この世界の片隅に」の近場での上映は生憎昨日で軒竝み終了してしまつてゐた。仕方がないので豐橋市まで自轉車を輪行して、驛からやや離れた處に在る映畫館まで走つて十四囘目の觀賞。ほとんど家の造りばかり見てた。小林さん夫妻が轉がりこんで來てからの北條家はさぞや手狹だつたに違ひない。ラストシーンの茶の間に全員居るところはあんなドタバタできるスペースはなからうな、と思ふ。あそこだけ欽ドンの様な舞臺劇のセットとして見る感じだ。

映畫を終へて外に出て、後は特に用もないので豐橋市内を自轉車で走つてみた。

道路に挾まれた、幅の狹い建物が延々連なつてゐる團地の様なものがある。「水上ビル」とあるから川か用水路を暗渠にしてその上に建てたものらしい。それにしても何でわざわざ水の上に。面白い街造りをするものだ。そして豐橋といへば豐橋鐵道。驛前から渥美半島へ向ふ專用軌道線と、市内を横斷する併用軌道線が出てゐる。併用軌道、即ち路面電車に沿つて自轉車を轉がしてみた。

十數分走ると終點。途中には分岐もあり、そこを曲る電車の擧動に驚いた。まるで信地旋囘の樣だ。後で調べたら日本の鐵道の最小旋囘半徑のカーブださうだ。道理で。他にも民家の間に捻じ込む樣に造られた退避線などもあり、樂しいことこの上ない。

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終點の傍らに車輛基地があリ、中で「パト電」なるものの整備が行はれてゐた。これがあれか、機動強襲室の豐橋支部か。

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VR動画

終點から暫く併走してみた。豐橋は色々と面白い街なのでまた來よう。

2017年03月19日日曜日 北條家體驗

北條家體驗

父の實家でいつも通り呆けてゐたら、大變なことに氣が付いてしまつたのである。この家、北條さん家によう似とる。

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この世界の片隅に」の北條家の建物が右端の納屋部分を除けば平屋なのに對してこちらの家は二階建てなので根本的に異なるといへばさうなのだが、大きな違ひはむしろその程度で、一階部分の基本的な間取りは驚く程よく似てゐる。

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後の改装で變つてしまつた部分も多いが、昔は玄關に竈もあつたといふし、その突當りが臺所になつてゐるのも同じ。臺所への上り口が家の出入口を兼ねてゐる北條家と違つて、玄關の土間の左手が家への上り口になつてゐるが、この障子の向うに北條家なら書齊の本棚があるわけだ。

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屋内、向つて左の四畳間が北條家なら板の間の書齊、右の六畳間がすずさんの主な居場所だつた大部屋で、右奥の佛壇の位置まで同じ。床の間と押入は竝びが逆である。冩眞を撮つてゐる背後が北條家の茶の間、實際を考へるとかなり狹いが昔の人の體格と生活樣式ならそんなものか。

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改めて外觀。縁側の突當りが便所になつてゐる。北條家はここが曲り角になつてゐて便所はそのさらに奥にある。庭の廣さも同程度とみてよからう。北條家は玄關のさらに右に納屋がある。納屋の二階に上る梯子の様な階段に似たものが、この家の四畳間の方にある。

基本的な間取りが同じなので、何といつても人のサイズ感のリアリティがこれまでと段違ひに思ヘる。今まさに縁側に坐つて落し紙を丸めるすずさんの姿が自分の目に映つてゐるのである。

VRともARとも違ふ作品世界への耽溺を思ふ存分樂しんだ。

2017年03月11日土曜日 すずさんの夢と現實

すずさんの夢と現實

職場で若い同僚に聲を掛けられた。普段滅多に話をしない相手だが、どこかから自分が何度も「この世界の片隅に」を觀てゐることを聞きつけて來たらしかつた。彼はどうしても納屋での一件が納得いかないのだといふ。さういふ人は多からう。自分の中ではある程度のいい加減な結着をつけたつもりのことであつたが彼には巧く説明できなかつた。その時は原作を持出したりもしてしまつたのだけど、これもあまり良くなかつた。それで改めて色々考へて、映畫の内容だけで納得できる筋道が見えてきた。讀む人など一人も居なくたつて構はないが、自分の爲に認めておく。

随分前に、「この世界の片隅に」は「居場所」の物語であると書いた。しかしこんなのは「ガルパンは戰車道の物語である」と言つてゐるのと變らない。間違つてはゐないが見たままを述ベてゐるだけである。居場所を語る爲に重要なものが別にあつて、それを敢へて言葉で表はすなら「夢」と「現實」だ。この樣に表はしてしまふと途轍もなく陳腐にも思へるが、他にいい言葉も見つからないのでこの切り口で物語を見返さう。

すずさんにとつての夢

その一
先づ最初のエピソード。すずさんは自ら體驗した筈のちよつとした事件をすみちやんに見せる爲の繪物語にしながらかう振返る。「あの日のことも晝間見た夢ぢやつたんに違ひない」。
その二
續いて干潟を歩いて渡るエピソード。すずさんは晝寝の途中で目を覺まし、寝惚けた眼で座敷童に會ふ。その不思議な體驗も繪物語の一枚となる。
その三
長じてすずさんは呉に嫁入りすることになる。妹のすみちやんが「あんまり近いんは夢がないけえ」といつて箸を長く持ち直すのにツッコミを入れつつ、自らが夢にも見たこともない様な遠くの街へ嫁ぐことになる。「うちやあそんとにボーッとしとつたんぢやらうか、いつの間にかうなつてしもうたんぢやらうか」と心の内で呟きながら。
その四
婚家で祝言を済ませ、初夜を乘越え、家事や隣組の付合ひに忙殺され、婚家から戻つてきた義姉に半ばいびられる様に追出されて廣島の生家に里歸りした晩、うたた寝を母に起こされたすずさんは「焦つたあ、呉へ嫁に行つた夢を見とつた」と言つて家族をズッコケさせる。

序盤のここまでに、執拗なまでに強調されてゐるのが「夢」といふ言葉であり、自らの體驗をも「夢」で片付けてしまひがちなすずさんといふ女性の性向である。それは單に「繪を描くのが好きで夢見がちな少女である浦野すず」などといつたありがちな設定上のキャラ付けに留まらない、すずさんの持つ世界觀をも表してゐる。

この「呉へ嫁に行つた夢を見とつた」といふのをただのギャグとして流すのもよいが、そも幼少時の周作少年との邂逅さへもすずさんにとつては「夢ぢやつたんに違ひない」のであり、すずさんの目に映る周作さんも、寝泊まりする家も、どこまでも「夢」なのだ。すずさんはありもしないことを夢想するのではなく、自分を取巻く状況が夢であると捉へてゐる。それを象徴するのが中盤の三つのシーン、リンさんとの出遭ひと周作さんとのデート、そして哲と過す納屋での一夜である。

夢から覺めるすずさん

買物歸りに道に迷つて遊廓に足を踏入れたすずさんは、途方に暮れてゐるところに聲を掛けてきたリンさんに「ここは龍宮城かなんかかね?」と問ひ掛ける。その日の體驗をかひつまんで話した周作さんに誘はれてデートに連出された日の晩、橋の上ですずさんは「知つとる人に會うたら夢から覺めるとでも考へとるんぢやらうか、うちやあ」と語り、その夢が「今覺めるんは面白うない」と心の内を覗かせる。

ここがかなり重要で、すずさんにとつては未だに呉での暮しは「いつか覺めるであらう夢の中」なのである。周作さんはそのすずさんの胸の内を聞き、「過ぎた事、選ばんかった道、みな覺めて終つた夢と變らんな」と呼應する。一見、ここで二人の會話は通じ合つたかの樣に見える。しかしそれは落し穴だ。

二人の距離が縮まり、その結晶として二人の間に子が出來たかもしれないといふ予感が幻と消えたのと同じくして、ここで意見の一致をみたと思つた二人の互ひに對する思ひも、實は決定的にすれ違つてゐたことが判る。水原哲の來訪によつて。

デートの時にすずさんは「水兵さんになつた昔馴染」に出遭ふことを恐れてみせた。その水兵が向うから乘込んできた。すずさんは哲に對して、子供の頃にもとつたことのない様な亂暴な態度で接した。それが周作さんの目にはどう映つたかといへば、すずさんの言葉の通り、夢から覺めて、現實に戻つたすずさんの姿がそこに在つた樣にしか見えなかつたらう。龍宮城を去り、玉手箱を開けて變り果てたすずさんを見た、そんな思ひを抱いたのではないか。

だから周作さんはすずさんをすずさんの現實に返さうと思つたのだ。自分などこの人の夢の缺片にすぎないのだから。デートの日の遣り取りこそが、二人の間の溝そのものだつたのだ。戰地に赴くこともないナイーブな文官の周作さんはさういふ風に感じてしまつた。姉の爲に防空壕の柱の使ひ方にまで氣を遣ふ彼の優しさが、ここでは最惡な方向に働いてしまつた。

では一方のすずさんの方はどうか。自分を夢から覺ます筈の水原哲に迫られて、確かに目ははつきりと覺めたのだ。實母に頰を抓られても覺めなかつた長い夢が、今ここで。「うちはかういふ日を待ちよつた氣がする。かうしてあんたが來てくれて、こんなに傍に居つてのに、うちは、ああ、ほんまに、うちはあん人に腹が立つて仕方がない!」すずさんが夢と思つてゐたもの、置かれた現實、それらがやつとすずさんの中で定まつたのだ。

夢と信じた現實と、現實にならなかつた夢

さて、氣の毒なのは水原哲である。兵學校に入つた兄が事故死して、その代りの當り前として海軍の志願兵となり、幼馴染のすずさんに告白しそびれて、乘艦青葉と共に死線を潜り拔け、這々の體で母港に歸り、不本意な嫁入りをしたであらうすずさんを取戻すべく入湯上陸にかこつけて來てみれば、その自分の行動がきつかけですずさんの夢を覺ましてしまひ、はつきりと振られてしまふのだから。

地に足のつかない夢であつた筈の呉での嫁入り生活こそが現實であったと、すずさんの中での認識が反轉したのが納屋での顚末であつた。しかし勿論、すずさんだつてそんなことは本當は分つてゐた筈で、これまた陳腐な表現だが現實逃避をしてゐたにすぎない。ただ、それが「理想としての夢に逃げる」のではなく「現實を夢だと思ふ」といふ處が普通と違つてゐて、周作さんはそこを取違へたのか、逆に正確に見拔いたのか、ともかくすずさんを「現實」に返さうとした。しかし今やそれが「現實」ではなかつたことを悟つたすずさんは、その周作さんの身勝手な取違へに對して猛烈に腹を立てたのだろう。

その後、鬼イちやんの合同葬の歸りの汽車の中で始まつた他愛のない喧嘩によつてすずさんの現實は地に足がついた、樣に見えた。しかしそれは後の出來事によつて再び大きく搖らぐことになる。

六月二十二日から八月十五日まで

物語の様相が變つた後のこと。

何が夢で何が現實か。自らの生きる意味すら見失ひ、呉と廣島のどちらが夢であるかの區別もできず、戰闘機が飛び交ふ中に飛んでゐられる筈もない鷺の姿を追ひ、義姉の徑子さんの言葉に絆されてやつと呉を居場所と定め、幻の鷺を見送つた先の山の向うに不氣味な雲が立上る樣を眺め、その下へ果敢にも救援に向ふ隣組の人達の姿に自らを奮ひ立たせ、今更の様に臨戰體制となる。六月二十二日の出來事からたつた五十日程の間の事である。

竝の神經でも度重なる空襲に衰弱してもをかしくはない。まして身の周りに大きすぎる喪失のあつたすずさんが、正氣で居られる訣もない。電單を丸めて伸ばして落し紙を作りながら「何でも使うて暮し續けるんがうちらの戰ひですけえ」と口にしたすずさんは、鷺を追うた日に比べれば落着いて見えても、まだ静かに歪んだままなのだ。それは安易に「戰時體制に丸め込まれた」といふのとは斷じて違ふ。假令監督がさう話してゐたとしても違ふ。

これを「戰時中の人は皆さういふものなんだよ」なんて一般論で片付けてしまふのなら、その日までの五十日間のすずさんの身に起きたことは何だつたのかといふ話で、それならばすずさんなど居ても居なくても關係なくて、それでは駄目なのだ。この映畫はすずさんの目を通して見た終戰前後の時代を描いたドキュメンタリー「ではない」。その時代に生きたかもしれないすずさんといふ一人の女性を描いた作品なのだから。

現實のすずさん

六月二十二日の空襲を機に、夢から覺めてゐた筈のすずさんは自我を失ふ。最早夢も現實も綯ひ交ぜとなり、生きてゐるのか生かされてゐるのがも解らず、ただ死んでゐないだけといふ心持ちのまま、それでも正氣に縋つて焼夷弾を消し止めて、それすらも「何が良かつたんかさつぱり分らん」と言ふ程に壞れて歪んでゐる。これ程の精神状態を指して、一般論で「當時の女性」を論ずることに意味があるだらうか。世で語られてゐる樣に玉音放送を聞いたすずさんの激昴と畑での慟哭について、合理的な説明が出來るとでもいふのだらうか。自分にはさうとは思はれない。敢へて言ふなら、納屋で見せた周作さんへの怒りと「戦爭を終らせた者」に對して湧き起つた怒りが同じ處に根差してゐたのだらう、といふことくらゐである。夢と現實を取り違へてゐたことと、身勝手に自分にさうさせたことへの怒り。夢を夢と思つたまま死にたかつたといふ嘆き。すずさんは映畫のカメラ役ではない。映畫で描かれた時代の代表者でもない。超然と透徹した目で時代を觀察してゐる訣でもない。市井に生きる一人の人間が夢と現實の間を激しく搖さぶられるその樣が描かれてゐるのだ。

戰後となり、進駐軍が上陸した頃にはすずさんの中で夢と現實の折合ひも再び(初めて?)つけられ、生きて目の前に立つ哲の姿を夢の側へと押し込める樣にして物語は終幕へと向ふ。

最後に見たバケモンの姿が夢なのかどうかといふ處でうまく煙に巻かれてしまふが、その後の周作さんとの遣り取りで「呉は自分で選んだ居場所ですけえ」と語るすずさんにとつて、もはや呉は覺めたら面白うない夢でも龍宮城でもない。かつて夢と思つた街は紛れもない現實としてすずさんに迎へられるのである。

消された「現實」

さて長々と「夢と現實」について書いた。表立つて言葉にされる「居場所」そのものについて、すずさんがどう捉へてゐたかを窺ひ知るにはこの切り口しかないのではないかといふのが、十數回作品を觀賞した後に得た自分なりの筋道である。

ただ一つだけ、この切り口で觀た時に不自然な點がこの映畫にはある。「夢」と「現實」が對になつて具體的に語られてゐる筈のデートの晩の橋の上での遣り取りで、周作さんはかう言つてゐる筈なのだ。「すずさん、あんたを選んだんは儂にとつて最良の現實ぢや」と。原作漫畫での周作さんはさう言つてゐる。映畫ではこれが「最良の選擇ぢや」に變更された。その爲に、先に書いたすずさんと周作さんそれぞれの夢と現實の取り違へについて、随分と見通しが惡くなつてしまつた。

監督が何故ここを變へることにしたのか。他の何よりも、自分にとつてはこの改變が最も重要かつ不可解である。しかし不可解であるが故に、この讀取り方は自分だけのものとしておくことが出來るのだと思ふとそれはそれでゼイタクな氣がするのである。

この世界の片隅に」について、長いこと色々考へて來たけど、ここらで一區切りにしようと思ふ。心の片隅にはもうすずさんが棲みついてしまつてゐるのだし、これを最後に忘れるとか言及しないとかではないけれども、思ひ殘すことのない程度には書きたいことを書いてしまつた。

2017年03月04日土曜日 片渕監督作品二本

ニンテンドースイッチが届いた。届いたからにはソフトが必要なので早速ストアを開いて御祝儀で八本購入。本體で遊べる様になるまでの手續きは今世代の機械としては手輕な方かな。ニンテンドーアカウントと連携させるだけで問題なく使へる。

しかしソフトが落ちてくるまでは出來ることもないので茶屋へ出動。「この世界の片隅に」と「マイマイ新子と千年の魔法」を觀た。

片渕監督作品二本

この世界の片隅に」は十三囘目。前の日にULTIRA上映は終つてしまつて小さい箱の上映しかなく觀客の入りも少なかつたが初見と思はれる年配の家族が居て、大いに笑つて泣いてゐた。この映畫はそれがいい。通路の向ひのULTIRA箱で9.1chセンシャラウンドがええ音鳴らしとるせゐでこちらの日常シーンに戰爭の足音が響いてくる演出に感じられるのが、初見客にあらぬ誤解を招きさうで冷や冷やした。それは戰爭ぢやなくて戰車道の足音だからね。それにしても二〇一七年の三月にもなつて「ガルパン」と「この世界の片隅に」が同じ映畫館で觀られるつて、どういふ状況だ。兩方合せたら丁度四十回くらゐは觀てゐる計算か。

そして「マイマイ新子と千年の魔法」。作品自體は三囘目、それと別に二コ生でチラ見したことがあるが映畫館で觀るのはこれが初めて。やはり劇場で集中して觀るのは格別で、今まで見落してゐたものや聞えてゐなかつた臺詞がしつかり見聞きできて、今一つ呑込めてゐなかつた部分がほぼ解消した。やつと作品を十二分に樂しめたと思ふ。

家で觀てゐると、さう惡い音響でもないつもりなのだが押しの強い樂曲に臺詞がところどころかき消されて理解の妨げになつてゐた。特に新子の母の「家出するならちやんとしなさい」「米一升あげるから」といふ呑氣な叫びが今まで聞えなくて、その爲に後半の展開を些か唐突に感じてゐたのだつた。円盤が昨今の風潮に乘つて日本語字幕を收録してくれてゐたら良かつたが、外國語字幕ばかりが充實してゐて勿體なかつた。「マイマイ新子」は劇場で觀るが良い。

2017年03月02日木曜日 何でも使うて暮し續けるんがうちらの戰ひですけえ

今頃になつてAT-Xでもすずさんの聲をよく聞く樣になつた。その「この世界の片隅に」のCMに使はれてゐる豫告編の「何でも使うて暮し續けにやならんのですけえ、うちらは」といふ臺詞は本編ではもつと過激な言葉に變へられてゐる。そして、變ヘられる前の言葉も變へられた後のそれも、原作漫畫には見られない映畫だけのものである。原作に可能な限り忠實にあらうとした監督が付け加へたもの。しつかり考へて受取めるべきもの。

2017年02月21日火曜日 片渕監督×富野氏

この世界の片隅に」片渕須直監督と富野由悠季氏の對談を聽いた。映畫は富野氏にも相當以上に刺さつた樣で、思想的に、あるいは表現技法的に心に引掛つたことを語る度に片渕監督が我意を得たりといつた貌をするのが印象的だつた。

ここからは自分の想像だけど、富野氏自身の監督作品にはどこかしらに核兵器かそれに類する大量破壊兵器が必ず登場し、人々はその扱ひを巡つて互ひに相爭ふことが多い。ロボットアニメであればそれ自體は當り前かもしれないが、こと富野監督作品となればそれは極まつて悲劇的であり、大きな力を得ることが即ち希望に繋がることは凡そ皆無である。

この世界の片隅に」と同じ時代を「リーンの翼」の樣な形でしか表現し得ないのが富野監督といふ才能であり、同じ時代を描いた「ローレライ」にカメオ出演もした富野氏であればこそ、「この世界の片隅に」に向けては「嫉妬しかない」といふ最大級の贊辭を贈ることもできたのだらうと想像した。

そして、廣いとはいへない業界の中で數十年もの間仕事をしてゐたにも關らず凡そ接點のなかつた二人の監督を遂に結び付けた作品の力にはただ舌を巻くばかりだ。

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