チャットモンチー『染まるよ』に染まるよ

もうだいぶ前の曲になるけども、チャットモンチーの『染まるよ』が何度聞いても心に刺さる。
なぜか。



一度すっと聞いただけだと、別に普通の曲というか、
背伸びするかわいらしい女の子の失恋ソング、で終わってしまう。
4分もない短い曲だ。
しかし、聞き終わるとどこか心に違和感、ほんの少しの引っ掛かりが残る。
それは何だろうと、何度も聞き返してしまう。
最近、その源泉が、あるフレーズ、一つの言葉だと気がついた。





『染まるよ』の動画と、歌詞の引用。
2008年11月発売だった。オリコン10位。


染まるよ
作詞:福岡晃子/作曲:橋本絵莉子


歩き慣れてない夜道を ふらりと歩きたくなって
蛍光灯に照らされたら ここだけ無理してるみたいだ


大人だから一度くらい 煙草を吸ってみたくなって
月明かりに照らされたら 悪い事してるみたいだ


あなたの好きな煙草
わたしより好きな煙草


いつだって そばにいたかった
分かりたかった 満たしたかった
プカ プカ プカ プカ
煙が目に染みるよ 苦くて黒く染まるよ


火が消えたから もうだめだ
魔法は解けてしまう
あなたは煙に巻かれて 後味サイテイ


真っ白な息が止まる
真っ黒な夜とわたし


いつだって そばにいれたら
変われたかな マシだったかな
プカ プカ プカ プカ
煙が目に染みても 暗くても夜は明ける


あなたのくれた言葉
正しくて色褪せない
でも もう いら ない


いつだって あなただけだった
嫌わないでよ 忘れないでよ
プカ プカ プカ プカ
煙が雲になって 朝焼け色に染まるよ

例のごとくえっちゃんいい声。


それはさて置いて、歌詞である。


チャットモンチーが描く女の子の魅力は、「走り出した足が止まらない 行け行けあの人のところまで(@風吹けば恋)」のような「自己コントロールの効かなさ」にあって、この『染まるよ』でも、好きな男性のためにタバコを好きになろうと健気に頑張る様子が魅力的に描かれている。

大人だから一度くらい煙草を吸ってみたくなって、月明かりに照らされたら悪い事してるみたいだ。こういうかわいさは、椎名林檎やらYUIとは別の方向で中高生の女子に受けそうな、まっとうなかわいらしさだと思う。「少女」と「女」の間で揺れる、というと大げさかもしれないが、もう少しソフトなその揺れを経験する思春期を体現する歌詞だ。勝手な妄想でいくと、ソフトボール部かバレー部の女子が好きそうな選択肢。


ギターのいい歪みもあって、悲壮感が増している。特に、2番のサビ前の弦を引っかくような音の入れ方が滅茶苦茶上手い。


そして、
いつだってあなただけだった。
嫌わないでよ、忘れないでよ。
煙が雲になって、朝焼け色に染まるよ。
と結ばれる。

福岡晃子
だいぶ前に終わった恋愛を思い出してる状況ですね。この詞を書いた頃、自分の気持ちが落ち込んでたんですよ。だから、こういうことを思い出してたんだと思います。思い出す行為って未練があるように思われるかもしれないけど、そうじゃなくて。恋をしてた頃は“あなた”に染まってたけど、でも最後には自分だけが見てる“朝焼け”の色に染まっていて。そういうふうに変わっていくっていうことを受け止められるようになっている。だから未練だけじゃなくて強い部分もあるし、なんか・・・救われきれてないことはない、というか。

オリコンスタイル インタビュー
http://www.oricon.co.jp/music/interview/081029_04.html


しかし、ずっとそうした少女性を持ち続ける、描き続けるだけじゃないのが彼女らのすごいところ。
その萌芽が、最後のサビへと続く、転調前のワンフレーズにある。
ここ一点が、この曲の全てを変えてしまうほどの力を持っている。

あなたのくれた言葉
正しくて色褪せない
でも もう いら ない


この、「正しくて」。
ここだ。


あなた色に染まり、自己コントロールの効かなくなっていた女の子が、たった一箇所、ここにだけ「理性」を持ち込んでいるのである。もしこの「正しくて」が「優しくて」だったとしたら、どうだろう。おそらく、いわゆる失恋ソングの範疇に納まるというか、全て女性のナルシシズムに回収されるような一方的な歌になってしまうだろう。
「失恋しちゃったんだね、かわいそうに」以上のものを感じることはできないと思う。


しかし、この「正しくて」という理性的な判断一つで、我々男性は逆剥けのような鈍い痛みを心に感じてしまう。子供の言葉がしばしば確信を突いている(「もしもし、お父さん、いる?」「いらない」)ように、「正しくて」はこの歌詞の女の子の「少女性」が最後の最後に演出した一つの「批評」なのである。


「優しい言葉は、もういらない」と言われたときは、まだなす術がありそうなものだが、
「正しい言葉は、もういらない」と言われたときは、なんというか完全にシャットアウトされたように感じる。
「正論ばっかり言わないで」という意味だとしたら、問題は単純でそれこそ「男は理性で女は感情で…」というトンデモ論に回収されていきそうな陳腐な論で終わってしまう。しかし今回の「正しい言葉」というのはもっと象徴的な意味であり、つまり男性は「正しい言葉」意外で伝える術を持たない。そしてそれはラカン派の象徴的去勢の話に繋がって…。


と、そこまでいかなくとも、この「正しくて」に背筋を正される、という主張に同意していただける諸兄はいると思う。
いてくれ。いや、いて下さいそしてお酒飲みましょう。



橋本絵莉子】 2ndアルバム『生命力』ぐらいから、ギターとベースとドラムの3つの音だけで、という意識が強くなってきてるわけですけど。今回もアレンジをしていくうちに、どんどん音数が少ないほうが似合う曲だっていう考えになっていって。これまでで最も空白の部分の良さが感じられる仕上がりだと思います。


高橋久美子】 3人の楽器がパズルのように組み合わさっていて、聴けば聴くほど味が出るタイプの曲ですね。決して特別なことやオーバーなことはしてません。でも大声よりも小声で言われたほうが、ぐっとくることってあるじゃないですか。小声のほうがドキッとしたり心に沁みたりすることが。その感覚に近いというか。ロックバンドとして、こういうタイプの曲を堂々と胸を張って出せるのってカッコいいことだと思うんですよね。


前掲


大声よりも小声で言われたほうがぐっとくる、その小声というか小言が「正しくて」なんじゃないかと。


でもやっぱり、この曲のどんでん返しは、作詞がボーカルのえっちゃんだと思ってしまうところ。これは相対性理論(バンド)の時にも書いたけど、演者としてのボーカルが曲の懐の深さを引き受けるという前提があるので、「正しくて」と言っている、つまり理性的なのはえっちゃんだとして錯覚してしまう。それが彼女の容姿というか少女性につながって、ずっきゅんと来るのかもしれない。


作詞したのは前掲のとおりベースのあっこさん。
彼女のプロデュース力が発揮された曲ということで一つ。

修論提出と、大盛りを喰いきれない症候群の話。

無事修論を提出。


出した後、安心して久しぶりに外食しようと出かける。
そこで、いつもよくやってしまう失敗を繰り返してしまい、ほとほと嫌になってしまった。




それは、「大盛りを頼んで、全然喰いきれない」という症状だ。


お店に入る前はもうリビドーが渦巻いていて、あれでもこれでも何でもいくらでも、食べることが出来るんじゃないかという一種のトランス状態にある。提出を終えた日も、せっかくだし良い物でも食べようと、近所の焼肉屋がいいか…、かっぱ寿司まで行くか、ああ横浜のオムライスも…、と悩みながら駅に向かう心中は食べ物のことでいっぱいだった。


最終的に、そこそこ近くにある保土ヶ谷ハングリータイガーへ行くことにし、チャリにまたがる。
どうしようなぁ、いっちょステーキでも…、いや高いか。でもせっかく論文書けたんだし…、いやハンバーグはだいぶ美味しかったぞ、ステーキは自分のこれからのハングリー精神のために取っておいて、今回はハンバーグのチーズ乗せで…


108通りじゃ治まらない数の煩悩、妄想が、15分の道のりの中でカウントされていった。


ああ腹減った今見るとまたリビドーが…




店に着いて、胃はもう肉汁の匂いにつられて喉からひっくり返って出てきそうなくらいのテンション。
席でメニューを開いた時は、もはや自分が神にでもなったかのような全能感があった。
あれも、これも、どれでも食べられる! こんな自分はもはやスイーツなんて(笑)えない。


悩んだ末に2280円のダブルハンバーグステーキセット+トッピングチーズを頼むことにした。
ただでさえ美味しいハンバーグがダブルで!こんな短絡的な思考をしてしまう自分が恥ずかしい。



そして、隣の席の主婦同士が姑の愚痴と肉とを交互に口にするのを
横目で見、横耳で聞きながら、待つこと15分。




日本人のアメリカへの憧れが結集した肉塊、
はちきれんばかりのダイナマイトミートが運ばれてくる。










んー…… (ためてためて) 来 た 。




この時の自分のアホな顔は本当にこんな感じだと思う。




目の前で最後の仕上げをされるハンバーグステーキを見守りつつ、(最後にハンバーグを半分に切って中まで焼こうとするけど、どうも肉汁が逃げてる気がしてもったいない。貧乏性か。)
溶けていくチーズ、たぎるソースにもう唾を飲みまくり。


長い長い60秒を待って、ついに祝杯の時が来た。
フォークとナイフで火傷しそうに厚いミンチを口へと運んでいく。
当たり前だが、美味しい。
もう脳が溶けて鼻水になって出てくるほど美味しい。
そりゃO-157も住み着くわ、というくらいふわふわの肉と、
魔法の肉汁に演出される味は、舌の上の協奏曲(と書いてシンフォニー)やー!!




前掲の写真にあるとおり、「ダブル」ハンバーグはそれぞれ切り分けられ「クワドロプル」になる。
そのうちの一つを食べきったところで、あれ…と、違和感を覚える。


あれ、あ、あ、あき、あき、飽き…



いやいや、そんな考えを起こしては、せっかくの自分へのご褒美ディナーが台無しになってしまうではないか。
しかし、その違和感はボンビーがキングボンビーに姿を変えるかのごとく、
急速に絶望感へと変化していく。




こうなると、経験上、もう、無理である。



あぁ、なんでダブルになんてしてしまったんだろう…
一個にしておけば、ちょうどいい具合に胃に納まっただろうに…
いや、そもそも肉っていうチョイスが、
徹夜やジャンクフードで荒れた胃には重かったのかも…


と、後悔のビッグウェーブは何度も何度も岸壁に押し寄せる。
そして、2つ目のハンバーグを食べたところで、ギブアップしてしまった。




同じようなことが、牛丼屋で大盛りを頼んだときや、
気を張って食べ放題に出かけたときによく起こる。
自分の学習能力のなさに愕然とするが、
この話を他人にすることで治療されるかと試みてきたが、
全然改善する気配はない。


胃が構えてしまって上手く働けないのか、
それとももっと心理的な要因か(確かに満腹中枢は脳にあるしな)、



辛くも、このような原因不明の不満足に悩まされる、不幸な修論提出日となってしまったのであった。


身の丈にあった食事をしろってことですかね。




2年続けたバイトが来週最終日。
論文審査会やら旅行やらを経て、就職か。
とりあえず研修中の食事は大盛りにしないことを先に宣言しておきたい。

関西電力のCMにはずれなし。関西電気保安協会CMも。

MBSの「ちちんぷいぷい」で西靖アナの立ち位置が散々になっております2010年、みなさんいかがお過ごしでしょうか。今年もぷいぷいの「今日の晩ごはん何?」がまだ続いていて、ただただ嬉しく思う限りです。



すごく おいしいうた

すごく おいしいうた



「CDを買って、角さんのお墨付き『いちじくジャム』を当てよう!」200名にプレゼントて少な…




そんなぷいぷい放送中に流れる関西電力の、
阪神淡路大震災から15年経ちましたCMがすごくいいので新年一発目のCM紹介に。


これをきっかけに、一人ひとりを追った番組も作ってほしい。
「7up」「7年ごとの成長記録」みたいなドキュメンタリーで。


ちなみにこちらは震災から10年の2005年。


公式はこちら「かんでんCMライブラリー」
http://www.kepco.co.jp/media/cm/index_3.html



震災時、滋賀の自宅は震度4でしたが、タンスが倒れてきたのを覚えています。
夢の中で。(実際は弟の頭)




そういう「ええ話」のCMの裏をがっちり固める、
関西電気保安協会のCMがまた今年もおもろい。


こっちは歴代まとめ。


「タコ足配線やめてください」
「となりもお向かいもしてはる」
「みーんなしてはる」
「いやあの…」

PC(ポリティカリーコレクト)なんて知らん知らん、という野太いCM。
関東では苦情にまみれそうな…。



タコ足つながりで最新はこちら。
一見、「何のCM?」と思わせて、
ふっとおきまりのフレーズを入れてくるという、
流行のティザー広告を取り入れた素晴らしいスタイル。

ベタベタだけどいい。

というかここのCMは全部ティザーっちゃティザー(笑)。




2010年もそこくるり3をどうぞよろしくお願いします。

そこくるり3.1も(ちょっと滞ってますが)よろしくお願いします。
修論で必死。

Web墓参りに未来はあるか

昨年亡くなられた飯島愛さんのblogに、今も毎日コメントがついているという記事。
これがWeb上での死の取り扱い方に一石を投じるかどうか気になる。

飯島愛さん(享年36)が急死してから1年がたった。ブログは当時のまま残されていて、ファン達は今でもコメントを書き続けている。飯島さんが最後に書いたブログへのコメントは6万を超えた。ファン達にとって飯島さんのブログは宝物になっていて、コメント欄はファン達の交流の場にもなっているのだという。

今、この最後のブログには、6万2500を超えるコメントが付いている。死亡して1年近く経過したのにも関わらず、毎日コメントが増えている。そこには、

  • 「あいちんは元気かな??って おかしいかもしれないけど・・・まだ何処かに居そうでさ・・・」
  • 「愛ちゃん いつも助けてくれてありがとう 私、愛ちゃんの愛にいつも救われてるょ。。。」
  • 「愛珍、大好き。毎日、貴方の事思ってます。逢いたいです。伝わってますか?」


などと綴られている。09年12月17日のコメントには、もしかしたらこの日が命日かもしれないとあって、

  • 「愛ちゃんお久しぶり 今日は愛ちゃんの命日だね。もう1年過ぎちゃったんだ」
  • 「愛ちゃん来たよ あれからもう一年だね 早いね 戻りたいね」
  • 飯島愛さんはこれからも唯一無二の存在、永遠です。愛ちゃん元気でね またね」


といったコメントが並んでいる。


http://www.j-cast.com/2009/12/19056442.html


読んでいて思い当たったのは「墓参り」。
こういう使われ方が徐々に増えていくのか、いかないのか。

今後そのblog(飯島愛のポルノ・ホスピタル)をどうするかは不明とのことだが、このまま利権とかに絡まず残るといいなぁ。




「Web墓参り」という文言ではないが、サイバー墓参りというものが韓国に既にあるとのこと。ネットインフラが普及すれば当然考えられる方法だと思う。葬儀形態にもよるが、墓地の確保や金銭的な問題がこれからどんどん増えていくにしたがって、日本でも採用される見込みはかなりあるだろうし…。ビジネスチャンス!

「サイバー追慕の家」に会員登録をすると、亡くなった個人、もしくは夫婦用のスペースがWebサイト上に設けられる。そこでは、亡くなった人の入学や入社、結婚など、生涯が簡単に紹介された履歴・写真・動画などを閲覧し、生前の故人を振り返ることができる。また親族や友人同士で、故人の思い出などについて語り合える掲示板や、花の写真を選んで供える献花機能もある。一度にアップロードできるデータは50MBまでで、利用料は無料だ。

http://journal.mycom.co.jp/news/2005/09/21/023.html

個人や一族のお墓に関しては、「お墓参りくらい、自分の足で行けよ、というかご先祖様を敬う気持が感じられないよサイバーじゃ。」「なんでもかんでもWebにしてしまうのは、ちょっとねぇ…。」と様々なところでつぶやかれるのは目に見えているが、一つタガが外れると、一気に広まりそうでもある。
まぁ今もお墓参り代行、お墓メンテナンス代行、なんてのもあるくらいだし、個人の判断や自己責任論に回収されるか。ポストモダン的な「行くか、行かないかは、あなた次第です。」




しかし、飯島愛blogの例のように、Web上である程度認知された「キャラクター」の死亡に関しては、「Web墓参り」のような企画がこれからどんどん持ち上がっていくんじゃないだろうか。


香典:315円
献花:105円


で有名人の葬式、お墓運営。
んー、誰もお金払ってまでお参りはしないかもな。
広告収入でサイトが立ち上がる可能性はなきにしもあらず。



お金が発生しなくても、『あしたのジョー』の力石みたいに「同人葬」「ファン葬」が行われる可能性はあるかもしれない。




オタク、腐女子、ひきこもり、負け犬の高齢化問題が少しずつ取り上げられている。
それにつれて、「萌え墓」「おひとりさま墓」あたりは普通に出てきそう(もうある?)*1だが、その先の墓参りについても議論が進んでいくのは予測できる。

あれ、それとも子孫が残らないから全て共同墓地行きになるのか?
となると孤独死者の後処理問題がまた浮上して…。



やっぱり生身の問題に帰ってくるものものを、Webにアウトソーシングするのは少し危険な気がする。
「ネットがあれば政治家はいらない」論に期待はできない。

*1:墓萌えブームは09年にきていたらしい(笑)http://sankei.jp.msn.com/life/trend/090129/trd0901292105014-n1.htm

「ブロガーの死」のアーキテクチャ的帰結

今年を振り返るTV番組や雑誌のコラム、インターネットの記事を読むにつけ、2009年は特に訃報が多かったように思う。

そんな著名人の死はもとより、同じアルバイトをしていた人の死と、大学の恩師の死があって、自分の死後や死生観について考えさせられることが多かった。
合掌。




その中で考えたのは、ブロガーやSNSメンバーの死後について。
現実世界では死んでしまった人の、Web上の記録はどうなるのか、という問題だ。


違和感の発端はイマダくんの「ブロガーの「死」について」だったが、ここにあるように、

ブロガーはどうか。あるブロガーが、例えば今日8月21日に突然、何の前触れもなくポックリ死んだとする。

もちろんネットと関係なく回るその人個人の生活世界では、彼は家族、知人に惜しまれながら葬送されるのだろう。そうやってその人の死は、社会に登録されるのだ。

しかしその人のブログは……最終の更新20日で止まったままのはずなのだ。ページが無くなるでもない、もちろん更新もされない。ただ、それで終わりだ。実は、画面のこっち側で実際に文章を書いている「人間」の生き死にと、ブログ=アカウントというのは何ら関連無く存続している。


インターネットに担保されるある種の「匿名性」が、その作品や文章、動画やblog記事のアカウントを、いつまでも「更新されるかもしれないもの」として保ち続ける。その姿は、(一見)不老不死のようで、不気味である、ということである。

ブロガーが活字の作家とことなるのは、「中の人」という表現が臭わしているとおり、それがある種のキャラとして認知されているふしがあるところだ。伊藤剛の論を待たずとも、キャラは老いないし死なない。それは文体が不老不死なところと似ている。


しかし、現実を見てみると「このブロガー、死んでるかもっ!」という疑いまではいかずとも、「死をにおわせる状態」のblogには、ふと出会うことがある。特にそのにおいを際立たせるのが、スパムコメントだ。猥雑な書き込みが10件20件と続いているコメント欄を見ると、廃屋、廃墟を見たときのような「もわっ」とした不気味さが漂ってくる。


そうすると、僕らは厳密にその著者の生死を問うことなく、勝手に「死んだもの」としてそのサイトや書き込みを扱う。「5年更新がなければ」だとか「スパムコメントが100件を超えたら」だとか、そういった明確な基準があるわけではないにせよ、なんとなく「終わったな」と判断するのである。*1

同様に、新聞も取らずTVも見ず、ラジオも雑誌もあらゆるメディアを絶った人でも、マイケル・ジャクソンが死んだことはおそらく「風の噂」で耳にするだろう。


そうした「なんとなく終わったと分かる」ことと、「風の噂」との間に共通する「曖昧さ」「自然さ」「本当かどうか分からないけれども、まぁそうなんだろうと判断すること」が、インターネットという厳密な言語で作り上げられている空間でさえ登場してくるということが、現在のアーキテクチャ論壇(あるのか?)で語られている。




今回扱っているインターネット上の「死」についても、そうしたアーキテクチャ的な帰結がもたらされるのではないだろうか。


必ずしも著者が「死んでいる」かどうかは分からないけれども、その曖昧さをそのままに、「死んだもの」としてただ忘却していくこと、それがこの先のインターネットで行われていく文化的な営みではないかと思う。そういう意味で、確かにインターネットはもう終わったのかもしれない。


この先はGoogleが非文化的なものものを駆逐し、究極的な知のアーカイブが作られるだろう。そこに入れなかったからといって嘆くことはないし、結局生きていくのは人である。という極めてPTA的な帰結。



全ての知識が選別されアーカイブされる、という夢のような物語がインターネットに対して語られていたし、技術的にも記録メディアの発達によって地球上のあらゆる出来事は保存可能であるとまで言われた。しかし、やっぱりインターネットの中でも、残るものと残らないものが、選別されるのだ。それって、現実の世界で伝統や風習や文化が失われるのと同じである。


人が関わっている時点で、厳密さは失われてしまうし、逆に人が関わらないものは、人には必要がないし関係の無いものになる。


たぶんこのblogもはてなのサービスを使って本にでもしない限り、残らないのではないかとぼんやり感じる。でも本にしたところで棺桶で燃やされればそれまでだし、子や孫がいたとしてもたぶん処分するだろう。




インターネットは、我々が人の生死を判断するように、(ネット上の)情報の生死を判断できるようになったように思う。そういう意味で、完成したと言っても問題ないかもしれない。


ネットが終わった終わったと何度も言うのは、終わって欲しいからではなくて、逆に発展して現実に追いついたと思うからだ。
そして、現実はあらゆる意味でもう終わっている。

*1:たとえbotで投稿が続いていようとも、終わったと判断することは容易だ。

M-1GP2009決勝の三組「ハライチ」「モンスターエンジン」「パンクブーブー」予習

決勝メンバーは以下の8組+敗者復活。

1.ナイツ
2.南海キャンディーズ
3.東京ダイナマイト
4.ハリセンボン
5.笑い飯
6.ハライチ
7.モンスターエンジン
8.パンクブーブー


特に後半3組をあまり見たことがなかったので、
仔細な分析↓に刺激されて、少し調べてみた。

殺人(笑)時代「M-1グランプリ2009決勝メンバーを語ってみるんだぜ」
http://omoshow.blog95.fc2.com/blog-entry-880.html


6.ハライチ
突き放してツッコミにひたすら頑張らせて笑わせるスタイル。ちょっと過剰かな、と思わせるくらいネタを引っ張ったり突込みを冗長にしたりするところが、吉と出るか凶と出るか。ボケの岩井が完全に横を向いて立っているのが印象的で、前見れないくらいの彼の心の歪みとか屈折がこのネタを生んでるのかと思うと面白い。澤部は自称童貞の星で「結婚するまで童貞をつらぬく!」と言っている@wiki


スタンダードなネタはこんな感じ。


序盤、岩井のジャケットのポケットのふた(フラップというらしい)が裏返るのばっかり気になってしまう。これ、「ずっと裏返ったままやったで」というのを狙ってやったらだいぶ面白いよなぁ。


あとはこれ。

2:47から、ネタ飛んでます。挽回できてねぇ(笑)。





言葉遊びの域を越えたその先がちょっとでも見えたら、めちゃくちゃ面白くなるコンビなんじゃないでしょうか。

ただ

……笑い飯の後だからなあ。どうなるかなあ。

が懸念事項。






7.モンスターエンジン
その発想はなかったわ」が一番の褒め言葉なんじゃないかと思うコンビ。ジャルジャルもだけど。


コンビネタはいっぱいあるのだが、それよりも一番キタのが、
あらびき団」で西森が見せた「鉄工所ラップ」
1しか見たことがなかったけど、全部いい。3が特にいい。安い弁当を喰う〜〜!!!



これこそ今の日本の最高のカウンターカルチャー

「日本語でラップを行うことは困難」と言われてきたけども、それは言語の問題じゃなくて豊かさのせいだったんじゃないか、と思わせるぐらい、皮肉とハングリー精神に満ちた歌。「黒い いつも爪の中が。 白い歯を見せて笑う。」という言葉も、ブラックミュージックをそのまんまパロってるんだろうけど、不思議と絵が浮かぶというか、ちゃんと文脈が形成されてる。



そんな鉄工所の人たちのお陰で日本は支えられています。




まぁでもM-1本番では、「???」という反応が会場を包んで3秒後にスベり笑いが起こる、というバージョンも想像できるコンビではある。王道ネタがどこまで面白いのか期待。






8.パンクブーブー

しかし一方で、ここぞというときに自分たちのやりたいことをやってしまうマイウェイなところもある(2005年3月に行われたチャンピオン大会で彼らが披露した『車掌』漫才は、今でも伝説として語り継がれているとかなんとか)。


オンバトで何度か見たことあるだけで、これは知らなかった。しかし、確かにそういう質(たち)なんだろうなーというのはネタを見ていたらなんとなく理解できた。



これはエンタ初出演?の時の動画。ネタを超えて、ツッコミの黒瀬のプライベート暴露に持っていく「敵を欺くにはまず味方から」殺法。
エンタや日テレにちょっとかましてやろうというボケの佐藤哲夫の意気込みみたいなのが感じられる。手法としてはそれほど新しくないかもしれないけど、面白い。


予定調和で終わったら消える、
一発屋になってしまう、
そんな恐怖感がそうさせるのか、
それとも単に佐藤がオカシイのか。




こちらはオンバト
確かに、後半、「グダグダしてきたんでネタ変えまーす」とやってしまっている(笑)。
コレ自体が込みのネタなのかも?と疑えもするが、これはきっとマジだろう。




「予定調和だなぁ」と自分で分かってしまうと、もうすぐにやめたくなる姿。
それを「芸人として心が弱い。最後までやってちゃんと評価されるべき。」と見るか、
「もうそんな時代じゃない。とにかく崩すことで笑いってのは生まれる。」と見るか、難しいところ。


でもやっぱりM-1だから「予定調和で面白い」のが前提だしなぁ。






そういう点ではちょっとツッコミのバリエーションが少ないというか、弱い気がする。

M-1優勝コンビはどこもツッコミの努力というか「ひねり方」がハンパなく、もはや「視聴者の代弁」の域を超えている。特にすごいなと思うのがフットボールアワーの後藤だが*1、彼らが持ってるような「ひねり」というか、ワンランク上のツッコミがないとパンクブーブーはけっこう厳しいんじゃないかと思う。


同じ出演者で言うと、南海キャンディーズの山ちゃんやナイツの土屋がライバルか。その辺りと並ぶくらいの当意即妙さを見せて欲しい。



ネタ中で「いいな」と思ったのは次の動画の1:56あたり。



「レジャーが二つほど入ってるよ」「いいよそんな新聞の勧誘みたいなの」
こういうのが効いてきたら、もしかするかもしれない。





しかし、テレビや動画を見たり考えたりするにつけ、視聴者のレベルがガンガン上がってるなぁと実感する。
お笑いをやってる人は本当に大変。



優勝予想は「敗者復活の勢いのあるコンビ」に一票。
笑い飯は、「こんだけ出て、取れなかった」という笑いの十字架を背負って生きていって欲しい。

*1:タモリ倶楽部」10月放送の「ヒゲ」の回にて、後藤が出演者(毛深い俳優で有名)の小倉久寛に対して「小倉さん、四捨五入したら猿ですよ」と言った。こういうのが出てくるのは本当にすごい。

DUM-DUM PARTY'09 ニイタカヤマノボレ 一二〇八@SHIBUYA-AX

相対性理論中原昌也さん目当てでライブに。


相対性理論は音というよりもバンドのスタンスというか、文脈がいいと思った。
でもなにより「Buffalo Daughter」に「持ってかれたなぁ」というのが感想。


Hair Stylistics a.k.a. 中原昌也」と「group_inou」は見れず。
バイトはやく抜ければよかった…。





相対性理論のセットリストがあったので転載。

1.小学館
2.百年戦争
3.地獄先生
4.さわやか会社員
5.人工衛星
6.気になるあの子
7.四角革命
8.シンデレラ
9.テレ東
10.品川ナンバー

Loser's Palade■http://d.hatena.ne.jp/seppaku/20091210/riron


『ハイファイ新書』以降の、ちょっとアジアっぽい音が効いてる曲が多かった。演奏は、リズムがしっかりしていて、ボーカルもきちんと歌い上げるスタンダードなものだった気がする。ギターはちょっと危うくて心配になったけど。

でもたぶん、そういう「スキを見せない」演出だったのかもなー、と思わせるところが、相対性理論のすごいところだと思う。文脈を読み込ませようとしているのか、していないのか。天然なのか人工なのか、その辺の境界を曖昧にしているところがいい。



曲間のMCで、やくしまるえつこがしゃべったのは3言。
「奥様はマジョリティー
「裏だけど、表といえなくも、ない」
「お持ち帰り」
(登場時に「相対性理論です」、終わりに「またね」。計5言か。)



こういう、「どうとでも取れる言葉」をぽんっと投げるところが、軽い精神分析の手法と似ていて面白い。




岩をすっと差し出して、「この中にはある生物の化石が入っています」とやくしまるえつこが言う。言われたこちらは、「そう言うなら…」と発掘を始め、最終的にアンモナイトの化石を見つける。しかし、隣の人を見てみると、同じ岩をもらったはずなのに、三葉虫の化石を発掘している。また別の人は、恐竜の卵、さらに別の人は始祖鳥の骨、と、それぞれが別々に違う。その時、「どうして?」と思うと同時に想像できるのは、「その岩は、実は何の化石も入っていない、ただの岩なのではないか。」ということだ。


つまり、受け取った我々は、その岩から化石を発掘しているフリをして、自分でも気付かないうちに勝手に、岩をアンモナイトなり三葉虫なりの化石に見えるように彫刻していたのである。そうしてできた化石は、作者の症候であり無意識の表れだ。

しかし、その構造に気付いて「やくしまるさん!ホントは何も入ってなかったんじゃないですか?」と言ったところで、「そういう考えが浮かぶ日は、いつも雨」とかまたわけの分からない言葉を返され、次の岩を渡されるのである。以下無限ループ。





これがすなわち精神分析で言うところの「転移」であり、一般的な意味での「虜」である。「分かっちゃいるけどやめられない」状態、それに持ち込むのが、やくしまるえつこさんは上手い。
『スマトラ警備隊』相対性理論×『傘がない』井上陽水
で書いた文章も、ある意味で僕の症候である。




そういう「粘土のような言葉」を届けるのが上手いから相対性理論は売れた(?)んだろうし、文脈を読み込もう読み込もうとする人たちにとっては格好の材料を提供してくれる、絶妙なバンドである。そういう意味で、詩、散文詩に近い存在。


だからライブもそうした「読み込み可能な余地」を残すために、「素」を見せてはいけない。そういうこだわりをもってやっているんじゃなかろうか。さっき書いた「スキがない」というのも「わざとスキを作る」という点において「スキがない」というテクニックだし、そういう意味では安室奈美恵ユーミンのライブにおける「スキのなさ」と似ている。だから別の言い方をするとかなり「演劇的」だと思う。




でももう少し書くと、やっぱりそれは、やくしまるえつこが「かわいい」からなんじゃないかとも、思う。フロイトも、「強いナルシシズムに耐えられるのは『美女』である」と「ナルシシズム入門」の中で言っている。フロイト先生が言うんだから、間違いない。


そうやって演劇的に歌って演出されているスキのスキというか、素を読み込めたのが彼女の手の動きだった。息切れせず、客のテンションや演奏の盛り上がりに影響されることもなく、「マイペースでやっていますよ」ということを必死で表現している中、ちょっとだけその無意識の盛り上がりが、手に出ていたのだ。


なかなか言葉では説明しにくいので絵で説明すると、








デフォルトはこれ。

すっと背筋を伸ばして立って、足や体でリズムを刻むことなく、ただただ人形のように歌う。


ちょっと茶化したくなるような姿が、声と合っていていい。








そして、少しずつテンションが上がってくると、

ゆっくりと片手を腰に当てる。この手つきがなんともいえない。









そして、テンションが最高潮に達すると、

もう片方の手をふっと腰へ。

















この、何気ない手の動きすら文脈を読み込ませるというのが、美女の力です。




大事なことなんで二回言います。
美女の力です。





そういう「美女の力」や彼女の特徴的な「声」、それにベーシストで作詞作曲者の真部脩一が作り出す「語感」、場合によっては「不安定なギター」っていうものも含めて、相対性理論が作り出す「文脈」が非常に良く出来ているな、と思ったステージだった。




それに比べて「音」だけで「文脈」を作ろうとしていたのが「Buffalo Daughter」。音脈、と言うのかなんというか*1、伝わってくるものと音の力がとにかく圧巻だった。上手く述べる言葉が手持ちにない。


ドラムが…とかシンセが…とかは書けても、結局それがどうなって、どう作用したかを言葉で書けないのがもどかしい。「持ってかれちゃったなぁ」というのはそういうことなのかもしれない。

中原さんの完全な文脈破壊も見たかった。そうすれば感想も変わったかもしれないなぁ。




いいライブでした。

*1:人が言葉を前提にコミュニケーションしている時点で「文脈」以外の存在を「blog」では書けないわけだが…。