2009-09-20
シリーズ「大学生協」 生協は都合のいい女?
一応、今回で完結です。だいぶ間が開きましたが、三夜連続放送気分で。
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当時は学生運動真っ只中で、生協の設立にも、ある種の資本主義へのうらみつらみめいたものが見え隠れする。そんな時代背景の下、国大生協は産声を上げた。
今でも横浜国大には経済学部自治会なるものがあって、伝統芸能のように「反戦」「反アメリカ」を叫んでいる。
雨にも負けず風にも負けず、大勢の学生の冷たい目線にもめげず、強いハートを持ってビラ配りから演説、果ては寸劇まで、彼らの活動は幅広い。他大学とも協力してイベントを行っているあたり、そういう左翼の残党みたいな人たちはまだまだ多いのかもしれない。
しかし彼らのような主義主張がトレンドだった時代もあったわけで…。
今回はそんな1960年代と現代の対比から書いてみる。
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少し調べただけだが、噂に聞く通り横国では学生運動が盛んだったようで、いくつか記事が出てきた。
「戦後学生運動」考
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/gakuseiundo/history/history7_2.htm
【横浜国大闘争】
1月−3月にかけて横浜国大で、学部の学芸学部の学部名変更に反対する紛争がおこり、学生がキャンパスを封鎖、教職員を排除して、学生の自主管理を約1か月余にわたって強行した。この自主管理下のキャンパスでは、学生自治会が編成した自主カリキュラムによる学習が進められるという画期的なものとなった。
1.28日、教員養成制度改悪阻止全都学生総決起大会〔麻布公会堂〕、横浜国大学芸学部生中心に七百名参加、学芸学部の教育学部格下げ反対・教員免許法政悪阻止等を決議、文部省・国会にデモ。
自主管理を約1か月余にわたって強行した。というところは加賀の「百姓の持ちたる国」のよう。学部名変更にしても、格下げ、と言い切るところに悪意というかエネルギーを感じる。
そうした、史実として書き残されているもの以外にも、バリケード封鎖があったことや警察と衝突が何度もあった話はよく聞く。
今でも、横国の入学式当日には、横浜国立大ホール*1周りに機動隊が出動してくるらしい。(これも伝統芸能のようだが。)
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その経緯と目指すところを書いたのが、「設立趣意書」というものだ。(全文は最後に掲載します)
なんとも言えない鬱勃としたエネルギーが渦巻いているいい文章だと思う。スキあらば「総括」させられそうな、ゲバ棒で殴られそうな、そんな切れ味の良さがある。
近年、我国の経済成長は目覚しく、その成長率は他国に類を見ない程高い。しかし、その内容を検討してみる時、幾多の矛盾、跛行的現象を見い出すことができる。
特に、直接生産部門に参加していない大学教職員並びに学生は、神武景気にも、岩戸景気にも置きさられ、その生活は実質的に低下し、忘れられた階級となりつつある。
一方、池田内閣の唱える所得倍増計画による諸物価の上昇は、増々、私たちの生活に圧迫を加えるものです。特に、生活必需品の騰貴はただただ驚くばかりです。このよな社会情勢において、私たち学生の生活は、日増しに苦しくなっています。
「忘れられた階級」というヒガミ方がいいし、そのハングリー精神はうらやましい。今、苦学生なんてのはもはや都市伝説ではないかと疑われるくらい、少ない(国立、私立ではまだまだ大分違うだろうが)。
むしろ今の大学生は満腹感に困っているような気もする。も、もう食べられないよぅ、とあっぷあっぷしつつ、食べても食べてもどこか満たされない。バブル以降、格好の「消費」のカモとなっている学生は、やれパソコン、ネット、海外旅行、iPodと色んなものを与えられて過食気味だ。
設立時の学生とは絶対に相容れないと思う。会ってみたい気もするが。
そしてこう続く。
私達は、このまま世の潮流に押し流されてはならない。自分達の力で、毎日の生活を少しでも良くしていきたい。しかし、一人一人の力ではどうにもなりません。そこで、私達は消費生活協同組合法(昭和23年施行)に基き、ここに横浜国立大学を職域とする消費生活協同組合を設立することにしました。
個人では弱い私達消費者が協同互助の精神を体して自主的な購買組織をもち営利者による中間搾取を排除し少しでも生活を改善していこうというわけです。
「中間搾取」という言葉に代表される通り、1960年代は消費者が弱かった時代だ。消費にも選択の自由はあまりなく、せいぜいチキンorビーフの二択ぐらいだっただろう。選択肢がないから、作ってしまおう、それが生協設立の趣意だ。
しかし今はチキンorビーフorポークor…と選択肢が増え、消費者優位になった。「中間搾取するようなら買ぁーわない。別のもの買おーっと。」と、商品は代替可能だ。前回のパソコン購入の話ではないが、別に生協でなくたって、ヨドバシでもビックカメラでも、中間搾取をしていなさそうなところを自由に選んで買えばいい。昼食も生協じゃなくたって、ファミレスでも牛丼屋でもいい。特に都市部の大学はその傾向が強いと思う。
しかしそうすると、なんというか生協はまだ必要か?という話になってくる。
中間搾取をなくして、お金のない学生が弱者として虐げられないようにする、というゴールを、生協はとっくに通過しているのではないだろうか。
問題はその先である。
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結論から言うと、事業体としての大学生協は、今は「いらない」。
大学生協である必要性は、ほとんどない。「ただ大学に長く入っている業者」というのが、多くの学生や大学側の認識だろう。
ただ、10年先か20年先か分からないが必ず、必要になると思う。
設立の趣意を「近代」においている限り、ポストモダンの時代に大学生協はやはり合わない。
今までみんなで一致団結して、協同して、頑張った結果得られた豊かさ、それを使って、今は個人で、一人で楽しむ時代である。いずれそれが破綻するかどうかは分からないが、もし歴史が繰り返すとすると、破綻するだろう。その時が、生協の出番だろう。
学生にとっても大学にとっても、今の大学生協は「都合のいい女」状態である。やれ学内のゴミ処理を…、環境保全を…、留学生を…。大学から絶対に撤退しない業者=別れられない女は、いいように使われる。おおかわいそう。
だから、事業をスリムアップして細々と生き残るのが現在の生協にとって得策、なのではないかと思う。
そうすればきっと、本妻として迎え入れられる日がくるに違いない。
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とは言っても、時代の変化でがらっと全てが無くなるわけではなくて、生協には職員さんがいて利用者がいて、出資者もいる。なのに「時代が時代なんで…」と言って諦めてもいられない。
もし有効な手段があるとすれば、陳腐だがサービス内容の分別ではないかと思う。
格差社会を額面どおり受け取って、生協のサービスを出資額によって分ける、という方法である。これであと10年くらいは持つんじゃなかろうか。甘いか。
株式会社が株主からの出資によって成り立っているように、大学生協も組合員からの出資で成り立っている。横国の場合なら一人、1口5000円×3口で15000円を出資しているわけだ。これを大体の人は一年の入学時に払って、4年間サービスを受け、卒業時に返してもらう(その15000円は卒業アルバムに変わるか、その日の飲み会で消える)。
そこを、「みーんな3口出資して、同じサービス」というのをやめて、
「苦学生は1口からでかまいません。
でも出資額に応じてサービス内容が変わってきます。
5口いただきますと、
学食では高額出資者様限定メニューがお召し上がりいただけます(ニコッ」
うわぁ。
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そんなまさかということが起こってしまう、かもしれないのが底の抜けた時代。
そこまで行かなくとも、ちょっとした優待サービスみたいなのは増えてくるんじゃないだろうか。
それよりもまず大学が、入学者の選別をきちんとやれば、大学生協は対応しやすいのだが…。大学経営的にもそんなことは言っていられないだろう。
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3回にわたって大学生協の未来について書きながら考えてきたが、どうにも出口が見えない閉塞感ばかりが際立った。
「だいがくせいきょう」と打ち変換したつもりが、何度も「大学逝去」となったのは悪い暗示なのだろうか。
もしまた考えるべきことが浮かんできたら書きたいと思う。
読んでいただいたことありがとうございました。
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近年、我国の経済成長は目覚しく、その成長率は他国に類を見ない程高い。しかし、その内容を検討してみる時、幾多の矛盾、跛行的現象を見い出すことができる。特に、直接生産部門に参加していない大学教職員並びに学生は、神武景気にも、岩戸景気にも置きさられ、その生活は実質的に低下し、忘れられた階級となりつつある。
一方、池田内閣の唱える所得倍増計画による諸物価の上昇は、増々、私たちの生活に圧迫を加えるものです。特に、生活必需品の騰貴はただただ驚くばかりです。このよな社会情勢において、私たち学生の生活は、日増しに苦しくなっています。
私達は、このまま世の潮流に押し流されてはならない。自分達の力で、毎日の生活を少しでも良くしていきたい。しかし、一人一人の力ではどうにもなりません。そこで、私達は消費生活協同組合法(昭和23年施行)に基き、ここに横浜国立大学を職域とする消費生活協同組合を設立することにしました。個人では弱い私達消費者が協同互助の精神を体して自主的な購買組織をもち営利者による中間搾取を排除し少しでも生活を改善していこうというわけです。
その運営はきわめて民主的で組合員のだす出資金の多寡によるものではなく、組合員個人を尊重し、一票というまったく平等な権利行使によってなされます。また販売によって得た利潤から組合の運営に必要な費用をさしひいた残りは翌年における割引率の引き上げ等の資金とします。あくまで協同互助の精神に立脚している所以です。このような大学生協に関してはすでに文部省大学学術局長通達「学校消費生活協同組合の育成について」(昭和24年7月8日発大第102号)によってその育成がのぞまれています。
私達はそこに記載された諸点を考慮して生協の組織を考えると共に、実行面では生協をできるだけ民主的で巾の広い組織に発展させ、ゆくゆくは学内すべての業種を生協のもとに一元的に運営していくという基本方針をたてている次第です。どうか以上の設立趣意を十分御了承の上、全教職員全学生が挙げて加入され御支援下さるようお願いします。
1962年6月23日
法人化準備委員
(原文ママ)
2009-08-16
シリーズ「大学生協」 普通の大学生について
大学生協についての根の深い問題について、近代とポストモダンという視点から迫ってみる第二回目。(一回目はこちら)
前回は大まかに、大学という教育マーケットの縮小と、その原因となった日本社会の「費用対効果重視」の価値観についてまとめた。それは、「集団」というものがだんだん成り立たなくなっている現状にも繋がる問題だった。(現在は集団よりサークル、コミュニティ、がコミュニケーションのベースである。)
今回はより具体的に、その事象を見ていきたい。
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最近、横国生協でよく問題になるものの一つに、パソコンの売れ行きの悪さ、がある。新学期*1の、「大学生になったんだから、自分のパソコンくらい持ちましょうよ」という販売戦略もそろそろ通じなくなり、提案の方法をどうこうするだけでは解決しないレベルの問題が発生している。
なぜ売れないか、それは当たり前だが商品に魅力がないからだ。
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家電量販店の安売りパソコンが市場に台頭し、5万円ちょっとで自分用のパソコンが手に入る時代に、20万円近くもする「生協公式PC」を選ぶ人は少ないと思う。仮に性能が良いものを求めていた場合も、量販店の物の方が同じ値段で良いものを買えたりする。やはり専門店は強い。
それに対する生協の武器は、商品以上の「付加価値」であった。「パワーポイントがついていて、学校の授業や発表・プレゼンテーションの場で使えます、スキルアップになります!」、「そうした便利なパソコンの使い方を教える講習会を開きます。生協で買った人限定!」「4年間保障で、トラブルや故障でも安心です!」、そうした「人」を介した提案・サービスがあるから、多少お金がかかってもウチのを買ったほうがいいですよ、という勧め方をしてきたわけだ。
しかし、ITスキルやその理解は(高校の授業「情報」でワードやエクセルまでやることもあって)年々高まっている。5年前はまだ「パソコンの電源ってどうやって切るの?コンセント抜くの?」という人も居たが、今はおそらく絶滅危惧種の動物くらい少ない。まして一家に一台以上パソコンがある時代、ググれば生協パソコン以外の選択肢が無限に広がるし、人に教えてもらうのが面倒な人はネットのパソコン講座を見ればいい。生協のウリが、時代の変化とテクノロジーの進歩に呑まれてしまったということだ。
つまり今、「大学生になったら、○○くらい」の、○○の位置に入るものが「パソコン」ではなくなる時代が来たということである。*2
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話で聴いたところによると、その○○に入るものは、様々に変化してきたらしい。数十年前は「オーディオ機器」だったそうだ。「大学生になったら、高音質のスピーカーでワーグナーくらい聴くよね」といった価値観が支配的だったのだろう。アホみたいな話だが、実際に大学生は大きな大きなオーディオをそれなりの値段でみんな購入していたようだ。
あくまで予想だが、それ以前の○○は、「全24巻立ての百科事典」だったり、「テーブルマナー講習(フランス料理編)」だったりしたと思う。教養とテクノロジー両方を兼ね備えたものが、大学生の価値観形成に一役買っていたのだ。生協はその発案者として常に存在していた。
その役割を担っているパソコンと電子辞書が失墜した時(今)、次に来る○○は一体何だろうか。
iPodになるのか、デジカメになるのか(もう持ってるか)…。なんにせよそれを早急に模索すべき時期にきている。(自動車免許はずっと残っていると気がついた。しかしそれもやばそう。)
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しかし、もっともっと根本的なところに問題があるのではないかと不安になる。
「大学生になったら、○○くらいするよね」という命令(というかプレッシャー)が、もはや機能しなくなっているのではないだろうか。「大学生ならみーんなやる」ことがどんどん少なくなっている気がする。麻雀、カラオケ、ゲーム大会、ゼミ合宿、バイトなどなど、ザ・大学生がやることといえばもっともっと出てくるかもしれない。しかし、重要なのはそれが選択肢の一つになってしまったということである。
今、麻雀をしていると、回りからも教授からも「××くん、大学生やってるね!」と言われる。自分たちでも「大学生やってるじゃん、俺たち!」と、自分たちの属性を外部から確認する視点がかならずある。今までは何も考えず「ただ、やる」ものだった行為が、「あえて、やる」ものになった。大学生なのに、「あえて大学生やってます」というねじれた状態が「普通」なのだ。そしてそれは、「大学生じゃない自分もある」ということと裏表である。
我々は、大学生でありながら、大学生でない他の自分もあるよ、と自分の中で区切りをつけて、コミュニケーションのあり方を複数持つことで、心の負担を和らげているのかもしれない。今はゼミモード大学生、夕方からはバイトモードの大学生、深夜は飲み会モードの大学生、しかしその実態は…、何なのだろう?
そうした分裂症的な生き方がもたらす弊害として、「俺はまだ本気出してないだけ」といった「本当の自分」を希求する陳腐な自分探しの罠が現れてくるのである。
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そうやって価値観(モード)が多様化していくと、全員が一様に同じものを欲しがる、必要とする機会は徐々に失われていく。
前述のパソコンで言うと、ITスキルを熟知している人からパソコンに触れたことのない人まで、同時に大学に入ってくるということである。今まではそうした人たちの「間を取って」そこそこ知識のある人たちをターゲットにしていれば良かったが、今は「間」がいない。「ほとんど知っている」か、「全く知らない」、そのどちらかに属する新入生が大多数だ。事業体として生協がカバーしてきた「中間層」が今はごっそりいなくなっているのである。
かといって、そのターゲット層を「熟練者」と「初心者」の二つに分ければいい、という問題でもない。多様化した欲望にいちいち商品を合わせていたら生協はもたない。
サークルでアゲアゲモードの人と部屋でニコニコ動画を見て萌え燃えモードの人とボランティア活動で自分磨きモードの人、そうした使い分けに対応できるサービスなんてあるはずもない。パソコンはおろか、本の品揃えさえ考えないとまずい。
「大学生みんながやること」なんてもうない。「食べる」「飲む」「学ぶ」、それくらいシンプルな部分でしか、大学生の(消費における)共通点は見出せなくなっている。としたとき、カバーしきれない事業を「やめる」という選択は懸命だと思う。
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「△△大学生」という身分が「着替え可能な属性」でしかなくなると、そうした身分に対する愛着も無くなる。その身分、集団で上手くいかなければ、また別の身分、集団での自分を作り上げていけばいいだけだ。特に都会ではそういったことがあまりにも簡単である。こっちのサークルが上手くいかなければこっち、それでもダメならバイトに精を出し、リスクヘッジとしてゼミを3つも取る、みたいな分裂が日常的に行われているが、じゃあそうした身分という服を着ている自分は誰なんだ、という問いにきちんと答えられるだろうか。自分は自信がない。
愛着がなくなり、「自分でなんとかしよう」と思える人がいなくなった集団は、解散する。集団は一人では維持できないので、数名以上の「なんとかしよう」がないと解散に歯止めをかけるのは難しい。
地方の過疎化に際して言われていた「地域の力の低下」という問題が、今は人の精神の領域で起こっているのかもしれない。(物理的なつながりが消えていったように、)精神的結びつきが過疎化する、ポストモダンとはそういう時代である。
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「大学生になったんだから、○○するでしょ」という価値観を守る人と共に、「大学生はこうあるべき」という近代的な大学生像を守り続けていくか、「食べる」「飲む」「学ぶ」に特化した専門店的な福利厚生団体としてポストモダン時代を生き残るのか、どちらを選んでも未来はあまり明るくない気がする。
右に近代、左にポストモダンという底なし沼を見ながら、平均台の上を歩いているような生協が*3、どうやってこの暗中模索を終えるのか、考えれば考えるほど問題の根の深さばかりが際立ってくる。
横国の工学部店でエヴァンゲリオンウエハースがめちゃくちゃ売れた、ということがあったが、そうした「当たり」の商品提供がこれからも続くとは考えにくい。いい子である反面、賢い消費者としての訓練を積んできた世代が、大学生協で果たしてモノを買ってくれるだろうか。「生協ならではの付加価値を」と叫ぶだけでは解決にならない。
次回は生協の設立理念と、今の大学生の理念の大きなズレについて書く。
2009-08-13
シリーズ「大学生協」 努力しない努力
ちょっと致命的に大学生協がやばいかもしれない。そんな不安は「大学」の地位の下降とともにずっと叫ばれ続けてきたことかもしれないが、いよいよその組織的意義がほとんどなくなってしまうXデーが、近くまで来ている気がする。
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中産階級は「教育」というものに期待して、何よりもそこにお金を注いできた。そこには、大事な子供をとことん愛するという「豊かさ」の象徴的意味合いのみが見られがちだが、それだけではない。そこには親の、リターンが大きいだろう、必ず自分に帰ってくる、といった投資的意味合いが一方で確実に存在していた。中でも大学はその出口として、それまでの資金注入を無駄にしないために、あるいは一発逆転を狙うために、最後の高額投資が行われる巨大なマーケットであった。
しかし、「果ては博士か大臣か」「勉強して、いい大学に入れば、一生安泰」という言説が信じられていた時代は終わり、安定した就職への道はおろか、満足いく教育を受けられる環境すら失われつつあるのが現在の大学だ。一発逆転はあるかもしれないが、それは大学への投資による見返りではなく、本人の資質や運による。
勉強が出来ても(=大学を出ても)稼げない、のであれば、わが子をプロゴルファー目指して英才教育する方がマシかもしれない、と考える親が出てくるのも頷ける。子供を大学に通わせることが、大きなリスクをはらむ時代になったのだ。
同時に、マーケットとしての「大学」も価値を失いつつある。大学生活の福利厚生整備から、教科書や勉強道具の販売、学内学外活動の場の提供と、様々にそのマーケットを仕切ってきた大学生協にも、ダメージが少ないわけがない。
その中で、生協が生き残る道を模索する意味でも、現在の大学、及び大学生協の問題点を整理してみたい。
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まずその直接的な原因として、叫ばれ続けている大学生の学力低下問題がある。自分も含めて大学生はバカばかりである。開き直るわけでもなくただただ申し訳ない気持でいっぱいだ。だが努力もできない。なぜできないか、それは「勉強することの費用対効果が不明瞭」だからだ。「こんなこと勉強して何になるの?」という問いが心の底から発せられる人間に、我々はなってしまったのである。
そんな我々の心を、現役大学教授の内田樹が分かりやすく分析してくれている。氏のblogから引用する。
いささか先走ったが、子どもたちの学力が低下した理由は「この世でたいせつなものは『学力そのもの』ではなく、『学力をもつことでもたらされる利益』である」という考え方が支配的になったからである。
学力なんかあってもなくてもどうでもよろしい。
学力があることによって得られるとされている利益(競争における相対優位、威信、権力、財貨、情報、などなど)が得られるなら「何をしてもよい」というのが私たちの時代の風儀である。
子どもたちは「いかに少ない努力で多くの報酬を手に入れるか」ということにその知力の限りを尽くしている。
これはまさしく過去30年間本邦の教育行政がたかだかと掲げてきた教育理念である。
パフォーマンスとして多少大げさに言っているようにも思えるが、まさしく今の大学生が持つ「価値観」を明確に表してくれている。
「ぜんぜん勉強しないで東大出ちゃいました」というのは、キーボードをちゃかちゃか叩いただけで1分間で数億円稼いだとか、1000円でベンツを買ったとか、それに類する「スーパー・クレバーな商品取引」なのである。
消費者マインドに立てばそういうことになる。
「学校なんかぜんぜん行ってねっすよ」「教科書なんか開いたことない」「試験なんか、ぜんぶ一夜漬けで、あとカンニング」というような言葉が「ほとんど誇らしげ」に口にされるのは学校教育で競われているのが「何を学んだか」ではなく「いかに効率よく競争に勝つか」だと彼ら自身が信じているからである。
「いや、自分はそうじゃない、費用対効果のないものにこそ真の価値があって、学びとはそうした俗っぽいものとは遠く離れたところにあるんだ。」と理念を掲げる人は少なからずいると思う。だが、価値観とはみんなで決めるもので、その「みんな」が、消費者としての賢さ、「うまいことやったかどうか」を重視している以上、主張はただの信条になる。
『東大生はなぜ「一応、東大です」と言うのか?』という本がある。内容は「東大あるある」から始まる学歴ノンフィクション話から、少しずつ「一応、」という譲歩が生まれる心理を分析している。この「一応、」にも、「少ない努力で東大ブランドを手に入れてしまいました」という、ある種の後ろめたさが込められていると思う。
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その点、横浜国立大学は学力的に「中途半端」という悲惨さがある故に、少し救われている。「一応、」と言うには知名度やレベルに難があるし、かといって努力せずに入学するほどの天才もいない。「1.5流大学」と名乗ろうにも(旧帝じゃないし…)という自責の念がやってくるし、「2流大学」と言うには(でも努力して入ったんだよ)という小さなプライドが邪魔をする。そんな中途半端さを正当化するために、「俺は学問をやるためにこの大学に来たんだ!」と「学力そのもの(教養)」を妄信する人が一定数いるのである。(入る前(受験偏差値)では圧倒的に勝っていた私立大学群とも、出口(就職)で負けてしまうのは、そのためかもしれない。)
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そしてそうした価値観のさらなる問題点は、集団への関心が無くなっていくことである。
費用対効果を上げるためには二つの方法がある。一つは、とにかく高い成果を上げることだ。かける費用が同じでも、昨日より今日、今日より明日と成果が上がり続ければ、欲求は満たされる。だが残念なことに、成果には上限がある場合が多い。とした時、もう一つの方法が浮かび上がってくる。それは、成果を出すために使うリソースを少なくすること、だ。5人で100のことができた、じゃあ次は4人で、そして3人で、と減らしていけば、費用一人当たりの効果はどんどん上げていくことができる。すなわち、前述のような価値観の中では、人は孤立していく方が良いのである。
インターネットという個人的なメディアの普及も手伝って、大学生の孤立、ひきこもり化はとどまるところを知らない。自大学でも、「大学生の不登校」問題が保護者会で話し合われているようだ。とした時、集団としての「大学」への関心は(彼らが大学生であるにも関わらず)失われていくということになる。大学に誇りを持つとか持たないとか以前に、「自分が所属する大学」と「(所属しない)対象としての大学」の二種類が我々の頭の中に存在するようになるのである。
そして我々の関心が向かうのは、「横国に入って得られた(自分個人の)恩恵」であり、「横浜国立大学そのもの」ではない。「横国に入っていたお陰で就職試験、足きりに合わないで助かるわ」と言いつつ「ヨココク就職率悪すぎワロタwww」といったように笑う、そんな分裂した視点で大学を見ている人は多いと思う。
こうして失われた集団への関心(リビドー)は、「大学」から回収されると同時に「大学生協」からも回収される。大学と違い、リビドーがそもそもの設立趣意となっている生協において、これは由々しき事態である。
次回はそんなリビドーの流れの対比と、そこから生まれる問題点について書いてみたい。






