魂は身体とともに運ばれるのではなく、身体をなかに入れて運んでいる 〜ニール・ドナルド・ウオルシュさんのご本その3から 4

 この神聖なる二分法は、人間の経験のなかでもよくあるのだよ。さっきも言ったとおり、これを受け入れなければ、悠々と生きていくことはまず不可能だ。しょっちゅう不平を言い、怒り、のたうち、むなしく「正義」を求めつづけなければならない。あるいは、正反対の力を融和させようと、むだな努力をしなくてはならない。だが、そんな力は融和するはずがない。それどころか、もともと両者が緊張しているから、好ましい効果が生まれているのだ。
 じつを言えば、相対性の領域はこの緊張によってたばねられている。たとえば、善と悪の緊張だ。究極的な現実のなかでは、善もなければ悪もない。絶対の領域にあるのは愛だけだ。だが、相対性の領域で、あなたがたは悪と「呼ぶ」経験を創造した。善悪の両極を創造し(いまも毎日、創造しつづけ)、片方を使って、べつの側を経験できるようにした。これが、聖なる二分法だ

両者が緊張しているから、好ましい効果が生まれている..ごういん! だけど、せかいのげんじつですね、いろわけしたがるのも
神との対話〈3〉宇宙になる自分になる (サンマーク文庫)