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TOKYO巡礼歌 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2015-12-31

はてなブログに引っ越しました

22:09

はてなブログに引っ越しました。

TOKYO巡礼唐獅子牡丹

http://yomota258.hatenablog.com

2015-11-11 渡哲也かわいいムービー7選<日活時代篇>

渡哲也は『西部警察』『仁義の墓場』だけじゃない。日活時代の渡哲也のかわいさを知って欲しい……。そういう思いでございます。

1. 東京流れ者

12:03

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ヴィヴィッドな色彩にあふれた歌謡映画。おそらく渡哲也の映画出演作ではこれが一番有名だと思う。もちろん渡哲也要因ではない。なんせ監督が鈴木清順だから……。

当時渡哲也は24歳、デビュー2年目。………………デビュー2年目!?!?と思うほど演技がやばい。観ているこっちが不安になってくるあどけなさ。しかしそれが良いのである。

主人公・不死鳥の哲は凄腕の拳銃使い*1であるが、稼業を畳んだ元ヤクザ親分にいまも義理立てして、そのもとを離れることなく彼を補佐している。資金繰りの苦しい親分のため、自らを担保にして借金の返済の期限を伸ばしてもらおうとするほどだ。このキャラクターを、拙くぎこちない演技で一生懸命やっているいじらしさが良いのである。まるで、役と現実がシンクロしているようで……。

「不死鳥の哲」はひたすら生きづらい人間だ。親分を守るため、彼は東京にいられなくなり、旅に出て庄内の類縁組織へ身を寄せることになる。ところが、実はそこでも地元のやくざの勢力争いが起こっており、その諍いの助っ人にならざるを得なくなる。わらじを脱いだ先でも気まずい思いをさせられた上に、気味の悪い拳銃使い・まむしの辰(川地民夫)につきまとわれ、この後佐世保へ流れたあともひたすら貧乏くじを引きまくり、最終的には……となるが、この不幸引き寄せ感と大人しいモジモジ感は渡哲也にしか表現できない世界だ。鈴木清順監督はそんなかれを「長い身体の上に小さな甘い顔がのっている。脚をうごかせば手が邪魔になり、手をうごかせば脚が邪魔になる……」と表現したが、まさにその通り、歩くことすらまともに出来ない、ギグシャグとした仕草が演技下手という枠を越えて、ひとつの雰囲気を作っていた。

「流れ者に女はいらない」という台詞が、ほかのどのスターともかれは違っていたことを象徴している。

渡哲也24歳。映画スター、のはずなのに、何故か生きづらそうな、不思議な子だった。

2. 嵐を呼ぶ男

12:03

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場末のドラマーが美人マネージャーに見いだされて人気バンドのドラマーに抜擢され、スターへの道を駆け上がってゆく音楽もの。

『嵐を呼ぶ男』というと石原裕次郎主演版が広く知られているが、渡哲也主演版もある。両者で何が違うかというと、主人公のキャラクター設定が違う。石原裕次郎が演じる主人公はふてぶてしく自信家であることに対し、渡哲也の演じる主人公は繊細で精神的に華奢な雰囲気のあるキャラクター。その対比が特に顕著なのが有名な「ドラム合戦」のシーン。ライバルの罠によって手に怪我を負ってしまった主人公は、ライバルとのドラム合戦の最中、肝心のところでスティックを取り落としてしまう。観衆が「あっ」と思ったその瞬間、主人公は突然「♪おいらはドラマ〜 ゆかいなドラマ〜」と歌い出し、窮地を乗り切る以上に会場を大盛り上がりさせ、大絶賛を受ける。本作のハイライトであるこのシーン、石原裕次郎は自信満々に歌い出すのだが、渡哲也は微妙に恥じらいと迷いを見せながらおずおずと歌いはじめる。まさに「ドラム合戦って言ってるのに歌い出すとか、正直ありえないよね……」って感じで。

これぞ渡哲也。

自分自身にすら微妙に疑いを持っているのが良い。

そして、本作は渡哲也の外見上の魅力が存分に出ているという点でも傑作だと言っておきたい。いまでも覚えている、平日の19:15の回、席数99に対して12人しか客が入っていないガラッガラの神保町シアターで目玉が落っこちるんじゃないかというほどの渡哲也のかわいさに驚愕した。渡哲也は目の色が淡くて目に光が入るとガラス玉のように透き通って見えるのだが、本作ではそれを活かして、かれの目が透明な茶色にキラキラ輝くように撮られている。海のものとも山のものとも知れなかった主人公がジャズ界で輝きを放ちはじめるのとシンクロするように、かれの目が輝いていく。そりゃもう、ストリップ小屋なのにステージじゃなくてなぜか渡哲也にスポットライトが当たるのも当然というものである(本当)。弟の渡瀬恒彦もよく見ると目が茶色くて可愛いのだが、東映は目に透明感を出す撮り方とかそんなことはしなかった。日活はいまでいうところのアイドル映画センスを持った会社だったのだ。

ちょっと不自然なはにかみ笑いも、若干生意気そうな感じも、自分に自信があるんだかないんだかわからない雰囲気も、悪い子ぶってるけど本当は良い子な感じも、すべて良い。それがぜんぶ嘘っぽくないのがすごい。かれの輝きでこの世までもがキラキラして見える奇跡の1本。

3. 紅の流れ星

12:03

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渡哲也出演作の中で最もスタイリッシュな映画。いやむしろ日活アクションの中でもスタイリッシュさにおいて『拳銃は俺のパスポート』とともに、その頂点ではないだろうか。

敵対組織のボスを殺害し、東京から神戸へと逃れてきた殺し屋・杉浦五郎(渡哲也)は、いつか東京へ呼び戻される日を夢見て、ハットのリボンに首都高の回数券を挟んでいる。類縁組織の客分扱いでやることのない彼は、いつも埠頭の防波堤に置かれた安楽椅子で昼寝をしていて、じゃれついてくる情婦(松尾嘉代)やきゃっきゃする弟分(杉良太郎)、自分を追いかけている刑事(藤竜也)をていよくあしらいながら日々をぼんやり過ごしている。……こう書くとなんかマンガっぽい話だな。日活はやはり新しかった。そんなある日、東京から行方不明の婚約者を探しにきたという女(浅丘ルリ子)が訪ねてくる……。

この五郎のず〜っと上の空で退屈そうな表情、ものごとにあまり深い関心を持っていなくて、別のことを考えている感じが渡哲也本人の雰囲気に合っていて良い。日活時代の石原裕次郎には「おれは本当はこんなことをしている男じゃない」という雰囲気があって、それが『太陽への脱出』でマキシマムプラスに作用したのと同じように、渡哲也の「おれ本当は俳優とかやれるような性格じゃないんで……(はやく帰りたい……)」という引っ込み思案感、帰宅部感が良い方向に作用しているのである。

さて、女優に豪華な衣装を色々と着替えさせる映画は星の数ほど存在するが、男優のお着替え映画もまた同じように存在する。例えば東映が誇るモデル系男優・菅原文太で言えば『山口組外伝 九州進攻作戦』のように。本作は日活・渡哲也版お着替え映画である。渡哲也はハットを被ったジャケット姿を基本として、シーンごとにお着替えする。私が一番好きなのは遺体安置所の前の階段に寝転がっているときの真っ黒なスーツ+ハット姿。イケメン仕草ができないせいか、高身長やスタイルのよさを活かした役があまりない渡哲也であるが、本作ではその恵まれたスタイルを活かしてもらっている。

なお本作、その手の本にはよく「台詞が粋」等書いてあるが、ぶっちゃけて言うと、その粋な台詞、個人的にはサムいと思う。でも、渡哲也が囁くような声……というか口の中てボソボソいうように喋っているのがかわいすぎるので、すべて許す。

紅の流れ星 [DVD]

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4. 「無頼」より 大幹部

12:03

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常時困った顔で、なにかの苦痛に耐えているような表情。やがて彼は望まぬ諍いに巻き込まれ、満身創痍で戦い、傷ついて、ぼろぼろになった身体をひきずって……。

渡哲也は、太陽のようにみずから輝いているというより、何かを反射して輝くタイプなんじゃないだろうか。月のように青白く輝いたときにもっとも映えるタイプの俳優だと思う。そんななかで、この作品がいちばん、役のキャラクターと渡哲也自身のキャラクターが合っているんじゃないか。

詳しい内容は、先日書いたこちらの記事でどうぞ。

http://d.hatena.ne.jp/yomota258/20151107

渡哲也“無頼

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5. わが命の唄 艶歌

12:03

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数年前、輪島祐介という若手のポピュラー音楽研究者が書いた『創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史』という新書が話題になった。「演歌」と言うとまるで伝統芸能の一種のように思われているが、いまの「演歌」は実は60年代後半に成立したものであり、そんな「演歌」がどうして現在“日本の心”と言われるようになったかを解き明かすという興味深い一冊だった。この『わが命の唄 艶歌』は、まさに「演歌」が「日本の心」となった時代に製作された映画で、つまりリアルタイムで「なぜ演歌が日本の心なのか/日本の心になったのか」を描いている。タイトルはすさまじく泥臭いが、内容は当時の音楽業界のプロデューサー・ディレクターたちの葛藤を描くクリエイティブ業界ものなのである。

渡哲也演じる主人公・津上は引き抜きによって化粧品会社のコピーライターから広告代理店のCM音楽のディレクターへ転身し、さらにはレコード会社転職ポピュラーミュージックを担当することになった新進気鋭の音楽ディレクター。だが本作において実は主人公は部外者、あるいは狂言回し的な役回りである。

ストーリーの根幹となるのが、彼のキャリアアップを導いた化粧品会社時代の宣伝部部長でいまは津上の勤めるレコード会社のプロデューサーである黒沢(佐藤慶)という男。人情味のかけらもなく、こと仕事に対してはきわめて冷徹・冷酷な黒沢だが、津上に対してだけは人間味のある態度を取る(取っているように見える)不可解さを持っている。黒沢を演じる佐藤慶の余裕のある雰囲気は、渡哲也の生硬さに大変マッチしている。そしてもうひとり、黒沢と対立する「演歌の竜」と呼ばれるプロデューサー・高円寺芦田伸介)。こちらも大変に適役であり、芦田伸介の演技力で保っている役と言っても過言ではない。また、映画内映画の形式を取って語られるかれの半生を描くドキュメンタリーの出来には特筆すべきものがある。渡哲也はこの二人に惹かれ、振り回される役回り。名優二人に囲まれて割りを食っているけど、この受け身感、嫌いじゃない。また、ヤクザ映画では敵役に回ることの多い青木義朗が同僚役で出演しているのも嬉しい。

なお、数少ない(?)渡哲也見どころは、ある理由から不貞腐れて出社拒否していたのを佐藤慶が迎えに来てくれるシーンの彼シャツ状態の衣装(裸にワイシャツ一枚羽織って正座)です。

6. 昭和やくざ系図 長崎の顔

12:03

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日活製の歌謡任侠映画である。

大正に端を発する長崎の老舗やくざ・高間組の跡取り、高間慶二(渡哲也)が4年ぶりに長崎へ帰ってきた。彼は4年前、長崎大学の学生だった頃、対抗組織のチンピラに絡まれたのを反撃して相手を殺してしまっていた。そのために服役し、しばらく長崎を離れていたのだが、その間に長崎は高間組と同じく興行をなりわいにするヤクザ・松井(青木義朗)の組に侵食されていた。慶二は再び家業を盛り立てるべく、興行の企画を立てるが……。

本作に関しては、まず、長崎ロケがたいへんに美しい。大浦天主堂平和公園などの有名観光スポットや石畳の路地、山がすぐ背後に迫った急斜面上に広がる市街が印象的な湾内の風景など、観光映画としても楽しめる仕上がりになっている。長崎市の協力なくしては不可能なロケだと思うが、昔のこととはいえ、よくヤクザ映画で場所を貸してくれたなと思う。テーマソングの「長崎は今日も雨だった」も作品の雰囲気に合っていて、歌謡映画としても素晴らしい。

さて渡哲也がどう良いかという話だが……、日活の青春映画には突っ走る若い主人公を影から見守ってくれる大人役がよく出てくる。アドバイスをくれるとか、人生の手本になることをするとかではなく、せめて若いうちだけでも世の中の理不尽から守ってあげたい……、そういう気持ちを持った大人がいる。本作でいうとそれは旅のやくざ者役の安藤昇*2である。安藤昇は言うまでもなく本物である。対して渡哲也は、ヤクザ映画によく出てはいるものの、誰がどう見てもヤクザに見えない。しかも、本作では特に「真面目なお坊ちゃん」ぽく撮られている。終盤に、フェリーの待合室で渡哲也と安藤昇の二人が相対するシーンがある。このとき二人のバストアップが交互に写るのだが、健気に目をウルウルキラキラさせている渡哲也に対し、無表情で完全に死んだ目の安藤昇……、この対比の鮮やかさ。ああ安藤先生って演技うまいとか下手とか以前に、本当にこの世ならぬ死の空気を湛えているなという印象で、かつ、安藤先生、別に台詞としては発しないが「こいつは俺が守ってやらなきゃなあ……」と心の中で思っていそうな感じが出ている。いや、実際、安藤昇は渡哲也を守るためにある決断をするのだが……。と、おっとこれでは安藤昇の役得的良いところの話になってしまう。このような安藤昇に対して、お坊ちゃん風の風貌で辛い境遇をひとり一生懸命頑張っている、健気な渡哲也が良いのである。ほら、よくあるでしょ、観光名所舞台で美少女アイドルが主演の青春映画が……。ああいうノリなんですよ……。私はいままでさんざん美少女が本来は荒くれ男がやるような立場を引き受けて細腕で頑張ったり、可憐な顔に似合わない銃をぶっぱなすor日本刀を振り回す娯楽を観ても「はいごくろうさん」と小馬鹿にしてきたのだが、日活時代の渡哲也を観るようになってからはすっかり心を入れ替えました。健気で可憐な若者はすばらしい。この世の宝です。

7. 新宿アウトロー ぶっ飛ばせ

12:03

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原田芳雄との共演作である。渡哲也と原田芳雄って、図体のでかさ以外、なにひとつ釣り合いの取れていない謎すぎるコンビである。特にツラのバランス取れてなさすぎである。少女漫画青年漫画のキャラクターが同じコマ内で同居しているような違和感。しかも少女漫画風の風貌の渡哲也が「死神<シニガミ>と渾名される凶暴な殺し屋」、青年漫画風の顔立ちの原田芳雄が「家に嫌気が差して飛び出したお坊ちゃま」というのが「逆、逆!!!」としか言えなくて最高だ。しかしそれがいい。

冒頭、刑務所から出てくる西神<ニシガミ>勇次(渡哲也)が手ブラというのがもう最高である。これ、初めて見たときは「ふつう風呂敷包みのひとつも持ってるだろ……下手すぎ……さすが日活末期……」と小馬鹿にしていたのだが、実は刑務所の前で松方直(原田芳雄)が出待ちしており、速攻一緒に住もうと言ってくるので、全く間違ってなかった。そして見事渡哲也は原田芳雄のヒモにおさまるのである。ヒモで家にいろと言われているのでド暇で、日がな一日半裸でゴロゴロしたり、窓の外に向かってガオーッとしたりしながら……。あれは「あれだけ可愛けりゃ手ブラでも生きていける」というこの世の真理を表現したシーンだったのだ。

とふざけるのはともかく、渡哲也は単に銃の扱いがうまいだけで、みんなに“死神” “死神”言われるのは本当は不本意なのに、しかたないとずるずるとそれを受け入れてきた……のに、原田芳雄が「おまえは死神<シニガミ>なんかじゃないっ!!! 西神<ニシガミ>だっ!!!!!」と言ってくれたことで呪縛から解放されるとか、もう、最高じゃないですか? 神じゃないですか? 渡哲也が日活でさんざん出演してきた「いやな目にあっているのにそれが言えなくてひたすら無言で我慢してしまう系の役」のすべてから解放されたようで……。

この頃にはあれほど拙かった演技もだいぶ板について、外見も大人っぽくなってきており、哲ちゃんの成長に目を潤ませる親戚のオバちゃん気分になれる。





この後渡哲也は『関東破門状』(1970)を最後に日活を退社し松竹東映作品へ出演、もうちょっと大人っぽい役を演じるようになるのであった。

ということで、最後にまとめます。

日活時代の渡哲也 まとめ

1.渡哲也はかわいい

2.不自然な感じがかわいい

3.生きづらそうなほどかわいい

そういうわけで、渡哲也の日活時代再評価を望みます。

(そのためにも日活には出演作すべてDVDを出して欲しいです)

*1:「凄腕の銃使い」って何?と思われる方も多いと思われますが、日活アクションの世界にはよくある設定なのでこれ自体に特に意味があるわけではありません。殺し屋や職業スナイパー等ではないが、卓越した狙撃等の技術を持っているというキャラクター設定です。西部劇でいうところの凄腕ガンマンだと思って頂ければ。

*2:安藤先生的には日活はリアルじゃない(東映のように現実のヤクザの作法の考証に基づいた演出をしていない)のがご不満のようだが、結果的には安藤先生の良さも出ている作品だと思う。(安藤先生の良さ=一生懸命お願いすればなんでもやってくれそうな感じ)

2015-11-07 日活ヤクザ映画の「世界」

 この4月にシネマヴェーラ渋谷安藤昇特集があった。出演数の多い東映ヤクザ映画のほかに、日活ヤクザ映画もそこそこの本数が上映された。そこで改めて感じたのが、ああやっぱり日活のヤクザ映画が目指していた方向性は、東映のそれとは違っていたんだということだった。


 特集当時、上映された日活ヤクザ映画のタイトルでtwitterを検索すると、「東映ヤクザ映画に比べて下手」「リアリティがない」と書いている人がずいぶんいた。「比べて」「リアリティ」という言葉に強い違和感。*1その言葉に対する違和感や抵抗感は、逆説的に、ああやっぱり両社の世界観は違うのだと改めて認識する切っ掛けとなった。とは言っても、人と両社の違いについて語り合ったことがあるわけでもないので、私以外の人がどう認識しているかはわからない。一度、いまの自分の感じるその“違い”を、いまのうちに言葉にしておきたいと思いう。


 私がもっとも好きな日活のヤクザ映画は、1968年公開の舛田利雄監督『「無頼」より 大幹部』である。

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 60年代末期に日活が制作したヤクザ映画をことばで表すなら、「凄惨」のひとことに尽きる。とにかく暴力描写、それに絡む心情描写がすさみきっていて、暴力描写大好きっ子の私でさえ「そこまでやる必要あるのか」と思うくらい、救いうようのないメチャクチャさである。これは70年代の東映実録路線に比しても凄惨だ。『北陸代理戦争』や『実録外伝 大阪電撃作戦』にも残酷無比なヤクザのリンチが登場するが、あれはあくまで見せしめ、示威行為というエクスキューズがついた上での残酷描写だ。だが日活はそうではなく、ただひたすらに理不尽で惨たらしい暴力の連続で、まじであくまでただの現実に存在する社会悪「暴力」そのものを殺伐と描いている。日活が何故ここまで凄惨な描写に走ったかはわからない。会社の経営悪化、世相の荒れ、色々あるのだろうが、大映松竹などの他社に比してもあまりにも凄まじい……。

 『「無頼」より 大幹部』では、藤川五郎(渡哲也)という不幸な生い立ちの青年が長じてなお社会になじめず、一匹狼のヤクザとして社会の最底辺を彷徨する姿を描いている。一匹狼といってもカッコいいものではなく、他人とのコミュニケーションが出来なさすぎてありとあらゆる社会に馴染めず、その泥沼から抜け出す方法もわからずあてどなく彷徨しているだけ。この五郎がひたすら悲惨な状況に引きずり込まれていくのが本作の大筋である。

 本作で印象的なのは、クライマックスのキャバレーへの殴り込みシーンだろう。バックステージでの血みどろの凄惨な戦いのバックには、聞こえるはずのそのSE(効果音)はオフになり、店の歌手・青江三奈の歌う「上海帰りのリル」だけが大音量で流れる。この演出は偶然の産物*2らしいが、この聴覚が遮断された状況は、結果的にある本質を表していると思う。それは「コッチ側の人間とアッチ側の人間は、同じ世界に存在しながらも断絶している」こと。フロアで青江の歌を楽しむ所謂普通の人々は、コチラの世界を見ることも聞くこともない。バックステージのコチラからは、アチラの世界はチラチラ見えることはあっても、決して交わることはない。私はそういうイメージを抱いてしまう。

 勿論、あまりに辛辣な状況に晒された五郎の心にはもう青江の声だけしか聞こえないというイメージであったり、何かに強烈に集中していると周囲の雑音が消え、自分の心の音だけが聞こえるようになるというイメージでもあるのだろうが……。


 このような演出は、続編にあたる小澤啓一監督『大幹部 無頼』でより一層鮮烈になる。クライマックス、五郎は女子校の脇のドブ川でまたもヤクザと死闘を演じることになる。女子校のグラウンドでは、瑞々しく朗らかな女の子たちが、キャイキャイとバレーボールを楽しんでいる。しかし、誰も五郎やヤクザたちの存在に気付くことはない。五郎も生まれ育ちがもう少し“普通”に、素直にすくすくと育っていれば、あの光の中にいる側の人間だったろうに……。しかしいまやその世界を裸眼で見ることすらできない泥濘に脚をすくわれ、彼が這い上がることは未来永劫ないであろう。その絶望と断絶が、あのシーンには込められていると思う。最終的には、五郎は女子校のグラウンドに倒れ伏すが、女の子たちは叫ぶでも逃げるでもなく、不思議なものを見つけたというような目で、無言で彼を取り囲む。年頃の女の子がそうであるように……、異物を見たときのように。

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 しかし、この『「無頼」より 大幹部』と『大幹部 無頼』、べつに凄惨一辺倒の話ではない。実はこのクライマックスまでは、結構甘っちょろい筋立てになっているのだ。甘っちょろいというのはdisりではなく、青春映画のような妙にサワヤカな友情なり淡い恋なりが描かれるという意味である。中学生のような可憐な恋模様もさることながら、象徴的なのは、渡哲也が自分の兄貴分にあたる人のことを「アニキ」ではなく「センパイ」と呼ぶことだろう。盃上の義兄弟ではなく、感化院(彼にとってはあくまで堅気の世界)の先輩後輩だから「センパイ」ということらしいが、なんにせよ「センパイ」は若者のことばだ。若かりし渡哲也がきゅるんとした目で「センパイ……」と言っているのは少女漫画みたいにホンワカしていて、ちょっと笑ってしまうのだが、ラストのあの奈落への反転を観ると、なんだか可哀想な気持ちになってきてしまうのだ。こういう若干ヘンな世界観は一体なんなのか? 何故シーンシーンでこんなにテンションが違っていて、最後には急に夢見る少年のドリーム感が一気に蒸散して、あんなことになってしまうのか?


 日活のヤクザ映画で、あ、これは突き抜けていると感じたのは、安藤昇特集で上映された1969年公開・中川順夫監督の『やくざ非情史 血の盃』である。

 その頃の日活自体の傾きが絵面に出てしまっている作品で、ぱっと見東映の劣化コピーのように見えるが、まったくの別次元の何かに到達している。最大の特徴は、本作においてもクライマックスの殴り込みシーンである。それまでの話は誠に失礼ではございますがあまりにちょっとあれすぎて記憶がなく説明できないのだが、紋付袴姿の安藤昇が葬儀の行われている寺院に赴き、堂内で数珠を引きちぎった瞬間から演出のレベルが急激に跳ね上がる。薄暗い本堂内、フィルムの感度が追いつかず荒れきって粒子の出まくっている映像、妙に低いアングルで幽霊のように不気味に動くカメラ、何をとらえているのか明確でない絵面。殴り込みシーンというのは主演俳優の魅力を際立たせ、華のあるように撮るはずなのに、まったくもって安藤昇の「かっこよさ」は捉えられておらず、鮮明に映されるべき彼の姿は様々なものに遮られ、粒子が荒れすぎで顔もはっきり見えない。これは何を表現しているのだろうか?  ほとんど語られる機会のない作品で、監督も無名のため、本当は何を意図した演出だったのかはわからないが、このすさみきって暗く混沌とした映像は、確実に東映の模倣ではなかった。

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 私は、これらは「主人公の視点から見た世界の姿」、きわめて主観的な「世界」の表現だと思う。

 あくまで主人公の心情からの視点で作られていて、そのときの感情によって常に同一であるはずの「世界」もまったく違って見える……そういう心の揺れ動きそのものを映画にしているのではないか。妙な甘っちょろさも幼稚とも取られてしまうような見識の狭さも変な自己愛も異常なまでの凄惨さも、あくまで感情の揺れ動きのフィルタを通して撮っているから、妙に歪んだ大きなブレが出ているのではないのか。しかし、その歪みは不良品ではない。歪みが起こることそれ自体が本質であって、それは、本来、青春映画の撮り方だと思う。

 というか、これは別に私の推測ではない。『「無頼」より 大幹部』について、舛田利雄監督は自ら語ってる。

僕ら、日活の場合はね。東映とは違って、やくざというのは、たまたまやくざの形を借りているだけで、やくざそのものを描こうとしているんじゃないんですよ。そういう意味じゃ、一見やくざ映画だけど青春そのものなんだ。歪な形をしているかもしれないけどね。 *3

 言ってみれば「社会」に直面した青少年の心の揺れ動きを、「大人なら黙ってスルーすべき」とか「大人なら受け入れるべき、我慢すべき」みたいにスカして描いてしまいそうなところ、戸惑いや困惑といった歪さを含めて率直に描けるところが、日活らしさ、日活ヤクザ映画の良いところだと私は思う。

*1そもそも論として、日活のヤクザ映画が制作されたのは1960年代後半で、東映のヤクザ映画(実録路線)は70年代前半である。東映で60年代後半に制作されていたのは戦前舞台の任侠映画や現代劇だとギャング物系、現代劇のヤクザ映画もあるにせよ、実録路線につながるようなバイオレンス系のヤクザ映画が登場するのは60年代末。どのあたりの作品と比べているのか知らないが、いずれにせよ比較すること自体ちょっとおかしいのでは……というのは根本的にある

*2:オールラッシュで音声がワントラックしかつけられず、とりあえず青江三奈の歌をずっと流していたらそれが好評で、そのまま最終的にも採用した

*3:私は、別に東映も実録路線においてはやくざの世界そのものを描こうとしているわけではないと思う。ヤクザ映画というのは山岳映画やスポーツ映画等とは違って、ジャンル名に冠している「ヤクザ」のしきたりやシノギそのものを描いているわけではない。社会のセーフティーネットから漏れた世界という設定を使って、主題は別のところにある。東映ヤクザ映画とってもっとも重要なテーマは「戦後とは何か」だろう。東映ヤクザ映画を代表する作品『仁義なき戦い』の第1作目は広島へ投下された原爆キノコ雲の記録写真がタイトルバックであり「敗戦後すでに1年。戦争という大きな暴力こそ消え去ったが、秩序を失った国土には新しい暴力が渦巻き、人々がその無法に立ち向かうには、自らの力に頼るほかはなかった」というナレーションから本編が始まることは象徴的だろう。そしてまた、東映は東映で、東映流の青春映画として、ヤクザ映画を制作していたと思う。この点に関しては、中島貞夫監督『現代やくざ 血桜三兄弟』を、是非観ていただきたいと思う。対して日活は、舞台は東映と同じ戦後社会だが、意図的に客観性や社会性を消し、あくまで「ある個人の見ている世界」を描いているように思える。だってさ〜、「自分にとって楽しいこと、自分にとって辛いこと」「こうだったらいいのにな、こうなれたらいいのにな。でも現実の自分はものすごくみじめ」っていう気持ちそのものに異様にフォーカスしているんだもん。先にも書いたとおり、これは青春映画の技法だ。

2015-05-17 神の一手

久々更新は囲碁もの韓国映画。去年韓国で公開されたときから目をつけていて、日本公開を楽しみにしていました。



┃  神の一手

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冴えないプロの囲碁棋士・ソテク(チョン・ウソン)は真剣師である兄に懇願され、ヤクザ・サルス(イ・ボムス)との賭け囲碁の通しに加担する。しかし通しを見抜かれた兄はヤクザに惨殺され、ソテクは半殺しにされた上兄殺しの罪を着せられて服役。だが刑務所の中で囲碁好きの牢名主に認められたソテクは彼の示唆で賭け囲碁狂いの刑務所署長に取り入り、所内で肉体を鍛えてステゴロ最強となった。出所したソテクは兄とレツを組んでいたコンス(キム・イングォン)を探し出し、復讐を開始する。



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誰も彼もが囲碁狂いという世界の中展開される凄惨な暴力と気が狂っているとしか思えない囲碁勝負。

「囲碁」というゲームがこの世界では『天牌』で言うところの「麻雀」と同じ意味を持っており、ヤクザから権力者からドチンピラからホームレスからそのへんのオッチャンから、あらゆる誰もが、みな囲碁に狂っている。もうこの設定が最高じゃないですか……。魚市場にヤクザの仕切る巨大な高レート碁会所があるとか、何故か刑務所の房内でも碁盤と碁石があって囚人たちが碁を打っているとか、時空のねじれ方がほんま最高で……。『てっぺん』ばりにエッジの利きまくった囲碁原理主義&摩訶不思議世界が展開しています。


ストーリーの中心になるのは、主人公が集めるサルスに恨みを抱く打ち手たちと、その敵役・サルスの集めている打ち手たちの囲碁勝負。この個性的な登場人物たちが大変に魅力的だ。

主人公の仲間は、かつての兄の仲間で「演技派」のイケイケメガネ小デブ・コンス(いいキャラ!)、街角で打っている盲目のホームレスの老人・ジーザス(アン・ソンギ)、ジーザスの旧友のゴミ掃除夫で片腕がアタッチメントになっている発明家・モクス。彼らはそれぞれの得意分野を活かしてソテクの復讐に協力する。対して、サルスが囲っているのは冷酷な美青年の打ち手、ジーザスのかつての敵でハメ手を多用する老人、かつては世界の頂点に君臨したプロ棋士だが現在はサルスの愛人となっている女、超人的に高い棋力を持つ不思議な子どもなど、こちらも漫画か!と言うほどコテコテにアクが強い設定で良い。特にジーザスが良いね。街場のホームレスが最強棋士という設定そのものもさることながら、終盤の……おっとこれは言えないね!というお楽しみが待っている(私的には)。


肝心の囲碁勝負であるが、見せ方がかなり工夫されているなと感じた。囲碁はルールを知らない人には普通にやってしまうと囲碁中継番組状態になってしまうのと、感覚的に勝ち負けがわかりづらく、ヴィジュアル映えに限度があるため、毎度毎度の勝負にそれぞれわかりやすさのアクセントと変化がつけられている。

その上でまずポイントとなっているのが、イカサマ、「通し」がアリになっていること。いや、「通し」という表現は間違っているのだが、要するに何らかの形で碁盤をモニタリングし、打ち手とは別の場所にいる指示者が打ち手に指示を出して打たせるという形態が黙認となっているのだ。麻雀漫画に慣れた身だと「そこははじめから代打ちを立てればいいのでは……?」と思うのだが、本作ではこの「打ち手と指示者が別にいる」という形態が活かされた勝負が展開される。ボディチェックをどうかいくぐるか、どうやって通しているのかの手口もさることながら、ここでポイントなのが、打ち手もまた生半可な素人なわけではなく、だからと言って超一流レベルなわけではないということ。それが意味するのは何であるかは実際に作品を鑑賞してご確認いただきたい。麻雀漫画好きの方は成る程と思わされる部分が多いと思う。

そういった脚本上の工夫で普通の勝負を盛り上げる以外にも、オンライン囲碁での遠隔勝負や冷凍倉庫で裸で早指し勝負など、シチュエーションは多岐にわたる。オンライン囲碁はiPadでやったり(問題集みたいなのを解く場面も)、ノートパソコンチャットしながらやったり。冷凍倉庫の勝負はまんま麻雀劇画……例えて言うなら『花引き』あたりで燃えるものがある。荒唐無稽なのだが、決しておちゃらけていないところが良い。


もう一つ良いのは、勝負の結果が簡単に暴力で覆ること。しかし、その暴力を凌駕するほどのさらなる暴力によって、すべてをねじ伏せることができる。これはとても重要なことで、主人公が肉体を鍛えているのはそのためなんですね。本作のもうひとつの見せ場は、アクションシーンです。

これを悪く取る方もいらっしゃると思うのですが、いやいや裏社会の話ですから、そこは「何のために遊んで飯食っとるんなら!」(県警対組織暴力)ですよ。あとヤクザがまじで怖いです。威嚇とかではなく、いきなり実力行使してくるんで……。


と、色々書いてきましたが、本作は現時点ではシネマート六本木でしか公開されていないのが残念(追ってシネマート心斎橋でも公開。両館とも韓国映画の特集上映の一環として上映)。個人的には真剣勝負テーブルゲーム映画の中では結構上位に来る作品だと思います。日本でもこれくらいのクオリティで『あぶれもん』か『てっぺん』を映画化して欲しいな〜……。

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┃ おまけ

上にも書いた通り本作は少々時空がねじれておりまして、「え……そのシーン、男でやる……?」と思わされるような、マジモンの男前俳優を起用した作品だけがぶちかませるすごいサービスシーンが何カ所があるので、東京近郊の方、大阪近郊の方はそれだけに1800円払って観に行ってもいいと思います。

2015-01-01 2014年ベストムービー10(ほぼ旧作だけど)

昨年は仕事が忙しく、あまり映画を観られませんでした。そして鈴木則文監督、高倉健菅原文太の逝去がショックすぎて心が無になりました。映画がらみで一番印象に残っている話は、新文芸坐中島貞夫特集でゲストに来た松方弘樹が「『脱獄広島殺人囚』のボットン便所から脱獄するシーンで便所に充たされているウンコはカレー」と言っていたことです。今年はテレビそして録画する機械を買って、CATVに加入して劇場でやってくれない映画を色々録画したいです。(低レベルな願望)


┃ 地獄

地獄 [DVD]

地獄巡り映画である。いかにも低予算なけばけばしい作り。これ見よがしな残酷描写。毒々しい色彩。ああ、これは見たことがある、私はこの地獄を知っている。幼い頃、夏は「地蔵盆」というお祭りに連れて行ってもらっていた。それは、何か美味しいものを買ってもらっただとか、盆踊りをして楽しかったという記憶ではない。私の住んでいた地域では、「地蔵盆」のメインイベント(?)は暗い夜道のところどころにテントが立っており、その中に黄色いライトに照らされた菊人形やハリボテの人形が置かれていて、それを見て歩くという不思議な形式になっていた。その菊人形やハリボテの人形がまた田舎の土俗的なセンスに彩られたものだった。ギトギトした色彩の品のない巨大な菊。新聞紙を張り子にして泥絵の具(だとまだ良かったが、チューブから絞ったままのギトギト色の安絵の具)を塗りたくった人形。具体的にどんなものが展示されていたのか記憶はないが、暗い夜道にぽつぽつ灯った明かりの下で繰り広げられる極彩色の地獄絵図は、子ども心にこの世ならぬ風景だと感じていた。本作は、それを思い出す映画である。

だが、本作で最もすさまじいのは、「地獄」を描くあの世パートではなく、「現世」を描くこの世パートである。もはや、あの世にある地獄などぬるいと思えるほどの現世の「地獄」ぶり。そして特筆すべきは、養老院「天上園」の造形である。汽車の警笛、御詠歌鈴の音が鳴り響くこの世ならぬ世界。線路、踏切、公民館の広間のような薄暗い座敷。貧乏な老人が肩を寄せ合い、ありあわせのもので作るささやかな娯楽、慰安行事。こちらは「地獄」パートのようなテンプレ的な表現ではなく、しかしながら既視感のある世界であるぶん、来るものがある。いや、これに既視感を感じるかどうかは人それぞれだと思うんですが、自分に限って言えば、幼少時代はこういう「世界観」のなかに生きていました。田舎って都会の人が思うほどホッコリしてないし、ナチュラルでもないですから的な……。

でも、「地獄」って、いいところですよね。この世では誰からも相手にされず、認められず、無視されて苦しんだ人も地獄に墮ちれば必ず閻魔大王や獄卒の鬼があなたの価値を認め、あなたをくまなく誠実に査定し、あなたに合った環境に配してくれて、24時間、かならず側に鬼がついて細やかにケアしてくれる。そして、「永遠」が約束されている。ある意味ではこの世より、ずっといいところでしょう。



祇園の暗殺者

幕末京都、理想とする新しい時代を切り拓くため、暗殺に手を染める勤王派の志士・志戸原(近衛十四郎)。しかし時代の激流の中で、暗殺は信念ではなく虐殺になってゆく。彼は次第に“時代遅れ”となり、そして――。

もう、「観てくれ!!!!」としか言いようのない、素晴らしい作品。大きく変化してゆく時代のうねりの中で、信じるものに裏切られ、無下に引き裂かれてゆく個人の感情。自分以外の何かに「自分」を託している人間、大切に思う「過去」がある人間にとって、これほど響くモチーフはない。笠原和夫の真骨頂だろう。笠原和夫は監督の演出にかなりの不満がある旨インタビューで話しているが、笠原和夫の描きたかったことが濁っているわけではないと私は思う。ソフト化を切望す。



春秋一刀流

出入りの助太刀をする雇われ用心棒稼業の侍三人。「もらった金の分しか働かないよ〜」とばかりにノンビリやっており、日記をつけたり、お金を貯めて道場でも開こうと計画したり、ほっこり過ごしているが、次第に暗雲が立ちこめてくる。

1939年製作なのにまったく古さを感じない。昔の映画に対して「古さを感じさせない」というのは一種の紋切り型の褒め言葉で、そうは言っても実際には古くて、古い映画にしてはガンバッテルネ、くらいが通常の意味だけど、本作に関しては字義通り、本当に「古さを感じさせない」。主人公たちの自然体な雰囲気といい、主人公の書いている家計簿(?)がわりの日記のかたちを借りた語り口といい、大変に洗練されている。これが公開された戦前の日本というのは一体どういう世界だったのだろうと思う。



コータローまかりとおる!

  • 監督=鈴木則文
  • 脚本=志村正浩、鈴木則文
  • 東映/1984

『関東テキヤ一家』を初めて観たときも感じたが、鈴木則文は「テンプレ」が確固として存在するジャンルの「テンプレ」を客観視し、虚構の世界としてメタ化して表現するのがうまい。いまでこそそこらじゅうに氾濫している表現方法だが、当時では先進的だったのではないだろうか? 『関東テキヤ一家』の「任侠映画」感、この『コータローまかりとおる!』をはじめとするコミック原作学園モノの「学園モノ」感。その「〇〇感」を外側の世界から腑分けし、「作られた世界」として再構築して描いているように思われる。

それにしても、この「学園モノ」感がたまらない。絵に描いたような巨大学園都市、絵に描いたような生徒会、絵に描いたようなヘンチクリンな仲間たち、絵に描いたようなセンセイたち、絵に描いたような……。絵に描いたような学園ものの世界をそのままフィルムに焼き付けた、濁りない世界観。

鈴木則文の学園もので良いところは、いわゆる「スクールカースト」がないことだ。それはスケバンものでも同じ。ワルな子、優等生、普通の子、地味な子、バカな子、いろんな子がいるけれど、普通は交じり合うはずのないジャンルの子同士がなんの分け隔てもなく仲良くしている。仲良くといってもわざとらしく友情を持ち合っているというわけではなく、ひとりの人間とまたひとりの人間として、ごく普通に接し合っている。これって実はそうそう描けるものじゃないと思う。他人に対する「見下し」が一切ない。大学や私立学校等、在籍する子のジャンルがある程度均等でモラルの高い状況ならともかく、ここまでいろんなジャンルの子がごった煮に交じっていると、実際にはこういう状況にはなれないと思うんだよね。露悪的にいじめやスクールカーストを描かなかったのは本当に素晴らしいと思う。

ここはわたしたちの経てきた教育課程「学校」ではない。あくまで理想のスクールライフの世界、「学園」なのである。

(あと、地獄のように下らないギャグが本気ですごいです。本当に。)



┃ 暁の挑戦

ぶっちゃけ話はつまらない。日本最大の騒擾事件と言われる鶴見騒擾をモチーフにしているのに“不発”なこの出来、批判されてもしかたないし、「色々なところに配慮した結果そうなったんでしょうなあ……」というほかない、当たり障りのない内容である。

しかし、敵役であるヤクザの若頭を演じる渡哲也が本当に素晴らしい!! 主演は一応若林豪中村錦之助だが、正直、これは渡哲也のための映画だろう。

ここでの渡哲也は『東京流れ者』の「不死鳥の哲」を成長させ、「関東」シリーズの武闘派ヤクザ役をミックスさせたイメージで、「個人」を鋼鉄の意志で覆い隠し、親分と組への忠義に殉ずる男を演じている。病に臥せっている親分に代わり、組のつるぎとなり盾となり、ときには組を守るために親分よりも強気の行動に出たりもする。常に真顔である。彼に「情」はなく、すべては「義理」に支えられている。だが、渡哲也本人の持っている繊細で可憐な雰囲気が彼をただの冷徹な組織人には見せず、それが「純情さ」や「真摯さ」のなすものであるように見える。この役は、日活で渡哲也が演じてきたヤクザ役の集大成になっていると思う。それは決して東映のヤクザ映画のマネではなく、渡哲也ならではのオリジナルなそれだ。日活作品で描かれる「ヤクザ」とは何か? それが本作の渡哲也に出ていると言ってもいい。

童顔でカワイク見えてしまうせいか、日活を退社して以降のハードな役ではサングラスをかけていることの多い渡哲也であるが、サングラスをかけさせず、素顔のままでやらせているあたり、やはり舛田利雄はよくわかっている。最後の涼やかな台詞も渡哲也ならではで、良い。



┃ 新しき世界

新しき世界 [DVD]

  • 監督=パク・フンジョン
  • 脚本=パク・フンジョン
  • 彩プロ/2013/韓国

これだけ新作封切、韓国のヤクザ映画。

企業ヤクザの会長が急死したことで次期会長の座を巡って巻き起こる内部闘争、組織に密偵を送り込んでいる警察の思惑によりさらに争いは激化。その中で潜入捜査官・ジャソン(イ・ジョンジェ)は兄貴分である大幹部・チョンチョン(ファン・ジョンミン)への職務を越えた友情と、一介の警察官だった自分を見いだし現在の境遇に引き上げてくれた上司・カン課長(チェ・ミンシク)への義理に引き裂かれ、苦悩する。

知人で本作を観て「評判はいいけど個人的にはいまいち……」と言っている方が結構いたんだけど、そういう方の言うことはすごくよくわかる。話自体はものすごく普通で、はじまってすぐオチが読めるんだよね。東映のヤクザ映画みたいな独自の情念とか独自の感情描写はない。感情の動きもすごくテンプレっぽい。よどみや揺らぎが排除され、純粋培養されている感じ。本来ならそのよどみや揺らぎが映画の面白さ、味につながるはずなんだけど、商売で映画作ってますからって感じでそこをものすごく刈り込んでいる。でも私は「普通の話をものすごくキッチリ仕上げている」こと自体が凄いと思う。言ってみれば「普通」なこの話をよくもまあここまでクオリティ上げたなと。とにかく設定の作り込みや映像等のクオリティがきわめて高い。ぜんぜん雑なところ、適当なところがないのだ。なんかものすごく出来のいいBL漫画を読んだような印象……。いい意味で……。いや本当に……。

俳優のヴィジュアル面でのクオリティが端役であっても異常に高いのが個人的に面白かった。例えば大幹部が大勢の舎弟を引き連れているシーンとか、その舎弟がみんなメチャクチャスタイルよくて、クッソ笑えます。ハーレムかよって感じで。話の優等生っぽさは東宝ヤクザ映画(『桜の代紋』とか)みたいなんだけど、この点のノリは日活ヤクザ映画(渡哲也主演のヤツ)っぽいです。

ところで、チェ・ミンシクって若山富三郎に似てない? 韓国で『子連れ狼』作ることになったらチェ・ミンシクに拝一刀役をやって欲しい。



┃ 十兵衛暗殺剣

  • 監督=倉田準二
  • 脚本=高田宏
  • 東映/1964

かなり外伝的なニュアンスの強いストーリーと設定で、疲弊した雰囲気の漂う時代劇。

まず主人公・十兵衛(近衛十四郎)が将軍家御指南役になってからの話という設定に驚く。そこから話始めるんだ!?と。十兵衛は何かに疲れたような雰囲気を漂わせている。一方、新蔭流正統を自称し十兵衛を狙う幕屋大休(大友柳太朗)のほうが主人公たる十兵衛よりも主人公っぽい、義の風情を湛えている。本作はこの二人の戦いを陰鬱に、退廃的に描いてゆく。ここまですべてがネガティブ方面に傾いた時代劇というのはすごい……。昔は時代劇って本当に幅が広かったんだなと思わされる。何も得るもののないラストも「これが出来た」ということ含め、素晴らしい。



┃ 血槍富士

血槍富士 [DVD]

  • 監督=内田吐夢
  • 脚本=三村伸太郎、八尋不二、民門敏雄
  • 東映/1955

江戸へのぼる若様とその付き人、片岡千恵蔵加東大介の二人を中心に、様々な人の人生が交錯する道中ろおどむうびい時代劇。

品のある雰囲気、チャーミングなユーモア、そして急転直下のクライマックス。やはり戦前から活躍している監督は教養とエレガンスの根幹が違うと感じた。いや、エレガンスがあること自体が特有であると言うべきか。こういう「雰囲気」って、どこで断絶して、消えてしまったんだろうね。戦前の映画への関心が高まるばかりだ。



┃ 博奕打ち

博奕打ち [DVD]

  • 監督=小沢茂弘
  • 脚本=小沢茂弘、村尾昭、高田宏治
  • 東映/1967

明治初期の飛田遊郭を舞台に、流れの博徒鶴田浩二と飛田を仕切る博徒一家の代貸・若山富三郎の対決を描く任侠映画。

やっぱ映画は東映でしょ、と思わされる堂々たるプログラムピクチャーである。あらすじの瑣末なところは正直どうでもよくて、もらった金の分だけは必ず客を楽しませるで!!!というスタッフとキャストの心意気が本当にいいなあと思う。絢爛豪華とまでは言わないまでも、お金をかけるところにはキッチリかけてセットや衣装をつくり、演技の出来る役者をしっかり起用して観客を楽しませる。撮影所謹製のピログラムピクチャーというのは大きなエネルギーを持っていたのだなあと感じる。そう実感したのは、本作を観る直前、上映特集等の都合上ATGばかり観ていたのが大きいだろう。比べることじゃないけど、かけてる金とサービス精神が全然ちゃいますわな……と素で思ってしまった。ATGはATGで良い作品はあるけれど、いまの自分の視点から観ると、むしろ撮影所映画のほうが新鮮にうつるのだ。



┃ 黒薔薇昇天

黒薔薇昇天 [DVD]

今はブルーフィルムを撮っているだけだけど、いつかオオシマナギサやイマムラショウヘイのようなアート系の映画を撮りたいと願っている映像作家・岸田森は通っていた歯医者で高貴な雰囲気を漂わせる婦人・谷ナオミを見初め、自分の映画に出てくれるようあの手この手で説得しようとするが……というロマンポルノ。

個人的に神代辰巳には当たり外れがあると思うのだが、本作は大当りだった。ラフな映像と音楽がラフな?日常的ストーリーにマッチしていてとても良い。素描のような軽やかさ。食べ物で例えるならそば粉クッキー。小さな遊園地で谷ナオミを口説く岸田森を観覧車メリーゴーランド?)の色ガラス越しに撮っているシーンが素晴らしかった。




ほかによかったのは以下の作品。

  • 『和製喧嘩友達』……オシャレすぎる。特にパンツをはいたニワトリ。
  • 『幽霊船』……セロファン影絵のアニメーションが超華麗。独特の声楽を使った音楽も良い。
  • 『毒戦 ドラッグ・ウォー』……新作中国映画。情緒を完全に排し、すべてを目に見えるかたちで表現しているのが本当すばらしく、カッコいい。
  • 忍者狩り』……マジでスタイリッシュなアクション時代劇。オシャレでございというツラをした現代製時代劇をすべて殲滅するスタイリッシュさ。
  • 『妖艶毒婦伝 般若のお百』……神話的復讐譚。エピソードとエピソードのあいだの飛躍が欠点とならず、快感になっている。
  • 『博奕打ち 一匹竜』……『般若のお百』と同様、謎の神話的ダイナミックさを持つ作品。
  • 二・二六事件 脱出』……首相救出作戦を拝命した憲兵・健さんがウッカリ顔すぎて、なにかすごいヘマをぶちかますんじゃないかとハラハラさせられた。
  • ファンキーハットの快男児』……日活的ヤングでフレッシュで快活なオシャレさがあって良い。千葉チャンのスポーツマン感がMAXプラスに活かされている。
  • 『濡れた欲情 ひらけチューリップ』……パチンコ劇画を映画化したようなマンガチックな雰囲気のある不思議なロマンポルノ。
  • 伊賀野カバ丸』……鈴木則文の学園マンガ感性が少女マンガ方面に炸裂、往年の少女マンガ的学園感に感涙。
  • 『夜の片鱗』……話は陳腐だが映像が良い。極彩色のネオンをはじめとした色使いが美しい。他、ヤクザなのに「ヒメ」ってあだ名の平幹二朗が不思議。
  • 『わが闘争』……自慢入った女の自伝的な話を不気味な映像で描く不思議な作品。「自慢入った」っていうのが結構ポイントです。
  • 大日本帝国』……お涙頂戴にしなかったのがすごい。勿論悲惨な内容だが、さわやかな青春を忘れないトッシーに乾杯。
  • 『無宿人御子神の丈吉 牙は引き裂いた』……良い意味でマンガ感があり、劇画原作?と思ってしまう。渡世人クロスオーバーっぽい設定が面白い。
  • 『港祭りに来た男』……いまは亡きファンタジック時代劇。まるでオペラのようだ。神話的世界観が良い。
  • 『たそがれ酒場』……失われた美しい世界を感じる。遠く離れた「時間」がショートケーキのようにチョコンと小皿に乗って供されている、そんな気分になる映画。

初見ではないので書かなかったが、川崎市市民ミュージアムの笠原和夫特集で『懲役十八年』をスクリーンで観られたのが嬉しかった。『暁の挑戦』含め、川崎市に納税しておられる川崎市民のみなさま、本当にありがとうございます。