an-pon雑記帳

表現者と勝負師が好きです。

日本の音を聴く

行楽の季節11月も終盤、今が盛りの紅葉を楽しまれた方も多いことだろう。
京都は紅葉の名所も数多く、ライトアップなどそれぞれ工夫を凝らしているところもあり、私もどこか一ヶ所くらいは見ておきたいもの・・・と思っていた矢先のことだ。
仕事先の登録ワーカーさんたちが作り上げ、納品したデータ集計ファイルに多数の不具合が見つかり、全面的にデータの見直しをしろとの不意打ちのお達し。すぐさまメンテナンス部隊を編成し、人力車上で笑いさざめくカップルを横目に嵐山の現場に急行する。先鋭部隊とはいえ、ワーカーさんはそれぞれに深刻な重荷を抱える方々、ここは心身ともに一番頑丈な現場責任者たるわたくしが率先して修正作業にあたらねばなるまい。・・・しかしながら。
空欄に次々と入力していく充実さに比して、何百、何千とある項目の細かい数値を元データと一つ一つ照合していく、というのがどれほど気の滅入る作業か、ある程度はお察しいただけるだろうか。1、2、3・・・計6日と半日にわたって休日返上でフル稼働、文字通り朝から晩までPCモニターを睨んでいたわけであるが、こういう時の「集中力」というのは情けないほど持続しない。気がつけば意識は遠のき目線が泳いでいる。その上断続的に猛烈な睡魔に襲われる。
一向に減らない元データ書類を呆然と眺めつつ、「こーゆー場合は中枢神経直撃型のお薬をちょっぴり服用すると効率がハネ上がってナイスね、きっと。リタリンをマイルドにしたようなのが市販されたら便利だな」などと不埒な考えが頭をよぎるが、今現在使えない以上、それは自前で分泌するしかない。
「あっ、ここ1が抜けてるやないか!私の目から逃れられるとでも思っているのか!わはははは!!」・・・と絶え間なく自分を鼓舞かつ喝采して気を高めることにより納期にはなんとか間に合わせたものの、すっかり疲労困憊、ほうほうの体でありましたとさ。

ようやっとの代休1日目は昏々と眠り続けた後、
このような音楽↓を大音量で聴いたり・・・

      
       KING CRIMSON「Larks Tongues in Aspic」


機動戦士ガンダムⅢめぐりあい宇宙』を観たりしていました。

・・・・・・他にすることはないのか。



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・・・どうもよくないなあ。
国を治めたり諸外国と対話したり、人を断罪したりする地位にある人たちの失態が相次いでいる。経済もあいかわらず元気がない様子だし、前途ある若者には仕事がないし、こんなことでは日本は・・・などと国を憂うガラではない私だが、景気づけにひとつ、「日本人ってなんてすばらしい・・・!」と思わずかみしめてしまった本を紹介したいと思うのだ。
(・・・こういう時によく使われる「捨てたもんじゃない」って言い方が嫌いだ。
堂々と賞賛したい)


◆『日本の音を聴く』柴田南雄

もちろん著者はバリバリの西洋音楽の教育を受けた人だが、日本の古楽器に関心がおありで、国内の様々な古代楽器をフィールドワークし、それを日本人の心性史や古典文学などに織り交ぜて考察、やさしい表現の上質エッセイに仕上げて我々を楽しませてくれる。
冒頭の一章には「「こをろ」と「もゆら」」という不思議なタイトルがついていて、これはどちらも『古事記』に登場する擬声語である。前者がどろどろしたものをかきまわす音、後者が首飾りをジャラジャラいわせる音だそう。
「kowolo といい、moyula といい、なんと悠長で、大らかで、みやびかな擬声語であろう。悠長さや大らかさは、どちらも三音節、つまりゆとりのある三拍子であることと、子音に騒音の要素がなく、母音ともども軟らかい響きであることから来ている。」
「こをろこをろ」と海水をかきまわす神々・・・・自然にゆったり溶け込んでいた古代日本人の姿が見えてくるようではないか。

「日本の音の原点」、そしてその音色を「縹渺」と表現される縄文時代の楽器「石笛」をめぐる話も興味深い。三島由紀夫の『英霊の聲』(←『憂国』と並んで戦慄ものの小説!)の中で、盲目の青年が神がかりとなる場面で登場する石笛の描写が「縄文時の石笛の様相と音をありのままに表現している」そうで、それは能楽で神霊が出現する時に吹かれる能管のやや調子っぱずれな、鋭い音とそっくりである・・・石笛と能と現代芸術の精神性が交錯する、短いながらもドラマティックな章のひとつだ。

「こちらの小鳥はドイツ語で歌います」というドイツ在住者の言葉を受けて著者はこう続ける。「西洋の小鳥の歌は論理的、少なくとも韻文的にきこえる。(中略)ヨーロッパの小鳥の啼き方は鋭い音で、明瞭な音節で、起承転結のはっきりした啼き方をする。日本の鳥の啼き声の方がずっとニュアンスにとみ、変化が多く、だが、しばしば輪郭がぼやけている。西洋の言語と日本語の違いにそっくりである。」
・・・ここを読んで、ああやっぱり日本っていいな、と思ったのだった。


◆『気まぐれ美術館』洲之内徹

芸術新潮」に連載されていた美術エッセイ「気まぐれ美術館」シリーズは、小林秀雄青山二郎白洲正子といった超一流の目利きがこぞって愛読していたことで有名だが、最近では雑誌「sumus」同人の方々が皆お好きなようで(洲之内さんの特集号があります)、時々書店に特設コーナーができたりしている。根強いファンを持つ書き手だ。

自身の近況や、その土地をめぐる回想(戦中派ですので、戦争の話もよく出てきますね)など身近な些事から語りが始まり(落語でいうところのマクラ?)ふいに「・・・話は変わるが」とか「そんなことは実はどうでもよくて・・」と転調され、件の画家や絵の話題に流れていく。時にはタイトルになっているその話題がいつまでも出てこないことさえある。だがこの間合いが、一緒にふらふら散歩しながらお話を聞いているようで心地よく、また日本にこんなにたくさんの個性的ですばらしい画家がいたことにしばしば驚かされる。
時折挿入される著者の艶話もこのエッセイの大きな魅力のひとつだろう。(いや全く、女性関係のそのめまぐるしさといったら!いつも大変なことになってます・・・)
そしてこの人の文章には、心惹かれる画家や女性たちの輪郭をさらりと描いてふっといなくなってしまうような気配があって、ついつい「うーん。この人のこともっと知りたいな」と追っかけたくなってしまうのだ。・・・さてはこれがモテる秘訣か?


◆『新釈諸国噺太宰治

ずっと前に太宰治のお好きな作品は何?と聞いてみたことがあり、人それぞれの好みがあって(やはりオモシロ系とやりきれない系にわかれる感じ?)なかなか楽しかったのだけど、私のベスト3に追加したいのが『津軽』とこの『新釈諸国噺』。
西鶴の短編、それもどちらかというとトホホな感じの物語をセレクトして脚色(←?)すること十二篇。みごとに全部おもしろい。
講談調とでもいうのだろうか、さくさくしたリズムのある文章で一気に読ませる。音読したらさぞ気持ちのいいことだろう。
たとえば「やせ我慢」とか「健気」とか「義理人情」とか・・・今日びめったにみられなくなってしまった(←そうでもない?)日本人特有の美質の一面をとても好ましい形で浮かび上がらせている。なんていうか・・・“泣き笑い”的な話を作らせたら、天才的なセンスを発揮する人だと思いますね。
本人は「出来栄えはもとより大いに不満」とか言ってるけど。



・・・名所には行けなかったけど、そこらの公園でも充分きれいでしたよ。 

      


      


(2010年11月30日記)