HARAPEKOveggy

2017-02-13

久真八志さんの短歌

目薬を妻にさされる。閉じたのにまたひらくのでまぶたを閉じる  久真八志
『かばん』2017年12月号より




「閉じたのにまたひらくのでまぶたを閉じる」
この部分は誰がまぶたをひらき閉じるのか、その動作主が記されていません。

記されていませんが、確かに動作主は変わっているように思います。
閉じた→さされる夫、またひらく→妻、閉じる→夫でしょうか? 

動作主が変わっても主語を記さないでよいという日本語の特徴をうまく使っていると思いました。

古典のテストで、源氏物語動詞の動作主などを選ぶ問題を思い出してしまいました。

「目薬をさす/さされる」という行為は、信頼関係がなくてはできないものの代表例です。この場面を選んだのも手柄ですし、その代表例にこの動作主が誰かわからない動詞の繰り返しを持ってきたところが夫婦という関係の特別さと親密さを引き立てています。

「またひらく」について。一度目薬をさしたのに満足できず(妻は夫の眼にちゃんと目薬が入った気がしていない)、もっとさそうとする妻の強引さが感じ取れます。その少しお互いを所有しているような「あだっぽさ」が、この短歌に色を加えていると思います。

加えて、前号評には書かなかったのですが、「さす」「またひらく」は意図的に男女の性行為の役割を逆転させていることを暗示しているように思いました。平仮名表記されているので、どう考えても「股開く」を連想してください、と言われているような気がしてしまうのです。

以上は『かばん』2017年2月号に掲載した前号評の一部から加筆修正したものです。

2017-01-22

佐藤弓生さんの短歌

人界に言語あることすさまじく月のみが聞く月震のおと  佐藤弓生
『かばん』2014年6月号より


「月震のおと」と「言語」が対置されている。人間の耳は、言葉を聞くことばかりに忙しく、月が震える音に気づくことがない。耳も慣れていない。

そもそも私は、moonquakeという言葉をまず知らなかった。この「月震のおと」という言葉に出会って私の世界に「月震のおと」が突然あらわれた。

数千とある言語の、人間の話す言葉のけたたましさ、何らかを伝えようとする人間の心の煩さといったもの、またそれを疎い何とか遠ざけたい気持ち、一方で言語の存在そのものに対する驚きと恐れ、圧倒のようなものが感じられる。

それに対して、月が震える音はもっと静かで壮大だ。人界では「月震のおと」これを聞くことができない、視ることのできない、触ることのできない、しかし確かに存在するはずの何かだ。

世界中の人がいっせいにいろんな言葉で話している音がわあーと聞こえた後に、突然月震の静けさと厳かさがやってくる。

人界の言葉の煩さのおかげで、読者はより一層、月震のおとの存在に真実味と確かさとを感じとることができる。

ジョン・ケージ松尾芭蕉でないが、「沈黙をきく」というのは、いちばん緊迫した、密度の濃い時間であるように思う。きこえないものをきこうとする態度。

大学のときに恩師に習ったが、古代のピタゴラス派は、どの惑星も公転自転しながら、音楽を奏でていると考えたという。ハルモニア・ムンディ、天体の奏でる音楽。惑星が回転する音を全てあわせると、壮大な音楽になっている。この地球も死がやってくるまで、ある音階を奏でている。私たちに聞く力がないだけだ。

−−−− 
以上は、2014年8月号のかばん前号評で書いたものを修正したものです。

大学の教え子たちに短歌を紹介すると、必ず、佐藤弓生さんの短歌
"悲しいというのはいいね、濡れながら、傘を買わなくてもかまわない"『薄い街』(二〇一〇年十二月・沖積舎刊)

が一番人気でした。

学生たちに日本語で感想を書いたり、中国語に訳してもらったりしたのですが、当たり前のことながら、母語が日本語ではない人に愛される日本語の短歌がここにあり、外国にも短歌ファンは増えるんだと思って興奮した覚えがあります。

「悲しいというのはいいね」

このたった12音の中で起こっている「悲しい」の転換にまず驚きます。それから「雨」という言葉を全く使わないでいながら、雨に打たれる甘さと冷たさを表現できています。

ほかにもすごい理由がたくさんあるので、この歌についてはいつかきちんと書けるようになりたいです。

2016-09-07

山下一路さんの短歌

ガッツポーズするスイマーの降ろす手の所在のなさが微妙に日本 
山下一路


初めてかばんの歌会に行ったときに出会った短歌だったと思う。印象的だった。この歌と同時に思い出すのが、次の歌だ。

右手をあげて左手をあげて万歳のかたちになりぬ死んでしまいぬ 
高瀬一誌


山下さんのこの一首から、勝者であるメダリストスイマーがガッツポーズをしてみてもなお、どことなく自信なさげで弱々しい様子が浮かんだ。
両者の短歌とも「勝っても敗者」というような感じが出ていると思う。

前半は韻律からかなり外れても、下の577の部分でしっかり戻ってくるあたりも、なんだかこの二首には似た感性がある。

私は実際に行ったことがあってバンザイクリフを想起してしまうのだが、なにより、

日本人の身体に染み付いた「敗者の型」について、この二首は鋭い。
まるで能のすり足みたいに染み付いた型。

敗者の型と長きに渡る謙遜の文化ががっちり結びついたせいか、ガッツポーズをしてもバンザイをしてもなんだか寂しい。
バンザイをしながら崖から飛び降りた人たちがいっぱいいたのだから、片方ずつ手をあげて、バンザイをすることはまるで完全なる降伏みたいだ。

勝者でも敗者。勝者のような敗者。敗者として宿命づけられた共同体

特別な個人でなくて、個人のなかの「共同体」が描かれていることが他の短歌と逸しているところだと思う。
スイマーが寂しい、というより、そのスイマーの中にある日本が寂しい。

自分がある共同体の成員だと、自分で確信できるにはどんな要因が必要だろうか。そんなことを時々考えるのだけど、言語とか国籍とか肌の色とかよりも、身体の所作というのは最後まで染み付いて離れないものかもしれない。

2016-08-22

法橋ひらくさんの短歌

傷つけられたわけじゃないだろ 沖へゆく心のために灯台を持て
白昼の月はいよいよ消えかかり泣くほど好きな人がいますか
法橋ひらく『それはとても速くて永い』


かばんの会に入ってすぐだったと思う、かばん新人特集号 vol.5を手にして法橋ひらくさんの存在を知った。当時、法橋さんにひどく嫉妬していた。歌会でたまに見かけると、精神分析医みたいな丁寧で的確な評をしていて、こんな風に誰かの歌を読めるようになれたらいいのにとまた嫉妬した。

そんな嫉妬の的であった法橋さんから、かばん12月号(2015)の特集で『それはとても速くて永い』から一首評を、と書く機会を頂いた。その時に書いたものにすこし加筆修正して、こちらに載せたいと思います。

―−
「傷つけられたわけじゃないだろ」、「泣くほど好きな人がいますか」。

法橋さんの作品で、特に発問の入った歌に強く魅せられる。その魅力の源泉は何かと考えると、この表現の背景に書き手の手厳しい自問と自省があるからではないかと思う。

作者が自身に何度も強く投げかけた問いだからこそ、その問いが、そのまま読者に向かって、直球速球でどんなに遠くにいてもビュンと飛んでくるのかもしれない。他人事として無視できない球なのだ。その自問の強度で読者を説得し、果ては読者にも自問の連鎖を引き起こしてしまう。

泣くほど好きな人?!いるか?いない?!いませんっ!います!!と、一人コントのような自問の連鎖をしてしまう。

だいたい普通はこんなに直球で相手への思いの強度を問われたりしない。
法橋さんの短歌は、聞いてきそうで誰も聞いてこないことを質問してくるのだ。

「傷つけられたわけじゃな」くて一体何なのか、考えてみる。それはやはり「おまえは自分で勝手に傷ついているだけだ」という内側に向かう批判なのだろう。自分の中の傷つきやすさ、不甲斐なさと向き合って、その上で自分にツッコミを入れている。

面白いと思ったのは「沖へゆく心のために」という部分だ。

灯台を持つのはあくまで「心のため」。ただ航海に出ようとする心持ち、そして沖にいる他者にまで到達できるような相手への慮り、想像力、心の飛躍のためなのだ。実際に航海して誰かを救うだとか自分を見つけるとかいう目的じゃないところがすごく優しくて厳しい。

最終的にはただその心のあり方だけを問題にする。

「白昼の月」も「灯台」も遠くにあって目印になって遠くのものと交信する手段だ。作者が自問した分だけ、速く永くどこまでも光が放たれているようなイメージを抱いた。

実際に身体が対岸へゆかなくとも彼方までいくことができるということは、何よりこの歌自体が体現していると思う。

2016-07-04 永井祐さんの短歌

日本の中でたのしく暮らす 道ばたでぐちゃぐちゃの雪に手をさし入れる
永井祐『日本の中でたのしく暮らす』

初めて歌集を買って良かったと思った歌集が、永井祐さんの第一歌集だ。
他の歌集には申し訳ないが、高かった、と思うことが多いなかで、
永井祐さんの歌集は読み終わったとき、安かった、と思った。

ぼくの人生はおもしろい 18時半から1時間のお花見

どちらも永井さんの短歌なのだけれど、二つの短歌共通しているのは抽象的で漠然とした冒頭に、後半で具体例を示す構造だ。冒頭の部分は「おもしろい、たのしく」という、まるで小学生男子が作文で書きそうな感想だ。

でも、これは小学生じゃなくて大人が書いている。
大人が小学生みたいな感想をつかまえるのは難しいからこそ、味わいがでてくる。

だから、この冒頭は実感ではなくて、のぞみとか決意に近いと思う。もしくは定義。
自分の生活を定義しなおしている。定義して、具体例を示して、冷凍保存している。

のぞみや決意や定義に「確かな手応え」を感じさせるために、後半の「ぐちゃぐちゃの雪」や「1時間のお花見」がある。前半がとても掴み難い貴重なものなので、後半でどこまでも具体的で卑小な状況を持ってくる必要がある。そうやって、確実な手にできるものに変換していると思う。

「1時間のお花見」という数詞の入った具体性がないと、「ぼくの人生はおもしろい」という定義は簡単に手の届かないものになってしまいそうなのだ。大人になった私たちは、すぐ人生をつまんなく感じてしまうから、そこは短歌の詩型で補強してちゃんとつまらなさを否定しなくてはならない。

「ぐちゃぐちゃの雪に手をさし入れる」には、自由の享受と自暴自棄の二方向があって、それも魅力だと思う。
自棄のほうで読むと「たのしく暮らす」が皮肉っぽくも感じられる。

「日本の中で」の短歌を読んだとき、ああこういう覚悟というか世界の拓き方をするひとがいるんだなと私は感心した。「日本の外」に、ここではない何処かに、たのしさを求めたりしないで、生活のうすのろと向きあって、ちゃんとたのしく暮らすことへの覚悟みたいなもの。

「さし入れる」という動詞を使うことで、時間の推移が現れて、たのしいという気持ちの持続が表されている。

それから漢字が丁寧にひらかれているのも素敵だと思う。「たのしく」「おもしろい」「さし」「ぼく」、これは漢字にしたら前半と後半の対比が弱まってしまうと思う。

まだまだ上手に読めた気がしないので、また永井さんの短歌について読んで書いていきたいとおもう。

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