総督施策(2)教育「ハングル」

「ハングル」も、1446年((文安3年)世宗王によりハングル庁が作られ「公布」されたのですが、政府が公文書に使用しない為、1506年には、ハングル庁が閉鎖され、ハングルは「李朝」公文書では使用される事はありませんでしたが、使用されない最大の原因は大陸政権への遠慮でした。

日本は1911年(明治44年)朝鮮教育令を発布と同時に、朝鮮の基本教育には適した「文字」で有るとし、当時の資料を元に、金沢昇一郎・小倉進平博士が科学的に体系化し、言語として完成させ教育に取り入れ教科書もハングル・漢字の混文で作られます。
ハングルの使用は、1883年(明治21年)に井上角五郎氏が朝鮮初の新聞「漢城句報」を、福沢諭吉の協力で、ハングルと漢字混文で新聞を発刊しています。

1896年(明治29年)には「独立新聞」が英語・ハングル混文が作られた事も有りましたが、教育に使われたのは、朝鮮総督府の努力でした。
7代目の南次郎総監のときには、日本化した朝鮮人よる「朝鮮語全廃運動」に対して「朝鮮語の廃止は良くない、普及運動も廃止運動と誤解されるから出来ない相談である」と拒否されて居る事も、現在の韓国人は知るべきでしょう。
現状韓国・北朝鮮では全てがハングルで「漢文」も読めない学者が出ていますか、考古学の分野の将来には問題として残ります。

朝鮮近代化教育の第一歩は、寺内長官が着任一年後、1911年(明治44年)の「朝鮮教育令」で、「朝鮮語及び漢文・諺文より始めて、漢文交じり文及び平易な漢文を教育する」としたこと、全てハングルとしないのは、漢文を教える意味は朝鮮の文化も、同じ漢文の文化で有る、として残したものです。現状は朝鮮文化でもある漢文を全て捨て、日帝時代に甦ったハングルを、朝鮮文化として残しているのですから皮肉なものです。

総督府の教育振興では、朝鮮人子弟教育の為には朝鮮人教育者の養成に着手、1940年(昭和15年)には、高等教育を受けた朝鮮人教員10,127名が就任教壇に上がっています。明治時代の日本の教育期間より進展状況がが早く、如何に朝鮮の教育に力を注いだかが判ります。

韓国の教育では、日本が朝鮮語の辞書を制作するのを邪魔をし、作らせなかったとも教えていますが、ハングル「朝鮮語辞書」が「朝鮮語大辞典」として編纂されたのは、1936年(昭和11年)の併合時代に「文世栄」氏により作成され使われておりました。      〜(3)治山・治水は次回へ