ケッパンジータッ


この年齢になると、どうも政治のニュースに耳がとがり、知見もないのに何か云いたがりそうな自分がある。
それで、遠方の石を眺めて感想するよりは、足場の小石をば眺めて感慨するというアンバイに視線を変え、自分も使う方言について、ちょっと電流の流れを切り替えるコトとする。


表題の「ケッパンジータ」は、その方言の一節。
ケッパンズイタ… とも云う。
岡山地方南部に広く分布した方言。
これ以外の地域の方には意味不明だろう。イタリア語ではない。
何かにつまずく(つまづくはマチガイ)かして、転ぶか、転びそうになったコトを云う。
実のところ、その"ケッパン"が意味するトコロを使ってるワタシらも、知らない。
去年の10月。下石井公園にて朝10時頃、夜のジャズフェス・イベントの準備にいそしむスタッフが集って休憩してるさい、この「ケッパンジータ」が話題になって、大いにゲタゲタ笑ったもんだけど、
「ケッパンって何ぁ〜に?」
誰1人、コトバの意味あいを知らなかった。
知らないけども使ってる不思議…。だからま〜、余計に大笑いなわけでもあったけど。


本来、方言はとっても限定された空間の中にのみ存在したり生息するもののハズなんだけど… それが妙なアンバイで拡散するというのも、またありうる。


岡山の場合、明治19年に岡山懸尋常師範学校(市内藩山町・天神山文化プラザのすぐそばに今も池などの遺跡あり)というのが出来たけど、これが拡散の発端、だろう。
そこは校長クラスの先生を養成する学校。生徒は県内外アチコチの優等生で、全寮制。食費も制服も全部、県費でまかなわれるというスペシャル優遇。
(明治という時代は、西洋に追いつかなきゃと… 急速充電のドタバタ時代。学校教育という新たな場の設置がこの優遇の正体だよ)



で、当時のこのエリート青年らの寮生活から、誰も予見しなかった"師範言葉"が生まれた。
いわばアチャコチャの方言がこの寮でミックスされブレンドされ、岡山コトバではない、彼ら独自の”言語”が出てきたワケなのだ。
意識されたものでなく、自然とそうなったコトバ。
生徒らは卒業するや若い校長や指導者として県内各地に赴任する。
そのコトバで教育指導するから、田舎というか地方は当然に感化される。
"師範言葉"が拡散してしまったのだ。


たとえば、「ボッコウ」というのがあるけど、これは漢語の「勃興」だ。
鎌倉時代に入ってきたらしき単語で、一般的なもんじゃなく漢詩の中のみに生息の単語だった。
それを師範学校の生徒たちが、"大いに盛ん"という場合の用法として面白がって日常に使いだし… やがて文字通り「勃興」拡散し、これが現在の岡山弁として定着してしまう… のだからオモチロイじゃ〜ござんせんかぁ。
メッチャ怖いわ、の「ぼっけ〜きょうてい」はその活用だ。


「オエン」も、そうだ。
駄目という意味あいだけど、実はこれはお江戸界隈のどこかの方言だ。江戸(関東か)方面では「悪縁」と書く所もあったらしいが、今、手元に資料がないんで出典を明示できないけど、悪(お)・縁(えん)、だからダメ… ということなのかしら?
「手にオエネ〜や」
などと使われてた。
それが岡山の師範学校内生徒間で流行り、やがて彼らが教師として市内外に出て、地元の教師や子供らに接して、いわばウィルスを植えるようなアンバイで岡山弁に定着してった。
「ボッコウ」も「オエン」もそれ以前の岡山ビトは使ったことがないのだ、よ。
だから少なくともこの2つは、先生が教え広めたことになる。
言葉が乱れたのか、進歩したのか、それはさておき、全寮の師範学校という小さな閉じた存在が、日常言葉を更新させてしまった次第なのニャ。



袴姿での女子師範学校の運動会。これは何やってんだろ?


可笑しいのは…、明治35年に初めて女子師範学校が岡山に出来たさい(市内大供)、この時すでにベテラン教職員になっているかつての師範学校出身者たちが、岡山での子供の日常言葉が変になっているので、女子師範校ではそのような各地方言ミックスではいかん、
「日本の中心コトバ・東京の言葉を基礎に置くべし」
と陳情してるトコロだ。
いささか反省したんだろう。
けども残念。そうはなっていないね〜。1度沁みてしまうと、言葉というのはなかなか色落ちしないもんなんだ…。
なので相変わらず、明治19年師範学校言葉を、引きずって、
「そりゃ、オエンで〜」
なのだ。
けども一方で全てがそれに染まる… というコトもないのであって、例えば県北の津山界隈と県南岡山市界隈の言葉は、今も違う。お水に例えるなら軟質に硬質というアンバイで、県北方面では易々には言葉換えが生じなかったようにも思える。



で、「ケッパンジータ」だ。
何でしょうな、これは。いささか古い、方言を扱った本を眺めてみたけど回答がえられない。
どこか… 内出血としての「血斑」が背景にあるような気がして… しかたないけど根拠を示せない。
が、もしそうであるなら、これもまた師範学校だか、医学校(師範学校の近く、天神山にあった。岡大医学部の前身)の生徒らが、新知識としての「血斑」をオモチロガッて、転んだ学友の脛の辺りの鬱血だか変色を指し、いささかの嘲笑をこめてそう云い出したかも… 知れないじゃ〜ござんせんかい。
血の色にハンコを連想させ、印を突くという感じで。
ま〜、このテキストのトップに還ると… 国家が「ケッパンズキ」そうなアンバイだけは容赦していただきたいワケだけど、方言と思われてるコトバの根っこ探しはあんがいオモシロくって、郷土愛の温度があがるわけでもないけど、ちょっとした息抜きにゃなった、よ。