NOH-能-BOY ~Part1 道成寺~


数日前の朝3時頃。台風一過の雲の切れ間、南西の夜空に部分月蝕中の月。
岡山や香川の1部でのみ見えたそうで…、ラッキーというか、そうですかというか、見上げた直後は妙なアンバイに雲がかかってやがら〜、くらいにしか思えなかった。
黄色でも金色でもなく、白に近いサバ色のかけた月は、その夜はちょっと大きめに見えてたな。
悪天の中の月は、月蝕であれなかれ、いささかの"幽玄"を感じないわけではない。



幽玄といえば…、能が念頭に浮く。
能に初めて接したのは、はるか昔。
学外授業の1つとして能と狂言に連れ出され、正直申せば、退屈しきって逃げ出したかったというのが実体だった。
狂言『附子(ぶす)』は、毒薬イコール水飴という滑稽味にひかれたものの、面を付けずの公開練習というかワークショップとして見せられた能(何という曲だったかもおぼえてない)は退屈で退屈で、まるでガマン大会の場にいたようだった。


それから数多歳月が流れ、理解が変容して、
「能はとんでもなくスゲ〜、のぅ!」
となったのは50を越えてだから、ま〜、遅れてるというか、始末が悪い。


この岡山に能舞台は後楽園にしかない。
それも年に1〜2回催しがあるかないか程度な場所に住まっては、能もまた縁遠いというワケ(近年、吉備津彦神社でちょっと催しがあったけど)でもあったけど、いざやそれに魅惑をおぼえると、地方都市住まいは、
「損してるな〜」
などと思わないでもない。
「遠方では時計が遅れる」
アインシュタインが理論づけた通り、遅延を意識しないわけでもない。


幸いかな、数年先、山陽放送の新社屋に能楽堂が出来るので、空気の色合いがやっと変色するだろうけど、それはまだチョット先。
今は、数少ない市販のDVDだか、後楽園でのそれを観賞して感じ入るっきゃ〜ない。



能は動きをたのしむものじゃない。
むしろ動かないのを観るもの。
ま〜、それは極端な云い方だけど、動かないことのエネルギーが凄まじいという点では数多の演劇を圧倒し凌駕する。
動かないことで"動き"を示す…、高度な抽象への絞り込みがすごい…。


※ シテ・梅若六郎 DVD「道成寺」より


例えば『道成寺』中盤の「乱拍子」。
小鼓とシテだけの1対1の音と所作の競演は、世界のどこを探したってこれほど密度高きな抽象表現はない。(導入部では笛も入る)
見る側の立ち位置からは、そこの理論を知らないかぎり、これはもう退屈の極み…、であったりもするはず。
シテは扇を手にし、30分以上をかけゆっくり舞台を1周し、その間、小鼓のポンに同期して、ただ足の先がわずかに上がったり下がったりするだけ(セリフもある)なんだから、
「ワケわかんね〜」
そう呟く以前にウトウト寝ちゃったり…、出来ちゃう。




けども一方、演じる両者といえば、これは極度な緊張だ。
呼吸、気合い、間合い、以心、伝心、気迫…、ジャズ・ミュージシャンのライブ一発な打ち合わせなしのセッション以上の、とんでもない"対話"と"対峙"であって、そこの事情を判れば、見る側もまたえらい緊張にくるまれる。
寝てる場合じゃ〜、なくなる。
しかもよくよくに眺めれば、地唄方を含め舞台上の20名近い楽士たちもまたまったく、微動だにしない…。
シテと小鼓以外全員が息を殺し、個々の雑念を失せさせ、正座すまま、ただオブジェと化している。
結果、舞台上では主題が透明で鋭角なカタチとして研がれていく。



小鼓の大倉源次朗。途方もない集中と気迫に圧倒されまする…


ジャズは空気を音で埋めていくけど、「乱拍子」では音はただ、鼓と、ヨー、ホーの掛け声のみ。静寂の間合いで埋めていく。
その気迫のさなか、面をつけたシテは決定的に動作を殺し、扇を宙に掲げるまま、ただもう足の先に神経を集中させ、微かに微かにと"幽玄"を所作する。
いわば、月蝕を見せる…、ワケなんだ。
道成寺』の場合、シテは通常の2倍の装束を身につけ(鐘の中に入っての着替えが必要なので)、さらに面をつけての演技。
重量に耐え、息苦しさに耐えての二重苦での、"動かない"所作、"型"。
それが凄い。
女性の一途ゆえの妄執の念を、激しく舞うのではなく、動きを捨てることで逆手に念の深淵をみせる。これはキツイ。寿命が縮まる演技の極み…。おそらくシテはとんでもなく汗をかいているはず…。
けど、その汗を見ている側は感じない。
静かな動きゆえ逆に情念が濾過され、エスプレッソな一滴一滴の抽出の濃さに達するのをただ見詰める…。
だから役者を見ているのではなく、情念の炎と化した女の様相を凝視するわけだ。



たとえばキャンプでボクらは焚き火するけど、1本の薪が火に入り、くすぶり、少しづつ燃焼をはじめて赤くなり、やがてどこかの時点でパッと白熱して明るく燃え上がる様子をジ〜〜ッと眺めていたりするが、なんだか、それに近い…。
ただもう痺れたような無我で焚き火を眺めている気分と、「乱拍子」の情念の燃焼を一緒にするのはよろしくないけど、隔絶された情の上昇感で一致する。


その達しの瞬間に「急の舞」へと変化がおき、ついで「鐘入り」のクライマックスにいたって見ている側は一気に物語の奈落に連れ込まれる。
動かないことで女の怨念の昂ぶりを見せ、ついにそれが爆発するや、激しい舞となって、精神が肉体を呑み込んで狂乱させる、その激変…。観客は演じているのを眺めているのではなく、知らず気づくと、情念に悶える女そのものに同化させられるワケだ。
こんなパフォーマンスは…、他にない。




あえていえば、能は見るものでなく、演じるものなのだろう。
かつての江戸時代、全国津々浦々の殿さんたちの多くが能を自身で舞ったというコトは、彼らはそこに彼らなりの緊張の場を見いだしていたというコトにもなろう。
見せる喜びよりも、ヤッて、曲の緊張に身を置く悦びだ。
茶の湯と同じく、弛緩してちゃ〜ハナシにならない。極めていく様相を感じるコトにこそ"生"を感じていたろう。
殿さん方が「道成寺」のような大掛かりで、ちょっとタイミングを間違うと大怪我をするような大作を演じたとはまったく思わないけど、特権にアグラをかいての遊びという意識じゃ〜なくって、能舞台での緊張に得もいわれない何かを見いだしていたコトは確かだろう。
家康をボクは好みとしないけど、諸般の殿さんの"調教"として、能をチョイスしたのは得策だったとは、思う。
結果として、"調教"されるのではなく、レベルはともかく、自ら選択して没入する"芸"としての能を温存させることになったんだから、な。

花の外(ほか)には松ばかり 花の外には松ばかり 暮れそめて鐘や響くらん

岡山の場合は、たとえば池田綱政は正徳4年(1714)、後楽園能舞台にて、体調を崩すほどに集中して舞ったようで、殿さんの日常が書かれた『日次帳』(池田文庫)に、
「おふらつきあり…」
とキッチリ書かれていたりもする。
70年代あたりのロック・シーンで、時に熱狂し忘我し陶酔してギターを破壊したミュージシャンがいたのと同じく、綱政もまた、能表現において自分自身を拡大させ越えようとしていたんじゃなかろうか…。



先に記した通り、岡山でも近い将来、蝋燭能みたいなのが観られるようになる。
多目的なホールばっかりじゃ〜ダメなんだ。
能しか使えない、そんな限定な容れ物こそが望まれる。
650年以上の永きに渡って連綿と、この日本にのみある、日本が日本として自慢すべきなライブハウスが能舞台というもんだ。