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月のひつじ

2018-06-11

闇の奥

30年ぶりくらいに読み返す。むろん寝転んで。

以前もそうだったけど、1行1行に突起があって、ツルツル〜っとお蕎麦みたいに啜れない。持ってるのが、旧漢字が多い中野好夫訳の岩波バージョンなので、余計に。

けどま〜、結果として、そこがヨロシイのかと。


誰の言及だったか忘れたけど、

「本の価値は読み手がどんな意識状況であったかで決まる…」

という。その通りだ。どんなに優れた本でも読み手側がシンクロナイズ出来ない以上は”優れもの”にならない。

不幸な一例がこの『闇の奥』だった、ボクの場合。

旧漢字が続々と衝突的にやって来るもんだから、そこは不明のまま飛ばし読み、難破ぎみにページの字ズラを追うのがやっとで、いわば表層を舐めるに終始で旨味を味わうどころじゃなかった。

思えば惜しいことをした。


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次にもう一度接したのは、映画『地獄の黙示録』を観た後だった。1980年か81年だ。だから今回は、正確には38年ぶりの再読。


本作を原作にアフリカベトナムに変えて『地獄の黙示録』は撮られ、なるほど中盤過ぎでの白い濃霧や、黒人操舵手が矢で射殺される所とか、「ホラー(恐怖)だ、ホラーだ…」の高名なあのセリフにまで運ばれる流れは近似るものの、コンラッドの小説とコッポラの映画は、同じ卓上のものであったとしても呑み込むや別の胃袋に入ってった…、って〜感じの別腹もんだ。


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※ 『地獄の黙示録』より


結尾を、呪詛新生的な意味合いでの”王殺し”で結んだ点で、コッポラ映画はコンラッドのそれとは大きく乖離した。コンラッドはラストでもって思いもかけなかった女の中の”闇”を描写して…、小説を閉じた。

けども主人公が踏み込んでいく先が湿潤で熟れた熱帯雨林という環境は同じ。人間の前に立ちはだかる自然の形相とそこで恐怖と狂気を兆す人間の脆弱、主人公そのものも結局は定位置のさだまらない揺れの中にあるのも共通。


旧漢字とやや読みにくい文体…。この文体コンラッドが心のヒダの一枚一枚を描写しようとしてのものだから文句云う筋合いのものじゃない。

今はやっと旧漢字に馴染みが出て読めなくもなく、それが内容に合致して相乗効果、岩波バージョンはスポンジが水を吸うような浸透力を持つ。人間存在そのものへの問いと答えらしき…、死ぬまぎわでのクルツ(映画ではカーツ大佐)の独白への、ガツ〜ンとしたワサビ的な翻訳。そこの味をやっと今回…、味わったかな…、というお粗末っぷり。


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※ ジョゼフ・コンラッド 1857~1924 『闇の奥』は42歳の時の小説。


『闇の奥』を派生モデルに、やや類似的映画なんぞが今は多々あって、衝撃という点でさすがにこのコンラッド作品も色褪せを感じないワケでもないけど、古典風味は増量中。芥川龍之介が『かちかち山』に記した、

「獣性の獣性を亡ぼす争ひに、歓喜する人間…」

というフレーズのように、獣性と知性と理性、それらの扇情でない相克は微動だにしない。そも初版が1899年というその早さの先鋭に、驚きが持続する。1899年は明治22年だけど、当時に読んだヒトは、心理描写の酷烈に、微かな心のゆらぎも文章化出来るんだ…、と驚愕しっ放しだったろう、たぶん。


『フィッツカラルド』という映画を思い出す。

南米ジャングルの奥深くにオペラハウスを造って、オペラ歌手のエンリコ・カルーソーを招こうとするケッタイな人物クラウスキンスキーが大好演だった。アマゾンでのあまりに過酷な撮影で脇役だったミック・ジャガーやらやらがグッタリして降板というトラブル続きだったような按配も含めて、否応もなく『闇の奥』が彷彿される。

ジャングルを切り開き、2本の河を跨ぐために巨大な蒸気船陸路山の中へと運んでまでして…、なんでオペラなんぞを見聞しようというのか…、そこの正常と狂気のはざまの、モヤ〜っとした霧のような感触と濃い湿気の感覚。そんな場所であって『フィッツカラルド』の主人公はスーツで通す。『闇の奥』にも同じようなスーツ男がいたな…。どんな場所にも自分のスタイルを持ち込む意固地な偏執もまた、興味深い。いっそそのスーツに獣性を見る。


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しかし…、光ではなく闇に魅了される心理は、何なのでしょうなぁ?

暗闇でドッキリが好きなワケでもないけど、暗闇の中での諸々な輪郭の抽出に探究心が燃えるんだろうか? それとも”闇”そのものへの恋慕があるんだろか?

いみじくも、コッポラは後に『ドラキュラ』を映画化したし、『フィッツカラルド』でカンヌ監督賞をとったヴェルナー・ヘルツォークもまた『ノスフェラトゥ』でドラキュラを撮ってる。

じゃ、我々には何があるかって…、『鉄輪』があるではないか。相反する文化と文明の衝突を描いてるワケではないにしろ、この能には、ヒトの業としての”闇の奥”が横たわっていておっかないワ。というか、『鉄輪』では光はまったく描かれず、ただもうこれは”闇の内”の物語。輪郭の抽出さえ拒むような雰囲気のラストで女が鬼女と化すどころか、より超大な悪鬼におそらく変貌するだろうの予兆が…、怖いったらありゃしない。

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