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月のひつじ

2017-12-24

明治のクリスマスの頃

明治時代の12月24日や25日を…、思う。

一応は宗教自由が解禁された時代。とはいえ、ごくごく1部キリスト教徒の家庭以外、聖夜を祝う慣習などない。

だから当然、ケーキもプレゼントもない。

それで瞬間に、「あら、寂しいわね」と思ってしまったけど…、慣習にもなっていないんだから寂しいなんて気持ちは湧いてこない。あと1週間で年が変わるというコトで妙にソワソワした感が増幅してるだけの2日だったに、違いない。


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一般家庭向きにサンタクロースが本で紹介されたのは明治31年らしい。

亜公園が開園して6〜7年後だね。"さんたくろう"というのが可笑しいし、個人的には…、Kurose歯科医殿とマ〜ちゃんを白味噌で和えて煮詰めたような顔も好もしい。


ま〜、サンタが苦労してるのは置いといて…、先の講演でも解説した例の亜公園は、明治24年の10月より工事がはじまってる。

落成しオープンしたのは翌年の3月21日。

7階建ての集成閣をはじめ、敷地内の夥しい建物いっさいが、わずか半年で出来上がってるワケなんだ。

建築専門家でないボクは、その僅かな期間が怪しく思え、訝しんで、

「そんな短期間であれだけのものが出来るワケね〜や」

ず〜〜っと疑問視していたんだけど、明治期家屋の専門家でらっしゃるノートルダム清心女子大のU教授の部屋で懇談したさい、氷が溶けるみたいに謎が解け、ちょっとした歓喜を味わった。

江戸時代から明治にかけての、建築における職人らの気質を教授から聴いて、なんだか炯々と眼に映えるような鮮烈をおぼえて、眩くもあった。


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亜公園の模型写真(ごく1部) 集成閣と天満宮


以下は自分宛のクリスマス・プレゼントとして記述する。(苦笑)


江戸の職人は往々にして、

「宵越しの銭は持たね〜」

とか云って、稼いだ金をその日の内に散財しちまうというのが、ま〜、よく聞くハナシじゃ〜あるけれど、それは何も江戸という地域限定じゃ〜ない。

地方の職人、この岡山もそれは同じ。

で、彼らを代弁して云うなら、稼ぎを一夜の呑み喰いに費やしてしまったワケではない。

それは誇張というもんだ。

彼ら職人は、例えて云うなら、500円で請け負った仕事を、600円だか700円だかな経費と手間を費やして仕事をこなし上げ、クライアント側の、発注より素晴らしい出来具合いにビックリ喜んでる表情に向け、

「ま〜、こんなもんでさ〜」

さも平然と装う…、という次第での"散財"なのだった。

当然に自分へのご褒美として、毎夜に呑みもするから…、余計に金はなくなる。

職人の女房には迷惑このうえない。家に金を入れずで、1人、女房殿は苦労する。


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※ 明治23年に撮影され彩色された大工職人たち。手前の2人はまだ子供の年齢なんだろうけど見習いをやってるワケだ。


古今亭志ん生の『大工調べ』の可笑しみを持ち出すまでもなく、かつての左官大工ら職人全般は、徹底して、

「いい仕事してますね〜」

な、誉れこそが生き甲斐と云ってもいい。

そこに"粋"をみ、それが"生きる"と同義であったよう思える。

思えば、最近ブームになってる北斎だけど、はるか20年前にマンガ家の杉浦日向子北斎とその娘・お栄の魅力を『百日紅』で、実に凛々と描いて、職人の気質を存分に見せてくれてたなぁ…。


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江戸期、明治期の職人気質というのは、まず競争原理の中に立っていて、職人同士で競いあっている。(北斎たち絵師もそうだ)

より良い仕事を達成させて仲間から、あいつはスゲ〜…、と思わせたい。

その上に、施行主の依頼を上廻る、いわばビックリさせるような仕事成果を見せたくって、いけね〜。

そういう性質(たち)なんだ。

だから、手間を惜しまない。

当然に自分が納得する仕上がりでなくっちゃ〜いけない。

自ずと経費もかさむ。

赤字なんぞはマッピラ御免だけど、ゼニ勘定よりはるか上に、「いいワザをみせたい」があるから、かなりの確率で収入より支出が多くなる。

納期をキッチリ守って、その期間中にビックリのワザを見せるのが、当時の職人というものらしい。

実にヤッカイな性質というか気質なのが、ま〜、職人なのだ。


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※ 亜公園の模型写真。これが全体ね。


なので、

「多数の家屋ながら亜公園は半年で完成したでしょう」

と、教授はほぼ断言した。

むろん当然、今のような、労働時間の制約はない…。場合により夜明けから陽が陰るまでと、1日8時間なんて〜制限でない時間軸の中でもって、自身を発揮させていたワケなのだ。

便利な電動工具はない。

トラックも重機もない。

あるのは長年使い続けた手足の延長みたいな小さな道具類のみ。

徒弟制度だから、棟梁たる彼の下、何人もの配下がいる。

その配下もことごとく、良い仕事をば見せようと懸命だ…。

ましてや年が変わろうとする1週間ほど前の12月24日や25日は、当時の職人さんらは、自身の中で"年内にはここまでヤッちゃうぞ"の意気込みに燃えてる頃と思え、夜明けから夕暮れまでノコを引き、金槌を打ちと…、がんばってたに違いない。


ましてや亜公園オーナーの片山儀太郎は若いながら県内最大規模の木材商だ。

このオーナーの眼を誤魔化すような作業は出来ないし、当然、誤魔化すような気もない。むしろ高いプレッシャーをおぼえつつ、それをはねのけるだけの良い仕事をと…、励んだはずなのだ。


亜公園建造の場合、中張亀吉という大きな棟梁がい、その下にサブの棟梁がいて、その下に多数の大工左官や屋根葺き職やらやらがいた。

それが100人なのか200人なのか、あるいはもっと少ない人数だったかは判らないけど、凍えるような寒さの中でトンテンカンと普請している図は想像できる。


数少なく現存する当時の亜公園の写真をば眺めるに、どの家屋も立派で豪奢で、安普請の匂いは微塵もない。

亜公園閉園後に、集成閣をはじめ幾つもの家屋が他所に移されて転用された、という事実からも、亜公園の家屋が良い姿カタチであったと断言出来る…。当然に使われた木材も良いものだったろう。

たとえば亜公園内にあった管之家(常磐木)という旅館ケン風呂屋の家屋は、新造されつつある宇野港の、数多く必要な港湾事務所のメダマの1つにと買われ、再組み立てされた。


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※ 常磐木の模型。湯屋を兼ね、県北の鉱泉を宇甘川・旭川を経由、わざわざ運んで湯にしていた。ちなみに常磐木の茶席は、大獄事件で無実のままに処刑された森近運平が常連客だった。


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※ 植木職人見習いのデッチ少年達が樹木を運んでる図、亜公園内にも庭園があった。(この写真は亜公園とは関係ないけど、イメージとしてはこの通りだったろう)


彼ら職人の気質を思うに、その元締めたる中張亀吉を含め、亜公園構築事業で"大いに儲かった"というアンバイではなかったような感がする。

亜公園開業後にオーナーの片山が中張に運営の1部を任せているトコロに、その顛末が見えもする。

良い仕事をしてくれた…。なので、それに報いるために、入場収益の1部を中張氏に入るようにしたオーナー片山の気配りも何だか淡く見えてくる。開園と同時に亜公園では『亜公園漫録』という岡山初の観光(景観)ガイドブックを細謹舎から刊行したけど、その著作料が中張氏に入るようにとか。

昨今のリニア談合でもって利益分配していたと糾弾されてる大林組などの建築業とは、ど〜も営みの基本が違っていて、いっそ明治期の彼らのスピリッツの方がとてもクリーンで美しく…、おもえる。

当時の職人の多くは、背や腕に彫り物をいれてるんで一見は、怖っぽいけど…、その姿の内側には良性な職人気質が熱く躍動しているワケなんだし、またその誇りの示し方としての彫り物なのだから、眉をしかめるようなもんじゃ〜なく、むしろ文化的諸事情の中にしっかり定着した美しいものだったと思うのがよい。


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ともあれ、大掛かりな複合娯楽施設の亜公園は、わずか半年あまりで完成したワケなのだ。

たいしたもんだ。明治の職人たちのガッツポーズが見えるようで、ちょいとそこに参加し…、振る舞いの御神酒など、お流れを頂戴したいような気も、する。


片山家ご親族から直に聞いたハナシだけど、片山儀太郎は開園後は船着町(京橋)の自宅から亜公園まで、紋付き羽織って馬で通ったらしい。

当時とて、乗馬での通勤はそれほど実例がない…。

これはどういうコトかというと…、彼の自信と誇りをそうやって彼は、見せたかったんだろう。良いものを創り上げての堂々たる気分が物静かなこの人物をして、昂揚させて、そうさせたに違いなく、亜公園は岡山市民への驚きのギフトであると共に、いわば彼自身による彼への大きなプレゼントだったという気がしないでもない。

2017-11-27

48年前の腕時計 〜満員御礼〜

腕時計というのは、どう転ぼうとも腕に取り付ける小道具でしかなく、むろん、それゆえ、くすぐられるカタチだけども、デザインの基軸となる部分では、未来が閉ざされたガジェット、と思う。

手首に巻く、という所から出られないワケで…。

その大きな制約が逆に進化でなく深化方向に向かうしかないのは、ちょうど鎖国していた頃の日本の工芸品の深化っぷりに似もする。

フォークやスプーンがバリエーションは有りながらも基本デザインの飛翔のしようがない、だから未来が閉ざされたデザインと断言できるのと同様…、腕時計もまた進化の袋小路にあるモノなんだろう。

別に、それでどってコトはないけど、ただ、そのように思ってやると、より愛着も深まる。


いまボクがとても気にいっているのは48年前のアンティック。

26日の講演も、これで時間を計ってた。


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SEIKOの自動巻き。

厚みが薄くヤヤ小ぶり。

しかし、一見でも二見でも48年の昔を感じない。

いっそ、

「最近発売されたもんだぜ」

って〜なホラを平然とふけるほどに、今の腕時計と変わらない。

だからアンティックを意識できない。

それが良いとも云えるし、ペケとも思えるし、けども何十年も止まっていた針が、手にした途端にコチコチと動きだしてる事実の厚みが、嬉しい。

電池時計じゃ、こ〜はいかない。頼もしい。


講演にわざわざ足を運んでくださった皆さんには、感謝申しあげます。

満席で、ホールの外のでっかいモニターで視聴の方もあったようで、嬉しい限り。


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けどもまた一方で、まだまだボク自身が知らない明治岡山もあるワケで、たとえば今回も解説した「戦捷記念図書館」(現在の県立図書館はこれがスタート)の、8角形の瀟洒丸屋根には、時計がついていた。

盤面が1メートルを越えていたかも知れない大型のもの。

当時は既に精巧舎(SEIKO)は自前の時計を売り出して、だから国産が存在しているんだけども、さぁ、この屋根時計のメーカーが国産だか輸入物なのだか、判らない。

ネジをどう巻いていたか、毎日巻いてたのか、そうでないのか、皆目判らない。

また、そのための屋根裏が当然に存在したろうけど、そこがどのような構造かも判らない。

なにより、それが明治38年末から昭和20年6月の空襲まで、長期に渡って時を刻んでいた事実の厚みに、感じいって…、久しい。


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その判らないトコロが、興味の照射点なもんだから…、くどく執拗に調べては、おしゃべりを繰り返す次第。

明治・大正・昭和の合間、図書館の大時計は何度メンテナンスしたろうか? 

そんなことを空想するのが癖になって、久しい。


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講演の相棒はこたびは…、指時計をつけた。

指に巻く時計という存在に笑い、

「きっと指が太くなるぜ」

と、また笑う。


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講演時の写真はいずれも、K妃殿下撮影。

2人のゲストと共に、複数の良き仲間たちと過ごせたのが何より、嬉しく頼もしい。


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※ 講演にかけつけてくれた造型作家の丸屋君よりのギフト

焼き物だ。この小ささと、けっしてかわいいだけの表情を見せないネコの、誇り高きな眼の彩色が素晴らしい。

2017-11-22

グリム童話の誕生

今季は何だか寒さ到来が早い。

怪我でグズグズし、手入れ出来なかった庭のパッション・フルーツ。

南洋の植物ゆえ冬のアウトドアでは、この寒さをこえられない。

見れば、急激に色褪せし出している。

講演の後にしようとも思ったけど、もはや限界だろう。

本朝早くより庭にくりだし、枝葉を落としてやり、土中の根をカットし、小ぶりにして鉢ごと室内へ入れる準備。


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けど途中で雨が降り出し、作業はそこまで。

明日にでも室内に入れてやろう。


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※ これはパッション・フルーツではなく、パッション・フルーツのツルとツルがからみあって育ったフウセンカズラ。

半年ほど前の深夜に某BARで遭遇のドクターから頂戴したもの。それなりに育ったけど、これは冬を越すのかなぁ、外で…。

アフリカが原産とかいうしなぁ。


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それから書類をまとめ、午後1番で久々にN女子大へ。

銀杏のイエローが雨にうたれつつ、冬の唄を小さく歌ってるようで良い感じ。

古い校舎の深閑とした清廉も心地良い。

U教授の部屋で膝つめあわせて打ち合わせ。


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次いで数時間後、路面電車で移動し、神社で打ち合わせ。

こういう"愉しい"時間はアッという間に過ぎるね…。


我が顔の傷をみやって

「思ったより酷くないよ」

と、学校でも神社でも同じコトバ。

「ま〜、元よりさほどよろしくないフェィスなんで」

と、応えて苦笑。

(大きく笑うと唇が痛い…)


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途中、イオン岡山に寄り、スパイスをまとめ買い。

(厳密に区分すれば、これは塩の類種だ)

どういうワケか、置いてる店が少ない。

あれこれ試してみたけれど、これがベスト。

キャベツの千切りに実にマッチする。

かかせない。


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夜になりかけた頃のバスからの濡れた光景が、妙にファンタジーっぽかった。


帰宅し、唇に化膿止めのオクスリをば塗布し、小澤俊夫の『グリム童話の誕生』を拾い読む。

読み始めて早や数日。ものすごい情報量に当初は困惑したけど、日本の昔話の収集家にしてグリム研究の第一人者の本。

ヴィルフェルムとヤーコブが昔話をがんばって集めたように、小澤もこの兄弟の残した航跡をがんばって拾い集めてらっしゃる。

だから情報量の質が厚い。

"メルヘン"ではなく"メルヒェン"と記し通して、心意気も熱い。


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後年、『ドイツ語辞典』を創りはじめたグリム兄弟は、"F"の項目まで書いて没し、その後、弟子たちに意志が継がれて、第1次、第2次大戦が済んでも終わらず、完了したのが123年後の何と1964年…。

ベルリンの壁が壊されて再統一され、1991年に記念のお札がドイツで発行され、グリム兄弟の肖像が使われてるのを見て、

「そうかメルヒェンの父だもんな〜」

などと思ってたけど、ドイツでは、その『ドイツ語辞典』編纂の経緯と業績を高く評価…、ということらしい。

なにしろ東西に分裂していた長く暗い時期にあっても、唯一、東と西に分断されたドイツ語編纂所(ベルリンとゲッティンゲン)だけは電話オッケ〜手紙オッケ〜という特例であったらしく、いわばグリム兄弟は国家再統一のシンボルだったワケなのだ。

そういうことをこの本で学びつつある。

木の葉の下に埋もれた細い枝を見つけるような作業を何十年もコツコツやってこの本を作った、その根気にもまた。


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だいぶんと前、amazon プライムで観た映画に『ヘンゼルとグレーテル』があって、SFファンタジーの特撮モノ。青年になったヘンゼルとグレーテルが魔物どもと闘う話。

戦いのさなか、時折りヘンゼルが自分で注射をうつシーンが出てきて、

「何だろな?」

と、思ってたら、幼少時、お菓子の家に幽閉されている間、お菓子ばっかり食べてたもんだから糖尿病を患って…、それでインスリン注射という設定になってて、これには笑わされた。

ま〜、映画そのものはたいしたこっちゃ〜ないけど。

しかし、その注射針が実に昔っぽく、太くって、実に痛そうで…、なんだかそこにオリジナルのグリムが、むろんグリムの話に注射など登場はしないけども、テーストの真味が潜んでるような気がしないでもなかった。


さ〜てと、一気に打ち合わせを済ませ、数日後に講演。

わたしなりの、情報収集を開陳という次第で、どうなるコトか…。

26日の日曜-午後2時より岡山シティミュージアムにて。

よろしくどうぞ。

2017-11-17

11/26の講演についてチョット


やはり年齢のせいかしら?

顔と脚…、7割方はオッケ〜だけど、いまだ全治に至らない。

右脚は腱がつって折り曲げると痛い。

上唇は引きつったままだし、下唇は痛みと腫れが、まだ続いてる。

もっとも悲しいのは鼻と唇の間に拭えない傷ができたこと。美顔がハナタレジジイのようなご面相になっちまい、昨日は病院で、

「気になるようならウチには美容整形の科もあるよ」

院長センセイにニッコリ微笑まれた。

我が事ながらいたましい。


検眼し直して調整した新たなメガネが出来上がり、先日取りに出向いたら、その店が同地に移転して15周年だかで、記念のワインをくれた。

こういう不意打ちは何だか嬉しい。


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嬉し次いでと、すぐそばのマクドナルドに寄った。

買って持ち帰って食べるのは3年か4年ぶりなような気がする。

ま〜1つにはガブリと囓りつけられるかのテスト素材としての趣きもあったけど、あんのじょう、まだ口を全開に出来ない…。

困ったこっちゃ。

おまけに、ビッグマックを美味いと思えない。

モグモグ食べたのみで感動がなかった。

嗜好が変わったんだろか? ちょっと気になった。

とくにレタスがよろしくない。マクドナルドのレタスの問題ではなく、こちらの舌の問題に違いないが…、味気ない。

いっそレタスでなくキャベツの千切りだったらどうかしら? などと思う。

ちなみにマクドナルドはセットは買わない。ビッグマックとバニラ・シェイクを単品で買う。19歳の頃にそう買っていらい、1つおぼえ、いまだに続けてる。


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さてと、そ〜こ〜してる内、26日の講演が近づいてる。

こたびの御2人のゲストとも、まだ打ち合わせが進んでいない。

御両名、ボクが独り相撲の負傷をおったのは知ってるから、大目にみて下さってるとは思うけど、焦れったいでしょな〜。


こたびの講演では、亜公園に関しての新発見というか、新事実も2点ばかし…、披露する。

うち1点は、顔面負傷で外に出られずの最初の頃に、手元の資料を較べたり裏返したりとケッコ〜根つめ、煮つめて精査してるさい、

「あれれ?」

って〜な具合でフイに点と点が結ばれ、隠れていた事実の輪郭が浮いて、それで、

「おっ、ほ〜!」

確証として知り得たコトガラだから、ま〜、これは文字通り、ケガの功名と云うんだろうな。

ケガしなかったら、ひょっとしてまだ気づかずにいたかも知れないし、

「転んでもタダで起きない…」

これはその実証例かも知れない。


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※ 詳細なチラシはココをクリック



ちなみに26日まで岡山ティミュージアムでは「岡山と鉄道」展を開催中で、当方の模型数点も展示されているから、お越しになれば併せて見学も…、よろしいぞ。

開催側からいえば、だから26日は閉館後のお片付けがとても大変というコトでもあるんだけど、ま〜、そんなことはどうでもよろしい。

イチバンの心配は、いまだ口を全開できないし、上唇の部分が引きつったままなので…、

「さしすせそ」

の発音がしにくく、ケッコ〜しゃべるのに苦労してること。

講演でおしゃべり進まずというのは…、まずいワ。

これから1週間ほどで治ればイイんですけど、な。

2017-10-24

次の講演 - 11/26日曜日


きたる11月に開催予定の講演フライヤーが刷り上がり、届く。

まもなくこれはミュージアムや市の施設などに掲示されるだろう。

天神山界隈の話を、また行う予定。

タイトルは『今昔物語』。その告知フライヤー。

デザインはいつものYUKOちゃん。


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甚九郎稲荷の写真は彼女が何度か直に脚を運んで撮影したもの。

この小さな社は左右に樹木がおごり、すぐそばに美術館の壁が屹立し、いざ撮影となるとアンガイ難しい。以外なほど均等に光があたらないんだ。

だから彼女は何度か日を変えトライした。

良い根性。そうでなくっちゃ〜いけない。

文字で隠れているけれど、拝殿にネコが寝ッ転がっているなかなか良い写真だった。

デザイン第1稿ではネコの姿を活かしてたけど、2稿3稿とレイアウトが練り進められるうちにネコは文字の下へ。

ま〜、そんなもんだ。



講演は…、掘り下げていくたび新たな発見があってそのたびに、過去に話したことをチョット補正するの…、繰り返し。

今回は、岡山神社宮司とノートルダム清心女子大の教授とのコラボレーション・トーク。

幾つかあらたな真実を披露予定。

明治時代の天神山界隈にどれっくらい肉薄できるか…、また逆に、今の同所をどう浮き掘れるか…、そんな次第あってのタイトル『今昔物語』。

このシリーズは、そろそろテキストにまとめ上げる時期が来てもいると相棒Mと思案中。


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で現在、同講演とその後の展示を考慮して、新たな模型を1つ製作中。

くわえて、亜公園・集成閣の模型を改装中。(上下の写真:解体中の模型)

劇的に変化する次第でなく、きっと改装に気づかぬヒトの方が多いだろうという内訳ながら、新造より改装の方が手間取るとは思ってたけど、予想以上に工作が進まない。自分的な絶妙をどう掘って、どうカタチに置き換えるかという点で足踏みする。

ま〜、そんなもんだ。


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この世の中、下と上があって、きっとどちらも底がない。

フライヤー・デザインを含め、掘り進めば際限がない。


たとえば、この前、選挙と台風が到来した悪しき日曜の夜、某BARに懇意9名ばかりが集って、オフ会ならぬ、

「お・麩・会」

をやった。

麩とスキヤキ肉、その極上を食べ較べようという主旨でのミニな集い。

正直を申せば、どの麩もどの肉も我が日常にないもの。

近江牛、千屋牛、他いわゆる「A5」クラスのもの…。


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金沢のスダレ麩、すきやき麩、京都の丁子麩、仙台の油麩、新潟の車麩…。

いわば未知との大遭遇。同時に食べて較べるなんてメッタと出来るこっちゃない。

だけど実に単純に、

「美味〜い」

「やわらこ〜い」

その程度の言葉しか出せず、喜んでる舌をうまく描写できない。


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「上には上があるね…」

感想とも云えない感嘆でもって、溶けるような感触の肩ロースやらを味わい、治部煮になった麩を角煮に間違えて密かに苦笑したりした。

食材を用意してくれたH氏の知識量と堀りの深さにただもう圧倒され、ここにもまた掘りさげていく醍醐味をむろんにおぼえる次第ながら、掘り進めば際限のない感覚が凛々とあって、頼もしい迷宮を思わずにいられない。

かねてより麩に関しては、スキヤキ鍋の中でお隣に居合わせた食材の滋味をたっぷり吸い取っての「旨味」程度の認識だったけど、こたび、いささか軌道修正を余儀なくされもした。

お隣さんの滋味をまといつつも麩がちゃんと自己主張して、麩は麩、「ふがいなく」ない。

当然、H氏にはどんどん掘ってもらい、食の深みをまた教示してもらいたい。


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食に関してボクはせいぜいサバ缶に言及する程度じゃあるけど、ま〜、天神山界隈の明治に関しては、海の深みと広がりをみるような蒼の色彩の多様に目眩む感覚をおぼえて久しく、H氏同様に"掘って"いく作業を繰り返しちゃ〜、長嘆息をついてるワケだ。


講演詳細はまた後日に。

2017-08-16

旧家探訪

ありがたいお誘いに乗っかって、旭川沿い、出石町のN邸を訪問す。

旧知の仲間、新規な仲間、併せて9名。大所帯での訪問になってしまったけど、良いものを観た嬉しさ満杯。

大正前期に建てられ、戦火をくぐって今に残った旧家。

昭和20年6月の空襲岡山神社や周辺家屋は燃え上がったけど、鶴見橋そばのこの邸宅と数軒が奇蹟的に焼けず、それゆえ空襲後、同家の主人が門戸をオープンにし、焼け出された近隣の方々が短期ながらも、仮り住まいとして屋根の下で眠れたという有り難い逸話も、残る。


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西側の路地沿いの塀に覆われた佇まいに比し、旭川に面した東側は広い窓で覆われる。

旭川の流れをはさんで真向かいに後楽園。それを室内から眺められる最良の立地と窓の配置。

鶴見橋の往来もまのあたりに、豪奢な料亭の愉悦空間、その眺め…、といいたくなるけど個人宅。


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北東の角っこには茶室もあって、しかもその造作、壁の1部は旭川の土手に沿って曲面で塗り壁されていたりと…、既成の枠も越えてのオリジナルな佇まい。いやはや素晴らしい。

Before&After - 巧みのワザが光る…、などとテレビの中で云うところの巧みの師匠などおそらく束になってもかなわない、大正期の無名ながらも精度高きな意匠が随所に。


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案内くださったN夫妻の丹念な解説に恐縮しつつも、夫妻のこの屋敷への愛情がヒシヒシ伝わる。

クーラーはない。けども窓を開けるや、旭川からの風が室内に入る。心地良い。

夕刻ともなれば灯りに誘われ、蚊、小さな蛾、ヤモリ…、といった土手の水辺に住まうものたちが室内に入りこんで、

「いささか困る」

という次第もあるらしいけど、窓の開放と共に入る川風の涼みはクーラーのそれでない天然の恵みとして皮膚が悦ぶ。


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※ Mちゃんのお尻を撮ったワケではない。普段見えない場所にどのような意匠が施されているかを一同で観察してるの図。

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※ 重森三玲もこの複雑な組板をやはり眼に届きにくい天井に用いてたなァ…。かつてはこういうチラリズムなオシャレがあったワケだ。


けどもN邸はまもなく、来年か次の年…、失せてしまう。

岡山県+国土交通省の河川改修計画がため、引っ越し、撤去を求められている。

大雨のたび、昔から岡山市では、この出石町付近に赤信号が灯る。増水時に土嚢を積むというコトが繰り返されてもいる。

明治25年。亜公園が開業して4ケ月後の7月、台風の大雨でこの界隈の2カ所が決壊。岡山市街が信じられないレベルで水浸しになった。

たまたま岡山にいた夏目金之介(漱石)は、そのため滞在先から避難を余儀なくされる。

避難誘導の指示を出し、暗い雨中、弟を金之介の元に駆けさせたのは上之町の光藤亀吉だ。

その避難先はどこか?

2晩を亜公園の事務所か、あるいは県庁(現在は天神山文化ホール)あたりで過ごしたコトは確かなれど、どちらであったか判らない。


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※ 亜公園想像復元模型。右の手前の家屋が亜公園事務所。

この建物の真ん前、道路を挟んで右側に県庁があった(現在は県立美術館と天神山文化ホール)


光藤の避難誘導なくば、東京からの客人・金之介は土地勘のない岡山市街の増水のさなか、落命の確率がアップしていたろう。実際、大勢が亡くなっている…。

漱石のヒストリーの中、このエピソードはあまり語られていないのが残念だけど、ともあれ彼は避難して助かった…。(その後、市内の水が数日経ってもひかず、弓之町の光藤家の別宅に移動したものの、1階の床上に水が残ったままで、彼はそこでひどい下痢に苦しむ。やむなく予定変更。正岡子規のいる松山に旅立った)


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※ 岡山でエライ眼に遭ってちょうど1年後、明治26年7月に撮影された金之介。この頃に、後にトレードマークとなるヒゲを生やしはじめたようだ…。


この大水害で水没しなかったのは、上記2つの施設と岡山神社と岡山城の天守閣のみだった。

だからおそらく、その時は、3つの敷地内は避難した人でいっぱいだったに違いない。ほぼ真っ暗闇(電気はまだないよ)の中、大勢の避難者の中に、後の漱石先生もいて、我が輩はネコろんでる場合じゃなかったのである…、なワケなのだ。

(天守閣は廻りが水没で孤立して寄りつけないし、まだ一般開放されていない)


ま〜、そういう水害が、明治〜昭和と何度も何度も繰り返され、今やっと、旭川土手上の複数の家屋には立ち退いてもらい、防波堤というか堤を新たにして、大規模水害から街全体を守ろうという構想が進行中なわけだ。

そこはよく判る。なるほど確かに必要に思う。

けど…、しかし、こうして旭川沿いの築後100年越えのお屋敷に立ってみると、いかにもその"処置"が口惜しい。


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建物そのものは、どこかに移築出来るかもしれない。

けど…、景観は変わる。窓から旭川も後楽園も見えなくなる。

N邸の佇まいは、その景観と一体のものだ。窓からの眺めこそが要め…。

これを失うのは、ずいぶん惜しい。というより、岡山という街にとっても損失だろう。

こたび同行の福田忍氏は過去何度かN邸を訪れ、昨年の6月には毎日新聞に記事を載せてるけど、彼女もこう書いてる。

貴重な昔ながらの家並がまた1つ消えるのかと思うととても寂しい。今のうちにしっかり瞼に焼き付けておかねば…

まったく同感ながら、そうやって瞼に記憶する以外に手のない虚しさもまたかなり味わって、見学の満足と共に悲哀もまたたっぷり沁まされた。


見学後に応接間で一同お茶を頂戴しつつ、具体を聞く。

突然、リアリティの前線に送り込まれたようなハナシ…。

築後100年越えであっても文化財指定のない家は「査定ゼロ」。

1円の価値もないというのが、立ち退きを要求する国の姿勢なり。

苔むした庭のカタチよき石塔などは、カタチやその来歴は無視で、重さでのみ換算づけられる。

重量36Kgなので、それを廃棄業者に依頼して捨ててもらうには、何千円…、という計算法。

そうやって立ち退きのための額が決まり、もし家屋を解体移動させようと考えるなら、そのための費用は受け取ったお金で、立ち退く側が支払ってヤリクリしなきゃ〜いけない。

家屋を移転移築出来るような金額じゃない。とどのつまり、どこか他所へ引っ越して、今の生活水準を下廻る生活を今後送れ…、というに等しい次第なのだ。

N邸に住まう夫妻は、いま、その選択ポイントに立たされ、苦悶を背中にしょっている…。


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見学の終わりに蔵(くら)の中も見せてもらった。

大正期の、同邸に来客あったさいのお膳などが木箱におさまり、そっくり綺麗に保存されている。

それらは、この"場所"の思い出でもあるはずだし、価値あるもののハズだけど…、国の立ち退き要求の方針にそれらは含まれない。

個人の"思い出"など、ま〜るで立ち退き費用に含まれないんだ。

河川氾濫から街を守るためにN邸を壊すのなら、そのための「礼節」もまた厚くすべきのハズなんだけどな〜。


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※ 暗がりをiPhoneのライトで照らしてくれた考平ちゃん。このN邸の道路を挟んだ真ん前の家(今はない)でオギャ〜と産まれた人なので、こたびのツアーじゃイチバンにノスタルジアにひたってた。(^^)/

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見学後、Mと共に岡山神社さんと打ち合わせ。

能と茶の話が出て…、見てきたばかりのN邸の茶室が瞼に浮いた。

後楽園には多数の茶室があるけれど、N邸のそれは後楽園そのものをちょっと見下ろす位置にあるんで…、いささかのおかしみもおぼえた。

最近の学術研究で、足利義政が造った銀閣寺は月を観る施設として位置づけられ、じっさい、そう機能するように諸々が配置構築され、白壁にはミョウバンが練り込まれてガラス質的にキラキラ反射するといった、月の微光をも捉えようとした空間だったというが、いみじくもN夫人が、

「お月見の夜は、東空の月が川に映って、そりゃヨ〜ござんすよ」

と告げてくれたのを思い出した。

東空のホンモノと川面に反映する揺れる月。この2つを同時に愛でつつ…、が出来る場所。

後楽園の茶室をその点で上廻るビジュアルを、N邸では堪能できるわけだ。

そういうのを無視して家屋に関して「査定ゼロ」と通達する国だか県だかは、何ともクールというか無慈悲というか…。

庭の古びた灯籠をキログラム換算しちゃう「文化国家」。

レベルが高いワ…、と云わざるをえないねぇ。

2017-07-26

甚九郎稲荷の夏まつり


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7月25日夕刻。

旧知のお顔に挨拶などしている内、拝殿の中で巫女舞(吉備舞)がはじまる。

今年の若い若い巫女舞いさんの内お2人は、よ〜〜く知った方の娘さんにお孫さん。

現在の、戦後に造られた拝殿内での舞いは、いささか窮屈で、外からは見えないし…、環境がよろしいとは云いがたいけど、幼き娘さん4人が無心に舞っている姿はまったく悪くない。


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袖を大きく拡げ、ゆるやかに、右へ廻り左に廻りとこれが交互に繰り返されて、白い蝶を見るような感もする。

はるか古代での巫女の舞いは次第に回転運動が速くなり、やがてピョ〜ンと飛んだりして、神さんが憑依するものだった。

「舞」という単語はその回転運動が語源で、だから英語の「Dance」ではない。

今はもう「神がかり」のそれではなく、舞うことの優美さが芸術性とあいまった方向でまっしぐらに進んでるから「Dance」に近似るけど、根ッコの「舞」は神さんの「依りしろ」だ。だからこれにピッタリな英語は、ない。

このことは後で触れる。


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巫女舞の舞台となる甚九郎稲荷拝殿は老朽化している。

本殿はもっと傷んでもいる。

だからいずれ、近いか遠いか判らないけど、造り直す時は、来る。

そのさいは是非に、空襲で焼けてなくなってしまった…、明治時代に造られたオリジナルのカタチに復元して欲しいと、濃く強く、願ってる今日この頃。

カタチは概ねで判っているし、もし復元出来たなら、巫女舞も、三方から大勢が見られるようになる。


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※ 現在の拝殿と本殿(模型)


前回にも書いた通り、甚九郎稲荷の本殿と拝殿は明治25年に開業した亜公園の中に造った天満宮で、明治38年に同園が閉園したさい、これを甚九郎稲荷に移動移築、合祀されたものだ。

本殿部は3層の石垣の上にあって、今のものより倍以上大きかったと推察できる。

戦前のその姿を直に見た随筆家・岡長平は「ずいぶん立派なものだった」と書いている。極度に大きなものではないけれど、3層の石垣の高さでもって見上げる位置にあったから、凛々とした威厳が出ていたよう思える。

そのカタチに戻してもらいたいと願っている。

(戦後、昭和27年あたりで、復元的模索はあったようだけど、どうもイメージ画の段階で、おそらく予算化が難しく、結局今の拝殿になったよう…、推察している)


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※ 明治〜昭和戦前までの拝殿と本殿(想像復元模型)。この模型では柱や壁面を朱色で表現したが…、白色だった可能性もあって、これはただいま探査中(^_^;


出来れば、というか…、これも是非そうして欲しいのだけど、現在の入口近くに横たわっている巨岩も、拝殿横に立てて欲しいもんだ。

伊予青石の1枚岩。

2億年前のジュラ紀中期に生まれた石で日本国内では愛媛の伊予でのみ採れる。重森三玲があちゃこちゃで造園のさい使って、有名になったけど、そのはるか前にこれは亜公園のオーナー片山儀太郎がわざわざ四国から運び、スズリの形を想像出来るよう加工して同園の天満宮に設置した。


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※ かつてはこのように…。


かつて亜公園では、参詣した方々は皆な、この巨岩に向けて手をあわせ、

「お勉強が出来ますように。お習字が上手になりますように…」

祈願したもんだった。

だから「硯岩」といわれた。

しかしこれは、亜公園から甚九郎稲荷に移動したさい、どういうワケか寝かされて設置された。

昭和6年のある文献には、大正期の記憶として、すでに寝かされていたことが書かれている。

だから、大正時代はまだそれが亜公園の「硯岩」と知っている人がいたけど、やがて昭和になり平成になりと世代交代する内、

「この岩、何なんでしょうね〜?」

地域の方にも判らなくなった…。

想像するに、おそらく合祀移動のさい、硯なんだから立ってるより寝かせた方が理に適うジャ〜ン、みたいなコトになったんではあるまいか。

その案は悪くなかったけど、しか〜し…、それで硯岩は神聖をなくしてしまったんだね、きっと。

だって、踏んづけるコトが出来るんだから。

そうやって、最初の記憶がどっかで途切れてしまったんだろうと、思う。

市の文化財を担当する方に問われたこともあって、シティミュージアムの相棒とそこを探求し、"再発見"したのはわずか4〜5年前だ。

亜公園と甚九郎稲荷がそれでつながった。

なのでそのさいは、キャ〜キャ〜2人して大騒ぎしたもんだ。

ま〜、自慢してはいけない。


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※ 現在は寝てます〜〜。踏まないでね。


今の甚九郎稲荷の祭は祗園祭のような超ニギヤカというワケでない。

が、明治後期・大正・昭和前半までは、臨時列車が組まれるような人気の祭ではあった。

なにしろ、上之町商店街のほぼ全店が、店内を独自な装飾にして見せてくれるんだ。

いや、装飾なんて〜もんじゃない。

店内全体にディオラマを設けた。

たとえばある店では、巨大なナイアガラの滝をトタン板や紙や木材で構築し、水を循環させた。

とある洋服屋では、洋服すべてを取っ払い、日露の戦いの場面を造って見せたりした。

とある店では商っている着物を使い、源氏物語の一場面をマネキン(今のような精度高いものではないけど)を使って再現したりもし、

「あ、これは葵上の場面じゃな」

知る人をぞ納得させ、ワタシこれ知ってるよ〜と自尊心をくすぐって大いに満足させたりした。

世界の風景、時事ネタ、風物…、各店のその創意工夫を見に、大勢がやって来た。

いずれの店も照明も工夫し、だから昼より夜の、その個々の個性が際立った。

臨時列車が出たというのは結局、帰りが遅くなる人がいっぱいいたというコトだ。

ちなみに甚九郎稲荷そのものの祭の神主さんは、岡山神社さんが務めていたようだ。これは今もってそうだ。


祭では、商店は店内全体を造りモノで覆うから、当然、商品は売れない。

でも祭は2日間のみ。商売二の次で良いのだ。

自腹をきって、そうやって上之町の名を広めることが大事だった。個々の商店が個々に造りモノ(ダシ)を演出しつつ、その同時多発でもって上之町への次なる集客こそが狙いであって、そこに上之町の若い商店主たちの連帯があった。

だからこれは、甚九郎稲荷を核にした、今でいう「地域おこし」イベントのさきがけなんだ。


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残念ながら、今はそのような町内総がかりでのダシはない。

桃太郎通りの拡張や区画整理でもって上之町は、表町と天神町に二分されてしまった…。

でも、祭は祭だ。規模よりは継続が要め。

空くじなしの福引きが今も昔も大人気。

数年前にはボクも特賞をひいて、自転車をもらった。

ま〜、それはどうでもいい。


しかし、祭ゆえ…、皆さん、鈴をジャラジャラ鳴らす。

ちょっとやかましい。

あれは本来、(あくまで本来ですよ)あんなふ〜に鳴らすもんじゃ〜ない。

そもそも神社の神さんというのはカタチがない。仏教のような神さんのカタチをした像がない。

甚九郎稲荷のような天満宮、すなわち菅原道真ゆかりの社(やしろ)にも、道真の木像などはない。

神さんにカタチがないんだね。

で、神さんは、神社という場に「やってくる」もので、それが何かに憑依といったら気味悪くなるけど、とにかく「依(よっ)てくる」。

お社にやってくるわけだ。


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古代には「さなき」という道具があったようで、漢字では「鐸」と書く。

小さい銅鐸のようなカタチをしていて、中は空洞。そこに「舌(ぜつ)」というのが付いていて、風が吹くなどすれば、それが鐸にあたり音がする。

その音に何かが、この場合は神さんがやって来たと解釈というか知覚をしたらしいのが、始まりだ。

これが次第に変化して今の神社の鈴になったわけなのだ。

だから本来は、今の祭や正月のように訪問者がガラガラジャラジャラ賑やかに鳴らすもんじゃ〜なくって、その鈴が勝手に鳴るのを人々は待っているもんだった。

鳴らせて無理矢理に神を呼ぶんじゃ〜なく、「依ってくる」のを待つ場が、拝殿だった…。

鈴を鳴らすための縄は、「よりあわせ」てあり、注連縄(しめなわ)もまた「よりあわせる」べくネジってあわさっている。今は漢字では「撚(ヨ)り合わせ」と書くけど、元をたどっていけば、「依(ヨ)りて会わせる」という意味が出て来る。

古代の巫女が舞うことによって神さんを招いて会わさり、憑依してもらったように、鈴もまた、こちらが鳴らすもんではなくって、やって来た神が自ら到来を音で告知する装置だった。

だから古代の神社というのは「待機する場所」だったといっていいし、それには「神のやって来る領域」という"区画概念"も含まれた。

それが「境内」だ。

ちなみにボクは高校生の頃まで、これをサカイウチとおぼえてしまっていて、何度か恥をかいた。というか、恥をかいてることを知らなかった。ま〜、今は立派に育ったんでケ〜ダイと自信ありげに口にする。


今の甚九郎稲荷の拝殿は立派とはいいがたいけど、基本のフォーマットはキチリ押さえてある。

拝殿の奥側が少し出っ張っているが、その出っ張りが幣殿に相当する。注連縄が張られ紙垂(かみしで)の飾り物があるので判る。


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※ これはお正月モードの甚九郎稲荷の幣殿。シンプルなのが良いです。


で、「依って」くる神さんはどこに到着するかといえば、それが本殿だ。

アンガイと、拝殿の後ろに本殿があるのを、これを知らない人がいる。ぅむむ。← ケ〜ダイを読めなかったヒトがウムムなんて〜いっちゃ〜イケナイけど。


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※ 明治〜昭和戦前までの甚九郎稲荷本殿(想像復元模型)


拝殿・幣殿・本殿の四方には木が置かれる。結界としてのそれが境目なので、「境木(さかき)」といい、今はこれを「榊」と書く。

こうして、神さんのおわす領域が決まるわけなのだ。


新たに家やビルを建てるさい、21世紀の今もまずは神事をやるけど、地所の四方に置かれているのが、その「境木」だ。

そうやって神さんに向けて領域を示し、神主が祝詞をあげ、神さんに「依って」もらい、家運を願ってるワケだ。

なので、ビルが建っても、その屋上に小さいお社(やしろ)を置いてることがよく、ある。

たとえばこの岡山だと、天満屋本店の屋上がそうだし、竜操整形病院の屋上もそうだ。

神さんに、「いつでもおこしください」と、いわば空港の滑走路みたいに受け入れオッケ〜の気持ちを見せてるワケ。

ハイテクITの時代とはいえ、こういうのはイイね。

古臭いなんて思ってはいけない。

「これが日本だよ〜ん」

と、誇れば良いんだ。「舞」も含めてね。

というか、そこに日本の"個性"があるのだし、そこにボクらは在(い)きてるわけだ。


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さてと…、巫女舞が終わって神主氏が祭事の終了を告げた直後に雨になった。ま〜、良いタイミングだったけど、祭の記録を撮ってらっしゃる島村写場さんはカメラを濡らさなかったろうか?


余談だけど、さて、今年の甚九郎稲荷の福引きは…。

はい。

数年前の「特賞」の自転車ではなくって、トイレットペーパー×6ケでありました。

外れがないのがイイですな〜、甚九郎稲荷。

2017-07-20

明治の面影 ~天神町に山陽放送がやってくる~

先週あたりより工事がはじまっている。

明治に亜公園があった場所。その後に岡山警察署が出来た場所。

警察署は明治・大正・昭和と続くも…、昭和20年空襲で焼けて破壊され、以後はずっと行政がらみの施設がそこには置かれ、最後は農政局となり次いで後楽館高校となった。

高校が移転して数年…。その場所が明治の亜公園と同様、市から民間へと譲渡され、工事がはじまった次第。

やがて山陽放送の本社ケン放送局ができる。


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警察署時代の遺構があるのに気づいたのは、数年前だった。

警察署の模型を造っているさい、その形状と場所の一致に、

「えっ?」

「マジ?」

ビックリした。

県や市の文化行政を担う部門が、なぜ、これを知らぬまま今に至ったか不明だけど、ともあれビックリしゃっくり、漏れた遺物の存在に一喜した。


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一昨年のシティミュージアムでの講演時、この事をおしゃべりしたんだけど、だからといって、即行で拡散認知されるワケもない…。

いぜん、知る人ぞ知るの、小さな遺跡であった。

某新聞社さんにもこのコトを記事にと申し出たけど、はたされない。

後述で登場のF女史が、毎日新聞の地方欄で記してはくれたけど、それとて多くの人が読んでくれたとは…、いいがたい。


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建物の煉瓦の基礎部分。

この礎の上に警察署が出来、出来るや直ぐに活用されたわけだ。

下の写真は、警官全員集合の明治38年当時の記念写真。

後述の、亜公園の集成閣もまだ建ったままだ。


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警察署の設計者は江川三郎八。

当時の岡山県庁内でただ一人の西洋建築専門家

警察署は彼が岡山に赴任して数年後の極めて初期の"作品"。


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※ 模型再現 右下の土台部分(アーチ状)が今に残っているワケです


煉瓦の形や色は不揃いで、これが煉瓦製造の極めて初期のものであるコトはまちがい。

おそらくは県内産。成形技術、燃焼加減などなどクリアしなきゃ〜いけない技術確保のさなか…、というのが眼にみえる。

個々が歪つでバラバラなのだ。

(それが今となっては良い味わいなんだけど)

だから稀少な資料でもある。

当時の県庁が道路の真向かいでもあったんで、空襲の爆撃ポイントにもなってしまい…、わずかにそこだけが破壊をまぬがれて、今に残っているのだから貴重でもある。

むろん、イチバンに価値ありなのは、それが警察署の土台として造られた明治のモノという事実。

これを、地所を買って新たな社屋を造る山陽放送さんが残してくれるのか、どうか…。

工事開始の報をきいて、いまさらに焦燥めいた感を深めおぼえる。


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もっとも、数ヶ月前より、地域の"有力者"にはたらきかけをし、貴重な遺構を残して保存すべきとは伝えていて、幸いかな、声は山陽放送さんには届いているようではある。

ただ、まだ…、はたしてどうなるやらはワカラナイ。

ボクが地域の方々にはたらきがけたより先に、既に新社屋の構想が出来ていたようなので、そのプランの中に「小さな遺構の処遇」は入っていないワケで。

同放送局のラジオ部門で週1回、地域のヒストリアを語っているF女史もこのコトはとても大事と思ってくれていて、彼女なりに動いてはくれるようだけど、しばらくは、注視が続く。


この煉瓦の遺構は、明治時代の「物語」がたっぷりと沁みている。

ただの、警察署の痕跡ではない。

なぜ、そのようなモノがあるかを、ここで書いておく。ちょっと長くなるけど、しかたない。江戸後期から平成にいたるまでのヒストリーを数行で書けるワケはない。


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天神町のその場所は今も昔も1等地で、江戸時代にはず〜〜〜っと郡会所があった。

岡山藩池田家が所領する地域の、そのコマゴマした行政を司る場所で、年貢に関しての訴えゴトなどもここで処理されていたようだ。(大きな米倉も敷地にあった)

庄屋が呼び出されてお小言をいわれるというコトもあって、だから郡会所のすぐそば、石関町には当時何軒も旅館があった。たとえば山陽町界隈からここに来るだけで大変なんだもんね、橋もないんだから…、お小言を告げられるために一泊か二泊しなきゃ〜いけなかったし、行きも帰りも徒歩なんだから、文字通りにトホホ…、なわけだ。


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※ 池田文庫の絵図面より 中央に郡会所、左下に"甚九郎橋"(二之橋)


明治になって郡会所は役割を終え、そこに岡山医学校ができる。

卒業出来たら試験なしでそのまま医者になれるという、とてもレベルの高い学校で、(落第者も多数でるよ、当然に)このクラスの学校は明治初期〜中期には広島にも山口にもないから、重度の病気の方が県外からも入院してた。

そう、病院も兼ねた学校なんだ。

簡単に申せば、これは第三高等学校(現・京都大学)が源流。その一部としてスタートし、ドイツ仕込みの西洋医学の先端、ハイクラスの学校ケン病院なのが岡山医学校なのだった。

しかし、当然、手狭になる。

そこで移転が決まる。移転後、やがてそれが今の岡山医大になるんだけど、そのヒストリーはここで紹介しない。


明治は、ホントにお金のない時代だった。

庶民にもなければ、国にもありゃ〜しない。

それで岡山県は医学校の跡地を売ることにした。

県費を捻出するためにね。


それを買ったのが、片山儀太郎だ。

30代の若者で、船着町で木材商をやっている。

この人は14歳まで豊島に育ち、14歳で船着町の金谷屋(木材商)に養子にやってきた。

今の感覚では14歳だなんて、ま〜るで子供だけど、むろん儀太郎君とて子供ではあったろうけど、他家に養子に出ていくというのは当時はそれほどヘンテコじゃ〜ないし、14歳はもう大人として振る舞わなきゃ〜いけない年齢でもあったんだから、今の感覚で彼を見てはいけない。


ともあれ、金谷家で木材商いを学びつつ、さらに成長。

やがて当家の娘さんと結婚。

独立して、片山木材店をはじめる。

ここから破竹の勢いがはじまる。


当時の木材商は、概ねのところ、建築資材として高級なものを扱うコトこそがイチバンと考えられていた。

江戸時代の流れをくんだ、それは当然のことでもあったんだけど、しかし実態は変化し始めていた。

幕府から政府になり、藩から県に変わり、新たな施設が必要にもなっている。

国民としての子供は全員、学校に通わせなきゃ〜いけない。

そう、学校を建てなきゃいけないんだ…、明治という時代は。

今まで架けてはいけなかった橋も、作らなきゃいけない。

そう、それまで橋は京橋しかなかったんだ。(それも関所みたいな感じね)

文明開化のキンコンカン…、さらには鉄道も引くことになる。(日清戦争での経験上、船舶軍船の燃料・石炭の輸送も要めだった)

いずれも、建造には大量の木材が要る。吟味した高級木材だけじゃ〜ダメなのだ。

儀太郎はいち早く(明治20年前後)、輸入材(ラワン)を扱った。

総ヒノキ造りの小学校や橋でなく、比較的廉価な木材を使用しての学校なり橋が求められ、儀太郎はその需要を見事に担った。


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さらに彼は、ただ輸入材を提供するのみでなく、人材を集め、人材を提供するという、従来誰も考えなかった、いわば「組織的な土木建築事業」を開始した。

1つの校舎を建てるには、木材調達から大工さんの調達までと、アレコレあってメンド〜なもんだけど、儀太郎はそれを1本化してみせた。

行政やあるいは注文主にとって、これほどアリガタイことはない。


そんなんだから、ま〜、当然に、儀太郎はお金持ちになる。

そのさなかに、医学校の跡地を彼は、買った。

買った当初は、そこをどう活用するかは決めていなかったようだけど、やがて、鉄道が岡山にまで延びてくることになる。

今の山陽本線。当時は山陽鐵道という。

これが岡山にまで結ばれることになり、儀太郎の片山木材店が、線路の枕木や駅舎構築の木材を一手に担った。

最初の岡山駅、東岡山駅、瀬戸駅などの駅舎や施設、ほぼ儀太郎が手配したものであったと思われる。(確定的な資料はまだない)

枕木敷設の工夫(こうふ)も彼が集めた可能性が高い…。


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山陽鐵道・岡山駅(当時は岡山ステーションといった)が出来て汽車での移動が可能になった翌年、明治25年の3月に、儀太郎は天神町に亜公園を開業した。

一面の平野、高い建物ったら岡山城しかない、平屋だけの家屋で占められていた市内に、それも天神山という小高い場所に、集成閣という塔を中心に置いた娯楽施設を設けたんだから、誰しもビックリした。

どこからでも、その塔は見えた。

真っ黒い岡山城があるきりだったソバに、真っ白い壁の塔だ…、これは目立つ。

また、その塔に登れば、瀬戸内海までが見えたんで、皆さん、心底ビックリした。

だいたい…、景色を見るためにお金を支払う(5銭)というのを地方都市・岡山の皆さんは経験したことがない。

それで、この塔(集成閣という名)を指して、

「キチガイ楼」

と、これは侮辱ではなくって、ちょっとした愛称のつもりで、そう呼んだりもした。


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亜公園は、集成閣を中心に置いてその周辺に数多の店が並んだ。

芝居小屋、複数の料亭、鮨屋、牛鍋屋、小間物屋、玩具店、喫茶店、写真舘、西洋式理髪店などなどなど…、新造された亜公園内に集積回路のようにミッチリと…、今でいうモールとして運営された。

開業から数年は押すな押すなの人出だったようで、事実、後に儀太郎は、

「たった2年で建造費が回収できました」

と、自身がもたらした効果を自慢するでもなく、そう苦笑されたようだ。


この亜公園にはテーマがあった。

おそらく日本初のテーマパークがこの亜公園であった、とも思われる。

それは、菅原道真だ。

天神町(天神山)には、はるか昔より、太宰府に流される菅原道真の一向の舟が休憩をした場所と伝わっている。(当時は海とも川ともつかぬ場所だったが、そこだけは島のように浮き出ていた。だからまんざらにウソバナシと云いきれない)

ま〜、だから天神山の名がついたワケでもあるし。


以後、天神山にはそれにまつわる祠があった。(らしい)

江戸時代になって、池田家親戚の鴨方藩の屋敷を設けるため、天神山は"開発"され、鴨方藩邸がそこに置かれた。

祠は、岡山神社に移動、合祀されたようである。

(現在の同神社内にある天満宮がそれだ)


そういう永い歴史的背景のある場所での娯楽施設に、テーマとして菅原道真が選ばれた。

亜公園が菅原道真ゆかりの場所であることを示すため、園内に天満宮が新造され、それは岡山神社の天満宮に正面を向けるカタチで設置された。

そして各施設にも、ちなんだ名が与えられた。

菅竹楼。菅松楼。菅梅楼。菅梅堂。天神茶屋。天神座。如水館(写真舘・現在の表町のアサノカメラ)などなど。

(如水の名は太宰府天満宮を再興した黒田官兵衛のこと)…。


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天神茶屋では、「三子ぜんざい」を売った。浄瑠璃「菅原伝授手習い鑑」に登場の三つ子から名をとった名物ぜんざい。

梅賞堂では、「梅まんじゅう」を売った。

梅は、菅原家の家紋だ。

さらには、亜公園内天満宮には、文字のない石碑が建った。

それはヒトメで硯(すずり)と判る巨石だった。

菅原道真=学問の神=習字の熟達。

明治の方々は、この石碑に手をあわせ、漢字の習得と達筆を願った。

以上の通りながら、しかし逆に「テーマがあります〜!」とは声高にしなかった。

おそらくは、菅原道真による宗教色が濃くなり過ぎることも注意していたようである。


ここでもう1つ付け加えておくが、亜公園は片山儀太郎ただ1人が造ったわけではない。当時の上之町界隈に進出した新たな商人としての若者たちが、

「面白いコトしょ〜や〜!」

と、儀太郎の元に集ったらしき…、なのだ。

その中には、笠岡方面からやってきて「細謹舎」という出版社ケン本屋をはじめた北村長太郎がいる。アサノカメラの初代店主・中塚秀太朗がいる。西郷隆盛が没したさい「拳骨せんべい」なるモノを販売してヒットさせた葛和某もいる。三好野花壇(今はキティちゃんのお弁当で有名ね)の若林カネもいる。

そして、当時の地域の中心であった岡山神社の神主たちがいる…。

これら方々が一同に介して亜公園を造りあげた。

ちなみに、亜公園とは「後楽園に亜(つ)ぐ」という意味で、これは当時の県知事(県令)が命名した。


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さて、以外な事実だけど…、この亜公園の開業と同期するように甚九郎稲荷が現在の場に設けられている。

それまでは道路の真向かい、今は駐車場になっているあたり(当時は不動貯金銀行の裏にあたる)の町内集会所脇に設置されていた。

江戸時代、内堀に二之橋(甚九郎橋)という橋があって(島村写場の裏付近)、その傍らに祠があったのだけど、堀の埋め立て時、光藤亀吉たち当時の上之町の若者がそれを移動させて祀りなおした。

でもって、上之町は江戸期を通して大火を出したことが少ないから、「火除けの神」とした。

これが甚九郎稲荷のスタートだ。

たださほど立派なものでは…、なかったようである。

(今の甚九郎稲荷稲荷にある手水鉢はこの時のものと推察できる)

このお社(やしろ)が、陰陽道における裏鬼門の位置にあたる場所にともう一度移動するのは、亜公園が構想された時だった。


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亜公園は厳密な風水思想にのっとって構築されていた。

八角形の集成閣で八掛(はっけ)を象徴させ、北に山、東に川、鬼門に岡山神社、裏鬼門に甚九郎稲荷などなど…、みっちり計算づくの施設だった。

このプランを誰が発案したかは不明だけども、当時の岡山神社神職が指示した可能性は高い。

これは平安京や江戸城と同じ構造(様式)であった。


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しばし大きく賑わった後、その亜公園が明治38年に閉園するや、岡山県が即座に買い戻した。

新たな行政の施設の場が必要で、県庁真ん前の亜公園はまことに都合良きだった。

議会制となって議員はいるものの、会議する場がないんで、後楽園の鶴鳴館でやってた程に場所の持ち合わせがなかった。

亜公園の天満宮があった場所に、まず最初に岡山警察署が造られた。

次いで戦捷記念図書館(集成閣を改造して造った)。

さらに県会議事堂。この3つが亜公園の後に出来上がる。


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警察署を造るさい、しかし天満宮は廃棄するわけにはいかない…。

そこで県と当時の上之町が話し合う。当時有力者になっていた光藤亀吉(亜公園が開業して数ヶ月後に岡山は台風の大水で市内が水没。そのさい滞在中だった夏目金之介(漱石)を助けたのがこのヒト)や岡山神社さんたちも合議に加わったろう。

この話し合いで、甚九郎稲荷との合祀が決まった。

明治38年(1905)、亜公園内の天満宮は緒施設がそっくり甚九郎稲荷に移設された。

軒を貸したカタチながら実際は、より豪奢な天満宮のそれで全面リニューアルというアンバイだった。(移転費用は県費で賄ったろう)

以後、上之町の商店総出でもって、ここに夏の祭を定着させ、甚九郎稲荷は存在を凛々とする。

この祭(7/24.25)のために大正時代は、臨時列車が出たというくらいの動員力を誇るまでになった。

(祭は今も続いてますよ。数年前、ボクはここの福引きで自転車をあてちゃった〜ァ♡)


さてと、岡山警察署だ。

明治38年にそうやって造られ、昭和20年の6月まで40年もの時間を機能し続けた。

戦後は今の県立美術館の所にちょっと移動し、昭和40年代半ばまで東署というコトでしたね。今は原尾島にあって中央警察署という名だ。

(年数回、お世話になってる…。って、逮捕されたんじゃなくって中国銀行本店前広場でのジャズフェスのための道路占有許可を出してもらってんの。ケッコウ手続きが面倒なんよぅ)


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余談はさておき、僅かな煉瓦の土台部分のみを残して天神町の岡山警察署はなくなってしまったワケながら、逆に、今の今までその煉瓦たちが遺構として在ったことにも驚く。

ホントに、何でこれに誰も気づかなかったんだろう今まで…。

ま〜、それゆえ長々と、

「大事にしたいモノがあるよ〜」

と、申している次第でした。

何でもかんでも残せばイイわけもないけど、少なくとも天神町界隈での明治の遺構、かつ、空襲に晒されたことのこれは記憶なのでもあって…、たとえば甚九郎稲荷境内にでも移設して展示してもらえたらと、切望している本日ただいま。


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※ 模型 - 戦後から現在にいたる甚九郎稲荷拝殿と本殿

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※ 模型 - 本来の甚九郎稲荷拝殿と本殿 この姿への復興が望ましい

2016-11-14

旧遷喬尋常小学校

真庭市(岡山県)の旧遷喬(せんきょう)尋常小学校の展示物に、明治の戦捷記念図書館がらみの写真が展示されている… という情報を頂戴する。

こういうミミヨリは早めに確認しなきゃ〜イカン。


という次第で真庭の、久世に出向く。

この日、岡山市内は「岡山マラソン」当日。

交通規制がかかり、朝8時過ぎにはもうシンフォニーホール界隈でも路上にポールが置かれ、多数の警官と係員が出張り、沿道には声援の方々が集まりかけているというアンバイ

落合方面への幹線道が規制の核心部と重なってるんで別ルートを模索。

眼の手術後はじめての長距離ドライブ。


紅葉のさなか。

徐々に県北へと向かうに連れて、紅色と黄色が占める割合が大きくなる。

「秋だぞ、秋タケナワッ」

助手席に向け紅葉を昂揚ぎみに告げるに、相棒は早や、ス〜ヤスヤ…。

そこで秋の色合い独り占め。

チョイと矯正された右眼にシャープな色合いが眩い。

2時間半ばかし駆けて、遷喬尋常小学校の駐車場に車をとめる。


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見事な外観。数多の映画がここでロケしたがるワケだ。

この校舎を造ったのは、明治の人、江川三郎八。

福島県に産まれ、宮大工となり、やがて西洋建築を学び、岡山県の建築技手(技師)に就任したのが明治35年。

亜公園・集成閣を大改造して戦捷記念図書館へと変身させたのが、彼の岡山での最初の仕事(に近いモノ)だったと思われる。

しかしながら、そこを研究してくれるガクシャさんはあんまり、いない。


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江川が設計の建物は複数が現存する。

岡山市内-中央図書館脇に移築設置されてる八角園舎や、和気の閑谷学校の旧校舎同様、一目で江川作品とわかる姿にカタチ。

ボクらのテーマは、その江川じゃない。彼以前の明治期の家屋というか施設たる亜公園が興の中心。

でも亜公園を語るにはまた戦捷記念図書館も外せない存在。

江川三郎八はもっともっと、この岡山では顕彰されてしかるべき人物だと思うが、いまだ知る人ぞ知るという感が強い。

その功績の1部を観ることが出来る展示室が、この重要文化財となった遷喬尋常小学校にある。係の方にアレコレ聞き、アレコレを眺める。


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戦捷記念図書館の絵ハガキ。(を拡大したCOPY)

そこに三好野(みよしの・駅弁で名高い)のスタンプが押されてる。

三好野は、亜公園が出来たのとほぼ同期して、岡山駅前(岡山駅は亜公園の1年前に出来た)に店を構え、駅弁を売り出すんだけど、同時にその頃は三好野花壇という旅館もやってた。

それが、亜公園が閉園した頃には"旅館"が"ホテル"になってるワケなんだ。そこで販売したとおぼしき観光名所のポストカードという次第。

ホテルとなった三好野花壇を物語る第1級の資料が、この絵ハガキなんだな…。このスタンプにはやがて来る大正モダンの萌芽が感じられる。

稀少にして貴重。

しばし、眺めいった。

情報をくれたKに感謝。


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展示室担当の方に謝辞し、それから校内を勝手に探索。

何といっても学校の怪談だ… じゃ〜なくって階段だ。

これほど保存が良いとは思っていなかった。

戦捷記念図書館は図面も残っていないし、現存写真もとても少ない。

内部構造はいまもって不明なのだ。

なので、階段がどのようになっていたか… どこに設置されていたか… かねてより気になっている。かつてミュージアム用に作った模型では内部中央に踊り場のある階段をごく1部、"創って"る。

で、この遷喬(せんきょう)尋常小学校の階段。見事な螺旋状。


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これは参考になる。

30分ばかし階段をあがったりさがったりしつつ、憶測と推論を並べ散らす。戦捷記念図書館もそ〜だったのでは?、と考えを変える。

踏み込むたびギシギシ音をたてるのが、とてもイイ。

木造階段は音譜不要の楽器だ。


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しかし、取材ヒトスジというワケにはいかない。

せっかく来たんだ。

ガッコウで遊ぼ〜。


学生服に女学生制服がここでは無償で提供される…。

実際は時代に応じたモロモロのカタチがあって、なので、こういう場合、ホントは、「何々時代頃」とか「大正時代半ばのもの」とかいった区分をしてのコスプレ対応が望ましいけども、ま〜、このさいだ…、

「せっかくゆえ、着ちゃおっ」

なのだった。

ほぼ44年ぶりに、ボクは学生服にソデを通した。同行者もまた10数年ぶり…。

気恥ずかしいような、こそばゆいよ〜な、妙な面持ち。着衣し、共々、互いの"異風"に笑いあった。


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現役の頃は、制服から一刻も早くに解放されたいと日々思って、かなり忌み嫌ってたもんだけど、歳月がその突起を丸くしちまって、ま〜〜るで戦争を懐かしむ人のようなアンバイも、なくはない。

ホントはそこが問題で、イカンのだけども… ま〜、学生服そのものに罪も罰もない。


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で、さらに、ガッコウの給食。(土日のみ予約者に提供される)

一般参加の方に混じり、最後列でいただいた。

この日の参加者はなんと2クラスにおよぶ盛況。若い県外の方も多い。

高齢者が制服を着て着座しているのはホホエマシイ(人のコト云えないが)


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ホントはミルク(でも蒜山ジャージーだったけど)ではなく、脱脂粉乳が望ましい。

冷えると、とにかくマズイったらありゃしない… あの正体不明なのを再現シテ欲しいなぁ… とは思うけど、同行者は既に脱脂粉乳の時代の子ではなかったんで、あんまり声高にいってもシャ〜ない。

かなり残念だったのは、クジラの竜田揚げではなくって酢鶏がメインだったこと。

コッペパンに付きもののマーガリンもジャムもなかったこと。

一方で、ミルメークなる粉状の変なもののコトを、ボクらは知らなかった。


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食後、学校2階の講堂の、やや音のずれかけたピアノであそぶ。

かつて数多の児童と教職員が一同に介し、いささかの緊張でもってアレコレの式典を行った空間。そこを独占で悠々に遊べる… この愉快は爽快でもあった。

昔の歪んだガラスを通し、床に映じた日光が何ともよろしかった。


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ちょっと知ったお顔が1つ。

この日、彼は学生多数を引率しての、いわば"課外授業"。


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学校を出て、車で勝山町まで移動。街並保存の地区へ。

奇妙な煙突のある町屋に興をひかれた。

玄関のすぐそばという位置から風呂用ではあるまい。暖房のものに違いない… 囲炉裏用? 石炭ストーブ用? 冬は雪に覆われる地域ゆえ、ひょっとして玄関の客用かしら?

想像するのがタノシイ。

けどもこういうのはアンガイと模型化しづらい。既成なカタチに対しイレギュラーなサイズとカタチは、ホンモノに違和はないけど、いざ模型にしてみると… 違和感たっぷりなモノになるんだから、不思議というか、模型のおかしなトコロ。


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散歩後、「ひしお」という蔵を利用したオシャレなカフェでくつろいでたら、そこに上記の御仁もやって来たんで、

「あらあら」

と、大いに苦笑。

"ひしお"というくらいだから、過去は味噌蔵だったワケだ。残念ながら味噌の香りはない。石のプレートにデコレーションされたスイーツ… ただもうひたすらにオシャレな感じ。おいしかったけど、こういうカタチは、ぁ、ぁんまり好みでない。

ここで新春予定の講演概要を打ち合わせ。次回は亜公園関連のハナシでなく別仕立てでいく。


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また移動… 津山側へと駆け、道の駅の「ゼ〜タガンダム」に会いにいく。

そこに置かれてもう10年は越えたろうに、続々、県外ナンバーの車がやってきては、見上げてカメラをパシャリして、いまだ観光"ミドコロ"の気配が衰えていないのにビックリ…。

けどもそんなコトはどうでもよく、10年越えの経過でこの戦闘マシンたるガンダムのヘッド界隈がハトの巣になって、フンで白く染まり、3羽4羽と出たり入ったりの光景が、妙におかしかった。戦後の廃墟のハトという感じで、いっそカレらに頼もしさをおぼえもした。


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2016-10-17

日本の煉瓦のスタートは?


岡山ティミュージアムに模型とけっこうな量のテキスト素材を納品。

模型工作に関しては、前回講演の続きのようなものじゃあるけど、まったく別企画。亜公園は登場せず(^_^;、あくまでニギヤカシ的な位置づけながら、そこはそれ、明治岡山を知ってもらいたいニャ… な気分だけはモ〜リモリ。


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こたびの展示企画タイトルは、

『おかやまのジーンズ産業 〜備前・備中・備後の織物文化〜』

主として、倉敷におけるジーンズ生産がメイン。

繊維産業だね。


ジーンズはともあれ、なかなか珍しいものも展示される。

弥生時代の縫い針が、ボクの模型展示の、そのお隣に展示される。

長さは1cmくらいかな〜、非常に小さい。

しかし、しっかり糸通しの穴があいているんだ。

特殊な工具なくして、その穴はあけられない。

一体、そんな過去にどうやって?

人間はモロモロの技術を伝承して発展させてはきたけども、手法の伝承が途絶えたものもある。

縫い針はその典型。

なるほど工業製品として機械でもって穴をあけるコトは今、出来る。

しかし、手作業でこの穴は作れない。

けども、弥生の時代、それを可能にした技術と職人がいたんだ…。

これぞ、必見! 

自分のワークはさておいて、この縫い針展示こそ要めかも…、だよ。


という次第はさておき…、こたびの依頼では、ボクは密かに… 明治の、繊維産業の核となる生糸製造工場の、その家屋の煉瓦に主眼を置いた。

(今回の展示模型は、明治時代の製糸工場だ。現在の県庁のまんまえ、岡山県立図書館の場所に明治の時代、岡山製糸という絹糸専門の工場があったのだよ)


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明治イコール煉瓦の石畳や建物(銀座界隈)、というイメージがあるとは思うけど、そこがスタートじゃない。

国産煉瓦の最初はおそらく、砲身を鋳造するための高温に耐える反射炉だろうけど、普及のスタートという意味合いでは、明治4年から5年にかけての、富岡の製糸場の建造だろう、とボクは思いを濃くしているワケなのだ。

蒸気機関という日本史の過去にない装置が糸を作る現場に導入されるさい、当然に家屋は頑丈でなくっちゃ〜いけない。

石炭ガンガンたいて高い圧力の蒸気を産む装置なんだから、土壁や畳のお部屋じゃ、可動するや燃えちまう、崩れてしまう…。床も壁も火に耐えるもんでなくっちゃ〜いけない。


当初、煉瓦は煉石とか煉化石といわれた。

フランス人技師ブリュナさんの指導で製糸場(富岡の)から3キロほどの場所に国内初の煉瓦製造のための釜が設けられた。

初の経験、危うい技術。


なので、富岡製糸場の、世界遺産となった家屋群を仔細にみると、煉瓦造りの歴史もまた判るワケなのだ。

最初の頃のもの(繰糸場)と、やや後に造られた女工館(寄宿舎)の煉瓦は、同じ耐火煉瓦というには難があるくらい、違うもの… なのだ。

最初の煉瓦は一個一個… サイズも焼き色も違う。ムラがあるんだね。

ま〜、けど、それが結果、後に味わい深いモノということになって、郷愁の色も濃く明治浪漫なんて云われるけど、本来、それではいけないワケで、濃いオレンジ色やら薄いのやら焦げたのやら、焼きにムラがあるという事は強度にばらつきがあるという事にもなるんだ、な。


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ともあれ、貧乏極まりない明治の日本が必死こいて外貨を得るための生糸(絹)や木綿糸の製造と、日本の煉瓦造りの技術向上はリンクしてるという次第なのだった。

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ちなみに煉瓦を積むにはセメントが必要だけど、明治のその頃は日本に製造技術がない。作れない。英国や仏蘭西から輸入するとトンデモない価格を請求される。

「富岡製糸辞典」(上毛新聞社刊)の記述を要約するなら、英国内で1袋1000円程度のものを8000〜9000円で売りつけられていたのが… 開国直後の明治の裏事情… アシモトをみられていたワケなのだ。

西洋の新規をとっても有り難がったものの、さすがにこれは買えない払えない…。なので従来の漆喰にちょいと石灰分を多く混ぜて、それで代用した。

なので、和洋折衷のこれが最初の事例かも、知れないんだ。

(高名な銀座の煉瓦街は明治6年から10年にかけて造られる)

ま〜、そのような次第をば密かに、工作した模型の煉瓦表現には活かしてるつもりなのじゃあるけど…、展示の本題ではないんで、ここにこっそり書いておく。


岡山の歴史と文化 /  おかやまのジーンズ産業〜備前・備中・備後の織物文化〜』

岡山ティミュージアム 5階常設展示室

期間 10月22日(土)- 11月27日(日) 月曜は休館

2016-10-13

さかおり ~岡山神社社報~


わずか7〜8ページのものじゃあるけど、同社での祭事情報やら、新たな巫女さんの情報(^_^;なども載って、岡山神社の社報、判りよい。

その最新号に、明治時代の『亜公園』のコトを載せている。

紙面スペースの関係上、用意した原稿の1/4をカットしたけど、明治時代の、日本最初のテーマパークについて書かせてもらった。

興味をお持ちの方は、岡山神社の社務所にどうぞ。部数限定ですが、まだ在庫があるようです。


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社報タイトルの『さかおり』というのは、岡山神社は明治14年頃まで「酒折宮」という名だったから。

宇喜多秀家も小早川秀明も代々の池田家でも、その昔は岡山神社とはいわず、「さかおりのみや」といった。それが正式な社号だった。

なので明治14年以前にタイムマシンで出向かれたさいにゃ、

岡山神社はどこですか?」

と人に聞いても判らない。

「サカオリノミヤはどこ?」

と云わなきゃ通じないから気をつけよ〜。


はるかに遡れば、甲斐の「酒折宮」(山梨県甲府市)と関係があるらしいが、確定的証拠はない。

宇喜多直家(秀家のパパ)が最初に岡山城を築いたさい、そこにあった小さなお宮・坂下明神を現在の場所に移したとも、いう。

そこにあった… と今書いたけど、直家が築城のさいにそれを設けた可能性も、また高い。

城から現在の場所に移動した時期も、今となっては曖昧な霧の中。築城後を描いた古地図には場内に坂下宮の名があったりも、する。

坂下はサカオリと読む。

確定的に神社成立の由来や時期を証明するすべはない。なぜなら、岡山神社にあったそれを知る手がかりとなる古文献いっさいが、昭和20年空襲で消失したから…。

空襲というか、戦争がもたらす災禍はヒドイ。地域の歴史をも戦争は奪う。


けどまた一方、消失をまぬがれた池田文庫の古地図などを仔細に眺めると、かつて酒折宮の宮司宅として広い敷地があり、そこに武田の性がみられ、甲斐の武田家と何らか、やはり関係があったようには推測はできる。

それは今の岡山県立美術館と旧後楽館高校を隔てる道路あたり…。そこはまた明治のかの「亜公園」の、その中にあって亜公園の密かな核となる施設「天満宮」の位置とも一致する。


なんだか不思議。

亜公園とも関係した岡山神社…、奥が深い。


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いま、幾つもの神さんが岡山神社には祀られているけど、古くから日本武尊(ヤマトタケル)も祀られている。

意外や、ヤマトタケルを祀った神社は岡山ではとても少ない。その数わずか6社。縁が少ない。市内に限っていえば、同社と建部の七社八幡宮のみ。

甲斐の「酒折宮」はヤマトタケルが東征のさい立ち寄った地として「古事記」にも載る。

はるか遠きな甲斐と岡山神社(酒折宮)が、ヤマトタケルで結ばれる…。

諏訪大社と出雲大社がやはり距離を隔てながらも奇妙にも結ばれているように、諸星大二郎に、そこらあたりの関連性を空想的に描いてもらいたいもんだ。


ごくごくの近未来、かつて亜公園があり、今は旧後楽館高校で、何だかワケわかんないアート展に使われてたりしてる家屋は取り壊され、やがてそこはRSK山陽放送の本社地となって、また景観がコロリと変わる予感…。


ともあれ、社報。

お手にするなら、岡山神社の社務所窓口にゴ〜!

喜んで1部をくださるでしょう (^_^;

2016-05-19

ディケンズ - 後編


映画で味わうディケンズ。その後編。


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『悪魔と寵児』

1947年の英国作品。

今もって版を重ねているらしき、かの復讐劇「ニコラス・ニクルビー」、その白黒映画。

"学校"と称して集められた当時の孤児や浮浪児の置かれた位置が判って、かなりな衝撃をうける作品。

(当時、救貧院や養育院といった施設が英国の方々にあったのだわさ…)

子らは常にぶたれ、蹴られ、虐げられ、あげくオドオドした眼を澱ませた声なき群像となっていく。

激烈なまでに憎々しい演技の高利貸に扮するは、はるか後年、ジェレミー・ブレッド好演のTVシリーズ「シャーロック・ホームズの冒険」の二代目ワトソンとなった人のお父さん。

そのワトソン氏もなくなって、もう4〜5年が経つけど、この作品では、先の我が講演で持ち出した、当時の衣装事情もチョイとわかる。

着替えのシーンがあって、そ〜、この時代はコルセットの時代なのだ。

女子は、自分1人では着付けるコトも脱ぐコトも容易でない下着を着けている。顧みるに奇妙な下着の時代の19世紀…。

そして男はフロックコート。まだブレザーはない。

1947年という制作年が大事。

ナイロン素材が発明された7年後。まだ映画の撮影現場にその新素材はおそらく浸透はしていまい。

となると… 衣装も19世紀半ば同様の素材に近いと思える。ファッションというフィルターでディケンズの時代を眺めたって、イイじゃ〜ないか。

「チキチキ・バンバン」のヒロイン、サリー・アン・ホワーズが出てる。たぶん彼女が16〜17歳頃の作品だろう。デビュー作かも知れない。

(ボクは「チキチキ・バンバン」の中のこの女優さんを大変に好きなのだ)


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映画としては… 後半、原作のストーリーを追うがゆえにシーンが説明的羅列で興醒めだけど、主人公兄妹の母親のその無知加減が、あの時代を実によく示しているようで、イジイジさせられつつ、真実のかけらを眼前に置かれたようで、捨てがたい。

無知が貧困を産む、ともいうが、なぜに無知なのかという点に焦点をずらしていけば、やはり… 当時の社会全般の歪みも見えようというもんだ。

そうか…、この時代の英国じゃまだ「決闘」があったのかと知れる。明治の日本に眼を転じると、「仇討ち」が禁止されたのは明治の6年だ。

ほぼ最後の仇討ち事件は明治の5年で、これに… まもなく岡山電気軌道本社となる阿部道場(現在はオリエント美術館)の主らがからんでいるハナシは… また別の機会に。


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『オリバー!』

1968年作。

監督は『第三の男』や『華麗なる激情』のキャロル・リード。この人の才能にゃまったく敬服する。しかもミュージカル。

同年のアカデミー賞6部門を制覇で、豪奢な幕の内みたいなもの。


いかんせん、子供が子供でいられる賞味期限は短い。

鼻がツンと上を向いたジャック・ワイルドは2006年に亡くなってしまったけど、この映画の中では永遠の子供として活きる。

実のボクは、『クリスマス・キャロル』の利己的自己中心な主人公スクルージに近似るようなアンバイもなくはないから… 子供を警戒するようなところがあって、早いハナシ、子供が苦手なのじゃ〜あるけれど、この映画の中、ディケンズの子供達は逞しい…。

リバプールの貧乏な家に産まれた若者達が楽器片手にハンブルグに出稼ぎし、アルコールとドラッグと娼婦に揉まれ、大概ならそれで身を潰す環境ながら、天上的にラブリーな詩歌を創る純正純真を失うことなく、やがてビートルズとなっていったのを、思ったりした。


かつて昔にこの映画に接したさい、凄惨さがいつまでも尾を引いたと思ったけど、こたびの再見では、むしろ、この映画は楽天の基調だったと真反対な見解。

巨大なセットと膨大なエキストラで見せられるロンドン市街には、ただもうアッケにとられ、実際はもっともっともっと暗い… と懸命に眼にフィルターをかけていかなきゃ、映画の表層のみを味わってチョット損をするような弊害あり。


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『デヴィッド・コパーフィールド』

ディケンズの代名詞たる原作。1999年のBBC制作のTV用ドラマ。

ボクが子供の頃は、「カパーフィールド」と訳されていたよう思うけど、今は「コパーフィールド」と表記するのね?

しかし、このDVDパッケージは… 何じゃ。

我が国では、『ハリー・ポッター』の最初の映画が入ってきたさい、急遽に発売されたようで、むろん、なぜって、この子(ダニエル・ラドクリフ)が出てるからだ。

もし、この子が出てなかったら、おそらく我が国じゃ〜DVD発売なんてなかったろうから… ま〜、ありがたいといえばありがたいけど、パッケージはいかん。いかに売るためとはいえどだよ。

しかし、その『ハリー・ポッター』の主役ラドクリフ君がここでも主役ゆえ、いみじくも『ハリー・ポッター』を書いた作家の中にもやはりディケンズがいるな〜、とも認識させられた。

虐げられつつも逞しく育ってく、成長物語の原本としてのディケンズ…。

社会批判の作家としてでなく、最初の情報化時代の編集者的作家としてでなく、グローイングアップを描いた作家として… 見直してもよいかとも思ったのが、この『デヴィッド・カパーフィールド』。ディケンズなくば、たぶんに「ハリー・ポッター」も産まれなかったんじゃなかろうかと、思う。


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『オリバー・ツイスト』

意外やロマン・ポランスキー監督作品。2005年作。

彼の不幸な生い立ちを考えると、撮って当然かもとも思うけど… ポランスキーとディケンズという組み合わせが妙味。それっくらい、ディケンズ作品は今を呼吸しているというコトなのだ。

しかし、そこが哀しや、この日本では今1つ了解される気配が薄い。

と書きつつボクも日本育ち… 大陸的光芒が肉化されない…。


キャロル・リード作品がミュージカル仕立ての陽であれば、こちら陰。日本のデンデン太鼓みたいに両者をクルクル廻すと陰陽あわさってのディケンズ・サウンドが聴けるようには思える。

大都となりつつあるロンドンの、石畳となったものの、馬車が駆け荷車が引かれるゆえの、"石畳の上にのった大量の土"といった描写の細やかさは、さすがポランスキー。

それが雨でぬかるむ。

ジュブジュブ、ジメジメ、な感じ悪さがうまく映像化されて、ここは得点。


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例の二代目ワトソンことエドワード・ハードウィックが、良き紳士ブラウンローさんに扮しているのは、おそらくポランスキー監督の映画人的配慮かと思える。

彼は子供達の喫煙シーンを消去しなかったけど、煙の出方がとても薄いのは… 現代の映画が置かれた"制約"に違いない。今、19世紀半ばのタバコ(パイプだ)をリアルに描けないコトは、大きな問題だ…。



『ダークナイト ライジング』

クリストファー・ノーラン監督のバットマン映画。

ディケンズの『二都物語』から着想を得たという…。

映画館で観たけど、どうもピンと来なかった。ことさらに… 悲劇をみたくないという心理もあって、それで「ダークナイト3部作」はDVDも買わず終いなのだけど… どうしようかしら?

と、悩んでる内、先にこれを書いちゃった。


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ともあれ日本が開国して明治になって… という時代の英国では、都会に孤児が多々いて、さらには人の階層化で明暗わかれ、幾重の涙が垢まみれになって流れていたと知れるけど、ただそれだけではなくって、垢まみれの笑いもまたあったろうとも… 何本かの映画を観りゃ、判るのだった。

そうでなくば救いがない。また、繰り返してディケンズ原作のドラマや映画が生じることもない。

要は「清廉と逞しさ」がディケンズの主題なのだろう。

困難苦渋に耐えて生きるチカラ。

そこを思うと、19世紀半ばの時代を生きた人が見れば、今を生きるボクらはかなりひ弱い生き物というコトになるんじゃなかろうか。

ディケンズの頃とおそらく今はそう変わっていない。

あいかわらずの現状肯定かつ増進での拝金と、それによる歪みとしての階層化、そして何だカンだの制約…。

今、ディケンズに学ぶのは、タバコの煙すら描けなくなりつつある、"臆病な衰退"なのかもと妄想した。