Hatena::ブログ(Diary)

月のひつじ

2017-08-16

旧家探訪

ありがたいお誘いに乗っかって、旭川沿い、出石町のN邸を訪問す。

旧知の仲間、新規な仲間、併せて9名。大所帯での訪問になってしまったけど、良いものを観た嬉しさ満杯。

大正前期に建てられ、戦火をくぐって今に残った旧家。

昭和20年6月の空襲岡山神社や周辺家屋は燃え上がったけど、鶴見橋そばのこの邸宅と数軒が奇蹟的に焼けず、それゆえ空襲後、同家の主人が門戸をオープンにし、焼け出された近隣の方々が短期ながらも、仮り住まいとして屋根の下で眠れたという有り難い逸話も、残る。


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西側の路地沿いの塀に覆われた佇まいに比し、旭川に面した東側は広い窓で覆われる。

旭川の流れをはさんで真向かいに後楽園。それを室内から眺められる最良の立地と窓の配置。

鶴見橋の往来もまのあたりに、豪奢な料亭の愉悦空間、その眺め…、といいたくなるけど個人宅。


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北東の角っこには茶室もあって、しかもその造作、壁の1部は旭川の土手に沿って曲面で塗り壁されていたりと…、既成の枠も越えてのオリジナルな佇まい。いやはや素晴らしい。

Before&After - 巧みのワザが光る…、などとテレビの中で云うところの巧みの師匠などおそらく束になってもかなわない、大正期の無名ながらも精度高きな意匠が随所に。


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案内くださったN夫妻の丹念な解説に恐縮しつつも、夫妻のこの屋敷への愛情がヒシヒシ伝わる。

クーラーはない。けども窓を開けるや、旭川からの風が室内に入る。心地良い。

夕刻ともなれば灯りに誘われ、蚊、小さな蛾、ヤモリ…、といった土手の水辺に住まうものたちが室内に入りこんで、

「いささか困る」

という次第もあるらしいけど、窓の開放と共に入る川風の涼みはクーラーのそれでない天然の恵みとして皮膚が悦ぶ。


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※ Mちゃんのお尻を撮ったワケではない。普段見えない場所にどのような意匠が施されているかを一同で観察してるの図。

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※ 重森三玲もこの複雑な組板をやはり眼に届きにくい天井に用いてたなァ…。かつてはこういうチラリズムなオシャレがあったワケだ。


けどもN邸はまもなく、来年か次の年…、失せてしまう。

岡山県+国土交通省の河川改修計画がため、引っ越し、撤去を求められている。

大雨のたび、昔から岡山市では、この出石町付近に赤信号が灯る。増水時に土嚢を積むというコトが繰り返されてもいる。

明治25年。亜公園が開業して4ケ月後の7月、台風の大雨でこの界隈の2カ所が決壊。岡山市街が信じられないレベルで水浸しになった。

たまたま岡山にいた夏目金之介(漱石)は、そのため滞在先から避難を余儀なくされる。

避難誘導の指示を出し、暗い雨中、弟を金之介の元に駆けさせたのは上之町の光藤亀吉だ。

その避難先はどこか?

2晩を亜公園の事務所か、あるいは県庁(現在は天神山文化ホール)あたりで過ごしたコトは確かなれど、どちらであったか判らない。


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※ 亜公園想像復元模型。右の手前の家屋が亜公園事務所。

この建物の真ん前、道路を挟んで右側に県庁があった(現在は県立美術館と天神山文化ホール)


光藤の避難誘導なくば、東京からの客人・金之介は土地勘のない岡山市街の増水のさなか、落命の確率がアップしていたろう。実際、大勢が亡くなっている…。

漱石ヒストリーの中、このエピソードはあまり語られていないのが残念だけど、ともあれ彼は避難して助かった…。(その後、市内の水が数日経ってもひかず、弓之町の光藤家の別宅に移動したものの、1階の床上に水が残ったままで、彼はそこでひどい下痢に苦しむ。やむなく予定変更。正岡子規のいる松山に旅立った)


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※ 岡山でエライ眼に遭ってちょうど1年後、明治26年7月に撮影された金之介。この頃に、後にトレードマークとなるヒゲを生やしはじめたようだ…。


この大水害で水没しなかったのは、上記2つの施設と岡山神社岡山城天守閣のみだった。

だからおそらく、その時は、3つの敷地内は避難した人でいっぱいだったに違いない。ほぼ真っ暗闇(電気はまだないよ)の中、大勢の避難者の中に、後の漱石先生もいて、我が輩はネコろんでる場合じゃなかったのである…、なワケなのだ。

天守閣は廻りが水没で孤立して寄りつけないし、まだ一般開放されていない)


ま〜、そういう水害が、明治〜昭和と何度も何度も繰り返され、今やっと、旭川土手上の複数の家屋には立ち退いてもらい、防波堤というか堤を新たにして、大規模水害から街全体を守ろうという構想が進行中なわけだ。

そこはよく判る。なるほど確かに必要に思う。

けど…、しかし、こうして旭川沿いの築後100年越えのお屋敷に立ってみると、いかにもその"処置"が口惜しい。


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建物そのものは、どこかに移築出来るかもしれない。

けど…、景観は変わる。窓から旭川後楽園も見えなくなる。

N邸の佇まいは、その景観と一体のものだ。窓からの眺めこそが要め…。

これを失うのは、ずいぶん惜しい。というより、岡山という街にとっても損失だろう。

こたび同行の福田忍氏は過去何度かN邸を訪れ、昨年の6月には毎日新聞に記事を載せてるけど、彼女もこう書いてる。

貴重な昔ながらの家並がまた1つ消えるのかと思うととても寂しい。今のうちにしっかり瞼に焼き付けておかねば…

まったく同感ながら、そうやって瞼に記憶する以外に手のない虚しさもまたかなり味わって、見学の満足と共に悲哀もまたたっぷり沁まされた。


見学後に応接間で一同お茶を頂戴しつつ、具体を聞く。

突然、リアリティの前線に送り込まれたようなハナシ…。

築後100年越えであっても文化財指定のない家は「査定ゼロ」。

1円の価値もないというのが、立ち退きを要求する国の姿勢なり。

苔むした庭のカタチよき石塔などは、カタチやその来歴は無視で、重さでのみ換算づけられる。

重量36Kgなので、それを廃棄業者に依頼して捨ててもらうには、何千円…、という計算法。

そうやって立ち退きのための額が決まり、もし家屋を解体移動させようと考えるなら、そのための費用は受け取ったお金で、立ち退く側が支払ってヤリクリしなきゃ〜いけない。

家屋を移転移築出来るような金額じゃない。とどのつまり、どこか他所へ引っ越して、今の生活水準を下廻る生活を今後送れ…、というに等しい次第なのだ。

N邸に住まう夫妻は、いま、その選択ポイントに立たされ、苦悶を背中にしょっている…。


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見学の終わりに蔵(くら)の中も見せてもらった。

大正期の、同邸に来客あったさいのお膳などが木箱におさまり、そっくり綺麗に保存されている。

それらは、この"場所"の思い出でもあるはずだし、価値あるもののハズだけど…、国の立ち退き要求方針にそれらは含まれない。

個人の"思い出"など、ま〜るで立ち退き費用に含まれないんだ。

河川氾濫から街を守るためにN邸を壊すのなら、そのための「礼節」もまた厚くすべきのハズなんだけどな〜。


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※ 暗がりをiPhoneのライトで照らしてくれた考平ちゃん。このN邸の道路を挟んだ真ん前の家(今はない)でオギャ〜と産まれた人なので、こたびのツアーじゃイチバンにノスタルジアにひたってた。(^^)/

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見学後、Mと共に岡山神社さんと打ち合わせ。

能と茶の話が出て…、見てきたばかりのN邸の茶室が瞼に浮いた。

後楽園には多数の茶室があるけれど、N邸のそれは後楽園そのものをちょっと見下ろす位置にあるんで…、いささかのおかしみもおぼえた。

最近の学術研究で、足利義政が造った銀閣寺は月を観る施設として位置づけられ、じっさい、そう機能するように諸々が配置構築され、白壁にはミョウバンが練り込まれてガラス質的にキラキラ反射するといった、月の微光をも捉えようとした空間だったというが、いみじくもN夫人が、

「お月見の夜は、東空の月が川に映って、そりゃヨ〜ござんすよ」

と告げてくれたのを思い出した。

東空のホンモノと川面に反映する揺れる月。この2つを同時に愛でつつ…、が出来る場所。

後楽園茶室をその点で上廻るビジュアルを、N邸では堪能できるわけだ。

そういうのを無視して家屋に関して「査定ゼロ」と通達する国だか県だかは、何ともクールというか無慈悲というか…。

庭の古びた灯籠をキログラム換算しちゃう「文化国家」。

レベルが高いワ…、と云わざるをえないねぇ。

2017-06-30

殿さんの茶の湯 part3


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近頃の"現代アート"な各種の催しと作品にボクはわりと辟易している方、だ。

わけても、空き地を利用のそれには"芸術ゴッコ"の感しか、受けない。

つい最近も、こんなのが天神山にポコンと置かれて、場にそぐわず、いっそ滑稽、いっそ醜悪を感じた。

場にそぐわない、というのはボクが天神山界隈の明治期あたりからの歴史をチョットかじってしまっているせいもあろうけど、唐突な異物、としか眼に映えない。

展示物なんだから触っちゃダメよ…、の柵ごしらえも滑稽。

この展示物の近くの小さな公園にある、セメントの滑り台の方が、よっぽどに魅惑あり。


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かつて「秘宝館」なるケッタイな見世物舘が全国にあって、ほぼ100パーセントそれは温泉歓楽街の場末にあった次第ながら、猥雑の中のエログロゆえの硬質っぷりといった…、1本の俠気に似る"思想"が充満していたという気が今となってはしないでもない。

ボクが直に接したのは四国の某温泉街で、それも40年ほど昔日のことだから、かなり記憶があいまいになってるけど、男女の"性事"におけるアレコレを、赤面するような熱心さでもって果敢に展示している、その熱心温度にびっくリした次第が、「俠気」としてボクの中では知覚され今にいたる。

ここでの"俠"は、それがためなら命も惜しまないといった一生懸命っぷり、その気概という感じで使ってるんだけど、いっそ、現代アートのそれよりはるかに、思想の厚み有り…、とボクは思ったりもする。

秘宝館」の展示物は観念的なものでなく、徹底の具象なのだけど、徹底ゆえにいみじくも壮大を引き寄せてしまっているような、あげく、

「カッカッカッ」

大笑するような妙なアンバイくるまれるのだった。


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茶の湯のことを伝統的芸風…、とはボクは思わない。いっそ現代アートの域に本来はあるものだと、思ってる。

茶の湯エログロ秘宝館ゴッチャ煮るのはヨロシクない流れだけど、感じられる共通点は、ラジカルな美に裏打たれた仁義…、みたいなとこ。

井伊直弼の『茶湯一会集』を読むと、どうもその仁義配分が重すぎる感もあるけれど、ま〜、そこは見立ての問題。

自身を型にはめつつ同時に型から脱出するみたいな、あるいは、ヤクザのメチャなふるまいと一方での仁義任侠を重んじるアンバランスなラディカリズムみたいな、同時発生の2極な分離に面白みをおぼえる。


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茶の湯には、強烈な求電力と放電力が同時におこってバチバチ火花をあげている…、と見ている次第。

それゆえ最近やたら、茶の本に接して、いわばラジカル・ミステリー・ツアーをやってるわけだけど、まちがっても"茶道検定"の類いは読まない。本屋さんのお茶関連のコーナーの大半がそれだね。

それじゃ〜発火しないよ。


しかし、江戸時代から明治時代になった時、茶の湯がひどく廃れたのは事実なのだった。

閉じた国が開かれ、途端、一気怒濤で入ってくる西洋のモロモロ。

それと同時に日本の伝統的なモノモノを、

「古臭ぇ〜!」

と思ってしまう風潮がおきた。

だいたいが…、右へならえが好きな国民性。なが〜い江戸時代の諸々な強権に対しての処世術がそんな体質を育んだとボクは思ってるけど…、昨日まで愛でたものを突然に捨てることもする。

銀座珈琲よネ〜っ」

がカッコ良いとなれば皆なが倣う。

この伝搬速度は速かった。

馴染みない苦みに砂糖の需要もドッカ〜ンと増えた。輸入の砂糖が珈琲の魅力をアップさせ、その勢いで、大日本製糖といった独占企業も出て、どえらく儲けもした。

さらには、土壁より煉瓦でごじゃる…、と西洋建築が全国で一気にニョキニョキ。

当然に煉瓦国産化に向けて見よう見まね、全国アチャコチャで工場がニョキニョキ。


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※ 明治錦絵小林清親の「日本橋夜」


ただし土足で歩ける室内環境構築までは進まない。

靴の製造という新規事業に、「皮を扱うのは…」と頑強頑迷差別意識が邪魔をした。

神道の「穢れ」「不浄」といった概念のこれは悪しきトンデモ弊害だったと思うけど…、さらには、明治政府神道国家を標榜し、仏教を軽くにあしらったもんだから新たな誤解が生じ、廃仏毀釈というメチャも起きた。

茶の湯はその仏教文化と密にからんでいたから、打撃もまた大きかった。

もちろん1つには、幕府や諸藩が援護していた茶の湯の緒流家元および茶坊主組織が、幕府と藩の瓦解によって禄(収入)を失ったという事情もあるけど、西洋的なるものへの蠱惑が茶道をふくむ日本独自の芸術を一挙に軽視させてった。


れんめんと続いた茶の湯文化は、明治のスタートと共に最大の危機を迎えたわけだ。

その期間はおよそ40年におよぶ。

ラフカディオ・ハーンはこの時期に日本に居て、なくなってしまった(part1を参照)。

だからこそ、岡倉天心の踏ん張りなくば、はたしてどうなってたかしら? と思わずにいられない。天心の面目は、かの思想書『茶の本』を米国で英語でもって出版したことだろう。


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茶の本』は日本で日本語で書いてもさほど話題にならなかったと思える。

『The Book of Tea』として、外からやって来た日本再発見というカタチがよかった。


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天心の著述で、けったいな西洋一辺倒の潮流に堰が出来た。(むろん、それだけじゃ〜ないけど)

鹿鳴館での過度の模倣や激情から醒まされ、復古の温度が上昇した。

滑稽な自分たちの姿にやっと気づき、赤面もした。

(上の写真・板垣退助とその奧さんと娘さんの不本意な洋装)

岡山の場合でいえば、明治到来と共にまったく売れなくなった備前焼が、また売れだしはじめる…。

池田家の大庭園・御後園(後楽園)を残そうという運動もおきる。

その点でとっても損したのは島根の方々だったかもしれない。


テンヤワンヤの元凶は、黒船というカタチでの外圧だった。

ノックの強さに日本はあわて、拒絶の意志として、急ごしらえのお台場(重い砲を置く台座)を品川湾中に設ける。

そこにあったのが島根松江藩江戸屋敷。かの松平不昧がかつて造り、自慢した大崎園だった。

(不昧についてはコチラを)

坪数2万2千の大庭園。茶室はいったい幾つあったやら。

(今に残る初期の図面によれば、その数は11棟。庵の増築の可能性も高い…。ちなみに岡山後楽園は1万7千坪)


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※ 園内のごくごく一部の図面


これを、幕府が臨戦の危惧に泡くって没収、周辺の海際の土地を含めてブッ壊しての大砲設置なのだった。

伝統的芸能的かつ心を磨きに磨くような茶事の場が、いわば外圧がために踏み躙られフッ飛んだワケだ。

不昧が生きてりゃガックリ以上の憤怒に色をなしたろうし、今や「お台場」は誰もが知る所だけど、そうなる前の、お茶のための巨大施設のことは忘れられてるんだから、損という他コトバがない。


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※ 谷文晁が描いた蔟々閣(不昧の庭園内の茶室の1つ) 島根県立美術館


ボクが今接したい本は、「茶の湯の歴史」とかではなく、「茶の湯から見る日本」というカタチのもの。

これが意外とない。なのでこうやって一文してるワケでもあるんだけど、ね。

明治の日本は水いっぱいのバケツがひっくり返ったようなアンバイな時代だったとは、思う。

大量の雑巾が必要だったわけだ。で…、部分はまだ乾いていないの。

2017-06-26

殿さんの茶の湯 part2

茶の湯の普及。仕掛けを造ったのは信長だ。

室町期の寺々でもって一気に萌芽し、同幕府歴代の将軍達を悦にいらせ、けどもあくまで嗜好的文化事象だったのを、パンにバターを塗って濃くみを増すよう…、政治事象に組み入れた。

無粋な田舎豪族の頭どもに、領土より茶事のための一品、名器名物なる瀬戸物に価値ありとブームさせ渇望させた信長はこのコペルニクス的大転回でもって、もっと顕彰され、この部分をより深く考察されてよい。

鉄砲の威力より茶の湯に、彼は豪快と深淵を見、五段活用フル動員でビジョンを描き、そう運ぼうとした。茶の湯でもって日本統一を企てたといっても過言じゃないだろう。

"名物狩り"なる過度な強制などやりつつも、平和主義への転換とはコトバが過ぎるけど、信長の中で変化が起きていたことはたぶんマチガイない。

けども、断たれた。


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※ 九十九髪茄子(つくもなす)。室町幕府第3代将軍・足利義満が秘蔵した唐物茶入。代々が使い、15世紀末頃に村田珠光が九十九貫で購入し、その名になった。さらに後に持ち主が転々。千貫で手にいれた松永久秀が半ば脅され松永家の安定と交換のカタチで信長に譲った。

本能寺の変で焼けたと思われたが、奇蹟的に掘り出され秀吉の所有となる。


秀吉信長の振るまいをコピー踏襲し、大いに真似たあげく、宗二(そうに)や利休を刑死させるほどの茶番をやらかして迷宮に踏み入り、そのあとをリアリスト家康がカタチとしての茶の湯の効能を引き継いだ。

大坂城落城で彼が手に入れたのは、最高権力と、秀吉が収集した名物の数々の没収的継承だ)

茶の湯の"しきたり的行動"の基礎基板は孫の家光あたりで定着したと思う…。


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※ 徳川家3代目将軍・家光の肖像。


家光が鎖国で国を閉じるや、茶の湯はいっそう裾野を拡げてく。

戦闘がための刀が次第に美の含有率を高めて象徴的かつ芸術的なモノへと昇華したように、茶の湯もまた、利休の頃の生と死の端境における美学的何事かから、その理念は残したものの芸道へと昇進してった。

すでに戦国期ではない事実を事実と波及させるに、茶の湯の"定義"の変更もまたこの時点では必需だったろう。

安定剤の核としての茶の湯の政治的ルール化がここで起きる。

ルールの基板が硬められ、幾つもの茶道家元を興隆させ…、定着させてった。

求道が芸道に色を変え、所作という定形を産んで、ルールは時計みたいに動き出す。


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※ 曜変天目茶碗(国宝)。家康の時代から徳川家が秘蔵していたらしきだけど、家光が乳母春日局の病気見舞いに贈った。

実母より乳母に強く愛を抱いた家光…。その後は局の出身地・淀藩稲葉家が所持。それで「稲葉天目」とも云う。最近テレビの鑑定番組で国内で4つめが出たと話題になり、でも鑑定評価額が数千万だったので、「低すぎる。おかしい!」とニュースになったのが、この曜変天目

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※ 曜変天目茶碗を贈られた春日局(かすがのつぼね)


茶を核にしたルールは、城内での茶坊主というカタチに良く示される。

幼い頃より茶を学び、所作を体得し、帯刀せず、剃髪ゆえに"坊主"ながらも歴とした武士階級の者たち(僧じゃない)。

かれらが茶の湯の手配、来客接待、案内…、諸事万端なんでもこなした。

茶事のみならず、秘書のようにふるまい、常にトップクラスの方々と接するから、禄はさほどでないけど階級は高いという、そこいらの武士を軽く凌駕する影響力ももった。

(茶坊主ピラミッド構造の組織なので位が高いのは1部のヒトね)

秀吉と利休の関係がより合理的組織的に再整備されたと思えばいいか。


この辺り、今の時代劇映画やTVドラマで殿さんが出てくる時に、まったく描かれず登場しないのは、何故だろね? 

きっと予算がないんだね…。実際は、江戸城にも諸藩のそれにも、城内には坊主頭で僧侶のカッコ〜の人物が多数いるんだけど、1978年の深作欣二の駄作『柳生一族の陰謀』あたりから、描かれなくなっちまっただよ。背景の細々よりも千葉真一たちのアクションを"見せ"たワケだ。ぅ〜ん、残念。


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※ 式典準備中の茶坊主集団。1962年東映映画『天下の御意見番』より。セリフのないシーンながら、城の規模、殿さんの格、とかが品良く描かれ、結果、映画に重層な深みが出てる…、とボクは思ってるんだけど。


ここ岡山、池田藩では「御茶道」という役職名がついて組織化され、城を機能させる重要な役を担ってた。

たとえば、5代目藩主の池田治政が天明元年(1781)の5月に岡山へ戻ってきたさいの記録が今に残るが、翌日早々には後楽園内をまずは視察、あれこれ「御茶道」に指示をした上で、翌日から6月の末まで2ヶ月、ほぼ連日に茶会を催している。

5月19日には城内の表書院で「御茶御稽古初めの儀」なる式典も催し、藩主家臣ともどもが茶事の稽古にはげむという構図を、「御茶道」が仕切ってた。

家臣たちも、武芸より、茶の湯の体得が大事というワケだ。


ちなみに、例の赤穂浪士たちが襲撃した吉良家にはその夜は80名前後の職員が寝泊まっていて、うち23名死亡、重傷16名という大惨事となったけど、死亡者の中には無帯刀の茶坊主(たしか15歳で、どこかの茶商の息子で、茶道役の見習いみたいな位置にいて事件の犠牲者にカウントされたと記憶する)もいた。吉良家が屋敷内に茶坊主を抱え(夜間の泊まりとして)るホドの"家柄格式"ということが、ここでも知れる。

昼間はより高位な茶道役が同家に駐在していたはず…。


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※ 1960年東映映画『水戸黄門』の江戸城内のヒトコマ。

このシーンでは訪ね来た武家の手土産を持って茶坊主が殿さんと応対させているんだけど、余談ながら、映画が娯楽の筆頭だった昭和30年前後の東映映画の絢爛は、素晴らしい。

むろん史実無視の娯楽作だけども、殿さんというトップの周辺の描写は以外や克明。なにより撮影規模、セットの大きさが圧巻。江戸城あたりのいわば格式のみが特化した"特殊世界"の描写に映画セットの綺麗キレ〜なセットセットした感じがピタリ符合して、価値あり…。


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※ 『天下の御意見番東映・1962より。将軍(デビュー直後の超イケメン北大路欣也)が茶をたて臣下片岡千恵蔵)に振る舞うの図。


京都宇治の茶葉を江戸に運ぶがための「茶壺道中」が、諸般の大名行列よりも上位に置かれるというケッタイもおきたのが…、江戸時代というもんだ。

(この詳細はコチラを参照)

茶の湯という形式をメイン柱にしたワケなんだ。


城内での茶坊主の存在は、たとえば、『梅津政景日記』で読み取れる。

梅津政景(うめづまさかげ)は、安土桃山江戸初期における出羽国久保田藩家老ケン茶坊主の武将。

この人の日誌で、茶坊主の日常業務やポジションが推測できる。


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岡山での茶坊主関連のエピソードを1つ、あげる。

池田慶政(よしまさ)が藩主だった万延元年(1860)の2月に、御後園(後楽園)専属の奥坊主筆頭・高取利全の娘と、御後園奉行(園の最高責任者)・安東金四郎の世継ぎたる子息清四郎とが、駆け落ちした。

惹かれ合い夢中になったんだね…。

明治になるチョット前だよ。

当時、そ〜いうのはゼッタイ許されない。ましてや両家ともども、藩主に直かに会うご身分の家柄。

探索され翌月になって2人は、現在の井原市でひっそり隠れて生活しているのを発見され、連れ戻され引き離され…、清四郎は父の金四郎に、娘は父の高取利全に…、首をはねられて死んだ。

(「池田家文庫」と「御後園諸事留帳」の2誌に記録がある)

タイムマシンがあれば、救ってあげたい若い2人とその父親たちだ。

痛いね。


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※ 岡山後楽園-栄唱の間。能舞台正面にあって、能見所(のうけんしょ)とも。


後楽園を舞台に、そんな悲痛この上ない悲恋もあったわけだけど、こういうのも今は知られていない。知って、近所のスーパーのポイントが増えるわけでもないけど…。

ともあれ、お江戸時代の殿さんの周辺には茶坊主あり…。

茶の湯が核にあった時代なのニャ。


またつづきます (^_^)

2017-06-22

殿さんの茶の湯 part1

大作『神国日本 解明への一試論』を書きあげ、小泉八雲と名を変えたラフカディオ・ハーンの日本在留期間と、茶の湯の衰退期は一致する。

だから彼の本には、どこにも(ボクが読んだ範疇で)お茶が出てこない。

急死なく、も少し長生きしていたら…、茶の復興を直かに見聞し味わって、きっとそれは本になったろうと思う。これは不幸だった。

日本というカタチを構成した大きな柱の1本に、彼は接することが出来なかった。


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ハーンの眼に映じた松江の城は異様なもんだった。

かの茶道具フリークの松平不昧の城でもあったそれは、主を失い、機能を失い、エンストして放置されて埃にまみれた大型車みたいに、巨大な廃墟と化している。

彼は「神々の国の首都」で、


鉄灰色一色の広大で不気味な形をそびえ立たせ----------

異様な厳めしさ----------

巨大な仏塔が、二層、三層、四層と、自らの重みでだんだんと押し潰されたかのような----------

怪奇なものを寄せ集めて出来た竜のようで----------


異様、不気味、怪奇、とダークな単語を連ねる。(池田雅之訳/角川ソフィア文庫)

おごらず、素朴で、しかし神々と共に日々をおくる庶民的日本の姿に魅了された彼の眼にしてみれば、権力者の廃屋はドラキュラ城のそれに連なる強張った古怪なものであったに違いないし、おそらくは畏怖もおぼえたろう。

彼は、荒廃した松江城に登って下界を展望しての感想で、


鷹のような気分を味わえ----------

眼下に城内の道が見下ろせ、そこを歩いている人たちは、蝿ぐらいにしか見えない。


立場の違う眼がどう動いていたかを知覚してもいらっしゃる。


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※ 明治初年に撮られた松江城。


けども、その権力者らがどう跋扈し、機能し、何を中心に置いて生活していたかまでは思いを深めない。

極めて日本的行事たる"茶事"がそこで行われ、それがどれほどの文化的度合いで裾野を拡げていたかまでは、眼が届かない。

色の3原色から1色を抜いたようで…、これは実に惜しい。


けども一方でハーンは庭園について、かなり詳細な部分にまで眼を向け賞賛する。

「日本の庭にて」(『日本の面影』の1篇)を読むと、庭に親しみ、さらには活花に接し、自ら活けたこともわかる。


その実践的な知識を得るには、直感的な美的感覚に加え、何年もの研鑽と経験を要するため、あくまでも見よう見まねで学んだ程度に限られるが----------


そう大いに謙遜した前書き(これが素晴らしい)を記してから、活花の本質を探ってみせる。

ただの一輪を活けるために時に正座したまま一時間以上かける、エネルギーの有りよう、精神に、彼は感嘆し、その美への探求姿勢を賞賛する。

そして大胆にも、

「西洋のフラワー・アレジメントに関する観念がいかに通俗的なるものか----------」

と比較し、こうも書く。


西洋人が「ブーケ」と呼んでいる花束などは、花を生殺しにする卑劣な行為であり、色彩感覚に対する冒瀆であり、野蛮で忌々しい蛮行に他ならないと思うようになった。

日本の古い庭園がどのようなものかを知った後では、イギリスの豪華な庭を思い出すたびに、いったいどれだけの富を費やしてわざわざ自然を壊し、不調和なものを作っていったい何を残そうとしているのか----------


数ページにわたって極めて強い批判を紡ぐ。

しかし、ここでビックリするのは、その対比、花一輪への思考についてが、かの岡倉天心の『茶の本』の第8章「花」と、ピタリと一致することだ。

部分を抜き書きすれば、天心が書いたのかハーンが書いたのか皆目ワカランほどに心情が合致してるんだ…。

もう1人の岡倉天心が、ここにいるワケなのだ。


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※ 小庭のハス1輪。さすがにこれは活けられない?


日本の面影 1894(明治23) ホートン・ミフリン出版社刊

茶の本   1906(明治39) フォックス・ダフィールド社刊


実は上の通り、天心よりハーンが先んじて、花を書いている。

けども、惜しいかな…、一輪の花を活けるという行為の根底部での茶の湯という"事象の存在"が、彼には欠けてるんだ。

ハーンには、花を活けるという動作と、茶をたてる動作が、1つの流れ、1つの閉じた宇宙、としてあったという事の仔細が抜けている…。

その欠落理由こそが、江戸から明治への激変期での茶の湯の衰退なのだった。


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天心の場合は、そうでない。彼は明治以前の日本を存分に知っている。自身が庵を造ってそこで日々を送ってもいる。

でも、来日のハーンには、

「先生っ。このように茶はふるまいます」

そう教えてあげる人がいなかったと想像できる。

松江は今は山陰・山陽地方最大のお茶文化の地を誇るけど、それほどにこの時期、茶は衰退していたんだ、な。

おもえば惜しいことだった。


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明治以前、なが〜く続いた江戸時代の支配階級社会を、ヨウカンをカットして芯部分に何があるかと眼を近寄せ顕微鏡っぽく眺めると、栗も小豆も出て来ず、茶の湯がドデ〜ンと座っているのが見える。

茶の湯と能がセット・メニューになっていることも、多い。

しかし歴史書は、そのことにページをさかない。


江戸期の殿さんの"仕事"は、ベチャっといえば、子供を作ることと茶の湯だ。

子作りはその体制維持の要め、継続な血統こそイチバンの世界なんだから、殿さんは夜ごとお励みになる。

"性治"だ。

一方の茶の湯は、儀礼の要め。これは心得がしっかり出来てないと対面に関わる一大事。茶事をこなせない殿さんは殿さんでない。

それに能が加わる。概ね、殿さんは自身で能を舞える。

岡山の場合で一例すると、池田綱政は元禄9年(1696)の8月6日、江戸城内「御座の間」にて、将軍綱吉に能「三輪」を演じ見せている。

帰省のたびに後楽園岡山の)の能舞台にたってもいる。


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※ 曲「三輪」のシテ。池田綱政もこの写真に似通う小面(こおもて)と装束で舞ったんだろう…。

池田家の後楽園(御後園)利用で特筆なのは、能を家臣らだけでなく一般ピープルにも見せたこと。この綱政の場合でいえば、たとえば宝永4年(1707)の9月17日公演では467人、正徳4年(1714)の公演では806人の民衆込みの観客の前で、入場料もとらず…、藩主自身が舞っている。(池田文庫「日次記」)


能と茶はコインの表裏ではなくって、どちらもオモテ面だ。

ただ、江戸時代の大名茶は…、利休の頃の革新も前衛もなく、利休の頃の模倣を出るものではなかった。

後楽園江戸時代は御後園が正式名)には大きな茶畑があり、毎年かなりの茶葉が園内で蒸され干され、造られた。

イチバンに出来の良いのを江戸の備前岡山・池田屋敷の殿様に送り、次ぎのを城内で使用し、残りは売った。

売って、後楽園の維持費を捻出していたようだ(それでも足りないけど)。

これはちょっと…、ボクには意外だったけど、茶の湯に用いる抹茶は京都から取り寄せていた。

後楽園の茶葉は日常での煎茶に用いたようである。

極上は宇治に有り、という既成を越えようとはしなかったワケだ。


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それは茶の湯前提の庭造りにもいえる。いわば形式が踏襲されるばかりで昔の庭のコピーの量産といって…、いいかもしれない。

徳川体制は変化を嫌い、ただその温もりの中での"しきたり的行動"に軸足がおかれた。

だから多くのモノ造りもその範疇にあって、建築も作庭も、まずは棟梁がいて、職人はそれを真似てくコトが大事、徒弟制度が極まり、独自カラーを出すというようなコトも出来ないし、しなかった。

「前例がない」という役所コトバと態度に代表される現状維持を好む癖は、ながい江戸時代が発酵させたといえなくはない。

ただし、重箱の隅を突っつくみたいな細部へのこだわりはメチャに深くなってった。たぶんにこれが今のオタク的文化の根底にある水脈につながっていく…。

材質素材の吟味、工程の精度、仕上げの丹念、ちょっとのメダマと感性じゃ判らない部分でとんでもないエネルギーが費やされる。


停滞した日本式な庭園を見直したのは、前回記した重森三玲が嚆矢だろうけど、今回は触れない。


つづく (^_^;

2017-06-17

庭と茶室 ~重森三玲記念館~

重森三玲が産まれ育った吉備中央町に、彼の庭園と茶室がある。

見学に出向く。


あえて最初に苦言を申せば、吉備中央町のオフィシャル・ホームページはよろしくない。

重森三玲記念館」で独立したページを設け、一見判りやすいが、実はこれがトラップだ。

そこに記載の緒施設は、1つ場所にない。

出向く直前に気づいて、

「あっれ〜〜」

眼を丸くした。


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たとえばホームページ・トップの写真「夕琳の庭」は、これは吉備中央町役場にあり、重森三玲記念館とは10Kmばかり、離れているのだった。

ホームページ上では1カ所に全てがある、としか読みとれない。


一家に遊女も寝たり萩と月


ではなく、萩なるはヒトツヤにいないんだから、さてさて、もっと丹念に"情報"を発信して欲しいと願わずにはいられない。

三玲が生まれ、諸々を残してくれているんだもん…、もっと堀り込んで、

「えっ、これが行政のホームページにゃの?」

ビックリするほどの飛びっぷりを発揮してくれなきゃ〜、イケマセン。

町(加賀郡)にとって資産だよ…、もったいない。


明治に生まれ、昭和の前半に躍動した重森三玲は33歳で「いけばな宣言」を出し、やがて独学で日本庭園を研究しはじめる。

停滞しきった日本庭園のカタチを再呼吸させ、やがて自ら多数を造園する。

『日本庭園』などとボクらは4文字で書いて一括りにしてしまいがちだけど、一括りで語れない歴史がそこにはうずくまる。

平安期と室町期では庭はまったく違うカタチをみせる。三玲はそれを丹念に分類整理し、かつ新たな息吹をふきこんだ。


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彼をおぼろに意識したのは、シャープのCM、吉永小百合の背景として京都の「重森三玲庭園美術館」が使われていた頃だから、も〜、だいぶんと前になる。

その頃のシャープは、文字通り、尖ったところのある企業だった…。


こたび訪ねたのは、岡山は吉備中央町の「重森三玲記念館」など。

公民館をかねたそこには資料を収集した舘と「天籟庵」がある。

「天籟庵」は三玲が19歳の時に設計し自宅に設けた茶室

籟(ライ)とは風がものにあたって発する音だから、天の音が聞こえる茶室ということになる。

ひょっとすると三玲は、この作品を"解説するため"に生涯に渡って作庭をし続けたのかも知れない。

庵の手前には晩年になって露地として造った庭。

今や重要文化財の指定を受け、写真撮影禁止とものものしい。


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写真で見ていた限り露地は平坦な感だったけど、実際は、凪いだ海面のように、一面うねるように大小の起伏がある。

処女作の茶室と晩年作の庭の響宴。

最初と終わり、1人のアーチストのカタチが円として閉じてくような様相を感じてしばし息をのむのじゃあるけれど、庭南面の腰掛待合の背後にでっかい電信柱と無数のライン。


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※ 垣の向こうが庵(左)と庭。右手の電柱と伸びたラインがすべてを壊している…。


これは庵が移築された後に出来たものらしいけど、行政と電力会社とNTTの無粋が極まる。

せっかくを台無しにしている。というよりメチャだろう。

寄り添うようにして解説してくださった同館の学芸員さんにそのむね告げると、

「でしょう…」

苦笑ってたが、ボクとしては、

「笑ってる場合か…」

じゃ〜あった。

借景となる山も遠く広がる田舎の光景。狭少な場所じゃない。埋設させることは容易なはず。この無粋に今の日本の悪しき本質が横たわってる。


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さてと、「友琳の庭」。

これは「重森三玲記念館」にはない。

10Kmほど離れた、吉備中央町役場にある。

昭和44年に京都に造られ、後、この役場に移設されたもの。

近代日本庭園の傑作、という。


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いまだボクは…、正直な感想をいえば、重森三玲の良さが判っていない。

かねてよりコンクリートやセメント造りに拒絶がおきる方なので、傑作です、と云われてもそのまま呑み込めない。

なので、はじめて役場の中庭(それが夕琳の庭)に接して、けっこ〜揺れた。


自分の中で既成化され固まっている茶室や庭園のカタチに、融通のない保守をおぼえさせられた。

この浅い水のある庭を、例えば自宅に持ってきても、ボクは愛でるかしら? そういう声がお臍のあたりから湧いてでた。

でも同時にまた、茶ー茶室ー庭、3つ揃いの意図的限定空間を最上に意識しての心の置き方を研ぐなら、むろん役場なのでお茶はないにしろ…、これこそが現代のそれなのか…、とも思わなくはない。


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ま〜、さほどそれほど、アチャコチャの庵にも庭にも接したことがないんで、迷妄がうずいてグラつくのはあたりまえなのだけど、そんな気分を味わうということは、利休や宗二たちが"運動"した革新精神が三玲作品にはみなぎっている…、というコトにもなるんだろう。

燃焼と昇華、そして加速の度合いが三玲は、デッカイ。


例えばかつて…、利休の茶室を夜明けと同時に秀吉が訪ねるというコトがあったさい、利休は庭のアサガオの花を全部刈った。

秀吉は早朝の花の華やぎと勢いの中での茶湯を求めに利休を訪ねたというに、アサガオがない。

しかし茶室に案内された秀吉は、竹筒にさされたアサガオのただの一輪を見て、

「あっ」

と、息をのまされる。


三玲の作庭は、そこだ。

奇をてらうものではなく、セメントという素材が新規だったのでもない。核となるものをどう抽象し極めるかに、かかってる…。

だから余計に判らないとも云える。

デザインをするというコトと、事物を抽象化しようとするコトの2つの点がここで溶融しているとは判るような気もするけど…、その真髄をボクのような入門者にはまだ解けない。


本質は、「幽玄」なのだろう。

暗くて、かすかで、静かな…、とかな今風な"幽玄"ではなく、14世紀の南北朝時代にまで遡っての「幽玄」。

世阿弥は、

「幽玄の風體(ふうてい)の事 諸道諸事に於いて幽玄なるをもて上果とせり」

と云った。


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"優雅な美こそが最上"

とでも訳したらいいのかしら? そこを三玲は三玲の感性ではこうだと、極める作業をおこなったと思える。

世阿弥のそれは具象から抽象へと進化すべきな方向を示唆しつつアレコレを含有して単純でなく容易でもないけども、たぶん、三玲はそこの深い部分で共振をおこしてらっしゃる。

能の舞台装置、茶の湯、花…、それら要素中の時空を越える消息に共振してらっしゃる。

いや、だからこそ、借景を含む空間そのものが作品と思えば、あの電柱とラインは冒涜以外のナニモノでもない、ひどい障害物。


次いでゆえ付け加えるが、役場中央に置かれた「友琳の庭」の、センサーで自動的に再生される解説アナウンスの、そのバックに流れる琴の音は、やめていただきたい。

日本庭園イコールお琴の調べという陳腐な使いようは、正直、辟易なんだ…。

アナウンスは許せても、安易に邦楽を使ってはいけない、それは音楽に対しての冒瀆でもあろう、とそう感じる。

安直なイメージを押しつけないで欲しい。

ほぼマチガイなく、こういう音楽使用を当の三玲は、イチバンに忌避したはず。

むしろ、いっそ、彼の作庭の根幹理論では、たとえば80年代のセックス・ピストルズのような、あるいは、その80年代後半のコミックス「アキラ」を原作とした映画の芸能山城組のサウンドのように、ブッ飛びこそが合致するよう、思える。


車を駆けらせ、生家跡にも出向く。

信号がほとんどなく、駆ける車がメチャに少ないのもいいけど、吉備中央町はとにかく広い。

やや判りにくい場所。

我が車にはカーナビというチャーミングな機器を搭載していないんで、同行者が農作業のおばさまに、

「あの〜、スイマセンがぁ〜〜」

と、尋ね、やっと判る。

記念舘に「天籟庵」が移築され、そこには広い屋敷跡と19歳当時造った茶庭が残る。

ちゃんと整備されている…、のだけど案内の掲示がないんで道が判らなかったわけだ。


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見るに、なるほど、若く、荒く、シロウトの眼でも傑作とはいいがたい。

が、原点だ…。ビックバンはここから生じた。

2017年の今も、そこは…、な〜〜んにもないド田舎。いったい、どうやって三玲は三玲として自身を跳躍させたろう…。

このビッグバンは無からはじまったワケはない。

その大爆裂の元となったのが、生家に近い吉川八幡宮だったろう。

幽玄が何であるかを、おそらく幼少の三玲は、ここで遊びつつ自然学習したのじゃなかろうか?


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10月1日から丸ヒトツキを費やす、古代から今につらなる「当番祭」の神事にも充分馴染んでいたはず。

平安期から今に至る時空のつらなりも大きく意識したろう。空間概念と時空概念を、ここで彼は意識し、独自解釈したよう思える。

ご神木たる巨木にも圧倒を見いだしていたろう。

その木は、三玲の頃よりさらに背丈を伸ばし、1枚の写真に納めきれない。


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その上でもって、ただの伝統的延長ではなく、三島が『近代能楽集』で今の能表現としてそれらを書いたと同様、三玲は擬古的でなく、今だからこその活花を考え、茶室を考え、庭を考え続けた。

ったくもう、眩い存在の三玲さん…。

三島由紀夫と重森三玲は同時期に同じくして、「美しい日本」を幻視していたと思えるが、美しい、というのは難しい。

『近代能楽集』の一篇「卒塔婆小町」に倣うなら、少なくとも100年の単位でそこを見た方がいい。

100年先にもう1度、吉備中央町に出向いて三玲の庭で、どのような感じを受けるか…。

2人の対談がもし可能であったら、日本文化の有りようを示唆する大きな収穫だったろう、とも密かに惜しむ。


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山間を車で移動。

宇甘川の近くの片山邸へ。

三玲とは関係はないけど、昔日の豪商宅。

一見は平屋だけど総2階の構造。

ここはもう何10年も前から見学可能だと…、存在は知ってたけど、通過するのみだった。

食事をとれるとも、思ってもなかった。

はじめて探訪。


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とても凝った食事という程じゃ〜ないが、味のしみたアミダイコンやボリュームあるが淡泊に味付けのチキンの揚げ物など、プライス含め素朴の程が、とても良かった。

無愛想じゃ〜ないのだけど、こちらとは距離を置いた同館同店の女性スタッフの対応も、商売っケがないと云えばそれまでだけども、初探訪の印象として悪くはない。

気兼ねなく、ユッタリする。


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同屋敷の、江戸時代後期のお風呂。

ユッタリには遠いサイズだけど、お江戸の昔も今も、湯につかって「ホッ」は同じだったろう、な。

蝋燭の灯りの中で淡く揺れる、おじさんの背中をこっそり想像した。

10年前なら女性の背中を思い浮かせたろうけど、あれまっ…、枯れたもんだ。

2017-03-27

黄葉亭 ~日生方面にて~


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日生の、おそらく当地カキオコの店としてはイチバンに駐車スペースの広い、"ともひろ"でカキ増量のお好み焼き。

ぁあ、うまい。

しかし…、カキオコにビールは必需。

同行者の美味しそうなグラスを眼の前にこちらはドライバー、グッとガマンでノンアルコールのオールフリー。擬似ドリンクでノドごまかす。


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食後、「港の見える丘公園」に登って、眼下を見下ろし、

「丘じゃ〜ないよ、山だよ」

と笑いあい、下山し、ほど近い、BIZEN中南米美術館(旧森下美術館)で、数時間。

古代中南米の造形力にただもう感嘆。

アートの真髄を体感… というようなペチャンコな感想は止す。

滑稽をカタチでみせるディフォルメのうまさに、あるいは、軽妙でもって事物をとらえた妙味に、

「うふ〜」

舌を巻いて、うなる。


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ここはミュージアムでゴザイ… な傲慢の堅っ苦しい気配のなさもラテンっぽくて気分がいい。

それゆえ、併設で喫茶室みたいなのがあればな〜、ともチラリ思ってたら、館の女性がティーをふるまってくれた。すばらしい。

カチャマイ茶、というらしい。

味わったことのあるような、ないような、いささか不思議な味の茶だった。


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その良い気分を抱えるまま、閑谷学校に足を運ぶ。

目当ては学校ではなく、渓流沿いの脇路を山に向け歩くこと5分。

ポツンと佇む小さな茶室

黄葉亭(こうようてい)。

文化10年(1813)に造られたというから、閑谷学校を建てた津田永忠の時代じゃ〜ない。

津田は寛文時代(1670年代)の人だから、これは閑谷学校が出来て200年が過ぎた頃のもの。

たぶん、ここに来た人の多くは、そこを誤解する。

津田永忠の住宅跡にほど近いので余計、津田が建てたと誤解する。


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岩の上に無造作に乗っけたような、見事な造作。

2本の渓流が合流する絶妙な場所というのもポイントがでっかい。

よくぞ…、このカタチで、もう204年も…、と思う反面、はたしてそうかな? どこかの時点で建て変えがあったのじゃなかろうか…、とも思ったりするけど、そこの詳細は、ま〜、ボクにはどうでもいい。

深閑とした佇まいに、ただ感心を凝縮させた次第。

この日は渓流の水も少なく、風もなく、小鳥がさえずりをやめると、ともすれば無音。

シ〜ンという音さえ聞こえないアンバイで、しばし黙り込んでSound of Silenceを愉しむ。


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学校講堂からおよそ500mの場所という点が"幸い"して、ここを訪ねるヒトがいないのもヨロシイ。

柵がはられて中には入れないけど、独り占め。

ボクが小学生だった頃には、柵はなくって、まだ文化財保護の対象ではなかったような気がする。記憶をまさぐると廃屋の1語がボヨ〜ンと浮いてくる。


新造の案内看板があって、「来客の応接や教職員・生徒の憩いの場として建てられた」と書かれてる。

これは…、ちょっと安易な感がしないではない。

江戸の時代、上下の区分けが尋常でなかった頃に…、生徒に茶室を使わせるとは…、思えない。

憩いの場という表現も、”茶の湯”の真髄から乖離し、この表現では決定的に何かが剥離している。

憩う場か? むしろ使用者のアイデンティティーやモチベーションを昂ぶらせる装置ではなかったのかしら? 

などと妄想した。


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かの江川三郎八が明治になって造って今は資料館になっている古き良きな校舎内の、その展示の1つに黄葉亭の内部図面があった。

4畳半。中央に炉があるしつらえ。

本格な茶の湯空間だったのが、それで判る。

それでいっそ、「憩いの場として建てられた」というのにクエスチョンを鮮明にした。

なるほど茶室は茶をたしなみ、四季を感じ、あるいはそれを演出し、作法を通じての親交の場でもあるけれど、根っこの精神部分では茶室空間は思惟の決断と覚悟の場…、憩いの喫茶ルームじゃ〜ない。

ましてや閑谷学校は儒学に律儀にして全開の場であったワケで、生徒に憩わせるという発想があったのかしら? と重ねて思うんだった。

看板をウノミせず、ここは見方を変えた方がいい。


現在は学校探訪者のために、けっこうな広場が駐車場になっているけれど、かつてそこは何であったか?

当時の図を眺めるとソク判る。

茶畑なのだ。


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茶がどこで使用されるかは自明だろう。

生徒が黄葉亭を用いたというなら、それは憩わせのためじゃ〜ない。

儒学思想で足場を固め、ついで武家の者として必須な教養としての茶の湯を体得する場、茶の湯の入門場だったと解釈すると、全体の絵が見えるような気がしないではない。

そうであるなら、閑谷学校には茶の管理者や茶の師匠(茶頭)もいたはず…、総合学習センターの趣きだ。


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上は浦上春琴が描いたと伝わる黄葉亭絵図。茶室は壁が描かれていないけど、二股の渓流のスガタは今も同じ。

今回はじめて気づいたというか同行者が指摘してくれたんだけど、渓流の岩が黒い。反射のない漆黒。

さて? なんでだろ…、水質によってか。


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2017-03-02

模型の修復 ~松平不昧のこと~


かまやつさんが亡くなったなァ…。あのニヤ〜っとした顔がよかったね。良い人生だったと思う。なんか感謝の気持ちが大きい。


さてと…。

1月のミュージアム講演で用立てたアポロ8号発射塔の模型。

築後すでに数年が経って、その間にはアチャコチャで展示され、部分に傷みが浮いてるもんだから、

「修復しなきゃ〜」

とはつねづねに想ってたけど、この手の作業は好きでない。

現状を少し前に巻き戻すだけなので、「やるぞ〜」な、電圧があがらない。

美術品でなく、模したるカタチ… でしかないという自嘲めいた感想が常に併走もするから余計に、回避したがる。

けどま〜、放置するのもヨロシクないんで、重い腰をば上げて、数日前よりとっかかった次第。

アレしてコレしてと、ま〜、それなりに面倒かつ時間もくう。

しかしまた、修復用にと新たにスプレー糊を調合して試したり、若干の弾みがついたりもする。


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この大型模型は、『下から見上げる』のを前提に設計し、だから意識的に部分をディフォルメしている。

発射塔のベースとなる部分の高さを、あえて3割ほど延長させ、ビジュアルとして重量味と巨大味が増すよう… そのように造ってある。

模型は、時に嘘をつく。

嘘を盛ることで"見た眼"の真実味を増加させる。


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作業中に、映画『アポロ13』でフレッド・ヘイズ宇宙飛行士を演じたビル・パクストンの訃報。

彼はボクに近似の年齢というか、ボクより1つか2つ若いはず。

いきなり句読点を打たれて行替えを強いられ、その後の文言が、

「……………」

と、続くようなガックリ。

竜巻を追う気象学者に扮した『ツイスター』では、ヘレン・ハントを彼がとても光らせていた。これは希有。主役でありつつ脇役の濃厚味が醸せる存在。

まだ過去形で書く気がしない。昨夜遅くに『エイリアン2』を久しぶりに眺め、パクストンと再会。


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ヘレン・ハントと共演中。『ツイスター』より


ともあれそうこうして、作業終了。

さて、この模型…、

「次ぎの出番はいつのことやら」

収蔵庫と化した1室にしまい込みつつ、『インディ・ジョーズ 失われたアーク』のラストシーン、あの超巨大な"宝物倉庫"の未定形な悲しみを思ったりもしないではなかった。


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倉庫といえば、松平不昧(まつだいら ふまい)が浮く。

前々回の本能寺の変でもチョット登場したけど… 茶道具収集で名を馳せた松江藩7代目の殿様。

このヒトは17歳で家督相続して殿様になった。

何故そんなに若くして… というのには理由があって、父親の6代目が藩の財政が立ち往生するくらいに散財していたから。

いうまでもなく藩主、殿様は年の大半は江戸に暮らす。

6代目の殿様はそこでアレコレ徹底してお買い物。

おかげで肝心な国もと松江の財布が空っぽ。

これはイカンということで家老たちがガンバッて彼を説得し納得させて隠居させ、息子の治郷(はるさと・茶をはじめてからの号が不昧)を殿さんにした。

これは大成功。

藩費の、それも江戸表での出費がピタリ止まり、なんと初めて年貢収入が支出を上廻って黒字になった。

家老ら一同、バンザ〜イ、ってなもんだったろう。


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※ 晩年頃の松平不昧


しかしまた一方、17歳の7代目は、交代ということで諸々な譲渡手続きがあり、やがて彼は父親の蔵(倉庫だね)を見せられる。

そこにあったのが…、茶の湯行事の名器名物の数々。

不昧、たちまちに魅了され、蔵の中の物品を整理し、さらに心躍らせてカタログ化し、20歳でそれを本にし、探求心を燃やし出す。

何を探求するかって…、当然に茶の湯だ。そのお道具だ。

藩主たるは茶事を見事にこなせるかどうかが、徳川幕藩体制でのランク・ポイントでもあったし、不昧はかなり真面目にそれに呼応し、かつ抜きん出るべく努力もしたろうが、併せてドンドン茶の湯が好きになる。

数寄の気分が48時間、昂揚する。

こうして不昧は父親をはるかに越えるお買い物殿様になっちゃう。

6代目の父親が散漫な買い方をしていたのに対し、彼は目的をもった買い物だ。

江戸京都・大阪の3都にそれぞれ専属の骨董商をおいて、彼らが持ち寄る品々を吟味しちゃ〜、セッセと買い込んだ。


不昧の時代のおよそ200年前、本能寺から2人の豪商ケン茶人がドサクサにまぎれて持ち出した掛け軸も、彼が買った。


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(前々回に記した『遠浦帰帆図』(えんぽきはんず)は、本来長尺の巻物だったのを分割カットして掛け軸に仕立て直したもんだから、部分部分が自立し複数が存在する。同じ名なので見聞にはチョット注意が必要ね)


本能寺の変の後、おそらく数日後と思われるが、宗園(宗円)という茶人(利休の娘婿)が焼け跡から古瀬戸の茶入れを拾い出し、割れていたのを接いで、それを円乗坊と名付けて隠し持ち(確信的火事場泥棒だね〜)つつも自慢するという妙なアンバイだったらしきだけど、200年後、それも不昧が買った。

今は港区白金台の畑山記念館のコレクション。重要文化財には指定されちゃいないけど、同館の"お宝"の1つだろう。


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2014年に畑山記念館で開催のチラシ


不昧が、しかし面白いのは、ただ買っては1人悦にいってるんじゃ〜なく、買ったそれの由来やら諸々をしっかり筆にとり、評論をくわえ、例によってカタログ化を押し進め、文章をオープンにしたこと。また茶の本を生涯かけて続々産み出した、いわば元祖なオタクビトだったこと… かしら。

(日本人男性のギーク、オタク気質は、どうもこのヒトあたりに原型があるような気がしてしかたない)

しかし当然、松江の人々には迷惑至極な殿さんだ。

1度はバンザイした国もと家老らもビックリギックリ。探求がゆえの不昧のコレクションなれど、国もとにしてみりゃ… 散財だ。殿さん個人の趣味趣向でしかない。

イチバンのシワ寄せは、国の民、わけても農事を主とした方々。

まさか年貢がお茶碗やら花器やら掛け軸の購入に使われてるなんて〜コトは、露と知らない。

豊作不作に関わらず年貢はきっちり収めなきゃいけない。それゆえ働きに働き、「ボテボテ茶」なるケッタイなものを食べ啜って忍んだワケなんだから、それってもはや被害者レベル。


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ポテポテ茶の写真はコチラから


後年、不昧が没した頃だかに、かつて松江藩家老だった古老の朝日丹波は、

「あの時に蔵を見せなきゃよかった」

と、述懐している(村井康彦著 茶の湯紀行)ほどだから、当時の松江ビトは、

「ホントやってられませんわ」

な状況だったに違いない。


彼が評価され、現在の島根の、「お茶と和菓子の松江」の礎としての"名君"の誉れはアンガイ最近になってから喧伝され、定着したもんだ。

大正8年(1917)に「不昧百年忌」があって、その頃より、観光資源としての彼がクローズアップされていったらしきなんだ、ヨ。

で、「ボテボテ茶」も名物となる…。

コペルニクス的転回の典型例かしら?。

歴史の皮肉げな薄笑いが聞こえそうで、やたらオモシロイ。

周辺の評価なんぞは無視でトコトンやれば、ずっと後では評価も変わるワケなんだから。

アポロ計画が広範な文化を作ったように、茶の湯もまた、大きな文化の柱、江戸期では大黒柱だったというのが… ボクのこの頃の見立て。

かつて当時の領民には気の毒だけど… アンガイとボクは、不昧が探求に向かった心持ちは好き。


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余談ですけど… 志ん生(5代)の『火焔太鼓』は不昧がモデルだそうな。

売りのヘタな骨董屋(道具屋)が持っていたつまらない太鼓。それを殿さんの命をうけた家臣が求めにきての珍問答。なので不昧そのものは出てこないんだけど、ね。

99人のヒトには興味も持てないつまらないモノがただ1人の人物にゃ300両に値いするという、その価値の在処と見極めが根底にあって… 笑えますぞ。

ま〜、志ん生はすべて笑えますけど… とりわけ、このヒトそのものが高位の旗本美濃部家が生家で、そのはるかはるかご先祖はなんと…、

菅原道真だっていう話。

というコトは孫の池波志乃も、だね。

ぅぅう〜ん、わからんもんだニャ、つながり。

だってね、志ん生も池波も大酒豪という噂ありなんだけど、ご先祖の道真は、実はお酒がまったくダメなヒトだったの。

太宰府に流され、悶々な日々の中、彼は眠れず… それで自虐な詩を幾つも残してる。

たとえば、こんなの---------------------。


遷客(自分のこと) 甚だ煩悶す

煩悶 胸腸をくくり

起きて茶一椀をのむ

飲み了って未だ消磨せざるに

石を焼きて胃菅を温む

この治遂に験(しるし)なし

強いて傾く 酒半盞(はんさん)


半盞とは、盃の半分をいう。

たしかに… 呑めないヒトのようだ。なので、やけっぱちで酒にチャレンジしたものの、悶々から逃れられない次第を書いていると読み解ける。おそらくはその夜も道真は眠れちゃいないのだね。

まったく気の毒なかぎり。

2017-02-26

ふくよかな耳たぶ


児島の「旧野崎家住宅」に出向く。

この日たまさかにOH君のライブが重なってしまったのだけど、詮無きこと。不在恐縮ながら… で児島へ。

江戸時代に干拓とそれに伴う製塩業で財をなした野崎家の、その邸宅。

敷地3000坪。

母屋の中座敷から向座敷までがザッと42m。襖を開けきった空間を眺めると、何やらタイムトンネルめいた奥行きを思わずにいられない。襖を閉め切ってここで鬼ゴッコでもやったら、28年めにやっと「見ぃ〜つけれられたぁ〜」、なんて事も現出しそう。


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この日はたまたま「モンカーダこじま芸術祭」のオープニングデーで、同屋敷庭園では、舞踏家の小関すまこが舞い、ちょっとお得を味わった。

後頭部に妖女めいた面を付け、時に彼女は背中側で踊る。1人の女の中のもう1人の女というあんばいが巧妙で、つい魅入らされた。

しかし、モンカーダって何じゃろね? チラシには6回目とあり、県知事のアイサツも載ってるけど、意味不明。


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野崎邸での目当ては茶室

同家には3つの席があって、保存具合がよい。

小高く築山された頂きの僅か2畳の「観曙亭(かんしょてい)」は外観を眺めることしか出来ないけど、「容膝亭(ようしつてい)」、「臨池亭(りんちてい)」はそばに寄って躙口(にじりぐち)から中を覗くこと可能。

※ ニジリグチというのは客人が入室するための小さな入口、ね。


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観曙亭

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これは臨池亭

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臨池亭の内部


この日は風こそ冷たいものの良く晴れていたのだけど、予想した3倍ほど… 茶室の中は暗い。

見学用にと明かりが灯されているが、これは無粋な配慮。オシャレに置かれているものの、茶室はその暗さゆえに、わずかに入る外光のうつろいを感じる仕掛け… そこにこそ"美"有りという次第をこそ、見せて欲しかった。


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事実、茶室の外壁では陽光が光と影を織りなして一瞬ごとの"景界"を見せているんだし、これが茶室内ではどのように"演出"されるかが要めではあるまいか。そこは光との一期一会の空間でもあるんだから、な。

ま〜、けれど、野崎邸では、個人が3つも茶室を持つということに強く感じいった。

半端でない商家なのだから土蔵が林立し母屋も書院も台所も規模でっかくて、全体からはいささかハードな感が伝わってもくるけど、敷地端の庭園、露地、茶室… の空間はソフトに膨らみ柔らかい。


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マップ左端のグリーンの表示が茶室3席の空間


それで今回のタイトルを「ふくよかな耳たぶ」とした。

ま〜、そのように感じたというだけのことだけど、その耳たぶを極力に質素シンプルに佇まわせる思考と思想の奥深さというか抽象化に、茶の湯の醍醐味と凄みを思わずにはいられなかった。

この3席は、速水流家元の指導があっての造築らしきだけど、高低差をつけた凝縮率の高さも素晴らしい。

観曙亭と容膝亭の合間に設置された待合に腰かけ、しばし、ボ〜〜っとしつつ、茶事に招待された客人の気分を味わってもみた。

しかし当然ながら作法を知らないからね…、ホントに招かれるとホントは困るんだけど、茶の湯の空域に身を置いてみると煽情され、気持ち良いあんばい。


野崎邸を出たあと、倉敷在の友人夫妻と会食。夫妻の車で移動。連れてかれたのは、なんだか山の中。

そんなところに店があるんかいや? と思ったけど、ありますアリマス。

陶芸家ドン・パーカーさんと、同じく陶芸家の何たら女史さんとそのマザーらしい方が運営の店「ヒュッテ」。


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家屋も食器もいっさい手作り。店内全域がお2人の作品や創意工夫で満たされ、いわばアートなワンダーランド。週に3日か4日だか、それもランチタイムのみという営業。

そのうえ、メニューなしのお任せ料理。こちらはドリンクとデザートのみチョイスする。

しかも、料理は野菜モノが中心。

しかし、これが美味かった。

ボリュームもあり、ブロッコリの芯の部分をフライにしたのとかに意表をつかれる。食器も個々味わいあって良し。オネダンも良し。

窓際のカウンター席なら児島(?)の町をはるか下方に眺められ、これも良し。

良しヨシずくめ。


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そんなんだから隠れた名店(?)なんだろう、予約なしではお席の確保がむずかしい感じ。ボクらが食事してるさなかにも4〜5組な人がやってきたけど、ガックリ肩をおとして帰ってった。

そんな気の毒な方々をチラリ横目に入れつつ、こちとら箸を動かしつつ話がハズムの弾みぃ〜グルマ。

たっぷり時間かけ、たっぷり食べて、お腹はダァ〜ルマさん。

ふくよかなのは耳たぶだけでない児島界隈。

2017-02-21

本能寺の変 …の変 ~火事場泥棒~


茶の湯のことをオモシロがっている内、本能寺で足止めをくらう。

誰もが知る「本能寺の変」。

けども知らないコトもまた、多。

興味の本スジが「信長VS光秀・どうして?」に絞られ過ぎて、そこからこぼれた史実が、埋もれぎみ。


なぜ、その日、信長京都に、本能寺にいるのか?

事件前日、彼はそこで茶会を催す。これを含め諸々な用あっての上洛、本能寺滞在。

前日はもてなしとしての会食をし、茶を点て、収集したいわゆる"名物"の数々を、九州の2人の実力者に披露していた。


神屋(貞清)宗湛(かみや そうたん - 神谷とも記す)

島井(茂勝)宗室(しまい そうしつ - 宗叱とも書く)


この2人が主客。

京都在住の複数の茶関連者も同席したろうけど、方々は宴が終われば引き出物をもらって帰れちゃう。

信長一行と九州の客人はお寺にお泊まりだ。

で、心地良さげに就眠した翌早朝に襲撃を受けて、誰もが知る"本能寺の変"となるわけだ。


会合は、おそらく、この両名から申し出があったと思われる。当時、島津家が勢力を拡大し、地域(博多)豪商だった彼らは色々おいしい既得権を奪われかねないと危惧し、信長の庇護を受けようとしたというのが通説だ。

それで茶会がセッティングされた。

信長としても、九州方面の3大豪商といわれた内の2人からのラブコールなんだから、大いに喜んで(政治的かつ経済的に)の謁見なのだった。

信長は、ここぞとばかり、収集していた茶道具を安土城から持ち込んで、彼らにそれを見せびらかし、いわば権勢を示し、

「ボクについておいでよ」

ウィンクを投げ返して歓待を示したわけ。


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その翌朝早々の不意打ち。1万2千か1万3千人の兵であったらしい。

信長は、小姓を中心に側近300人以下の無防備。しかも大半は馬方衆など日常的スタッフだったから、お寺で寝るコトが出来ず、門外にいる。

平成19年の京都府の再調査で、当時の本能寺が四方は2町(およそ220m)に及び、全域に堀をめぐらせた、かなりな防御的砦の様相を呈したお寺であったことが判明したけど、多勢に無勢の極例だ。

東西南北3重4重5重に光秀軍に囲まれちゃって、一挙怒濤で攻められたわけなのだから、後のカスター将軍の大隊全滅よりはるかに激烈。

わずか220m四方の空間に1万2千人… とんでもない密度。

かつて信長は、戦場で、浅井長政の突然の離反でもって超絶な窮地に置かれたものの、僅かな家臣と共に逃げのびた事があったけど、本能寺ではその脱兎も出来ない、1分の猶予もない状況に追い込まれた… ワケなのだ。

前日の茶会を実務面で仕切ったと思われる一雲斎針阿弥(しんあみ)も、信長や蘭丸ともどもに落命する。


ところが、その苛烈な状態にあって、脱出した人もいる。

信長がかわいがって武士身分をあたえたらしき黒人の弥助(ヤスケ - ポルトガル宣教師の奴隷だったのを信長がもらう)は、信長本人から逃げ出せと云われ、成功。その足で、やはり襲撃されていた信長の息子信忠の元に駆けつけ奮戦している。(その後の消息不明)


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※ 朝日新聞社刊『週刊 日本の歴史』より。


それから、信長の日常の世話をしている複数の女性も脱出できた。

うち1人は、のち江戸時代になって小倉藩に仕える津田家という200石取りの藩士の総祖母となる人だけど、当時は信長の女中(女房役という)だった人。

織田家とは遠縁にあたるらしい。(織田家の出自を辿ると津田性になる)

この人の証言は今に残り、流血しているらしき信長に駆け寄ろうとするものの、女の出るまくではないと部屋から押し出され、そのあと、中間(ちゅうげん)だか誰かが信長を背負って裏門に向かうのを目撃したという…。

その信憑はともあれ、彼女と他数名の女性が脱出したのは確かなようである。


で。

もう2人、脱出したのがいる。

それが主客だった…、神屋宗湛と島井宗室の両名だ。

2人は茶会のあと、そのまま本能寺に逗留し、すなわちお布団を敷いてもらって眠り… 早朝に、難に遭った。


この時(天正10・1582)、博多最大の豪商に成り上がっていたとはいえ宗湛は31歳だから… まだ出家はしておらず、坊主頭ではないはず(宗湛の名は出家してから)。

かたや宗室は43歳。こちらもまだ出家しているワケではなさそうだから頭髪もあったろう…。

寺の坊さんなら殺害される可能性はチョットだけ薄くなったかもしれないけど、この2人、髪を結わえ、その場にいりゃどう見たって信長関係者なんだから、即行で殺されてもいいのだけど、どういう次第か、逃げ出せた。

お客として本能寺に来てるんだよ、廊下や部屋の構造を熟知しているワケもなかろうに…、どうやって早朝の暗中を、脱出不可能ないわばアルカトラズから出られたか、これが判らない… んだ、ボクには。


しかも、両名ともども、前日に信長が自慢して見せたお宝、"名物"を持ち出しての脱出だ。

神屋宗湛は、宗時代の中国の僧牧谿(もっけい)が描いた水墨画を軸に仕立て直した 『遠浦帰帆図』(えんぽきはんず)を。

島井宗室は、空海すなわち弘法大師直筆の巻物『千文字』を。


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この2品は、はるか後の江戸時代、松平不昧(ふまい - 松江藩7代目藩主・松江を茶湯文化の町にしちゃった茶道楽のヒト)が所有することになる。

おそらく不昧は高額で買い取ったのだろうが、ま〜、それはどうでもよろしい。

ボクが判らないのは、先に書いた通り、なぜこの2人は無事に脱出できたのか?

また2人ともに、信長のお宝を、なぜ持って出たか?

この2点で足踏みさせられてしまうワケなんだ。

普通、まず状況的にいって逃げられないでしょ。信長ですら逃げ出せなかったんだから…。

その上、"名物"の持ち出しだ。まさか就眠した部屋にそれがあったワケはなかろうから、彼らは「探した」には… 違いなかろう。

掛け軸を巻いてフトコロに入れちゃって… るのは、茶器だと、それは箱書きが座った豪奢な桐箱に入ってかさばるから、ドサクサでは無理だったんだろう。

しかし、この振る舞いはまるで、火事場泥棒じゃ〜ござんせんか。


身長1m90cmほどで真っ黒い弥助が切り抜け出られたのは、おそらく、その異形ゆえに対峙の兵士側がビックリ竦んだと思えるし、複数の女房役が逃れられたのも何とはなく判る…。ま〜、事件が夕方とかなら違う展開になったかもしれないが夜明け前後のことだし、場所が場所、天皇の住まう御所からわずか1800mに満たないお寺さん、当時最大最先端の街のドマンナカだ。逃げる女性を乱暴するような時刻でも場所でもなかったろうゆえ…。

けども2人の豪商はどうだ?

今と違い、兵士と民間人は別という概念有りの修羅場じゃない…。討ち取ったヤカラの首を提出して、"価値あり"と判ったら恩賞がもらえるだよ、この頃は。攻める方もだから我が手で手柄をと必死。

ああぁ、それなのに何故2人は脱出出来たの?


で。もう1つ、妙なことがある。

島井宗室は本能寺の変の5ヶ月前(天正10年1月25日)に、堺の浜辺で催された茶会に招待されているが、この主催者は、な〜んと、明智光秀なのだった。


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※ 晩年の島井宗室像


これら史実を説明してくれる親切な本やら記事に、まだ、出会えていないのが残念だ。

ま〜、あんまり深く考えすぎると陰謀説めいた袋小路に堕ちちゃうから、ここは今のところ、緒事実のみの列記で終える。

2人の"火事場泥棒"は女装して逃げたんか? などと余計な詮索もしつつ。


こ〜いう場合、岡山県北の津山界隈にゃ、便利な方便がある。

「どういう、まぁ…」

と、ヒトコト云って黙り込むんだ。

あとを続けず、ただもう感歎なり感嘆した状態でもって意識的に固まるんだ。

「どういう、まぁ…」のあとの無言がこの場合、ビックリ効果増幅の要めなんだ。なかなか便利だよ、これは。

西洋式なイエス・ノーの二分化がこれにはないの。

取りようではイエスであり、またノーでもあるような、アイマイが肝心。

だから、こういう語法の地域からはトランプのような人物は産まれにくい。

それが良いか悪いかは、判りませんけどね。


ま〜、ともあれど時代かわって2017年の今現在。

『千文字』は明治になって松江藩が終焉したさい、博多駅から15分の東長寺に寄贈されたらしきで、今は同寺所有の"宝物"だ。

『遠浦帰帆図』は京都国立博物館が蔵し、重要文化財に指定されている。

遺体探索も困難な程に焼けきった本能寺から、この2品、よくぞご無事で… としかいいようがない奇っ怪数奇だけど、事の実相を… 知りたいもんだ。

2017-02-05

抹茶に連想されるまま


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土曜の山陽新聞朝刊に載ってるボクの顔写真は、お爺さんのようで… いただけない。記事になるのはありがたいけど、締まりなく笑い、なんだか模型愛好の好々爺という風情。赤裸を晒して、哀しい気がしないではない。

ま〜、しゃ〜ない。

実際、お爺さんの年齢ではあるんだし、ことさら今さら、若さを主張したってシカタない。逆に… 若さからは遠いトコロにいる自分を誉めてあげよう… くらいに思って慰めにかかる。

この前の講演時の写真が届いたので、ここに数枚載せ、さほどお爺さんでないよと主張する…。


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ぅぅむ。

ううむ…。

という次第で、内なるお爺さんを意識しつつ… 茶話を。


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中国4千年の歴史、だなんて云うけれど、幾たびも興亡が繰り返され、けっして連綿な正統、連続国家としての中国があるワケでない。何かのCM用に某高名なコピーライターが作った造語としての4千年に過ぎず、極めて乱雑に「中国」の2文字を4千で括ったに過ぎない。

むしろ、「中国大陸」と書いた方が判りよい。そうすると、実は伝統的に歴史が定着しない強者蛮勇にして跋扈なだけの場所じゃあるまいか? いずれまた大きくヒックリ変えるんじゃなかろうか… とも思えてくる。大地は確かに硬いけども、表層の砂塵同様に人身もまた揺らぐ土地柄な感が、する。


抹茶は、その中国大陸にはじまった。

茶葉をダンゴ状にした団茶という喫茶法からスタートし、やがて抹茶に変じ、それを栄西(ようさい)が日本に伝えた。

以後、日本は抹茶を頂点にした茶文化を成立させ定着させていく。でも大陸はそうならなかった。

多数の詩人や茶人を輩出させ独特な良い香りもたった唐(悪しき楊貴妃もこの時代だけど)から宋への興隆期を経て、栄西が帰国したチョット後、モンゴル帝國の侵略でルネッサンス的香気は途絶した。

強硬に元(げん)に姿を変えさせられ体制も変わった。拡大主義の元は日本にも侵攻したけど断念したのは承知の通り。

侵攻者はたいがい自身の文化を押しつける。ほんのこの前、中国や台湾に侵攻した日本もそうだった。あちゃこちゃに神社を建てて日の丸に拝礼をさせ、そこにあった文化を壊しにかかった。

ご同様、いやそれ以上に、宋の、生活慣習を含む文化は極めて徹底的に潰され、モンゴル流の慣習を押しつけられて、抹茶も失われた。

元の時代が過ぎて、明となって民族的復興期になったさいには、もう茶をたてるさいの茶筅(ちゃせん)のカタチすら判らないホドだったと、岡倉天心は例証をあげて自著に書いている。


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かわって、この大陸に定着するのは、茶葉を粉末にするのではなく、煎じて飲む、いわばガブ飲みする喫茶法だった。

砂塵舞う乾燥した大陸風土は喉が渇く。そこにこのガブ飲みは実によく見合った。禅思想をからめた少量摂取な喫茶でなく、客人の椀にはたえずナミナミ注ぎ… 水分補給の実利を共なった今に至る飲茶手法。

だから、ある視点から見れば、中国は茶の発祥地ではあっても、抹茶による茶湯の本場とはいいがたい…。

といって、日本が本場と云いたいワケでない。

地理的な幸運条件と、国土の90パーセント以上が山で人の密集度が高かったゆえの定着と発展… であっただけかも知れないのだから。

何事かを契機に何事かが失われ、同時に何事かが生まれるという次第は、昔も今もかわらない。


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しかし、「茶」というのは不思議なほどに拡がりがあって、オモシロイ。

元にあるのはチャノキ(茶の木)のみ。

そこから抹茶やら煎茶やら緑茶やら紅茶やらヤギのミルクと一緒にグツグツするのやらやら、多様に拡散しているんだから壮観。

米国を造った、英国から分離の方々はどうしてコーヒーに向かったのかしら?

さほど考えるまでもなく、インド・セイロン経由の物産は英国がしっかり押さえてるんだもん、手に入らないワケだ。なので大陸続きな南米のコーヒー豆で代用という次第が、しだいに定着し、気づいたら、それがなけりゃ朝がはじまらない… となったに過ぎない。

実際はヨーロッパ圏では紅茶よりコーヒーの時代の方がながいけど、米国はその建国の代償として紅茶を失ったというワケなのだ。


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北アメリカ大陸には、方々が入植時、空が真っ黒になるほどハトがいた。

集団で移動するので、リョコウバトの名をつけた。少なく見積もっても、50億羽いたと推定される。これのお肉が柔らかで実に美味しい。

そこで獲りにとり喰いにくった。脂っぽくなった口を洗い、かつ呑み込むのに、薄いコーヒーがこれに実に見合った。

コーヒーは肉にぴったりマッチし、ここでもガブ飲み。大量消費の先陣がここにはじまった。

だけど、気づくとリョコウバトは激減。

保護にかかった時はもう手遅れだった。

悲しいかな、リョコウバトの産卵期は年に1度きりで、しかもタマゴは1ケのみという、もろい種族だった。それを喰いにくいしたワケだ…。


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映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー PART3』は1885年が舞台だけど、マーティのご先祖一家(マクフライ家)の食卓シーンは野ウサギだった。その頃にはもはやリョコウバトはひどく減少し、買うにしても高額で、貧しいマクフライ家のディナーには登場しないというワケなのだ。


保護されていた最後の1羽は1914年の9月1日のお昼1時に、老衰で死んだ。

1つの種がヒトの欲望で絶滅した、記録に残る最初にして唯一の事例だ。

最後の1羽は雌でマーサと名づけられ、今は剥製となってスミソニアンに展示されている。

ま〜、コーヒーを悪者にする気はないけどね、絶滅の目撃者だったとは云えるかもしれない…。

(マーサは建国の父ジョージ・ワシントンの奧さんの名)


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古代エジプトの食物誌を眺めるに、ミルク、果汁、ビール、ワインはあるけれど、休息や安穏を意味するところの"茶"に類するものはない。

文献の多さから察し、おそらくはビール(ホップは入っていなくって苦みなく、ドロッとした低アルコール、逆に度数が高いのもあったようだけど、ストローで呑む)がそれに該当していたろうとは思うけど、分別しちゃえば酒なんだから、かなりニュアンスが違う。

もしそこに茶があったなら古代エジプト文明もまた相当に変わったものになったろうとも思うけど、なかったんだから、ま〜、しゃ〜ない。

エジプト文明と中国(黄河)文明の最大の違いは、チャノキがあったかなかったか… という一点で括ってみるのもオモシロイ気がする。

2017-01-26

茶の本


いつものことながら、イベントが終わると軽度なエアポケットを味わう。

さらなる模型というか、製作途上で中断しているのも有るんで、気にはなるんだけど、ま〜、あと少し、ここ2〜3日はボンヤリしちゃえ… と甘誘に浸透されるまま、何本か連続でDVDで映画をば観賞したりする。

普段あんまりしないけど、テーブルに足投げだして、横柄に。

こういうお気軽な飽和が、実は好き。

怠惰をはむ… とはよくいったもんだ。


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しかし、アメリカ映画ではショッチュウ、足投げだしポーズが出てくるね。

映画に限らず、たとえばオバマの写真など眺めるに、彼も執務室でテーブルに足投げだしをやってたりもする。

かつてのケネディやクリントンもやってる。

ブッシュ親子やフォードもそうだ。

リベラルも保守もこれは一緒。

アメリカンな慣習なんかしら?

文化とはいうまい。


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真似てみるものの、ボクの場合は5分もやると足しびれちゃう。リラックスできない…。

ま〜、かの国の方々が正座が出来ないのと御同様で、トコロ変われば足の居場所も変わるというワケだろ〜ね。


けども、怠惰時間もそ〜続かない。

S新聞社から取材の申し出。

あわてて毛繕いしてシャキッとしたところを演出… グチャラケになったテーブル廻りを片付けて、いっつもクリーンだよ… なんて顔して写真に撮られる。これにて怠惰な数日終了。ぁぁざんねん。


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岡倉天心の『茶の本』を再読。

欧米人向けに英文で書かれ、ニューヨークで出版され、当時、東洋というか日本文化理解の良書と絶賛されたらしきだけど… 今も評価変わらず。

すごいね〜、この人は。

横浜の、それも外国人居留地の中にある商館(絹糸の輸出)に産まれたから、日々ガイジンと接しての幼年期。

でもって、早や6歳で近所のジェームスさんから英語を学んだというから日本語と英語を両方ナチュラルに話せるバイリンガル少年に育つ。

そんなんだから通常なら眼が欧米に向かい、西洋にカブレてしまいそうなもんだけど、彼はそうならない。日本の古きに着目し憧憬し、そこを大事にしなくっちゃ〜な意気込みと熱意の温度を高めるんだから… すごいというかオモシロイ。文明開化の鐘がなる… の明治にあってだよ。


鹿鳴館が示した通り、何でもかんでも西洋を真似、古き日本はもう要らないと政府の要人ら多くが西洋カブレをおこしてるさなか、彼は流行りの風潮に背をむけた。

天心がいなきゃ、もっと大多数の日本の美術品(主に仏教系のもの。当時、神道がイチバンに格上げされて仏教が疎んじられたから余計に)やらやらが海外に売り飛ばされていたろうから、そこを思うだけでも… ゾッとする。


天心は書く。

大久保喬樹 訳の同書では、巻頭で、

茶にはワインのような傲慢さも、コーヒーのような自意識も、ココアのような間の抜けた幼稚さもない。

と、Tea(紅茶を含む)以外を罵倒する。

でもこれは主題じゃない。

西洋側の東洋への無理解、また逆の東洋側の西洋無理解、その格差を縮めようとの魂胆での、あえて挑戦的に煽った文章上のそれはテクニックであろう。読み手たる欧米人をまずは挑発し刺激し、次いで文化の相異を説いていく。その上で、茶を通じての文化論的東洋を克明に描いてみせる。

"茶碗の中で東西は出会う"

と、説いていく。

ま〜、見事なもんだ…。"コーヒーのような自意識"と書ける文体にも驚くけど、そう記せるだけ彼はコーヒーの味わいを知っているとも当然にとれて、ばっさり切られたコーヒーもタジタジとなるんじゃなかろうか。ココアにいたっては泣くんじゃ〜あるまいか。

ともあれページをめくれば、道教がでてくるし、禅も出てくる。その精神性の結晶というか容れ物たる茶室が出てくる。茶世界の深みに連れ込まれる。

何でもア〜メンの一神教ワールドではない別大系な世界感があることを、天心は茶湯を通して明示する。

茶道の解説本ではない。その精神の真髄を哲学したもんだ。だから濃くて深くて、かなりの透明度の真摯がどの記述にも漲る。

この数ヶ月、やや集中的に茶関連の本を読んだけど、この1書は… 抜きんでて他書とはちがう。メチャな云い方をすれば、原理主義的理論の本… と云ってもよい。

こたびの再読で、このクリスタルめいた、硬い、けども乳白な柔らかみをコートした論調を、いちだんと好もしく思いはじめてる。

第6章の「花」の記述あたりは、もはや詩篇とでも呼ぶべく澄明が挑むほどに凛々として屹立し、

「ふひゅ〜〜」

溜息をつくばかり。


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この人は不思議な人で、自分の服はほぼ全て自分で縫って造ってる。デザインし縫製し、ボストン美術館の館員になった頃もそれで通してる。

自我の芯が屈強でなきゃ、そんな風体はできまい…。

また一方、ボクは天心の恋愛模様にもチョビリ興をひかれる。

あやかりたい… という次第じゃ〜〜なくって、とどのつまり、嗜好と思考の快楽曲線が螺旋にからんで上昇していくアンバイに目映さをおぼえる次第。


天心はダンコに懐古趣味の人ではない。多くの日本人が捨て去ろうとした諸々の中に大事極まりない根ッコを見いだして、それを摘むなと警鐘し、かつ大胆に、過去にとどまるな… とも論じたような感があって、今、たとえば、大統領令としてTPP永久離脱と決めた国に向けて「説得の努力を続ける」などと牧歌を申してみたり、「米国第1主義を尊重します」とのメッセージをババ抜きトランプ氏に送ったりの… 思考停止しているアベコベ総理やら、あるいは原発事業の最大手だった米GE社ですらが撤退し見切りをつけようとするその子会社をわざわざ大枚はたいて購入して、あげく大損失を出してサザエさんを困らせる東芝などなど… バカな侵略行為に耽った先の戦争遂行と同様、いったい何にしがみついているんだろうかと、訝しむことが多すぎる。

茶の本』は政治経済の話ではないけれど、文化の枝葉の先にそれは確実にあってリンクし続ける。天心の憂いの核心は、今も継続中というより、いっそヒドイことになってるんではなかろうか。


彼は西洋のパーティで大量に用立てられる花々の使用を批判し、茶室の一輪の花とを対比しつつ、花の立場でこうも書く。

花はどれも、侵略者の前に、なんの助けもなくたたずむばかりである。花たちが断末魔の叫びをあげても、私たちのかたくなな耳には届かない。花は私たちを愛し、黙って奉仕してくれるのに、その花に対して、私たちはかくも残酷なのだ。だが、いつかきっと、こうした残酷さのために、私たちはこの最良の友から見捨てられる時がくるだろう。野の花が年毎に稀になっているのに気がつかないだろうか。きっと、花の中の賢者が花たちに、人間がもっと人間的になるまではどこかへ避難しているよう命じたのだろう。

天心ならずとも、"花を活ける"の、その活けるの意味を再認識すれば、も少し呼吸しやすい世の中になるような気が、しなくはない。

他者の眼に粗末に映ろうと、さした一輪に誇りを持てとも。

2017-01-15

一期一会集


昨年の手術いらい初めての、強い眼精疲労。

眼の周辺に発熱をおぼえ、ボワワ〜ンと視界が澱む。

翌朝、眼科に出向いて診てもらうに、

「年齢の許容を越える酷使…」

と、ま〜、予想通りな回答。

模型の細かいパーツ組みが、このボワワ〜ンをもたらしてる。

けどもこたび、術後しばしはダメと云われ続けてたメガネの新造が許され、メガネ屋さん用の処方箋が出たので、ちょっと嬉しい。

受信後、ただちにメガネのミキに直行。

仕上がって来るのは、次ぎの講演日の直前というコトだから、真新しいメガネで話すという次第になるだろう。

老眼メガネを鼻先にずらして上目遣いに四方を見る、いかにもジジイっぽいカッコ悪さから解放されるのは嬉しいけれど、かかった費用が… チクチク痛い。


翌々の土曜夜。

3年連続で小学校同窓会に出席。

3年前に味わった「故きを温めて新しきを知る」の新鮮は、もうない。

懐かしみも薄れ、心躍るようなトコロもない。

けども馴染んだTシャツを着けるような、お気軽で気さくの、だから遠慮もないバカを云えるお愉しみもまた、ないではない。

ま〜、そんなもんだ。

21日の次土曜の講演を一応紹介し、オチャケて笑う。


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そうこうする内、模型作業が概ね済んだのでチョットだけテーブル廻りを整理でき、気分も軽く、数日前から「茶湯一会集(ちゃのゆいちえしゅう」をひろい読んでいる。

一読、その徹底に… 苦笑した。

ごぞんじ、「一期一会」なる単語はこの本で初登場する造語。

元の大意は利休の高弟子・山上宗二が残した文にあるが、井伊が短縮した。

茶会での主人と客の心得をといた本ゆえ、笑うようなものではないのだけど、あまりの徹底に逆に口元がほころんだ。

数行おきに、

「○○○すべし」

「×××すべし」

作法心得所作がときにとかれる。

客を招く側の心得と同時に客側の心得もしっかり細部までが綴られる。


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茶会の開催約束がまずオモシロイ。

5,6日前に日取りを決め、定日の前日、

『主客互いに参を以て挨拶に及ぶ事、これを前令という』

要は、わざわざに先方に出向いて、「いよいよ明日に」を再確認せよ… という次第。

その後に、もしも書状を使う場合は、こ〜すべし、あ〜すべし、実に事細かに指南が続く。


客人を迎えるための雪隠掃除のくだりもまたオモシロイ。

水洗トイレじゃないから、その御苦労もまた大きいだろうけど、描写が徹底しているから、ま〜るでホントに雪隠に接してるような感も生じる。

客として招かれ、もしもウンコをしたなら、懐の紙でそれを覆い、主人が用意してくれている新鮮な藁でさらに覆え… との記述もある。

茶会で生じる、ありとあらゆる事態と気配りを徹底して描き出し、この場合はア〜して、その場合はソ〜してと、実にまったく細かい。


なので当然に本番たる懐石と茶席の部分はいっそう拍車がかかる。


これだけの指南書を30代で書いた井伊直弼という人物は、しかし… ボクには不可解な人の筆頭だ。

桜田門外で暗殺された彼と、この「茶湯一会集」が、線で結べない。

画家を志した男がナチス帝國の君臨者になった大変貌と同様、井伊にも似通う空気を感じる。

幕府大老として吉田松陰ほかを刑死させる冷酷の中の大雑把さ、方針の先が見えないやはり大雑把としかいいようもない政治手法などなど… 繊細の極地たる「茶湯一会集」の作者とはとても思えないワケで。

人の内部には、両極端がすくっているという証しなんだろうけど、城主になるアテもなかった頃の部屋住み時代の井伊が、茶の世界に心酔し、そこに自分流の哲学をば見いだして一書にした、そのオタク的邁進の深度には、ひたすら感心をするがゆえ、逆に後半生の諸々に啞然とする。

偶然が重なって城主となり、幕府大老に指名されて、あげくに激烈な最後を彼は遂げるわけだけど、もし万が一、城主になれず、大老職など遠い夢物語のままの人であったなら、彼は澄んだ眼を保持した幕末期最大の茶人として文化系の諸々で常に紹介されてやまない人になったような気がして… ある種の悲運と悲哀をおもわないではない。

けど、ま〜、それはどうでもいい。


同書の末尾「独座観念」は、客が帰った後の気分の有りようを描いていて、そこはとてもいい。

"祭りの後"の満足と寂寥のバランスを、

「一期一会済みて、ふたたび帰らざるを観念し、或いは独服をもいたす事」

と、一人で茶を点てて呑むもよし、それを一会の極意と学べ… ととく。

ごくごくアタリマエのようなコトだけども、そこの気分を文字で顕わにした井伊直弼は、いっそ、この書をもって語りつがれるべきとも… 思わないでもない。


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文中には数々の引用があって、彼が茶関連の数多の書物に親しんでいたというか、より濃くそれを血肉化している様相もわかる。

「南方録」、「茶経」、「喫茶養生記」などなどを踏まえた上でのこの一書…。

それゆえまた余計に、茶を呑んで抽象すべき人が時代の具象に呑まれたという感じの悪さが井伊直弼には、つきまとう。

惜しいなぁ。