此の旨を深く信じて南無妙法蓮華経と唱へば

(※タイトルの御文の続き) 一生成仏更に疑あるべからず (一生成仏抄、384ページ)
2012年5月4日(金)更新:7
・斧節『祈りのメカニズムは機械的な結果をもたらす』
http://d.hatena.ne.jp/sokaodo/20120502/
●この信仰は、何か狭い世界に入るんじゃない。自在の福徳の世界に出るんだよ!―牧口先生
●自身の生命の外に法があると思ったならば、それは全く妙法ではなく、ソ法(=不完全な法)である。
 ソ法は、法華経ではない。法華経でなければ方便の教えであり、仮の教えである。 (一生成仏抄383ページ、通解、以下も)
●ゆえに、妙法と唱え蓮華と読む時は、自身の一念を指して妙法蓮華経と名づけているのだ、と深く信心を起こすべきである。
 釈尊が一代の間に説いた八万聖教や、三世十方の仏や菩薩たちも、すべて自身の心の外(ほか)に有るとは、決して思ってはならない。したがって、仏教を習うといっても、自身の心性(しんしょう)を見ていかなければ、全く生死の苦悩を離れることはないのである。
 もし、心の外に成仏への道を求めて、万行万善を実践したとしても、それは、たとえば貧しい人が、昼夜、隣人の財(たから)を数えても、一銭の徳にもならないようなものである。
 そうであるから、妙楽が天台の教えを説明した中に、「もし心を見なければ重罪を滅することはできない」と述べ、もし心を見なければ、無量の苦しみの修行になると断じているのである。
●爾前権経の特徴は、「仏」と「凡夫」の間、あるいは仏界と九界の間に超え難い断然があると説くことにある。したがって、凡夫は、九界を断滅していく歴劫修行によってしか成仏できないとする。
 また、成仏といっても、理想とされる仏は、人間とかけ離れた存在になっているのである。結果として、凡夫が救われるためには、その超越的な仏による救済を願うしかなくなる。このような教えを「ソ法」と言われているのである。 (大白蓮華 2006年7月 臨時増刊号、以下も)
日蓮大聖人の仏法は、自分自身の中に、偉大なる仏の生命があると自覚するところから一切が出発するのである。
●強く信心を起こして、日夜朝暮に怠ることなく磨いていきなさい。
 では、どのようにして磨くのか。ただ、南無妙法蓮華経と唱えること、これが磨くということである。 (一生成仏抄、383ページ、通解)
●「自身」が変われば「世界」が変わる。
 「我が一念の変革」が、すべての変革のカギなのです。これが「人間革命」です。
 そして、誰にでも、その変革の力が具わっている。この生命の真実に気づけば、いつでも、どこでも、どのような状況にあっても、その力を現実に開き顕していくことができます。 (『池田名誉会長の一生成仏抄講義』、以下同)
●苦しい時には挑戦の唱題、楽しい時には感謝の唱題と、「日夜朝暮に又おこたらず磨く」唱題行こそが、宝剣を鍛え抜くように、自身の生命を強靭にしていきます。「持続」とは、言い換えれば「不退転」です
●「妙法蓮華経」はまさに己心の法であり、一人ひとりが唱題による己心の瞬間瞬間の変革を積み重ねることによって、それが生命の根本的変革に、そして人生全体の変革すなち一生成仏に、さらに広宣流布という人類の大変革の潮流となっていくのです。そして、そのあらゆる次元の変革の躍動が全て、妙法蓮華経なのです。

・香風『祈り続ける人に、開けない道はない!』
http://d.hatena.ne.jp/yoshie-blog/20130718/

諦めず、お題目をあげてみましょう!