欲望の克服に果たす宗教の役割

2012年6月18日(月)更新:1
【世界の知性は語る ユニオン神学校名誉教授 ポール・ニッター博士 人間は“大我”に生きる存在―池田SGI会長の洞察に共感】
〈不平等に痛み覚えず正そうとせず〉
 人間の歯止めなき欲望が、深刻な環境破壊や経済危機の要因となってきたことが指摘されています。そうした欲望の克服のために、宗教はどのような貢献ができるか――その大いなる問いに答えたのが、平和研究機関「池田国際対話センター」が出版した『貪りの克服』(2010年刊)です。そこで、同書の編集に当たったポール・ニッター博士にインタビュー。人類が直面する課題と、宗教の役割について伺いました。

*経済の格差をはじめとする、さまざまな社会問題に宗教が挑み、解決への方途を探る意義は、どこにあるでしょうか。
●ニッター博士 富の不平等や、不安定な市場をもたらす原因は、競争原理に基づく資本主義にある、と多くの人々が考えております。しかし、より深く原因を探れば、果てしない欲望の追求に走る人間の性向にある、と見る人もいます。
 富を持てるものが、持てない者に対し、影響力や支配力を行使する。それによって、社会に不平等のゆがみが生ずる――これは経済次元の問題です。しかし、より深く懸念すべきは“持てる人々”が、そうした不平等に痛みを覚えず、ゆがみを正そうともしないことです。このように、自らの利益の追求に走り、他者に対して、まったく盲目になってしまう姿のなかに、貪欲の病根があるのです。
 その弊害は、経済の制度の改革だけでは克服することはできません。病根は人間の心の奥にあるからです。ゆえに、問題の真の解決には、宗教の英知の良薬が不可欠なのです。
 伝統宗教は、この問題に対して共通の処方を持っております。自己中心から他者中心への、心の変革のすすめです。もちろん、他者中心といっても、それは、自我を滅せよ、と言うのではありません。他人への共感を忘れることなく自己を生きよ、と教えているのです。

*池田SGI創価学会インタナショナル)会長は、真の自我は、エゴイズムに囚われた“小我”にではなく、他者と同苦し、共感しゆく「開かれた人格」としての“大我”にある、と主張しております。
●博士 西欧の思想の視点に立てば、貪欲は社会の構造と密接に関係するがゆえに、その克服のためには、まず、社会的なシステムの変革が大切である、と考えます。
 しかし、仏教では、システムの変革の重要性を認めた上で、真の変革のためには、まず心の変革が大切である、と考えます。仏教がそうした視点に立てるのは、何よりも、人間とは、本来、欲望に支配される存在ではない、との人間の可能性に対する強き信があるからではないでしょうか。
 私はまた、仏教が、人間は他者の福祉のために生きることによって、真の充足を得る存在である、と説くことにも、深い共感を覚えます。SGI会長が洞察されるように、まさに人間は、“大我”に生きる存在なのです。

〈“自己中心”から“他者中心”へ〉
SGI会長は『貪りの克服』に寄せた序文の中で「他人の不幸の上に、自らの幸福を築いてはならない」と警鐘しております。それは、博士の言われる“自己中心”から“他者中心”への、心の変革の具体的なあり方を示したもの、といえます。
●博士 このSGI会長の言葉こそ、本書を貫くテーマの真髄を語るものといえるでしょう。他人の不幸の上に、自らの幸福を築くことは、他人を、より不幸にするだけではなく、自らの不幸をも招くことになる、と戒めるものだからです。そもそも、他人の不幸の上に、平気で、自らの幸せを築こうとする人は、人間として生きることの意味が、分かっていないのです。
 ここで私たちは、幸福とは何か、についても思考をめぐらせる必要があります。たとえば、豪華なヨットでレジャーを楽しむ他人の姿を見て、「彼らは私たちの不幸の上に自らの幸福を享受している」と非難する人がいるかもしれません。
 それが真実かどうかは別として、私には、むしろ、そうしたレジャーを楽しんでいる人たちの顔が、心底から幸福そうに見えないことが、不可解なのです。それは、彼らの幸福が、他人の不幸の上にではないにしても“消費”という楼閣の上に築かれているからではないか、と私には思えるのです。
 もちろん、最低限の経済的な保障は、幸福の必要条件です。同時に、人間には経済苦などの困難と闘うなかで、忍耐の力、さらには創造の力を育む能力が備わっていることも忘れてはなりません。
 また、そうした“内なる創造力”の上にこそ、私たちは、真の幸福、真の充足を築くこともできるのです。その源となるのが宗教なのです。
*そうした“内なる力”の存在を教え、それを発揮し、創造的な人生と社会の建設を促すところに、宗教の真の役割がある、ということですね。
●博士 確かに、“内なる力”を築いただけでは、十分とは言えません。その“内なる力”を、社会の不幸との闘いに向けなければなりません。世界には、抜きがたい苦悩や失望が存在するからです。
 また、それぞれが“内なる力”を発揮し、心をあわせて社会の不幸と闘うなかに、人間同士の強き結束の絆も生まれていくのです。

〈示唆に富む対談「21世紀への警鐘」〉
SGI会長は、ローマクラブの創始者・ペッチェイ氏と、地球の未来のあり方をめぐる対談を行い『21世紀への警鐘』(1984年)として出版しました。ローマクラブが70年代に発表したリポート『成長の限界』は、歯止めなき欲望の追求を警鐘するものとして、世界に多大な反響を呼びました。一方、『21世紀への警鐘』では「人間の成長には限界がない」との新たな視点がテーマとなりました。自己の“内なる力”を限りなく開発しつつ、他者への思いやりや支援の輪を広げゆく挑戦こそが、欲望の追求に歯止めをかける最良の手だてとなることを論じたものです。
●博士 資源の開発を成長の尺度とする経済のあり方に歯止めをかけるべきことは、自明の理といえます。こうした開発を続ける限り、人類は自らを破滅に追いやることになります。問題は、物質的な成長に、どう歯止めをかけることができるか、ということです。
 その意味でSGI会長とペッチェイ氏が合意した「人間の成長には限界がない」とのテーマに、耳目が開かれる思いがします。
 精神の成長に、より深く目を向けることができれば、私たちは、物質的な成長、すなわち、欲望の追求に歯止めをかけることができる、ということです。
 ここで私たちは、再び、人間にとっての真の充足、幸福とは何かについて、思いを新たにする必要があります。すなわち、真の人間の幸福は、消費社会という土壌の上に、いくら物質を保有しても、決して得ることができない、という厳粛な事実に目覚めなければならない、ということです。
*たしかに、消費至上主義の病根は、いくら富を増やしても、それに決して満足できず、新たな消費に、欲望のエネルギーを燃やし続ける、という一点にあります。
●博士 真の人間となるべく、自己を成長させていく。言い換えれば、自身と他者の健全な関係性のなかに培われる“大我”を開き、拡大させてゆく。その過程にこそ、人間の真の充足も幸福も築かれていく――その真実に、私たちは深く目覚めねばなりません。
 ともあれ、環境の問題も、経済の問題も、究極して、人間の精神の問題である。この一点こそが、SGI会長のメッセージの真髄ではないでしょうか。実際、環境問題の深刻さを分析している科学者たちも今、宗教的な価値こそが、問題に立ち向かうための重要な役割を果たすであろうことを、深く認識し始めているのです。
      (聖教新聞 2012-06-17)