yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

「羽生×萬斎」(NHK、2015年8月放送)と観世寿夫著『心より心に伝ふる花』(白水ブックス、1991年)

先ほど「羽生×萬斎」を2回通して見た。ネットにアップされたこの対談をやっと!見ることができた。アップしてくださった方に最大の感謝!以前、知り合いの方から録画を貸していただいたのだけど、今回はゆっくりと、しかも何度も見ることができた。萬斎さんと羽生結弦さん、二人の芸術家は出会うべくして出会ったのだと、改めて感じた。そこでのお二人の非常に哲学的なやりとりを思い浮かべながら、『心より心に伝ふる花』を読む。

能といえば研究書の類はいくつもあるけど、書き手がご自身演者でもある観世寿夫氏なので、いわゆる研究者のする分析、解釈とは視点の取り方がかなり異なっているように思う。寿夫さんの絶筆。奥様の関弘子さんが聞き取って遺されたもの。どの頁も示唆に富んでいる。この本を、「羽生×萬斎」を念頭に置きながら読むと、以前に読んだときに印象深かったところと、今度は違っていた。いわば能の根幹をなす考え方。世阿弥は「二曲三体」と名付けている。二曲の方は音曲、つまり声(歌)の訓練と体(舞)の訓練の重要性を示している。この両者が一体となって、優れた役者になるという。詳細に解説されているのだけど、その語り口そのものがムーブメントのよう。優れた役者が、極めて厳しい稽古の上に成立することがわかる。萬斎さんもこの稽古を経て、あのような声、あのような舞が可能になったんだろう。羽生結弦さんと出会った瞬間に、その姿形(posture)、声から互いに瞬時に感得したに違いない。この稽古(練習)の集積体としての互いを。

観世寿夫氏は、「声と体の稽古の上で、総合的なキイポイントは呼吸法である」と述べている。ここ武智鉄二の「息」についての議論を思い出した。彼はそれを能から学んだんですね。寿夫氏は続けて述べる。

子供のとき、声を出すにしろ、体を動かすにしろ、力一杯自分の全部をぶつけるような稽古をやらされるということは、稽古というものはいつも、息はハアハア、足はガクガクになるもの、と体で覚えてしまうということなのだ。子供にとってはその延長線上に舞台がある。だからいつでも、舞台にでさえすれば、その瞬間から力一杯になれる。舞台にのった途端に体中の勢力で行きを吸ったり吐いたりする状態に、自然に体がなってしまう。(略)そうならなければ演技なんかできない。(略)大人になってからの稽古ではなかなかこうはなりにくい。大人の初心はつい自分の体をらくなところに逃がして、無意識にらくにやってしまいがちだからだ。(略)役を演ずるということが偽(戯)体にならぬよう、化けるという演技にならぬよう、自分をさらけ出せる、それも単にハダカになれるという意味ではなく、技術を通して本来の「生」が舞台上に生きることができるためには、演者は能をやることの肉体的辛さに、自分を嬉々と立ち向かわせることを習慣づけられていなければならぬ。

寿夫氏はまたいう。

能が現代においても深い感動を与えるとすれば、それは単なる筋書きの面白さや舞の美しさに留まらない何ものかがあるからである。能においては、演技者は、いかにうまく役に化けるかということをやるのではなく、その戯曲、その役を踏み台にして、自分の現在生きているということを舞台の上に投げ出して見せねばならない。人間と舞台とのギリギリの対決。その姿が観客に感動を与え、そしてそれこそが劇的であると能では考えるのだと思う。

優れた能役者がそうであるように、羽生結弦さんも幼い時から血のにじむような苛烈な稽古をされてきている。稽古の集積があり、さらに現在も進行形でされているから、あの表現が可能になった。技術を通して「本来の『生』」をスケートリンクという舞台上に現出させることができるようになった。舞台との間のギリギリの対決。そこに見ている側は「生」を感じる。己のそれを重ねる。彼が表しているこの「生」こそが、見るものを最も感激させるのだろう。それへの意味付けは各人それぞれ異なってはいても。

羽生結弦さんがこの対談を強く望んだというのが、よく理解できる。