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2016-09-29

国立がん研究センターがJTに反論

うやむや【有耶無耶】
あるのやら、ないのやら。ものごとがはっきりしないようす。いいかげんで、あいまいなようす。「事件がーになる」(角川必携国語辞典))


国立がん研究センターが一昨日、「受動喫煙と肺がんに関するJTコメントへの見解」を発表した。これは、受動喫煙の健康被害をうやむやにしようとするJTに対して、専門機関が正面から反論したものだ。

たとえば複数の論文を統合評価するメタアナリシスについても、JTが示唆するような恣意的なものではなく、国際的なガイドラインに従って行われていることがわかる。

(JTコメント)
これは、過去に実施された日本人を対象とした疫学研究論文から9つの論文を選択し、これらを統合して統計解析したところ、受動喫煙を受けない非喫煙者のリスクを1とした場合に、受動喫煙を受けた非喫煙者のリスクが1.3となったとの結果をもって、受動喫煙と肺がんとの関係が確実になったと結論付けた発表であると認識しております。

(国立がん研究センターの見解)

「9つの論文を選択し」との表現は恣意的に選択したような印象を与えるが、今回国立がん研究センターが報告したメタアナリシスでは、国内外の医学論文データベースなどから受動喫煙に関するキーワードで426論文が抽出され、2名の評価者が独立して関連論文の抽出をした結果として9論文が選択されている。この手法は、メタアナリシスの国際的なガイドラインであるPRISMAに従ったものである。


わたしも数ヶ月前、JTのお客様センターに電話で質問したことがある(JTさんに質問:パッケージ警告文の内容に同意していますか?)。そのときのまとめは、以下のようなものだった。

  • Q1:パッケージ警告文を載せることには同意しているが、内容には必ずしも同意していない。(中略)
  • Q3:誰がどんな基準で文献を判断しているのかは、はっきりしない。

機会があれば、国立がん研究センターにも問い合わせたいと思っていた。今回、専門機関がきちんと見解および論拠を示してくれたのは、議論の論点を明確化するうえでとても喜ばしいことだと思う。

2016-09-28

鍵となる質問…「なぜ、話が通じないのか?」(3)

他人にとってはどうでも良くても、自分にとっては心が強く揺り動かされるできごとがある。昨日はそんな体験をした。

仕事仲間でもあり友人でもあるフリーアナウンサー安田佑子さんのラジオ番組が最終回を迎えた。横浜市にあるラジオ局1階のカフェで行われる公開生放送。ぼくは出張で九州にいたので最終日に立ち会うことはできなかったけれど、仕事の合間にわがままを言って最後は少しだけ、リアルタイムで聴くことができた。

番組が終了するということは、いろいろと事情があるのだろう。今回は他の時間帯の番組も合わせて改編になるらしい。それはそれとしてぼくが驚き、ひそかに心動かされたのは、最後の2〜3週間で番組やリスナーに対する彼女自身の思いが、一気にコアな部分、原点の部分へと凝縮されていったように見えたことだ。

数週間前には、番組が終わることに対してあれこれと、あえて言えば「よけいな」ことも考えていたように見えた(ぼくの勝手な感想だけれど)。ところが最終日の放送は、終わりが近づくにつれて、1秒1秒が密度を増し、リスナーとの関係に彼女自身のラジオに対する思いが重なって、かけがえのない時間になったように思う。

すべての体験は、個人的なものだ。

同じできごとについて、みんなが同じように感動するわけではない。まったく興味を引かれない人もいるし、頭では共感しても、それほどでないことだってある。人によって、心が動くポイントはまちまちだ。

だけど、自分にとって大切なものは何か、自分がどんなことで心を動かされた経験があるか、それを記憶しておくことは、他人と関わり合い、理解するうえできっと役に立つはずだ。

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さて、ぼくにとってのコアな部分、鍵となる質問は、「なぜ、話が通じないのか?」という思いだった。

たとえば、国がちがえば意見がちがう、ということがある。意見がちがうこと自体はありうる。しかし、A国とB国の意見が対立しているとき、A国民の大部分がA国の意見を支持し、B国民の大部分がB国の意見を支持するというのは、よく考えてみればおかしな話である。A、B両国にそれなりの論拠があるとして、それぞれの国民が中立的に判断するとすれば、たとえばこんな風な配分になるだろう。

A国の意見を支持:A国民の50%、B国民の50%
B国の意見を支持:A国民の50%、B国民の50%

だけど、しばしばお互いが相手のことを「話の通じないやつら」だと信じているという現象が起こる。

ぼくはフェイスブックで「Q&A Japan/日本」というグループを立ち上げた。これは「日本についてどんな質問でもしていい」というグループだ。質問は何でもあり。その代わりお互いに相手をリスペクトして話のがルールである。参加者の数だけでいえば、9,000人を越えた。実際のコメントはのんびりしたペースだけれど。

ピレネー山脈のこちら側の真理は、あちら側では誤り。(パスカル『パンセ』)

「なぜ、話が通じないのか?」…Q&A Japan の試みは、ささやかではあるけれど、ぼくの興味をかたちにしたものだ。ここには「Q&A」「質問」というキーワードが登場している。このブログのタイトルも「アイロン(論理愛好会)」から「質問学」に変更した。

2016-09-27

鍵となる質問…「なぜ、話が通じないのか?」(2)

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さてタバコに関しては、『禁煙ファシズムと戦う』(ベスト新書)などで受動喫煙の健康被害を否定する批評家K氏を「インチキ学者」と挑発的に批判していたら、最後に名誉毀損(?)で訴訟を起こされた。仮に原告K氏の訴えが全面的に認められれば300万円支払わなければならない。

ぼくは専門家の助言を受けながら、訴状に対して1つ1つぜんぶ反論した。その過程で分かったのは、K氏の訴状はまったく素人が書いた杜撰な代物だということだ。結果、ぼくのK氏批判は、多少行儀が悪いものの、真実性、公共性などが認められて、訴えは棄却、K氏の全面敗訴になった。やれやれ。

だからといって、K氏が自分の間違いを認めたというわけではない。K氏にとっては「ヘンな裁判官に当たった。不運だった」という認識かもしれない。余談だが、K氏はその後2度、芥川賞候補になった。

一方、ぼくの興味はタバコというよりも、「どうすれば議論が成立するか」ということに移っていた(これは「なぜ話が通じないのか」という疑問と同じことだ)。最初は戦時中から戦後にかけて流行した「一般意味論」という学問に共感し、それを広めたいと考えた。ところが、一般意味論の紹介をあれこれ考えるうちに、これは学問としては成立しないものだということが分かってきた。そしてだんだん、本物の学問である論理学に興味をもつようになった。

論理学の独習で、ぼくの世界観は大きく変わった。自分たちが大事にしている価値観も、「今の時代の日本」など歴史や地域に限定されたものにすぎない、と確信するようになった。歴史的にみれば、19世紀後半から20世紀前半にかけては、記号論理学の成立によって、哲学・思想の分野が大きな変貌を遂げた。ぼくは初歩的なレベルではあるが、人類の知の大きな転換を追体験した実感がある。

ところが、論理学の知識を使っても自分と意見が対立する人たちと議論を成立させるのは困難だった。ひとくちに「論理的」と言っても、いろんなレベルがある。あまりに論理的であろうとすると話が進まない。逆に話をどんどん進めようとすると、論理のスキマが多くなっていく。自分や相手の思い入れが強い分野で議論しようとすれば、いくら自分が論理的であろうとしても、それだけで相手を納得させることは不可能だった。(そこには依然として「なぜ、話が通じないのか?」という疑問があったはずだ)

2016-09-26

鍵となる質問…「なぜ、話が通じないのか?」

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昨日、傾聴の講座を受講しながら、まったく個人的なことなのだけれど、大きな発見があった。ぼく個人が十年前から心のどこかに抱いていた根本的な疑問が、はっきりした言葉となって姿を表したのだ。

それは「なぜ話が通じないのだろう?」という疑問だった。

十数年前のぼくは、何度も何度も何度も、禁煙に失敗していた。「ぜったいにやめる」と決めたはずなのに、コントロールが利かなくてなって、もらいタバコや吸い殻や自販機に手を出してしまうみじめな思いをくり返していた。
それが、あるとき「タバコの見方」を切り替えることで、すぅーっと簡単にタバコをやめることができた。その経験をもとに『笑って禁煙できる本』を出版した。

同時に、タバコというものがまかり通っている世界が奇妙なものに見えてきた。当時流行っていたミクシィ、また自分のブログなどでタバコの健康被害について、顔を見たこともない人たちと喧々囂々、議論をくり返したが、タバコ擁護派の人たちとはまったく話が通じない。意見を戦わせるほど、溝が深まっていく思いだった。

(つづく)

2016-09-25

ポラロイド写真を撮るように質問を共有する

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テレビで活躍中のある放送作家は、どんなに忙しくても毎日のブログ更新を日課にしている。彼の場合は、ブログは「ネタ帳」のかわりだ。1回1回はたいしたことなくても、その習慣が1年、5年、10年と続くことで、毎日の生活の中から企画のネタをさがすことが習慣化され、そこから番組や本のアイデアも生まれるのだという。



この週末は「傾聴講師養成講座」というものに参加をしている。ぼくの場合は今のところ本業があるので、直接的に傾聴の講師を目指しているわけではない。が、初日にきいた内容は驚きの連続だった。「ひとくちに『講師業』といっても、水面下でここまで努力しているものなのか」と。どんなヴィジョンでも、長く持続発展させるには、経済面も含めた全体のプラン作りがかかせない。大いに参考になる話だった。



ぼくは、人の話を聞く「傾聴」そのものよりも、その先にある「傾聴的なコミュニケーション」に関心がある。それは、「対話型コミュニケーション」と言ってもいい。争いやすれ違いではなく、人の話をよく聞き、わからないことは質問して確認し、お互いの共通のゴールを目指すコミュミケーションだ。そこで「傾聴(listen)」と「質問(ask)」がつながってくる。



ポラロイド写真を撮るように、あなたと質問を共有したい。

これは昨夜寝ているときに思いついたことばだ。あまりできはよくないかもしれないけど。ポラロイド写真…今なら、スマホの自撮りか。「私とあなた」「私たち」、あるいは「私と私」。まず質問が共有できれば、関係が大いに変わってくることだろう。