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2012-11-14

問題はどこにある? Where is the problem?


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大臣は恐る恐る申し上げた
「問題があるのは明白です」

王様はおごそかにこたえた
「問題などどこにもないではないか」

旅人は口笛を吹いていった
「捜したけれど問題はなかった」

商人の妻はあきれてつぶやいた
「馬鹿には問題が見えないのね」

さて…
問題はあるのかないのか

不満をいだく者
現状に満足な者
変える必要がない者
変えたいと願う者

人類が誕生する前の地層からは
いまだに問題の痕跡すら
発見されていないのだという

2012-05-21

鳥の視点とロジックスケッチ


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あるクリティカル・シンキングの本に「思考の十大誤謬」が載っている。そのうちの1つが「グループ思考」だ。

ライバル関係にあるビール会社A社とB社があるとする。A社の社員が「A社のビールはB社のビールより美味しい」と言う。あるいはB社の社員が「B社のビールはA社のビールより美味しい」と言う。ごく自然な心理だろう。しかしこれといった根拠もないのに、自社のビールの優位性を客観的事実のように主張するとしたら、その社員は「グループ思考」の落とし穴にはまっている。

グループ思考は、こんな仕組みになっている。

自分が属するAグループは正しい。

なぜなら……だからだ。
(根拠を恣意的に提示)

AグループとBグループが対立している場合、以下のようになる。

【Aグループのメンバー】
自分が属するAグループは正しい。
なぜなら○○だからだ。(恣意的な根拠)

【Bグループのメンバー】
自分が属するBグループは正しい。
なぜなら××だからだ。(恣意的な根拠)

どちらのグループのメンバーも、自分が所属するグループが正しいとする結論がまずある。そして、結論を補強するための論拠を後から恣意的にさがしている。
畢竟、両者が用意した根拠は網羅的でなく恣意的なので、議論がかみ合わない。

国や民族その他のグループが対立しているとき、あるいは個人と個人の意見が対立しているとき、それが真に解決すべき問題である場合は、結論を戦わせる前にワンクッションおくのがいいと思う。いわば「急がば回れ」戦術である。

そのワンクッションとは、鳥瞰的な視点だ。

「Aが正しい」「Bが正しい」という結論はひとまず棚上げにしておいて「AとBの主張のどこが違っているか」に注目する。意見の対立の当事者としての視点を離れ、上空飛行を試みること。

この「鳥の目への変換」を、ぼくは「ロジックスケッチ」と呼んでいる。

【ロジックスケッチ的な考え方】

AとBの意見の相違点はどこにあるか。

それら相違点はそれぞれどんな前提に基づいているか。

争いから距離を置き、まずは光景をスケッチすることに徹してみる。最終的にどちらの言い分が正しいのか、どうすべきなのかという結論云々は、このスケッチが終わってからでも遅くない。

「ええもん」vs「わるもん」

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関西育ちのぼくは子供の頃、テレビのキャラクターを「ええもん」と「わるもん」に分けていた。「ええもん」は「良い者=善玉」、「わるもん」は「悪い者=悪玉」である。昔の子供番組はとくに善悪二元論に色分けされていたように思う。(「ガンダム」はそうでないところが新鮮だった)

フィクションだけではない。歴史や社会も同じだ。織田信長が「ええもん」なら今川義元は「わるもん」。アメリカが「ええもん」ならソ連は「わるもん」。そんな二分割が身の回りのどこにでも転がっていた。

週末、テレビの報道番組で強大化する中国の問題がとりあげられていた。世界ウイグル会議や、南シナ海の島をめぐる中国とフィリピンの軋轢、尖閣諸島についてなど。日本人コメンテーターに混じって、中国人の大学教授が孤軍奮闘、中国を擁護していた。

これ自体は珍しくもない光景である。が、見ているうちに、ちょっとした疑問がわいてきた。

【Q】
なぜ日本人は日本を正しいと思い、中国人は中国を正しいと思うのか?

たとえば、ある問題について日本と中国の意見が対立しているとしよう。
この場合、たいていの日本人は日本の立場を正しいと思い、たいていの中国人は中国の立場を正しいと思う。少なくともそんな傾向がある。

これは、実に不思議である。

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A国とB国の意見が対立しているとき、それぞれの国民100人ずつにアンケートをとってみよう。もしも全員がまっさらな気持ちで判断をくだすならば、たとえばこんな結果が予想されるだろう。

  • A国人:A国に賛成50人・B国に賛成50人
  • B国人:A国に賛成50人・B国に賛成50人

しかし現実には、こうはならない。たとえば以下のようになる。

  • A国人:A国に賛成90人・B国に賛成10人
  • B国人:A国に賛成10人・B国に賛成90人

自分が所属するグループに有利な判断を下しやすい思考の傾向を「グループ思考」と呼ぶ。「自国を愛する」以上の意味が付与された愛国心はグループ思考の典型だ。

自国と他国の意見が対立しているとき、次のような思考を行う人が多いのではないだろうか。

自国が正しいことを直観する。

自国の正しさを裏付ける論拠をさがす。

ぼくたちがこういう思考を行っているとき、相手の国民も同様の思考を行っている可能性が高い。

「ええもん」と「わるもん」の二元論は、大人になっても意外に根強いのではないかという気がしている。

→鳥の視点とロジックスケッチ

2012-05-16

身に覚えのない借金。立証責任はどちらに?

A:オレが貸した3万円そろそろ返してよ。
B:は? 金借りた覚えなんてないけど。
A:じゃ、おまえがオレに金を借りていないことを証明してよ。

この場合、Bさんは「Aさんから金を借りていないこと」を証明しなければならないでしょうか?

そんなことありませんよね。この場合なら、BさんではなくAさんが「金を貸した」という事実の証明を行う必要があります。
Bさんとしては、身に覚えのない「借金」についてはスルーしておけばいいのです。「借金が存在しないこと」をわざわざ証明する必要はありません。

議論においては、しばしば「どちらに立証責任があるか」が問題となります。

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C:「アポロ11号は月面に着陸しなかったんだよ」
D:「おいおい、なんでそんなことがいえるんだ?」
C:「じゃ、アポロ11号が実際に月面着陸したことを証明してみてよ」

「アポロ11号が月面着陸した」という定説に対して、Aさんが異議を唱えています。この後Bさんが月面着陸の事実を証明しようとするとどうなるでしょう。

D:「1970年の大阪万博では月の石が展示されていたらしいよ」
C:「それはアメリカの砂漠で拾った石かもしれない」
D:「ニール・アームストロング船長のさまざまな証言がある」
C:「嘘をつくのが上手い人かもしれない」
D:「映像だっていろいろ残っている」
C:「ハリウッドの映像技術を駆使すれば十分可能だ」

懐疑的なスタンスをとる相手に対して「事実」を証明することは、思うほど簡単ではないのです。こんなときDさんはどう対処したらいいのでしょう?

一般に、学問的な定説や専門機関の公式見解は多くの証拠の積み重ねのうえに成り立っています。もちろんそれがすべて正しいという保証はありませんが、定説や専門機関の信頼性を尊重することで、大半のものごとは上手く回るようになっています。
この場合の立証責任は「捏造説」を唱えるCさん側にあると考えるべきでしょう。
Cさんが「捏造説」を裏付ける根拠を示せないかぎりは、スルーしておいても大した問題は生じないと思われます。

刑事裁判においては一般に「疑わしきは罰せず」の原則が適用されます。容疑者Eさんが有罪となるためには、検察側が有罪を裏付ける十分な証拠を用意しなければなりません。
つまり、検察側に立証責任(挙証責任)があります。

しかし例外もあります。たとえば公害問題。
ある地域で原因不明の病気が発生し、近くの工場排水が疑わしい場合、十分に証明はできない段階でも有罪を推定し、被害の拡大を防ぐ必要があります。

立証責任がどちらにあるか。これ自体は純粋な論理の問題とはいえません。論理的には、常に、その結論がどんな根拠(前提)から導かれているかが問題になります。
とはいえ現実的・実践的なシーンにおいては、立証責任のありかに注目することで、不毛な議論を回避できることがよくあります。

2012-05-14

あなたの敵はバカだらけ。ステレオタイプは思考停止への最短ルート

国民性や民族性をネタにして笑いを誘うエスニック・ジョークというジャンルがあります。有名な例では…

いろんな国の人が乗った豪華客船が沈没しそうになった。
それぞれの乗客たちを海に飛び込ませるには、どんな言葉をかければいいか。

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  • アメリカ人には、「最初に飛び込めばあなたはヒーローになれる」
  • イタリア人には、「海で美女が泳いでいます」
  • フランス人には、「けっして海に飛び込まないでください!」
  • ドイツ人には、「規則ですので飛び込んでください」
  • イギリス人には、「こういうときにこそ紳士は海に飛びこむものです」
  • ロシア人には、「あっちにウォッカが流れていきました」
  • 中国人には、「おいしい食材が泳いでいますよ」
  • 日本人には、「みなさん飛び込んでいますよ」

このジョークの中では、さまざまな国民性が「ステレオタイプ=型にはまった画一的なイメージ」で表現されています。

この手のジョーク、ぼくはけっこう好きなのです。しかし、笑いではなく本気で「ステレオタイプ」を信じるようになると、言い換えれば、あるグループに属する人々をあまりにも単純化・画一化したイメージで扱うようになると、厄介な事態を招くことになります。(本当は順序が逆で、本気で信じる人がいて厄介な事態を招くことがしばしばあるから、ジョークのネタになるわけですが)

「女は感情的だ」「男は鈍感だ」「ゲイは軟弱だ」「レズビアンは男性を敵視している」…信頼できる証拠もなしに決めつけが行われると、その人の持つ個性や、その時々のデリケートな状況が無視されることになります。

「嫌煙家はヒステリック」「喫煙者は暴力的」「郵政民営化に反対する者は国民の敵」「憲法改正論者は好戦的」「護憲論者は平和ボケ」……議論の相手をステレオタイプに押し込めれば、「根拠から筋道立てて結論を導く」という議論の論理性が無視されることになります。

武力や実力行使をともなう敵対的関係になれば、さらにステレオタイプが威力を発揮します。アメリカ大陸に入植した白人は、大陸の原住民を人格を西洋人よりも下位に属する存在とみなすことで、搾取を正当化しました。ナチスはユダヤ人を劣等民族だと決めつけ虐殺しました。日本の歴史でも、さがせばいろんな例が見つかりそうですね。

敵をステレオタイプ化することで、その敵は攻撃を受けて当然の存在だとみなされることになります。ステレオタイプ化をおこなうことで、良心の呵責から免れることができるようになります。
ステレオタイプの多用は思考放棄・思考停止への最短ルートでもあるのです。

イスラエルとパレスチナが、あるいは日本人と中国人と韓国人がお互いをどうステレオタイプ化しているか、などなど、コトバの面から観察すると、「なぜ議論が成り立たないか」についてのポイントが見えてくるかもしれませんね。

2012-05-13

黒い目のきれいな女の子が18人いる!?(その2)

「黒い目のきれいな女の子が18人いる!?」のつづきです。

さて、ここまで11通りの解釈を見てきました。ネットで検索すると、同じ問題を取り上げている人が何人もいますが、やはり最大11通りのようです。
ここから先は、やや強引に解釈してみます。まず、修飾語が「女」と「子」の両方にかかると考えてみます。

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  • 【解釈12】 「黒い目のきれいな」<「女の」「子」>……ある女と、その女の子供がいる。2人とも、黒くてキレイな目をしている。
  • 【解釈13】 「黒い目の」「きれいな」<「女の」「子」>……ある女と、その女の子供がいる。2人とも、黒い目をしていて、またキレイである。
  • 【解釈14】 「黒い」「目のきれいな」<「女の」「子」>……ある女と、その女の子供がいる。2人とも肌が黒く、目がキレイである。

さらに、修飾語の一部だけ2人にかかると考えてみます。

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  • 【解釈15】 ある女と、その女の子供がいる。2人とも黒い目をしている。女はキレイだ。
  • 【解釈16】 ある女と、その女の子供がいる。2人とも黒い肌をしている。女は目がキレイだ。

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  • 【解釈17】 ある女と、その女の子供がいる。2人とも黒い目をしている。子供はキレイだ。
  • 【解釈18】 ある女と:その女の子供がいる。2人とも黒い肌をしている。子供は目がキレイだ。

以上、強引に18通りの解釈を書き出してみました。でも12番目以降は、やはり日本語の解釈として間違いの部類に入るのではないかという気がします。
とはいえ、後半を省いたとしても「黒い目のきれいな女の子」に11通りの解釈が成り立つことに、ぼくは驚きました。

もちろん、普段、文を書いたり喋ったりするときには、なるべく多様な解釈を避けるための工夫が必要なことはいうまでもありません。
たとえば「黒い、目のきれいな女の子」とか「黒い、目のきれいな女。その子供」とかき分ければ、肌が黒いのか、目が黒いのか、女の子なのか、女がいてその子供がいるのかが理解しやすくなります。

つまり、点を打つ時は、点を打つ。誤解が起きそうだったら、語順を変えてみる。そういう点検をしないといけないわけです。
 「直結の原則」というのがあって、なるべく「かかり」と「受け」をくっつけていったほうがいいんです。

『井上ひさしと141人の仲間たちの作文教室』(新潮文庫、159ページ)

アイロン(論理研究会)ブロクのまとめとしては…

・ひとつの文でもいろんな解釈が成り立つ場合があることを知っておこう。
・文を書くときには、なるべく解釈がまぎれる余地が少ない表現を心掛けよう。
・議論するときには、お互いに文の解釈がすれ違っていないか確認しよう。

…てなところでしょうか。

黒い目のきれいな女の子が18人いる!?

「解釈の分かれる文にご用心!」の続きです。
あのあと、井上ひさしさんの本を開いてみてビックリしました。井上ひさしさんはこんな風に発言していたのです。

「黒い目のきれいな女の子」。これだけの短い文に実は十八通りの意味あいがあるのです。

18通りですか! これはタイヘンです。

黒い目のきれいな女の子。

この短い文は、本当に18通りの解釈が成り立つのでしょうか。考えてみましょう。
まず、この文は「女の子」を一語ととるか「女」の「子」ととるかで、解釈が分かれます。

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「女の子」を一語とする場合は3通りの解釈ができます。

  • 【解釈1】 「黒い目のきれいな」「女の子」……これは、女の子が、黒くてキレイな目をしているということ。
  • 【解釈2】 「黒い目の」「きれいな」「女の子」……これは、女の子が黒い目をしていて、しかもキレイだということ。
  • 【解釈3】 「黒い」「目のきれいな」「女の子」……これは、女の子の肌の色が黒く、またきれいな目をしているということ。

つぎに、「女の子」を「女」の「子」に分けて解釈する場合はどうなるでしょう。
まずは、「女」に焦点を当てます。ある「女」について、上記の「女の子」の場合と同じ3通りの解釈が成り立ちます。その女の「子」というわけですね。

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  • 【解釈4】 「黒い目のきれいな」「女の」「子」……女は黒くてキレイな目をしている。その女の子供。
  • 【解釈5】 「黒い目の」「きれいな」「女」の「子」……女は黒い目をしている。しかもキレイだ。その女の子供。
  • 【解釈6】 「黒い」「目のきれいな」「女の」「子」……女は肌の色が黒い。またキレイな目をしている。その女の子供。

さて、同じような3通りの解釈を「女」ではなく「子」に当てはめることもできます。

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  • 【解釈7】 「黒い目のきれいな」「<女の>子」……ある女には子供がいる。その子は黒くてキレイな目をしている。
  • 【解釈8】 「黒い目の」「きれいな」「<女の>子」……ある女には子供がいる。その子は黒い目をしてる。またキレイな子でもある。
  • 【解釈9】 「黒い」「目のきれいな」「<女の>子」……ある女には子供がいる。その子は肌が黒い。またキレイな目をしている。

さらに、修飾語が「女」と「子」に別々にかかる場合もあります。

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  • 【解釈10】 「黒い目の」「<きれいな女の>子」……その子供は黒い目をしている。また、キレイな女がその子の母親である。
  • 【解釈11】 「黒い」「<目のきれいな女の>子」……その子供は肌が黒い。また、目のキレイな女がその子の母親である。

ふう〜。ここまでで11通りの解釈ができました。
結論からいえば、日本語としてまあ許されるだろうという解釈はここまでの11パターンではないかと思います。

→黒い目のきれいな女の子が18人いる!?(その2)