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2012-05-21

鳥の視点とロジックスケッチ


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あるクリティカル・シンキングの本に「思考の十大誤謬」が載っている。そのうちの1つが「グループ思考」だ。

ライバル関係にあるビール会社A社とB社があるとする。A社の社員が「A社のビールはB社のビールより美味しい」と言う。あるいはB社の社員が「B社のビールはA社のビールより美味しい」と言う。ごく自然な心理だろう。しかしこれといった根拠もないのに、自社のビールの優位性を客観的事実のように主張するとしたら、その社員は「グループ思考」の落とし穴にはまっている。

グループ思考は、こんな仕組みになっている。

自分が属するAグループは正しい。

なぜなら……だからだ。
(根拠を恣意的に提示)

AグループとBグループが対立している場合、以下のようになる。

【Aグループのメンバー】
自分が属するAグループは正しい。
なぜなら○○だからだ。(恣意的な根拠)

【Bグループのメンバー】
自分が属するBグループは正しい。
なぜなら××だからだ。(恣意的な根拠)

どちらのグループのメンバーも、自分が所属するグループが正しいとする結論がまずある。そして、結論を補強するための論拠を後から恣意的にさがしている。
畢竟、両者が用意した根拠は網羅的でなく恣意的なので、議論がかみ合わない。

国や民族その他のグループが対立しているとき、あるいは個人と個人の意見が対立しているとき、それが真に解決すべき問題である場合は、結論を戦わせる前にワンクッションおくのがいいと思う。いわば「急がば回れ」戦術である。

そのワンクッションとは、鳥瞰的な視点だ。

「Aが正しい」「Bが正しい」という結論はひとまず棚上げにしておいて「AとBの主張のどこが違っているか」に注目する。意見の対立の当事者としての視点を離れ、上空飛行を試みること。

この「鳥の目への変換」を、ぼくは「ロジックスケッチ」と呼んでいる。

【ロジックスケッチ的な考え方】

AとBの意見の相違点はどこにあるか。

それら相違点はそれぞれどんな前提に基づいているか。

争いから距離を置き、まずは光景をスケッチすることに徹してみる。最終的にどちらの言い分が正しいのか、どうすべきなのかという結論云々は、このスケッチが終わってからでも遅くない。

「ええもん」vs「わるもん」

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関西育ちのぼくは子供の頃、テレビのキャラクターを「ええもん」と「わるもん」に分けていた。「ええもん」は「良い者=善玉」、「わるもん」は「悪い者=悪玉」である。昔の子供番組はとくに善悪二元論に色分けされていたように思う。(「ガンダム」はそうでないところが新鮮だった)

フィクションだけではない。歴史や社会も同じだ。織田信長が「ええもん」なら今川義元は「わるもん」。アメリカが「ええもん」ならソ連は「わるもん」。そんな二分割が身の回りのどこにでも転がっていた。

週末、テレビの報道番組で強大化する中国の問題がとりあげられていた。世界ウイグル会議や、南シナ海の島をめぐる中国とフィリピンの軋轢、尖閣諸島についてなど。日本人コメンテーターに混じって、中国人の大学教授が孤軍奮闘、中国を擁護していた。

これ自体は珍しくもない光景である。が、見ているうちに、ちょっとした疑問がわいてきた。

【Q】
なぜ日本人は日本を正しいと思い、中国人は中国を正しいと思うのか?

たとえば、ある問題について日本と中国の意見が対立しているとしよう。
この場合、たいていの日本人は日本の立場を正しいと思い、たいていの中国人は中国の立場を正しいと思う。少なくともそんな傾向がある。

これは、実に不思議である。

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A国とB国の意見が対立しているとき、それぞれの国民100人ずつにアンケートをとってみよう。もしも全員がまっさらな気持ちで判断をくだすならば、たとえばこんな結果が予想されるだろう。

  • A国人:A国に賛成50人・B国に賛成50人
  • B国人:A国に賛成50人・B国に賛成50人

しかし現実には、こうはならない。たとえば以下のようになる。

  • A国人:A国に賛成90人・B国に賛成10人
  • B国人:A国に賛成10人・B国に賛成90人

自分が所属するグループに有利な判断を下しやすい思考の傾向を「グループ思考」と呼ぶ。「自国を愛する」以上の意味が付与された愛国心はグループ思考の典型だ。

自国と他国の意見が対立しているとき、次のような思考を行う人が多いのではないだろうか。

自国が正しいことを直観する。

自国の正しさを裏付ける論拠をさがす。

ぼくたちがこういう思考を行っているとき、相手の国民も同様の思考を行っている可能性が高い。

「ええもん」と「わるもん」の二元論は、大人になっても意外に根強いのではないかという気がしている。

→鳥の視点とロジックスケッチ

2012-05-18

アクセントへの注意はいくら強調しても強調しすぎることはない

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デートでイタリアン・レストランにでかけたとします。メニューに大きく「シェフのオススメ きのこパスタ」が載っていました。イラストも食欲をそそります。
ではこれを頼もうかと思ったとき、彼女が叫びました。
「ちょっと待って。ここを見て!」
よく見ると、メニューの下の方にゴミのような小さな文字で注意書きがありました。

※毒キノコが含まれている場合があります。ご注意ください。

「オススメ」の言葉に惑わされて、あやうくとんでもない料理を注文するところでした。毒キノコが含まれていたりしたら、せっかくのデートが台無しです。
2人はオーソドックスなマルゲリータ・ピザを注文することにしました。めでたしめでたし。

そんな経験、あなたにもありませんか? え、ないって? 失礼しました。
さすがに「毒キノコ入りパスタ」は極端だとしても、情報の一部だけが強調されることは日常茶飯事です。

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タバコのポスターがあるとします。(上の絵)
「スッキリ爽快! メンソール」というキャッチフレーズが目に飛び込んできます。だけどよく見ると隅に小さな字で「脳卒中の危険性が高まります」とも書いてあります。

2つの情報を逆にしてみましょう。(下の絵)
「脳卒中の危険が高まります!」というキャッチフレーズが目立っています。隅には小さく「スッキリ爽快!メンソール」と書いてあります。

2つのポスターに書かれている情報はほぼ同じです。でも印象はずいぶん違いますね。どちらのポスターが購買意欲をそそるかは、あえて言うまでもないでしょう。

俳優の石田純一さんがかつてこんな発言をしました。

「文化や芸術といったものが不倫から生まれることもある」

この発言の一部を強調してみます。

文化や芸術といったものが不倫から生まれることもある」

マスコミは結局…

「不倫は文化」

というフレーズで石田さんバッシングを繰り返しました。

文章の一部を強調することで情報が歪んで伝わる。これを「アクセント(強調)の誤謬」といいます。

平坦すぎる世界は物足りない。
だけどデコボコな世界では、転ばないための心構えが必要なのです。

2012-05-16

身に覚えのない借金。立証責任はどちらに?

A:オレが貸した3万円そろそろ返してよ。
B:は? 金借りた覚えなんてないけど。
A:じゃ、おまえがオレに金を借りていないことを証明してよ。

この場合、Bさんは「Aさんから金を借りていないこと」を証明しなければならないでしょうか?

そんなことありませんよね。この場合なら、BさんではなくAさんが「金を貸した」という事実の証明を行う必要があります。
Bさんとしては、身に覚えのない「借金」についてはスルーしておけばいいのです。「借金が存在しないこと」をわざわざ証明する必要はありません。

議論においては、しばしば「どちらに立証責任があるか」が問題となります。

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C:「アポロ11号は月面に着陸しなかったんだよ」
D:「おいおい、なんでそんなことがいえるんだ?」
C:「じゃ、アポロ11号が実際に月面着陸したことを証明してみてよ」

「アポロ11号が月面着陸した」という定説に対して、Aさんが異議を唱えています。この後Bさんが月面着陸の事実を証明しようとするとどうなるでしょう。

D:「1970年の大阪万博では月の石が展示されていたらしいよ」
C:「それはアメリカの砂漠で拾った石かもしれない」
D:「ニール・アームストロング船長のさまざまな証言がある」
C:「嘘をつくのが上手い人かもしれない」
D:「映像だっていろいろ残っている」
C:「ハリウッドの映像技術を駆使すれば十分可能だ」

懐疑的なスタンスをとる相手に対して「事実」を証明することは、思うほど簡単ではないのです。こんなときDさんはどう対処したらいいのでしょう?

一般に、学問的な定説や専門機関の公式見解は多くの証拠の積み重ねのうえに成り立っています。もちろんそれがすべて正しいという保証はありませんが、定説や専門機関の信頼性を尊重することで、大半のものごとは上手く回るようになっています。
この場合の立証責任は「捏造説」を唱えるCさん側にあると考えるべきでしょう。
Cさんが「捏造説」を裏付ける根拠を示せないかぎりは、スルーしておいても大した問題は生じないと思われます。

刑事裁判においては一般に「疑わしきは罰せず」の原則が適用されます。容疑者Eさんが有罪となるためには、検察側が有罪を裏付ける十分な証拠を用意しなければなりません。
つまり、検察側に立証責任(挙証責任)があります。

しかし例外もあります。たとえば公害問題。
ある地域で原因不明の病気が発生し、近くの工場排水が疑わしい場合、十分に証明はできない段階でも有罪を推定し、被害の拡大を防ぐ必要があります。

立証責任がどちらにあるか。これ自体は純粋な論理の問題とはいえません。論理的には、常に、その結論がどんな根拠(前提)から導かれているかが問題になります。
とはいえ現実的・実践的なシーンにおいては、立証責任のありかに注目することで、不毛な議論を回避できることがよくあります。

2012-05-15

「15秒」のアクセントはどこにあるか?

ある人からこんなことを尋ねられた。

「15秒」というときのアクセントについて
「ジュー」を強調して「ジューゴビョー」というのと、「ゴ」を強調して「ジュービョー」というのと、どちらが正しいのか?

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どちらでもいいような気もするが、それでは答えにならない。なぜそういえるのか、根拠が必要である。
普通の単語なら『アクセント辞典』を引けばいい。しかし「15」と「秒」が組合わさった「15秒」については、辞書を引いても正解は分からない。

その場では答えられなくて、ちょっと悔しい思いをしたのだが、ネットで検索するとNHK放送文化研究所のサイトに説明があった。

Q 最近、「15分」「15日」のアクセントが変わってきたようですが。

A そのとおりです。

つづいて、以下のことが解説されていた。

  • 共通語のアクセントではもともと「15分」は「ジューゴフン」、「15日」は「ジューゴニチ」のように、頭にアクセントがあった。
  • ところが最近では「ジューフン」「ジューニチ」のように、助数詞(分や日)の前のところにアクセントが来るようになってきた。
  • それには理由がある。たとえば「11分」から「19分」のアクセントでは「15分」以外はすべて助数詞「分」の前にアクセントがくる。「15分」についても他の仲間のアクセントに引きずられた結果「ジューフン」という言い方が登場したのだろう。
  • ただし、現在のところ、放送では「ジューゴフン」と言ってほしい。

なるほど。だいたいの事情は理解できた。理由については、「ではなぜもともと『15分』だけが頭にアクセントがきているのか」についても知りたいところだけれど。
ちなみに、このNHK放送文化研究所の説明は14年前(1998年)のものだ。

アリストテレスがリストアップした13の誤謬のひとつである「アクセント(強調)の誤謬」については、あらためて。

2012-05-14

あなたの敵はバカだらけ。ステレオタイプは思考停止への最短ルート

国民性や民族性をネタにして笑いを誘うエスニック・ジョークというジャンルがあります。有名な例では…

いろんな国の人が乗った豪華客船が沈没しそうになった。
それぞれの乗客たちを海に飛び込ませるには、どんな言葉をかければいいか。

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  • アメリカ人には、「最初に飛び込めばあなたはヒーローになれる」
  • イタリア人には、「海で美女が泳いでいます」
  • フランス人には、「けっして海に飛び込まないでください!」
  • ドイツ人には、「規則ですので飛び込んでください」
  • イギリス人には、「こういうときにこそ紳士は海に飛びこむものです」
  • ロシア人には、「あっちにウォッカが流れていきました」
  • 中国人には、「おいしい食材が泳いでいますよ」
  • 日本人には、「みなさん飛び込んでいますよ」

このジョークの中では、さまざまな国民性が「ステレオタイプ=型にはまった画一的なイメージ」で表現されています。

この手のジョーク、ぼくはけっこう好きなのです。しかし、笑いではなく本気で「ステレオタイプ」を信じるようになると、言い換えれば、あるグループに属する人々をあまりにも単純化・画一化したイメージで扱うようになると、厄介な事態を招くことになります。(本当は順序が逆で、本気で信じる人がいて厄介な事態を招くことがしばしばあるから、ジョークのネタになるわけですが)

「女は感情的だ」「男は鈍感だ」「ゲイは軟弱だ」「レズビアンは男性を敵視している」…信頼できる証拠もなしに決めつけが行われると、その人の持つ個性や、その時々のデリケートな状況が無視されることになります。

「嫌煙家はヒステリック」「喫煙者は暴力的」「郵政民営化に反対する者は国民の敵」「憲法改正論者は好戦的」「護憲論者は平和ボケ」……議論の相手をステレオタイプに押し込めれば、「根拠から筋道立てて結論を導く」という議論の論理性が無視されることになります。

武力や実力行使をともなう敵対的関係になれば、さらにステレオタイプが威力を発揮します。アメリカ大陸に入植した白人は、大陸の原住民を人格を西洋人よりも下位に属する存在とみなすことで、搾取を正当化しました。ナチスはユダヤ人を劣等民族だと決めつけ虐殺しました。日本の歴史でも、さがせばいろんな例が見つかりそうですね。

敵をステレオタイプ化することで、その敵は攻撃を受けて当然の存在だとみなされることになります。ステレオタイプ化をおこなうことで、良心の呵責から免れることができるようになります。
ステレオタイプの多用は思考放棄・思考停止への最短ルートでもあるのです。

イスラエルとパレスチナが、あるいは日本人と中国人と韓国人がお互いをどうステレオタイプ化しているか、などなど、コトバの面から観察すると、「なぜ議論が成り立たないか」についてのポイントが見えてくるかもしれませんね。