ファスベンダー力(りょく)全開『SHAME-シェイム-』

マイケル・ファスベンダーキャリー・マリガン主演の『SHAME−シェイム−』を観ましたよ。
ブランドンは仕事のできる男ではあるがセックスを生業とする女を買い、家でも職場でもネットで動画を観たり*1している。アダルト雑誌も購入し家にはたくさん置いてあるし、家のみならず職場のトイレでもマスターベーションをしてしまうほど…そんな彼のもとに突如妹シシーが押し掛けてきたことを契機に、危うく保たれていたブランドンの精神的なバランスが揺さぶられ始める…
事前情報どおりの長回しの多用で、これは役者へのプレッシャーは相当なものだったろうし、今作は役者の力量がなければ映画としての体裁を保つこともできなかったろうと思う。その点では役者の演技である一定のレベルに到達しているな、と思いました。そして最近自分のなかで楔映画って名付けたらちょうどいいかも、と思っている映画分類があって、今作はその典型だな、と感じました。自分が勝手に名づけた楔映画とは…観てたら楔を自分の中にいくつか打ち込まれるような感じ、でもそのインパクトがなんだかよくわからない。楔がめり込んで、時間が経つにつれ段々と亀裂が大きくなっていき、亀裂同士が交わったり影響しあったりして段々と全体の印象がぼんやり現れてくるような気がする…そんな映画。観て時間が経つほどに残像がしぶとく残り続けてもやもや思わせられるようなね。
はっきりとは語られないけれど、ブランドンと妹のシシーに近親相姦的な過去があったようなニュアンスが漂わせられている。その過去はこの二人に消えない傷(?)を遺してるのは間違いなく、そういう意味でも二人は相反するキャラのように描かれながらもとても似ている。過去の傷により穿たれたところを埋める術を見いだせず、刹那的に応急処置的にその場しのぎに、性的に得られる感覚を味わうことで自分の肉体が確かにここに存在していることを確認している。そういう意味でやっぱり手ごたえのあるやわらかく心地よい体温を持ち、それによって自分に快楽を味わわせてくれる“身体”に依存していると思う*2
心を通じ合わせようという“ふつうの”恋愛みたようなことをしようとしても、ムリであるとつくづく理解してしまったブランドンの絶望とその後の自棄な彷徨はすごくてね。これを中途半端にやられるとダメだけど、かなりのコトをやって相当ダメ男なのに、ブランドンはどこまでいっても“汚くない”のですよね(これ重要だと思う)。どんな汚らわしそうな、シャレにならないようなことをやっていても、哀愁とか孤独とかをまとったブランドンのありようはピュアで傷つきやすい魂を感じさせるのですな。上司には「お前のハードディスクはけがらわしい」と言われたけど、ブランドン自身はめずらしいほどピュアで感受性がガラスすぎるような…。やっぱりこれはどこか寓話のような感じ。女性が観るほうが惹かれそうだ。
絶望的な彼の傷ついた魂はいつか救われるのか。それは示されないけれど、同じように傷ついた魂を持つ妹の存在の生還によって、どこかで希望の光がさしているように感じました。キャスティングを間違うと、それはもう目も当てられないナルシシズムムービーになっただろう今作がギリギリのところで緊張感をたたえた映画になったのは、やっぱりファスベンダー力(りょく)が相当デカイな、と思ったですね。いい役者やぁ…。あ、キャリー・マリガンもよかったヨ。  
『SHAME-シェイム-』(2011/イギリス)監督:スティーブ・マックイーン 出演:マイケル・ファスベンダーキャリー・マリガン、ジェームズ・バッジ・デール
http://shame.gaga.ne.jp/
http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD20641/index.html

*1:職場でのエロ動画視聴及びHDへの保存は迂闊すぎると思う

*2:Theピーズの歌みたいだ。お肉さえ整えばそれでいい、っていう感じ