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吉林野日記

2017-10-12

レーニンによる追放そして哲学汽船

15:09

 1918年11月、レーニンは、富農を打倒し、貧農と連帯することをといた。「農村では、われわれの任務は地主を絶滅し、搾取者と投機的な富農の反抗を打ちくだくことである。このためにわれわれがしっかりとたよることができるのは、ただ半プロレタリア、『貧農』だけである。だが、中農はわれわれの敵ではない。彼らは動揺していたし、いまも動揺しているし、こんごも動揺するであろう。動揺する人々に働きかけるという任務は、搾取者の打倒、積極的な敵にたいする勝利という任務とは同一ではない。中農との協定を達成すること――富農との闘争を一瞬たりとも放棄せず、貧農だけにしっかりと依拠しながら――、これが当面の任務である。」(「ピチリム・ソローキンの貴重な告白」『全集』第28巻197頁)。


 『一九二二年レーニンは多数の人文系学者をソヴィエト・ロシアから追放することを承認した。大勢の傑出した哲学者の一団がペトログラードやモスクワから、汽船(「哲学船」)で送り出された。ペトログラードからは経済学者や歴史家が西側諸国へ向かった。法律家、文学者、協同組合活動家、農学者、医者、財政学者も追放された。これはきわめて大規模な措置であり、モスクワやペトログラードだけでなく、キエフ、カザン、カルーガ、ノヴゴロド、オデッサ、トヴェーリ、ハリコフ、ヤルタ、サラトフ、ゴメリにまで及んだ。ゲー・ペー・ウーの文書ではこの措置は「作戦」というコード名で呼ばれ、その実施指導のために、L・カーメネフを議長とするロシア共産党中央委員会政治局特別委員会が設置された。委員会にはその他ジェルジンスキーの代理ヨシフ・ウンシリフトとゲー・ペー・ウー秘密工作部部長I・レシェトフが加わった。同委員会メンバーとゲー・ペー・ウーの地方機関に対するF・ジェルジンスキーの「指令」メモの一つにはこう書かれていた。

1917年のロシア革命-ロイ-メドヴェージェフ 現代思潮社 (1998