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よたよたあひる’S 「はてな」日記 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2012-11-15

心不全と震災後の疫学研究について調べたこと

森光子さんが「肺炎による心不全」でご逝去なさったというニュースがありました。ご冥福をお祈り申し上げます。

もう11月も半ば、都下の我が家でも夜は暖房を使い始めました。さらに北の地方ではもっと寒いことでしょう。寒さが厳しくなってくれば、心疾患を持つ方への負担感染症も増えてくるでしょうし、ご年配の方、持病を持っておられる方、みなさまどうぞお大事になさってください。

 以前だったら「ここで終わり」なのですが、東日本大震災福島第一原発事故の後のこの1年8か月というもの、「放射線被ばくと心疾患」との関係が注目されてきましたから、例えば、この先「『心不全』による死亡が続けて報道される」ことがあれば、「低線量被曝健康被害・・?」という心配も増えてくるのではないかと考えました。

 実際、つい最近も東北大学循環器内科の下川宏明先生他の

 「The Great East Japan Earthquake Disaster and cardiovascular diseases」Tatsuo Aoki, Yoshihiro Fukumoto, Satoshi Yasuda, Yasuhiko Sakata, Kenta Ito, Jun Takahashi, Satoshi Miyata, Ichiro Tsuji, and Hiroaki Shimokawa【European Heart Journal Advance Access published August 28, 2012】

URL→http://www.medpagetoday.com/upload/2012/8/28/Eur%20Heart%20J-2012-Aoki-eurheartj-ehs288.pdf*1

「東日本大震災と心疾患」についてのご研究を紹介している日経メディカルの記事をめぐって、ツイッター上で議論があったのをきっかけに、いろいろと調べてみました。上に紹介されている論文も読んでみました。*2

 きっかけになった日経メディカルの記事は2012年3月20日の記事http://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/all/gakkai/jcs2012/201203/524102.html

 この記事のリード部分、「特に心不全の増加は、過去の大震災疫学調査では報告例がなく、東日本大震災の特徴の1つであることも浮かび上がった。」をめぐってのやりとりがあったのでした。また、この日経メディカルの記事をめぐって「被曝」との関係を危惧しているブログやツイッターをいくつか見つけました。 

 調べてみて、私なりに「わかったこと」は以下の3点です。調べた資料集はまた別記事でUPしようと思っています。

(1)「心不全」という「医学用語」の意味

 これが混乱の原因の一つでした。「心不全」という言葉そのものは「心臓機能が低下した状態」で、例えば「死因」としては「心臓が止まった状態」ということになるので、死亡診断書に「心不全」とだけ書くことは推奨されないそうです。例えば、森光子さんの訃報が「肺炎による心不全」となっているのは、「最終的に心臓がとまってお亡くなりになったが、その原因となった病気は肺炎」という意味。

 心筋梗塞や重症不整脈など、すべての心臓病の末期の状態は「心不全」になるので、「心不全が増えた話があるかどうか」の応答に「心筋梗塞が増えたという報告はある」という話がでてきて話が混乱した、という面があります。

 でも、一方で「病名」として取り扱われている「心不全」もある。「心不全患者」とかそういう表現だとこちらは「心不全の状態が持続している慢性心不全」のことのようです。本格的な高齢社会の到来、生活習慣の欧米化とメタボリックシンドローム*3、心筋梗塞などの治療進歩して命をとりとめた方が増えていること、など複数の原因で「慢性心不全患者」と「その予備軍」が増えてきているのだそうです。この大きな流れは震災前からだそうです。

(2)これまでの「大災害後の疫学調査」で広域でかつ震災前後の中長期にわたる「心不全発生数の変化」を調べた調査は無かったということ

 前掲の論文「The Great East Japan Earthquake Disaster and cardiovascular diseases」の冒頭、Introductionに、過去の大震災の概要とそれぞれの震災で増加した心疾患の研究結果の比較が表にまとめられています。2ページ目の「Table1」です。

 この表だけを見ていると、「東日本大震災以前の震災では『心不全の増加』はなかった」という誤解をする場合があります。

 でも、実際の内容は、「個別の心疾患の増加についての研究はあったが心疾患全体について、震災前後での発症率の変化を広域でかつ中長期をターゲットにして調査実施し、実証した研究はなかった」ということだと読めました。

 論文の参考文献References(8ページ)の4〜9までを検索で探してみました。また、日本語の関係文献も検索で探してみました。阪神淡路大震災の調査で広域のものは4の文献で、「1994年1月〜96年の12月まで16の自治体の「死亡診断書」で調査をし、急性心筋梗塞による死亡率の変化を調査した」とありましたし、他の研究で概要まで読めたものは個別の病院や限られた地域での救急搬送や入院患者の調査で、対象を「急性冠症候群(急性心筋梗塞、不安定性狭心症等)」「脳卒中」「たこつぼ心筋症」などの疾患を調査していたりします。中越地震の時の新潟大学の研究で「厚労省の死亡率統計」で広域を調査したものも見つけましたが、規模、期間、方法が違うので先行研究との比較で「東日本大震災後にのみ『心不全の増加』が見られた」ということが書かれているのではないのがわかりました。

 「死亡診断書」の「死因」の調査や「死亡率統計」では、「慢性心不全」の発生状況の変化を調べることはできないと思います。理由は(1)で書いたように、死亡診断書や統計での「心不全」の位置づけに加え、命をとりとめた方々、合併症としての「慢性心不全」を発症した方々の数が反映できないからです。

(3)それでも東日本大震災後に「心不全の増加」が顕著であった、という事実はある。ただし、「低線量被曝」と関連づける前に、震災そのものの被災状況と東北地方の地域特性を考える必要がある、ということ。

 東北大学の循環器内科のサイトには、広報誌「HEART」が掲載されています。

 http://www.cardio.med.tohoku.ac.jp/class/heart/index.html

 この「HEART」21号(2011年4月8日)に、震災後まだ余震も続き復旧もままならない中で書かれている下川先生の文章である「東日本大震災からの復興」が掲載されています。震災後の東北大学病院の状況やこの研究を開始することについての文章で、研究開始にあたって、下川先生他東北大学の循環器内科のチームのみなさんがどのような考え方をしていたのかがよくわかりますので、以下、一部引用でご紹介します。

 循環器疾患に関しては、やはり、心血管病とストレスとの深い関連を実感しております。

 今回の大震災で最も増加した心疾患が心不全でした。しかも、その原因が経過とともに変化していきました。大震災発生当初は、油の混じった海水を誤嚥したことによる肺炎やそれに続発する心不全、薬剤(特に降圧薬)が不足したことによる高血圧性心不全が認められました。亜急性期には、劣悪な避難所の環境塩分の多い保存食の摂り過ぎによる心不全が増え、慢性期の現在は、精神的ストレスを背景にしたストレスが認められています。次に増加した疾患が肺塞栓症で、これはある程度予想されていました。予想外だったのは、感染性心内膜炎の増加でした。口腔内の清潔が保たれなかったことが原因と思われます。急性冠症候群が少ないことも予想外でした。これらの当科の取り組みは、NHK テレビで全国に紹介されました。

 また、今回の大震災で行われた災害救急活動を詳細に記録し、後世に残すことは我々の務めであると思います。我々は、宮城県医師会との共同研究として、宮城県下で実施された災害救急活動の詳細を調査研究することにしました。大変有難いことに、県下12 の広域消防本部全てから協力の回答が得られ、既に、基礎データの調査を開始しました。

 

 この文章以外にも、この「HEART」21号には、「震災ストレスと心血管病」「東日本大震災における東北大学病院および当科の対応」など、震災と心疾患との関係を考えていくうえで参考になる文章が掲載されているので、ごらんいただくとよいと思います。

 また、21号以降の「HEART」には研究の取組についての経過報告が掲載されています。 



 

 

 

*1PDFなのでリンクははずしました。

*2英語力に難ありの私は、ネット機械翻訳にお世話になりながら、機械翻訳と英文を読み比べ、英単語辞書で確認、専門用語らしいものは検索して確認、という作業をしました。機械翻訳でも専門用語の部分を除くと文法的にはそんなに変な日本語になってないのである程度わかります。英語が苦手でも興味のある方にはお勧めします。

*3蛇足ですが、これ他人事じゃないわ〜〜!

2011-09-12

「低線量被曝の健康被害」を語ることのむずかしさ

 「低線量被曝による健康被害の心配」と「被曝の心配をすることからくるストレス由来の健康被害」について考え、前のエントリを書きながら難しいなぁと感じることがいくつかありました。

(1)情報開示と対策が遅れたために、特に、汚染の強い地域では、放射性物質漏出の初期段階の空間放射線量が高い時期に、個々人がどれくらいの被曝をしたのかが十分わからないこと。*1

(2)被害の程度に差があるものの、放射性物質に汚染された範囲はがとても広く、さらに食品流通が広域化しているので内部被曝の危険の心配を含めると「低線量被曝」について心配している人は日本全国にいる、と言っていいくらいの状況であること。

(3)一言で「低線量被曝」といっても、とても大きな幅があるということ。もともとの自然放射線量にプラスしての1年間に1mSVも20mSvもどちらも「持続的な低線量被曝」という言葉表現できるということ。

(4)「低線量被曝の健康への影響」は個人差も大きく、とくに大人と子どもとで危険性が異なるということ。

(5)「低線量被曝」による健康への影響は、よくわかっていないことも多く、シーベルトベクレルの数値を見ても、自分の行動決定の判断が難しいこと。

 なので、「低線量被曝による健康被害」を心配する場合、その心配している人が、どこにいてどんな家族構成でどのような生活状況だったのかによって、実は相当異なる問題を語っているという状況があるのだと思います。

 

 私の住んでいる都内多摩地域だと、9月現在時点では地表1mの空間放射線値は0.05μSv/hから0.14μSv/hくらい、新宿の都立健康安全研究センターの地表1m測定はほぼ毎日0.07μSv/h、23区東部でも0.1〜0.2μSv/hくらいです。それでも、子どもへの累積被曝や飲食物からの内部被曝を心配して引っ越し考える人もおられますし、移住を勧める人もネット上で見ることがあります。

 確かに放射性セシウムを含む雨は降ったわけで、その汚染は今も残っているはずです。でも、今の都内であれば…全体をこまめに見ているわけではないので、多摩地域の真ん中あたり限定でもいいんですが…転職や子どもの転校を含むような転居に伴うリスクの方が「持続する低線量被曝」よりも大きいだろうと考えますが、それは私の家族が子どもももう高校生でそれなりに身体ができてしまっているという安心感があることや、今の家がローン終了間近の持ち家だということ、仕事通勤の問題など、我が家の条件のもとで考えているわけですから、たとえご近所であっても、妊娠中の女性乳幼児のいるご家庭とは感覚も異なるはずです。

 そして、たとえば福島県でも会津若松市あたりだったら、この多摩地域の空間放射線量と比べてそう高いわけではありません。いわき市にも同等かそれ以下の空間放射線量の場所があります。同じ市内でも計測値は場所によって大きく違います。一方で、中通の各市になるともっと状況は厳しく、数値だけみると5倍から20倍くらいの放射線値が計測されていますし、特に3月中の被曝量が高いわけですから、「低線量被曝の健康への影響」という同じ言葉で表現していても、その切実度はまったく違います。同列に語ることはできません。

 それを踏まえたうえで、私はやはり「持続する低線量被曝由来」でも「ストレス由来」でも、結局のところ、体調不良へ対処方法は変わらないとし、ストレス軽減策はどこの場所であっても健康被害を軽減する方策として有効だと考えます。

 前のエントリでも書きましたけれど、何かしらの症状があって、その原因が感染症やその他の重篤な疾患ではなく、はっきりした原因が分からない状態であるなら、とりあえずはその症状にあった対症療法を受けながら様子をみていくしかないでしょう。居住地や生活状況から被曝量が心配される場合であっても、「低線量被曝」由来の健康被害に特別に対応できる治療法などないので、症状がよくなってからも定期的に健康診断・チェックをすることくらいしかできませんし、移住や家族の別居など、重大な決断を検討するならなおのこと、まずは心身の疲労困憊状態から回復している必要があります。

 ストレス由来の体調不良の場合でも、体調を崩し、心身ともに弱っているときに「心のケア」だけがあっても、効果が皆無とはいえませんけれども、充分な回復にはつながりません。一時的な転地療養でリフレッシュすることももちろん重要だし(これは被曝からの回復にも役立つはずです)、ある程度回復できたら、次はこれからをおびやかす「低線量被曝」対策を行う必要があることには変わりません。

 ただ、ストレス軽減といっても、それはまず身体的不調そのものを手当てして、ゆったり心身ともに休養できる環境整備を行うことや、事態の打開や改善のために何か自分が取り組むことがあり「無力ではない」という実感を得ること、困難な事態を共有していく仲間や支援者がいることも重要で、いわゆる狭義の精神科的治療や心理療法のみが有効だとは考えません。経済的な生活基盤が確保できることは、生活上のストレス軽減の基本中の基本だとも考えます。「食べて応援」もその一環ではあります。自分の家庭状況をかんがみて、測定の検査結果が納得できたら食べたらいいのだと思いますし、納得できずに不安が強いならば食べなくていいのです。ただし、安全安心の確保にはコストや手間がかかるということを受け入れる必要があるとは思いますが。

 放射性物質汚染の被害、環境からの低線量被曝や飲食物からの内部被曝、そして日々の生活の中で被曝を心配し続けなくてはならないストレスという問題については、深刻度の差こそあれ、東北・関東地方だけでなく、日本全国が当事者になってしまいました。それぞれがわが身、わが家族を守りたいのは当たり前のことですが、より大きな被害を受けている人たちへ、八つ当たり呪詛を投げつけ、困難に立ち向かう力を奪うことだけはやめたいと思います。そのためには、まず首都圏あたりに住んでいる私たちが自らのストレスフルな状態を認めてもいいのじゃないかと考えるのです。

  

*1:福島県東部でさえ、測定されて記録が残っている空間放射線値とかなり後になって行われた内部被曝検査をもとにした推計しかできないのですから。

2011-09-11

低線量被曝でもストレスでも・・・

科学はかならず被害者の力になる - 地下生活者の手遊び

被害が継続中の場合、PTSDという診断名は使わない - キリンが逆立ちしたピアス

とあるエントリを読んで職業的な権威付けについて考えた - akira’s room 別館

 ↑の3つのエントリを読んで、これまでずっと気になっていたことを書いてみたくなった。

 強烈なストレスも持続的なストレスも健康被害の原因となるし、その被害の形は精神疾患とは限らない。身体だって病気になる。これだけは声を大にして言いたい。*1

 地下猫氏が引用している「大阪の精神科医」さんの文章はPTSDという診断がどういうものかという意味では正しい情報で、強烈なストレスをもたらすできごとが何もない状態であるにもかかわらず「ただの心配しすぎ」ではPTSDにはならないというのは正しい。でも、津波被災地だけでなく首都圏を含む東北・関東全域では、3月11日の震災そのものから受けたショック(大平洋沿岸の津波被害や千葉市のコスモ石油火災幕張などの液状化ややライフラインの寸断などもある)や計画停電物流寸断の物不足・買占め、毎日ある余震、そして水道水放射能汚染問題など、強い恐怖を感じるできごとは確かにあったわけで、何もないところで「ただの心配しすぎ」をしていた人はいなかったとも思う。ストレスフルな事態は続いていたからPTSDの診断を下すような時期ではなかったとしても、ストレス性の身体不調が起こるには十分な状況はあったのではないかとも思うのだ。*2

 低線量被曝を軽視するつもりは毛頭ない。

 でも、ストレスに由来する健康被害だって場合によっては命にかかわるものになる。緊張状態が続くことで、身体には確実に負荷がかかる。感染症にかかりやすくなったり、胃酸過多で胃や十二指腸を壊したり、血圧が上がったりする。もともと基礎疾患を抱えている場合や高齢者乳幼児だったら、リスクはより大きくなる。

 精神的ストレスから由来する身体症状は、決して「気のせい」というわけではない。詐病でもない。身体の内部では症状がでてしかるべき変化が起きているわけで、その変化は単純に「気にしなければ」治るというような簡単なものではないこともある。変調がまだ軽いうちならば負荷をとってしっかり休養すれば回復できるけれど、例えば「血圧が高くなった結果、脳出血を起こした」「胃潰瘍になって胃に穴が開いた」くらいまで変調がでてくれば、それは精神科医療の範疇であるはずがない。あるはずがない、は言いすぎだろうか。一般化の治療以外に精神科ケアも必要な場合はあるだろうし、精神科医療だけで治療可能な範囲では到底ないというところか。

 

 「鼻血」「下痢腸炎)」「胃痛胃炎)」「倦怠感」「めまい」「脱毛」「頻尿」「微熱」「不整脈」「血圧の上昇」「月経異常」「アトピー性皮膚炎の悪化」などはストレス過多の状況でも起こりうる。持続的な低線量被曝の影響かどうかはわからない。調査のしようがないだろうとも思う。ただ、ともかく医療機関受診すれば、その時の症状が重症か軽傷か、対症療法で短期のうちに回復するか継続的な受診や経過観察が必要かどうかはある程度までわかるはずで、受診して何かしらの投薬や生活上の助言で症状が改善するならそれに越したことはない。対症療法だったらストレス由来だろうと低線量被曝だろうと治療方針にそう違いはでないのではないか。低線量被曝由来だから、といって特異な治療方法があるわけではないだろう。

 何かしらの症状があるのであれば、重要なのはどうしたらその症状が改善できるのか、ということであって、「低線量被曝」なのか「原発事故由来のストレスからくる体調不良」なのかの判別ではないのだと思う。どちらにしても事故が無ければ生活の中になかった問題なのだから。

 

 Cs134やCs137などの放射性物質による汚染で、空間放射線量が高いままの地域についても、その地の人々に「避難=移住」か「除染や遮蔽による生活環境改善か」の二者択一を強いることもおかしい。font-daさんの言う「当事者呪いをかけるな」には同意できるのだけど、ネットでときどき見かける「福島県は人がすむところではない」「福島からは人を避難させて物は出すな」などの暴論は論外。*3

 行政区画と汚染状況は合致しないし、福島県全域を「汚染地域」として忌避するのであれば、1200万人以上の都民を抱える東京都をはじめとして首都圏がすっぽり汚染地域になる。日本の人口の2割から3割以上を移住の対象と考えるのは現実的ではない。それだけ危険なんだとそんなふうに見ている人も今はいるのだろうとは思うけれど、空間放射線量だけで評価するなら西日本はもともとバックグラウンドが高いので、大阪と東京とで外部被曝は実はあまり変わらないし(大阪の方が高い地域もあるよね)。

 けれども、ここ数年はある程度の除染をしてもなお居住が厳しい地域は現に存在する。強制的な避難の対象地区ではない地域であっても、子ども育てるのが厳しいくらい空間放射線量が高いままの地域は確実にある。

 現実の空間放射線量が高い地域はもちろん、被曝そのものによる健康被害の他に「被曝で健康を害するかもしれない」特に「子どもに健康被害がでるかもしれない」ことから受ける健康被害だって軽視することはできない。権利としての避難は保障されなければならないと思う。ただ、それが完全な「移住」なのかどうかはまた別の問題で、遠方に移住せずとももとの居住地から近い場所への引っ越しで済む場合もあるかもしれないし、除染と住まいの補修…屋外からの放射線を遮蔽するなんらかの手段を組み入れた補修…が有効な場合もあるかもしれない。また、Cs134の半減期は2年なのだから、数年間の避難生活のあと、我が家に戻って生活再建するという手段もあるかもしれない。選ぶことのできるメニューは多い方がいい。同じ家族の中でもお年寄りはもともとの居住地から離れない方がリスクが低くて子育て世代は離れることが必要な場合だってあるし、遠方への避難ではなくて行き来が可能な範囲の転居が望ましいことだってあるだろう。

 どちらにしても、汚染状況の実測値とわかっている範囲の健康被害のリスクを最大限に情報公開することと、移住の場合は居住地と生計維持の手段、一時避難(数年間であっても一時避難は一時避難だ)の場合はそれに加えて戻った時の生活再建の手段も支援する必要がある、なんてことは東京都の三宅島全島避難の経験からも学ぶべきことではないかと考える。


 追記

 ベラルーシは自殺率の高い国だ。もちろん原発事故そのものの影響がどこまで今の自殺率に反映しているのかはわからない。でも、汚染された土壌の中で暮らすことによる健康被害も、そこからくるストレスも、また、移住によって故郷を失ったことによるストレスも、さらには汚染地域への差別なども含めて、自殺率が高くなっている可能性はあるような気がする。

 被曝による健康被害そのものへの注目が、放射性物質によって汚染された地域の一部を忌避することにつながってはいないか、「避難の勧め」という善意の奥に「私が怖いものを避けておきたい」という気持ちを潜ませていないか、「その土地」と「その土地に住む人々」を切り捨てることにつながっていないかを私自身がまず気をつけていきたいと思う。

*1:むしろ身体症状化という形で先に「身体が助けに来る」ことで休養がとれて精神疾患を防いでいる場合もあるのだと思う。「身体が助けに来る」というのは、中井久夫先生が『分裂病の回復と養生』(星和書店)に書いておられる、私がとても好きな言葉

*2:親がピリピリしているときには子どもにはなにかしらの反応…身体症状化は出やすいとも思う。これは私の経験だけど。放射線量が低い場所に避難旅行なども含む)して身体症状がおさまったとしても、それが「被曝の影響を低減できたから」なのか「ストレスフルな状態から解放されたから」なのかはわからないだろう。でもどっちにしても回復できることが重要。

*3:font-daさんはそういう暴論についても批判しています。念のために書いておきます。

2011-08-30

「ぼくからみると」

福島第一原発事故以来、改めて著書が読み返されている高木仁三郎先生の著作の中に、素敵な絵本があるのをご存じですか?

「ぼくからみると―どきどきしぜん(かがくのとも傑作選)」

 夏休みの昼下がりのひとこま、ひょうたん池のまわりにいる子どもたちと池や野原や空の上のさまざまな生き物たち。田舎育ちのオバサンには自分の子ども時代と重なってくるとても懐かしい風景ですが、その風景が、子どもたち、生き物たちのそれぞれの視点からの風景として描かれていきます。

 ある場所のあるひととき…時間にしたら10分間より短いでしょう…の風景が、その中で生きているさまざまな生き物(人間の子どもを含む)からの「見えた世界」「体験した世界」として切り取られ、テンポよく次々と描かれていきます。その多様な「見えた世界の断片」が、意識していてもしていなくても、かかわりあい折り重なって、一つの世界がなりたっているんですよね。そして、人も魚も虫も小動物も猛禽もそれぞれが生きている。

 

 はてなダイアリにこの絵本を紹介しているブログもありましたのでご紹介します。

柳から日のくれかゝる野路かな - 栗カメの散歩漫歩

 煮詰まった時、この「なつやすみのひととき」、青い空と緑濃い里山の風景を思い出すとちょっとホッとして、気分を変えてまたがんばろうかな、と思ったりします。

 残念ながらアマゾンでも新本はなく、中古品で5500円が1点でているだけだったのですが、たぶん、図書館の絵本コーナーならおいているのではないかと思います。




 「反原発」でも「脱原発」でも「原発容認」でも、放射能がとても怖い人も、そうでない人も、ニセ科学批判の人も、ニセ科学批判批判の人も、いろいろな人に読んで感じて欲しいです。議論がエキサイトして泥沼化してしまったときにもお勧め。

 

2011-08-24

「正しく怖がる」という言葉は好き


 福島第一原発事故放射線放射性物質放射能への対応についての「正しく怖がる」という言葉は評判が悪いらしいけれど、私はかなり気に入っている。「正しく」と「怖がる」の組み合わせが好きだ。どういうところが気に入っているのかと考えてみたのだけど、たぶん、怖いから一生懸命知ろうとする、学んだものを恐る恐る実際の生活に取り入れていく、という感じがするのがいいんだと思う。*1

 あちこちのブログやらブクマやらツィッターなんかを読んでいて、「正しく怖がる」という表現の評判が悪いのは、この言葉の中に、「無知だから過剰に怖がっているだけで、本当は怖くなんかない」とか「怖がる人は間違っている」という意味をこめて、「だから怖がるな」というメッセージを押しつけられていると感じる人がいるということなのかもしれない…と考えるようになった。「安全厨」とか「安全デマ」という言い方もあるし。

 

 でも、「正しく怖がる」は「怖がらない」ことではないし、「本当は安全だから怖がってはいけない」ということでもない。事態を把握するための知識があれば、より正確に何が怖いかがわかるということでしょう。知識が増えれば、オバケのようなわけのわからないものを怖がるのではなくて、実際に「危険」を怖がることができる。ただし、知識が増えると、「知らなかったから怖くなかったこと」が「怖いことだとわかる」ということもあるけどね。

 でも、「正しく怖がる」という言葉を「正確な知識を持って冷静に対処する」という言葉に置き換えるのはまたちょっと違う感じがする。

 「正しい知識を持って冷静に対処する」という言葉だと、頭の中に浮かぶのは、「名探偵コナン」で、事件の推理が完成したときに一瞬のドヤ顔のあと推理ショーの準備を始めるコナン君だったりするので。いやそんなに冷静に行動できるのだったら苦労はないよな、と思ったりする。私には、3月11日以降に、昔の学生時代の知識を掘り出してみたり、付け焼刃で勉強してみたりした知識しかないわけで、日常生活は「冷静に」というのとはほど遠い。「冷静になりたい」とは思っているけど、実際には「冷静にならなくては」と自分に言い聞かせているというか、無理やり「冷静」な自分を演出しているというか、やせ我慢というか、無理しているというか。

 パニックになるのはそれだけで危険なことだから。

 怖いから必死で調べる、いろいろ難しくてわからないけどわかろうとじたばたと努力する。あちこち調べて、実測値がわかったり理屈は少しわかった気がしたりするけど、生煮えだからうまく使えなかったり間違ったり失敗したりする。生煮えなのがわかっているから余計に臆病になることだってある。ビクビクしながら、それでもなんとか生活していくために試行錯誤していくしかないのが今の状態なので、「怖がっている」のは間違いないけど、私の理解や日々の対策が客観的に「正しい」かと問われれば、自分なりに納得しているだけだとしか言いようがない。

 

 3月11日以降、次々に新しい情報がでてくるし、状況は日々変わってきている。

 いろいろなデータや考え方の参考になるものを調べて比べたりして、訂正できるものは訂正しようとしてはいるのだけど、自分の思考パターンはやっぱりある程度固まっているものがあるし、はっきりした自覚がないまま「決めつけ」ていたりすることもきっとあるはず。せめてそういう自分に自覚的になって、なるべく頭を柔軟に、新しい事態を受け入れられるようにしようと意識している。

 「正しく怖がる」って言葉に、そういう自分のジタバタを重ねてみるから、この言葉が好きなんだと思う。


 

*1蛇足だけど、この場合、「一所懸命」より「一生懸命」のほうが私の感覚には合っている