今夜は恋人気分って

一年前に書いた長い文章再登場.
友達の結婚式の後,確か10分ぐらいで書いたんだよなあ.
なんか今夜は恋人気分っていう夜中の番組を見て思い出した.
あー眠くない.このままおき続けるのか. そうか酒か.


私は,ちょっと前に友人の結婚式に出席した.そのときの回想である.

結婚式の途中でふと考えた。

結婚式に参加することは楽しい。 なんだかんだいっても、その式に出席している人はみな楽しそうでだ。もちろん本人たちが楽しそうにしている姿を素直にみると、こちらも幸せになるではないか。 もちろん、すべての式がそうではないのであろうが。

ただ、気になったことがある。 結婚式で式を挙げる本人たちがよく言う言葉である「私たちらしい結婚式」のことだ。 そもそも人間が生きている以上、他人とは違うのだから、ほっておいても自分らしくなるものである。しかし,不思議なものである。結婚式というイベントは、ことらさ自分らしさを強調すべきイベントのようだ。 だが,そのような二人の意思とは異なり、結婚式で一般的にすべきことをすべて行うと、自分らしさを主張できるポイントなんてほとんどない。 大きなホテルでやったらなおさらである。 ほとんどは、選択に答えていくと結婚式が一つ出来上がる。

ざっとこんな感じである。

音楽とともに新郎新婦入場。 最近ならCeline Dionが基本か。

新婦が最初の挨拶するときもある。例えば、「私たちらしい結婚式で皆様をおもてなしします。是非楽しんでください」 、この挨拶からして、すでに普通である。 こうしてはじまった結婚式が、ものすごく普通であることは驚くにあたらない。

来賓挨拶では新婦は全般的にほめられる。 いじられる場合は、たいがい天然ボケであるという点である。新郎は仕事でほめられるが、一方私生活では、ほどよくいじられる。

来賓中平均一人必ず人生の先輩として何か言うが、たいしたことは言わない。ほんとに言うべきことは、ここでは決して言えないのである。しょうがなく過去の西洋人のそれなりの言葉が脈略なく引用される。

ケーキ入刀ではカメラを持っている人はみんな強制的に前に呼ばれる。

友人のスピーチは基本的にエピソードx3ぐらいで構成される。 なぜだろうか、男性は客に語り、女性は新郎新婦に語りかける。
音楽やっている友人がいると、その芸が披露される。大概、普通にうまい。 けんだまをやっている友人はここでは決して芸を披露できない。
ときどき家族に浪曲とかやっている人がいると、それを披露する場所にもなる。 浪曲をやっている人は、おおよそ人生の終焉を迎えている人たちである。それに対する新郎新婦の最後のレスペクトなのか。

過去の写真紹介では、二人そろってかわいい赤ちゃん写真からはじまる。 高校時代は学園祭、大学時代はサークルの集合写真が基本。大概式に出ている人がそこに写っているため、写真がめくられると、新郎新婦の過ごした時代順に分類されているテーブル単位で盛り上がる。

二人出会ってからの写真はディズニーランドと大自然と夜景がバックで普通は構成される(※ 東京在住の場合)。大概ディズニーランドは最初のほうのデート、大自然はすでにそれなりの仲、そして夜景はもうプロポーズに近い時で、写真もこの順番に並ぶ。 エピソードなんかも披露される。そして、両家集合写真あたりで写真は終わり、今日の日を無事迎えましたとかいうテロップで終わる。

このころ、新郎新婦のお色直しが終わり、キャンドルサービスが始まる。 この儀式もかなり謎ではあるが、確かになにもしないでまわってこられてもお互いが間に苦しむ気もする。

で、もうしばらくすると、コーヒが入り始め、大団円を迎える。 新婦の16小節の手紙の朗読がはじまる。 「1.わがままな私を何があってもお父さんとお母さんは温かく見守った。 2. これからはXXさんと二人のような暖かい家族を築くつもりだ 3. 今までありがとう」ってのが朗読の趣旨を3点でまとめたものである。 ここで新婦は泣いて朗読が滞るが、そのまま出来なくなることは決してない。

そして、最後に新郎新婦による花束贈呈が行われ、新郎父にみなの前で「まだ未熟な二人」というレッテルを貼られる。 そして、新郎の挨拶が続く。「1.笑いの絶えない家庭にしたい、2.これまでどおり友達を大切にする、3. 近くに寄ったら家に遊びに来てください」ってのが挨拶の趣旨を3点でまとめたものである。 言われたからって本当に近くを寄るたびに行ってはいけないのは皆知っている。

あなたの出席した結婚式と比べてどうだろう。 この人たちの言う「私たちらしい結婚式」こそが、「見事なまでに普通な結婚式をすること」を目指したものなのではないかと考えてしまうぐらいである。
そもそも、日本人は予定調和的な事象が好きなのである。 最後は必ず印籠かスペシウム光線が出てめでたしめでたしとなるのが楽しいである。最後にのび太は痛い目を見るのである。 全く予想できない結婚式ってのもやだといえばそうだ。 これでいいのである。 なぜ日本人はそうなのか、このあたりは宮台 真司のような何でも説明づけるないと気がすまない人に委ねよう。

と書いてみたが、 ここで、上の話に納得された方は、おそらく結婚式をしたことがない人たちなんだろなあと思う。
それは「私たちらしさ」は何に発揮されているのだろうかということである。 私たちらしく結婚式を遂行する(How)のであり、私たちらしい結婚式を行う(What)のではない。 結婚式を行う二人は、決まった伝統的な台本を演じる歌舞伎役者にたとえることが出来るであろう。 いくら、やっていることが台本どおりでもその演じ方は人それぞれなのである。 確かに、上で示したように起こっている事実を並べるとあまり変わり栄えがしない、というか同じである。 だからといって、歌舞伎をつまらないものと決め付ける人はいないであろう。それと同じである。そして、これは演技でもなんでもなく、実際に彼ららしさがでていると思う。普段どおりの彼らが見える。根っからの明るい奴は素直に楽しそうだ。 普段からまじめな奴の話はやっぱりまじめに聞こえる。 いつもシャイな奴は喜びを押し殺しているが笑いはとまらない。 台本を演じてもにじみ出る彼らの素顔。それが結婚式における彼ららしさなのである。

私はそのような目で結婚式を見ていると彼らの一挙一動から幸せな気分にさせられる。 写真は起こった事実(What)を表現するだけで、Howは伝わらない。そこに写るのはどうでもいいWhatの微妙な違いである。ゆえに私はとらない。 ただ、私と違って女性は一般的はHowに対する情感が豊富であり、Whatを表現する写真を見てHowを回想することが出来る。 ゆえに彼女たちは写真をとりたがるのだと思う。

そんなことを考えているうちに、結婚式は無事に終わった。 これから私は、結婚式で久しぶりに会った旧友との旧交を温めるっていうシーンに向かう。