pêle-mêle RSSフィード

『スローブログ宣言!』[amazon][bk1][gihyo]
『[はてな]ではじめるブログ生活』[amazon][bk1][hatena]

yskszk appears by courtesy of Yoshiki's Page
2003 | 02 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2004 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2005 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2006 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2007 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2008 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 |

キーワード登録されている単語は、マウスポインタを合わせると、テクストとバックグラウンドの色が変化します。コメントは「はてな」の登録ユーザーでなくても投稿できます。はてなダイアリー以外のブログからのトラックバック用URLは、「コメントを書く」の下に表示されています。

日仏交流ブログ"Le Spleen de Tokyo"、随時更新中!

 | 

2007-08-22

原文、読んでる?

昨日の日記コメント欄anotherさんは理系学生語学に興味が薄く、また英語至上主義が徹底しているので、「英語に似てるから」という消極的な理由で第二外国語ドイツ語を選ぶことが多いと述べていた。この時点でオレはどうにも悩んでしまう。理系では「論文を原文で読む」という習慣が重視されていないのだろうか。

文学哲学研究では「お前、ちゃんと原文で読んでるのか?」がひとつの殺し文句になっている。この時点で原文を読んでいない者は「負けました」と頭を下げて投了するしかないのだが、理系ではどうなのだろうか。

たとえば理学部数学科に籍を置いてポワンカレについて本格的に研究したい者なら、当然ながらフランス語を学び、ポワンカレの論文を原文で読むものだとオレは勝手想像している。もしここで「理系学問普遍的・客観的なのだから、原文がどの国の言葉で書かれていても関係ない」と言われたら、オレは「あらゆる言語にはイデオロギーが内在しており、また数学だろうが物理学だろうが化学だろうが、その論文が書かれた時点での文化状況と無縁ではいられない。ゆえにポワンカレを学ぶのであればフランス語を学び、19世紀後半のヨーロッパの置かれた文化状況も研究しなければならない。そうした作業をネグレクトしてポワンカレの『理論』だけを研究するのは知的怠慢である」と反論するだろう。しかしこういう主張を繰り返す人間は「文化相対主義者」というレッテルを貼られ、ソーカルブリクモンようなひとから嘲笑されるのだろうか。それとも「そういうのは科学者じゃなくて、科学史家がやることだ」と諌められるのだろうか(オレのこうした書きかたも「安易なレッテル貼り」と言われるのかもしれないが、何しろ理系の実態をよく知らないので、こんなことしか書けないのだ)。

tsurubatsuruba 2007/08/23 02:00 ぼくも理系出身の方のコメントが知りたいのですが、風の噂ですとたいがいの理系の(ここにあまり自信がないのですが)学術論文は英語に統一されているという話を聞いたことがあります。瀬名秀明さんだったかしら(これも記憶にあまりなく)。それとそれは文系にも影響が出ているとも。

あとこれまたすごい余談ですが、例としてあがっているポアンカレですが、彼を学ぼうとした時点で僕のなかでは「文系」の気がしていまして、いくら数学基礎論の論文が多いとはいえ、それに文化状況を読みとりながらとなるとかなりつらいところです。数学基礎論でいえば、文化事情はともかくカントールやブロウェルらの考えと照らし合わせるみたいな作業になるかと思うんです。なにせ当時の「基礎論」ですから。今、数学基礎論をやるときにポアンカレまでは遡らないような気がします。

yskszkyskszk 2007/08/23 02:31 おお、つるば君でではないか。お久しぶり。
そっかー、英語に統一されているのかー。そういう状況が文学・哲学系の人間からすれば「すっげーヘン」に思えるんだけど……

あとポワンカレというかヒルベルト以降の数学の流れを講談社ブルーバックスで学び(書名を忘れた)、「こいつらのやってることは数学じゃなくて、哲学じゃねぇのか?」と思ったことがあります。ちょっと話はずれてしまいますが。だからこそ柄谷なんかが「ゲーテル的問題が云々」みたいなことを言い始めたのかも、と思いますが、これは憶測の域を出ません。

yskszkyskszk 2007/08/23 02:39 あとこれも付け足しになりますが、文系にも「英語至上主義」の波は押し寄せているようです。
四方田犬彦によれば「国際学会」のたぐいでは実質的に英語が公用語になっており、開催国が中国だろうがイタリアだろうが、早口の英語で空疎な質問をまくしたてる研究者が見受けられるとか。そうしたエピソードを知るたびに、「ううむ」と考え込んでしまうのでした。

hisamura75hisamura75 2007/08/23 03:00 物理学と医学が専門の Ph.D Researcher です。「英語で書かれていないものは、存在しないのと同じ。黙殺されて当然」というのが世界的に基本スタンスです。ですからわたしたちがフランス語を習得したとしても、読むべき価値があるものはもともと存在しない。

専門用語に関しては学会がオーソライズして英語との対応をとります。だから、そこにニュアンスは生じづらい。

優秀な学生さんの学位論文や、大学の紀要などを読みたいことはあるのですが、独仏ならわたしは労せず読めました(わたしのレベルは、NHKラジオ講座半年分にも達していません)。
理系の論文はそれくらい平易な、プログラムのような、解釈の揺らぎのない文体で書かれるべきもので、文体にもやはりニュアンスは生じないのがふつうです。

細かいニュアンスに訴える論文を書きがちなのは、アメリカの白人のひとたちだと思います。そういうのは「中身がないのでこけおどしに走ってるのかな?」という印象を読み手に与えます。

hisamura75hisamura75 2007/08/23 03:06 この日につけるべきコメントかどうか分からないのですが…

理系の学生さんが独語を選びがちなのは、活用や発音規則が単純だから、というだけです。女子は仏語を選びがちで、それにつられる男子もいる、とか。ポルナレフが歌いたい、というような明確な動機を持つ学生は1割くらいじゃないでしょうか。

yskszkyskszk 2007/08/23 04:28 >hisamura75さん
理系ではそういう感じなのですか、ううむ。
オレは英語が不得意科目だったせいで滑り止めとして受けた大学(その大学には文学・哲学関係の学科はありませんでした)にしか合格できず、逆ギレ気味に「だったら第二外国語でフランス語を猛勉強して、他大学の大学院の仏文に進学してやる!」と思い立ち、結果として「中の上」クラスの大学の大学院に何とか合格できたというクチです。こういうのはいまどきの理系の学生には理解しづらいのかもしれませんね。
「発音や動詞活用が単純」(基礎は難しいが、基礎さえマスターすれば、そのあとは英語よりも容易)という意味でならドイツ語もフランス語も大差ないはずですが、それでも違いが出るのはドイツ語とフランス語のイメージの違いによるものなのでしょう、おそらくは。

anotheranother 2007/08/23 08:39 既に御察しの通り、たとえポアンカレを研究しているからといって、フランス語の原論文を読むことは「全く要求されません」。同様の理由によって、相対性理論に関連した研究をしている人のうち、アインシュタインの原論文を読んだことのある人もかなり少ないはずです。
むしろ理系的基準としては、原論文にありがちな「理論構成のこなれていなさ」をより分かりやすく整理した教科書を書くと評価され、教える側からも教わる側からも歓迎されます。そうしてオリジナルの論文はますます読まれなくなります(たとえそれが英語であっても)。
あと、理科系の論文には、英語とかフランス語のような自然言語のほかに、「数式」という別種の言語が存在していることも、もしかすると何か関係しているかもしれません。

yskszkyskszk 2007/08/23 10:35 経済学部や法学部では事情が違うのかもしれませんが、少なくとも人文・社会学系では「分かりやすく整理した教科書」ばかり読んでいる学生は馬鹿にされがちです。「たとえ日本語訳でもかまわないから、ちゃんとオリジナルの文章を読もう」という雰囲気のほうが強い。たとえば「世界の名作文学」のあらすじを手際よくまとめた本は定期的にベストセラーになりますが、そんなものを読んでいるのは恥ずかしい、みたいな。

こうした事例を考えてみると、文系と理系の違いはただ専攻内容の違いではなく、それぞれの学問を支えている制度の違いにあるんじゃないのかな、と思えてきます。
例のソーカル=ブリクモン事件も、「フランスの文系学者が書くやたらと凝った文体の論文」にアメリカの理系学者が「論文ってのはもっと平明な文体で書くべきじゃないのか?」と苛立ったのが発端なのかな、と思っています。数学の理論を恣意的に濫用している云々はあとづけの理由でしかなくて。

yskszkyskszk 2007/08/23 11:06 まとめるなら、

教科書や入門書で要旨を知っている→×
日本語訳だけど、ちゃんと原典を読んでいる→△
原典を原語でしっかり読んでいる→○

って感じかなあ、文学・哲学研究なら。

たとえば原論文に「理論構成のこなれていなさ」があるとしたら、「なぜ彼はこなれていない論文を書かざるををえなかったのか」に意義のある問題を見出そうとするのが、清く正しい文系研究者のありかた、だったりもします。

shinimaishinimai 2007/08/23 18:07 ぶっちゃけポワンカレとか理系の人より文系の人の方が名前は知ってるんじゃないか?というかそこらへんの領域は文理の区別が曖昧です。

shinimaishinimai 2007/08/23 18:11 分かりやすい入門書を馬鹿にするところは、日本の文系(って誰って感じだが…)のダメなところ。翻訳されるのも、もともと難解な文系をまたもや難解な文章に書き直されたものだったりする。人文科学の入門書的なものはなかなか翻訳されないのに、現代思想の難解な原著は翻訳されたりする。ところで、フランスでは「ラカンの翻訳はまだか?」って言われてるらしいw

通りすがり通りすがり 2007/08/23 19:28 理系で実学を目指す人には第二外国語として中国語を選択する事をオススメします。
国際標準化プロセスにおけるトラブルメーカーだからという消極的な理由からですw

yskszkyskszk 2007/08/23 20:44 文系なんだか理系なんだかよく判らないって点では、バシュラールもそうだよね。つうかバシュラールをごりごり読んでる理系の学生って、あんまりいない気がする。
それから入門書を馬鹿にしすぎというのは、たしかに言えてるかも。個人的な話になるけど、オレはいつも「最初歩の知識を身に付けると、いきなり難しいものにチャレンジして挫折する」という悪癖があります。たとえば楽器とか将棋とか料理とか。これじゃあ上達するわけもないけど、人文系ではこういう態度を「それでよし」とする雰囲気があるなあ。
風の噂だけど蓮實先生は第二外国語の授業で、1年生を相手にバルトの『明るい部屋』を教科書指定したとか。そうやって「いきなり難しいものを読ませる」ってのもハスミらしい教育的配慮なのかもしれないけど、この時点でいやになって脱落する学生もいるんじゃないのかなあ。
あとラカンのフランス語訳はオレもほしい(笑)。

bluesy-kbluesy-k 2007/08/23 21:17 >その論文が書かれた時点での文化状況と無縁ではいられない
ここが突っ込みどころです。目標として時代によらない普遍的なものを扱い「たい」ので逃れられようが逃れられまいが残るものだけ見ればいいのです。というか中学数学レベルで良いので定理が時代に依存すると思いますか?それを研究したいと思うかどうかは時代の空気に影響されるかもしれませんが。

だから理系が哲学をやるとすればカントなどの専門家はいなくなるでしょう。カント的・カント系哲学は存在するかもしれませんが。カントの言った事のうち意味のあるものだけを残す。それも極力時代によらない基準で(たとえば実験的検証という基準)。

自然科学がなぜかくも(文学理論の循環などと異なって)「前に進んでる」かは科学哲学の大きなテーマのひとつだろうとは思いますが、なぜか前に進んでいるのです。その価値観を採用するしないには議論の余地はありますが、おそらく後退する可能性はひくい。だから旧時代の遺物はさほど重要視されない。

その辺は科学哲学者ではなく物理学専攻の身として内心を突き詰めれば(論文の文言でなく)自然科学の法則は時間がたっても変わらず人間の文化とは独立に存在するという信念を経験的に公理として受け入れているということです。そしてその人間の営みと独立なものの記述の精度を時間とともに少しずつ上げていっているという考え方です。

ドイツ語人気はかつてドイツが物理や工学の中心であった時代の名残もあるかもしれません。指導教官などは院入試でドイツ語が必須科目だったといっていましたし。そのころはドイツ語で読んでいたのでしょう。

bluesy-kbluesy-k 2007/08/23 21:19 >anotherさん
相対論や量子論の黎明期の日本の物理学者たちはドイツ語で論文を読むのが基本だったようです。

yskszkyskszk 2007/08/23 22:19 >bluesy-kさん
「その論文が書かれた時点での文化状況と無縁ではいられない」が「正論」ではなく、「突っ込みどころ」になるわけですか。ううむ。
そういえば工学部の教授を勤める親戚から「君の部屋は本が多すぎる。古い本なんて役に立たないし、読み返さないんだから、どんどん処分しなさい」と説教を喰らったことがあります。反論できる雰囲気ではなかったのでそのときは黙っていましたが、内心では「ちゃんと役に立つし、読み返しますよ」と思っていました。
つねに「前に進んでる」ことが求められる世界では、古臭い理論しか書かれていない本を「歴史的な資料としては価値がある」として大事に保存するのは、あまりないのでしょうか。

june_tjune_t 2007/08/23 22:40 あと工学系だと、実験の計測機器がドイツ製で、マニュアルもドイツ語だとか、そういうこともあったと聞きます。類似性でいえば、英語はドイツ語よりフランス語に似てると思いますが(いちおう独仏両方やった経験から)。
なお数学と文化的背景については、たとえば「夫婦問題」が解かれるのが遅れたことを、ロンダ・シービンガーが例に挙げています。「丸いテーブルにn組の夫婦が、夫と妻が隣り合わずに男女交互で座る方法の数Mnを問う」という問題ですが、数学者のケネス・ボガートとピーター・ドイルは、通常女性を「礼儀のために」先に椅子に座らせるという、19世紀の欧米中産階級の慣行にそって数学者(中産階級の男性が多い)が解法を考えていたため、この問題の解決が50年は遅れたと述べているそうです(シービンガー、『ジェンダーは科学を変える!?』、pp.213-214)。もっとも、こうした内容に踏み込んだ研究は少ないようですね。数学的問いの内容に直接文化的背景が影響を与えたりすることも、抽象性の高い数学という領域では、そう多くないように思います。ただ、どのような問題が作られてきたか、といったようなことについては、時代状況や個人的関心などにも左右されるところがあるのではないでしょうか。

bluesy-kbluesy-k 2007/08/23 23:14 いや、前に進むことを求められるというのではなく前に進んでいる事が保証されているという感覚がある。

たとえばクーンは「相対論以降質量の概念は古典力学のそれと異なるものになった」などといっているらしいですが、新しい質量の概念は古典力学における質量の概念に立ち退き要求をするものではなく、古い概念を内包する拡張的定義になっているわけです。

そのつどそのつどちゃんと実証的にチェックしているので精度が悪いということにはなっても根本的に間違っていたなどということにはならないように出来ているのです。その結果新しい理論は古い理論をひとつの極限的状況における近似として「内包」する形でしか登場し得ない。そういう風になっている。いや、なっているかどうかの厳密な議論はメタフィジクスの守備範囲になるのかもしれませんが、少なくとも科学者の現場の「常識」ではそうなっている。そして今までそれでうまく言っているという歴史がある。そこから高い確率でこの指導原理については変える必要がないだろうというわけです。

smoking186smoking186 2007/08/24 01:14 >たとえば理学部数学科に籍を置いてポワンカレについて本格的に研究したい者
数学ではなく科学史を学ぶ人ならあり. 理学部よりは文学部に居そう.

yskszkyskszk 2007/08/24 02:37 >bluesy-k
「新しい概念が古い概念を内包しつつ前に進んでいく」というのは、文学研究の世界とはかなり違うな、という感じです。新しい方法論と古い方法論がおたがいに喧嘩しながら(バルト=ピカール論争など)、勝手な道を歩んでいくという感じなので。

>smoking186
そうだ、科学史だ。オレが理系の学問に興味を持つのであれば、おそらく科学史的な立場からアプローチすることでしょう。それならやっぱ、文学部に学士入学したほうがいいのか。

shinimaishinimai 2007/08/25 00:09 まあ科学史はほぼもう文系のジャンルになってるけど、始まりはマッハとかコテコテの物理学者たちがやってたよ。その時代の科学に求められたものは哲学的なものも含む世界理解だから。
ただ今でも科学的実在に関する論争は科学者も加わってると思う。大学卒業しただけの理系だったら興味ないと思われるが。今日も実験がうまくいかなり理系の友人にデュエム=クワインテーゼでも教えるといいんじゃないかとか、冗談を言っていたが。
バシュラールは科学哲学の中では異質すぎるし、紹介されたのも基本的にあの奇妙な詩論。理系の人には下手すりゃ名前さえ知られていない。フランスのエピステモロジーは科学哲学っていってもフーコーやなんかに近いんじゃないか。

yskszkyskszk 2007/08/25 07:50 個人的な趣味として文学を読んでいる理系の学生がなんかのきっかけでバシュラールを知る機会はあるかもしれないけど、正規のカリキュラムとして教わる機会はないかもしれない。
「現代思想の冒険者たち」シリーズの『バシュラール』も、科学哲学者としての彼と「ヘンな詩論」を唱えた彼をどうにもうまく接合できず、途中で放り出しちゃった、という感じだった。
あと院生の自主的な勉強会でバシュラールの『水と夢』を半年だか1年だか読んだことがあったけど、ソシュール→ベルクソン→ドゥルーズのラインに興味がある先輩が「duree(持続)」という概念をバシュラールの議論と接続させようとするすがただけが印象に残っています。
そんな次第で彼の科学哲学者としての側面はまるで誰も言及しませんでしたとさ。

blackshadowblackshadow 2008/09/04 22:58 はじめまして

>ポワンカレの『理論』だけを研究するのは知的怠慢

多分理系と文系の流儀の違いを知っているかどうかでトコトンすれ違う点がこれなんでしょうね。

理系の研究というのは文字通り「世界の理(ことわり)」について行われるものです。
そして理系の観点から言うと、例えば『ポアンカレ予想』という理論は理系の研究対象になっても、『ポアンカレ』という人物は理系の研究対象になりえません。なぜなら『ポアンカレ予想』が正しいか否かを証明するに当たって、ポアンカレが当時何を考えていたとかどんな思想背景を持っていたとか当時の時代背景が予想の構築にどう影響したかとかいう情報は一切必要ではないからです。
理系の研究対象は「自然」であるがゆえに(数学はちょっと特殊ですが)、過去の研究の時代背景や人物がどうであろうが、その内容の真偽は同じ「自然」を研究することで明らかになります。同様に、理系のこの特性ゆえに、余計な情報を切り捨ててエッセンスである「理論」だけを取り出すことが可能です。むしろ必要でない情報をそぎ落として行って尚残るものこそ、理系の研究の基礎となるものですから。
そして、その基礎の上にこれまでは知られていなかった新しい自然の理解を発見し積み重ねていくことこそが理系の研究です。

一方で科学『史』の学問領域だと、こういった「理系の研究」では必要ない情報こそがむしろ重要となってきますけどね。
要は研究対象の違いです。
別に「文化相対主義者」とかそういうのじゃなくて、理系文系の双方の研究対象がまったく異なるものなんですよ。

enzymeenzyme 2008/09/16 02:47 英語論文の逃避をしてたらここに来ました(笑)
理系研究は誰が実験(観測)しても同じ結果がでるかどうかが重要であり日本人の私と文化が異なる研究者でも同じ結論に達します。まあ論文が間違っていることもありますがその分野の研究が続く限りそれは駆逐され新しい論文が出現するだけでしょう。

確かに文化によって研究者の姿勢に違いが出る場合はあります。神を信じていたアインシュタインは確率的な要素に満ちている量子力学を「神はサイコロを振らない」といって認めませんでした。
でも文化背景が「結果」に影響を与えることはありません。なので理系ではそういう点は考慮することはないのです。また結果が著者によって変わるならそれは科学ではないです。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/yskszk/20070822
 | 

2004年3月13日以降のページビュー数:約28,000+2085624 RSS feed meter for http://d.hatena.ne.jp/yskszk/

Connection: close