非外延的集合論について

Evans論文(の学会発表)について、ヒビルテにて酒井さんに取り上げて頂く。お読み頂きありがとうございます。せっかくなので簡単に背景説明を。

原稿にも書いたとおり、ファジイ集合論など多値論理の集合論の多く、そして縮約規則のない論理上で包括原理を持つ集合論は、非外延的集合論の例となっています。それらは実用的(ファジイ)もしくは数学的興味(グリシン)によって導かれ、非外延性はその上でのおまけで、それ自身として価値がある問題ではないと思われていたわけです。

非外延性が興味の対象になっていた分野としては、哲学におけるQuineの例があります。彼の主張では、観測可能な行動により文の真偽が定まり、そして文の真偽のみが理論を構築する上での基礎的要素となります。正確な科学理論のための言語には、

  1. 文の真理値が基本であり、そのため真理関数的意味論を要求する。
  2. 真理値が同じ文同士は交換可能であるべきである、つまり外延的交換可能性が基本原則となる。
  3. 内包性/様相性など直接行動から観測できない要素はあくまで派生的・説明のための便利な仮定であると考える。

外延的交換が成り立たない場合は、「金星=明けの明星」ですが、「『金星』は2文字である」は成立しても「『明けの明星』は2文字である」は成立しない例が上げられます。このような文を「指示的に不透明である」と呼びます。そして指示的に不透明な例の一つとして様相性があげられ、従ってQuineは様相論理を科学的理論に相応しくない体系として排斥しました。科学理論の基礎となる傾向性や法則性などの概念は形式的には様相概念を使用して表現されることが多いのですが、Quineは様相概念を使用せずにそれらをうまく定式化することに失敗し、彼の「外延的言語による科学理論」路線は困難に直面したわけです。ちなみに、集合論の言語に翻訳すれば、指示的な透明さを保証するのが外延性公理となるでしょう(集合{x: x=金星}と集合{y:y=明けの明星}は外延的に等しい)。

これまで、曖昧さを表現するためには、多値論理の集合論と様相論理は相容れない二大巨頭という扱いをされてきました。しかし本当に全く違うものなのか?FefermanがKleene3値論理上の集合論で様相論理のある種の体系が表現できることを示したり、Hajekはファジイ集合論上で同じことをやっています。そのやり方を応用すれば、多値論理の集合論は領域が固定されたKripke frameを持つ様相論理の特殊なケースとも考えられるかもしれません。
それでは両者の共通の性質とは何か?それこそが非外延性であるわけです。非外延性という観点で分析を続ければ、もしかしたら曖昧さの表現に関してもう少し踏み込んだ結論が出るかもしれないと思います。非外延性の概念に関して、コンピューター・サイエンスとかで何らかの応用ができる・・・といいなぁ。

最後に、曖昧さは非外延性と深い関係があるというこの結果を見たら、Quineはなんて言うでしょうか?たぶん「正確であるべき科学的理論の言語に曖昧さを許す余地はなく、従って外延的言語こそ科学の言語に相応しいという持論を証明してくれた」とかいって歓迎してくれるような気もします。