2012-01-30
■『漂流者たち』 社会科学部2年 齋藤暁
大学では学期末を迎え、学生達は試験やらレポートやらに必死になっている。
皆、正直試験なんかよりも、向かって来る長い長い春休みを心待ちにしていることだろう。
僕もそんな学生の一人なのだが、二年間という長いのか短いのか良く分からないが、それなりの期間を経てそれなりに学んできたつもりである。
そんな一学生の僕が、ちょっと皆さんに唐突な質問をしてみたい。
「あなたは、今居場所がありますか?」
あまりにも唐突すぎるこの質問ではあるが、どうだろう。
僕は“ある”と勝手ながら思っている。
幸い、津波で実家が半壊したが家族親戚は皆無事であったし、今もこのサークルの同期や先輩後輩、大学のゼミなど、こんな僕であるが大切にしてもらっていると思うし、感謝している(これも勝手な想像である、ちなみに彼女はいない)。
だが、この二年間で居場所が無い、もしくはあるか無いか曖昧な人たちと僕は出会ってきた。
このサークルに入ったことを契機に、児童相談所や乳児院、保護シェルター施設へフィールドワークとして数回足を運んだからだ。
少なくともそこにいる子ども達は、理由は多岐に渡るが家族とは一緒に住んでいない場合が殆どである。
話は変わるが、先日仲の良い先生の授業でドキュメンタリーを2本観た。
1本目はDV被害を受けた母の下で育つ娘の話、2本目は渋谷の家出少女の話であった。
DVは一見、暴力を受ける側だけが被害者かと思われるが、実はそれだけではない。殴られる母親を目前にしたその子どもも、精神的な被害を他大に受けるのである。
その子どもは、DVが原因で鬱になった母親とうまくコミュニケーションが取れない。
「なぁ、褒めて、ウチのこともっと褒めて!!」
娘の言葉である。
次に観た渋谷の家出少女たちは、家族とうまくいかない、学校でいじめられるなどの境遇であった。彼女たちは渋谷の街へ出てきて援助交際をし、バック片手に街をふらつき、時に自傷行為に走る。
そんな彼女たちを救おうとする元暴走族のNPO代表と、彼女たちの物語であった。
彼女たちには、帰る家が無かった。
皆さんはこのドキュメンタリーの当事者に対して、どのような感情を抱くだろうか?
可哀想だと思いますか?それとも甘ったれるなと思いますか?
ここでは価値判断は置いといて、皆さんがどれだけこれらの当事者のことを想像したかを聞いてみたい。
僕は今まで、自らの思慮の浅さ故に軽率な発言や行為を繰り返し、多くの人を傷つけてきた。
ある時から他者への想像力を自分自身意識し始めたが、馬鹿なもので今でも多くの人を日々傷つけている。少なくとも僕はそう思っている。そして、どんなに他者への想像力を膨らませて分かったフリをしてみても、結局すぐにフリだってことがばれてしまう。
そして、その度に痛い目に遭ってきた。
でも、それでもこの営みは止めてはいけないし、絶対やめちゃだめだと思う。
先述したような児童虐待やDV、家出して自傷する少女は実際に起き、存在しているのだから。
そして、これらには共通したものがある。
彼ら彼女らには親密圏という居場所が無い。
日々の無数のコミュニケーションで積み上げられた信頼感。
無条件で私を愛してくれる人のいる空間。
どんなに社会が私を無視したとしても、私を私として認識してくれる人たち。
多少のいざこざはあって然るべきである。
しかし、彼ら彼女らにはそんな親密圏が無い!
本来安住の場所であるはずの親密圏で問題は起き、親密圏からの追放が起きる!
先述のドキュメンタリーの娘の言葉
「なぁ、褒めて、ウチのこともっと褒めて!!」
これは強烈な自己承認への欲求なのです!
また、これら親密圏で生じる問題の当事者は子どもだけではない。
夫婦間のDVに限らず、会社に人生を賭け家族を顧みない父親は家族を無視している。そして、そのしっぺ返しとしてそれまで居場所だった会社からリタイアした後、家に居場所が無いことに気づくケースが近年増えている。家族に相談できずに自殺していく中高年の数は全く減っていない。
親密圏で起きる問題、親密圏から放逐される人々、僕はその人たちを「漂流者」と呼びます。親密圏という家族などの親しい者たちの空間、誰でも親密圏に入れる反面、誰でも居場所を失くした漂流者になり得るのです。
最後にもう一度皆さんに聞きます。
「あなたは、今居場所がありますか?」
このサークルには天下国家を語る人が多いけど、ミクロな、家族や個人の問題を語る人はどちらかと言えば少ないと思う。
でも僕みたいな人間が雄弁会にいてもいいんじゃないかと思う。
新入生へ、もしこの文章を読んで入会したなんてことがあったら、三年だけど遠慮なく声かけてください。
たまたま読んでくださった方へ、最後まで読んでいただき有難うございます。もし何か思う所がありましたら、コメント頂ければと存じます。
あと最後に言わせてください。
僕は人に寄り添って生きていきたい。
そう思います。
■『そこに帰る場所がある』 社会科学部1年 清水健太
スーツに身を包み、逸る気持ちを抑えながら会場へと向かう。到着すると、会場の外には色鮮やかな人集りができていた。談笑する新成人たちと、会場へと移動するよう彼らに頻りに促している市の職員。その賑やかな雰囲気の中、私は多くの再会を果たした。小学校時代・中学校時代を共に過ごした仲間。恩師の先生方。だがその中でもひときわ嬉しかったのは、一人の「転校生」との再会だった。
彼が私のいたクラスにやってきたのは、中学校生活も残り半年を切った11月の初めだった。
彼は、以前は熊本にいて、そこで喧嘩したりバイクを盗んだりといった「やんちゃ」を繰り返してきたという。熊本では手におえなくなったため、半ば故郷を追われるような形で愛知にやってきたと、こういうことらしかった。
その「経歴」通りといっては偏見になるが、彼はなかなかに「やっかい」だった。授業中の私語などは当たり前。合唱の練習をしている時も、途中から加わったため参加しない彼は他のクラスメイトにちょっかいをかけ、練習を楽しそうに邪魔していた。合唱の仕切り役だった私は、いかにクラスの雰囲気を保つかに苦心した。
そんな彼だったが、元々明るく社交的な性格だったこともあり、すぐにクラスに打ち解けた。卒業までの短い期間ではあったが、毎日をとても楽しく過ごしているように見えた。かつてしていたという乱暴な言動も、クラスでは一度もなかった。
そして迎えた、翌年3月の卒業式。配られた卒業文集をめくっていると、その中に彼の言葉を見つけた。その時私は、彼の本当の気持ちを知った。そこにはただ一言、クラスへの愛と感謝の気持ちが、よれよれの汚い字で書かれていた。
私はそれを読んで、心の底から嬉しさがこみ上げた。彼は、今や彼も含めて「私たち」のクラスを、本当に好きになってくれていた。彼がこのクラスで過ごしたのは、わずかに四か月程度。それでも彼にとって、このクラスは自分の居場所、自分を認め、受け入れてくれる大切な場所となった。彼は故郷を追われた。それでも、やってきた異郷の地・長久手で、いわば「帰る場所」を、手にすることができたのだった。
中学卒業後、彼は就職した。それ以来、彼と会う機会は一度もなかった。だが時折、彼のことを思い出しては、一人心配していた。彼は今も元気でやっているのだろうか、中学時代のまっすぐな心のままでいるのだろうかと。
人は自らのおかれた環境に強く影響される。彼が熊本で「やんちゃ」を繰り返していたのも、逆に長久手で周りの人たちに心を開いたのも、彼がどのような環境におかれていたかに依るところが大きかったと思う。私は、クラスを離れて社会に出たら、また熊本にいた時のように周りの人に背を向け、「やんちゃ」に走ってしまうのではないかと、いつも心配だった。
そして迎えた、今年の成人式。そこで彼と再会して、心配は安心に変わった。
久々に対面した彼は、金髪とサングラス、それに真っ黒なスーツと、通りで会ったら避けてしまうような装いだった。それでも5年前と同じ、明るくまっすぐな彼のままだった。
私は平静を装い、「仕事はどう?」と何気なく聞いた。すると彼は、「おお、ちゃんとやってるぜ!」と頼もしく返してくれた。
きっと、この中学卒業から今日まで色々な困難があったことだろう。中卒者の就職後3年以内の離職率は、大卒者のそれの2倍近く、6〜7割に上る。中卒での就職は、相当に厳しいものであるに違いない。それでも彼は、5年前のまっすぐさを失わず、一生懸命働き続けてきたのだ。
私は、彼をこの日まで支え、走らせてきた最大の原動力は、やはり共に過ごしたクラスの仲間、そして長久手という「帰る場所」だったのではないかと思う。
そこに帰る場所がある。
ただ一緒にいる、ただそこに居るだけで力が湧いてくる、かけがえのない「帰る場所」。
それがあるからこそ彼は、今日まで変わらずにいてくれた。
そんな気がするのだ。
「帰る場所」は、自分が生まれ育った場所である「故郷」とは違う。確かに、多くの人にとって「故郷」は同時に「帰る場所」でもある。私もそうだ。しかし「故郷」だけが「帰る場所」ではない。かつて熊本から転校してきた彼にとっては、たった四か月ばかりを一緒に過ごした仲間、そして長久手こそが「帰る場所」である。あの日彼が成人式の会場に来てくれたことが、何よりもそのことを物語っていた。
人にとってより重要なのは、「故郷」というよりは、それも含めた「帰る場所」なのではないか。「帰る場所」は人の手で創出することができる。「無縁社会」などと言われる今日、社会が求めているのは、「帰る場所」となるようなかけがえのない仲間や場所ではないか。
そんなことを考えるとともに、自分もそんな仲間や場所を創出する力になりたい、と強く思った。そんな再会だった。
式の後、私は彼と写真を撮った。そこで彼は、間もなく父親になること、そして新しい家族のためにももっと頑張って働くのだという決意を、嬉しそうに語ってくれた。
それを聞いて、私も無性に嬉しくなった。そして彼の幸せを心から願った。
2011-12-31
■『脱ジャスコ宣言』 法学部1年 上田隆太郎
田舎から上京した私にとって、同郷の人との出会いは心温まるものである。しばし都会での生活を忘れ、ふるさとに思いを馳せることが出来る。先日私は偶然、生まれ故郷・広島県三原市出身の人と出会った。懐かしい気持ちで三原について話し込んだのち、私たちはある話題で盛り上がった。それは「三原には何もない、強いて言えばジャスコしかない」ということであった。
三原駅を降りると、広大な空地が目に飛び込む。地元の百貨店が撤退した跡地である。一面にシャッター通りが並び、かつて雑居ビルには一階から五階まで消費者金融の看板がかかっていた。旧市街地の古い街並みや昔ながらの個人商店は一掃され、同時に地域コミュニティも消滅した。帰省するたびに、幼いころ親しんだ店や風景が消えている。
一方で郊外には大型ショッピングセンターをはじめとした全国チェーン店が林立し、画一的で没個性的な空間が生まれている。この現象を揶揄して「ファスト風土化」「ジャスコ文明」(三浦展)なる言葉も生まれた。
従来の町並みが消滅し、郊外にどこにでもあるようなチェーン店が軒を連ねる。三原だけではない。画一的で、無個性な町並みは、日本中全国で見られる風景となってしまった。
チェーン店は日本中どこへ行っても同じ様な店舗で同じ様な商品を同じ様な店員が扱っている為、三原のジャスコと東京のジャスコを置き換えても特に問題は無い。その町にしかない固有の風景、町のアイデンティティ、と呼べる物は消えてゆき、どこにでもある風景しか残らない。だから「ジャスコしかない」としか言えなくなる。
どんな町にも、積み重ねてきた歴史があり、人々の培ってきた伝統がある。それこそが地域住民の誇りともなるのである。アオキやヤマダ電機の店舗は地域の独自性とは相容れない。ミニ東京化した地域に、もはや誇りは生まれない。
かつて特色豊かな町の顔だった各地の中心市街地が空洞化し、市街と人口が拡散し、チェーン店の看板がひしめくようになったのはなぜだろうか。
1970年代以降の、住宅価格の高騰、家庭用自動車の普及と、郊外大型ショッピングセンター、ロードサイドビジネスの登場が都市の郊外化を進め、中心市街地空洞化の要因となったことはよく知られている。病院や学校等の公共施設も郊外に流出し、中心市街地は急速に衰えていった。
人々は自動車を使って、古臭くてダサい中心部の商店街や百貨店を避け、郊外のショッピングセンターに向かう。シネマコンプレックスやスターバックス等、都会的な経験を求めて、郊外のジャスコに流れてゆくのである。
こうして、地域の独自性が消え、独自性に基づく文化やコミュニティが失われていくのである。
少しでも地方を生かそうと思うなら、際限の無いチェーン店の出店には断固として反対すべきだ。ジャスコは便利だから、とか商店街はダサいから等の「ニーズ」はこの際関係ない。これ以上の開発が町をますますダサくすることに気づくべきである。社会学者の宮台真司が一つの取り組みとしてワークショップの開催を提唱している。地域開発の際、施主と住民の間に例えば郷土史家や建築家など専門家を交えて、彼らが住民に町の伝統や風景的な価値を伝えるのである。住民自ら、町の魅力に気づいてもらおうとする取り組みである。ワークショップを通してこれまで開発を望んでいた住民も、町の魅力に気づき、意見を変えてゆく。自分の町が好きなのは、こんな理由があるからなんだ、と再発見するのである。
大規模チェーン店が便利なのは認める。私がすべきことは、便利さの追求だけでなく、その先にある町の価値を見つけ、人々に伝えていくことだと思うのである。
■『道』 商学部2年 笹本佳南
先日、初めて秋葉原を訪れた。秋葉原駅前の「AKB48CAFE」にはスクリーンに映し出されたAKB48の劇場公演の映像が繰り返し流され、その映像を立ち止まって見ている人もいれば、踊りに合わせて体を左右に動かしている人も見られた。また、ほぼ毎日公演が行われる「AKB48劇場」を内設するドン・キホーテ前では、メイドカフェの店員がメイド服や制服など様々な衣装で呼び込みを行い、AKBファンとみられる男性たちが円になって写真の交換や談笑を行っており、私にとってはお祭りの雰囲気のような、非日常的空間であった。
AKB48は、作詞家・秋元康によってプロデュースされ2005年に誕生したアイドルグループである。CD売り上げが減少傾向にある近年において、シングルCDが3作連続で発売初日に100万枚を超し、成長が目覚ましい。なぜ、AKB48は売れるのだろうか。
ここで私は、AKB48が売れた理由は事業定義が明確であったためと考える。AKB48のコンセプトは「会いに行けるアイドル」である。コンセプトとは、概念、もしくは創造された作品や商品の全体につらぬかれた、骨格となる発想や観点という意味をもつ。コンセプトは事業の定義とも言い換えられ、ドメイン(企業の生存領域)、ミッション(使命)、長期目標、企業ビジョンなどとも類似の意味内容を持つ。AKB48はこのコンセプトから始まり、またこれを実現するため、さまざまな手法がとられている。
握手会や劇場公演の多さは大きな魅力となっている。12月27日に「AKB48CAFE」前とドン・キホーテ前で「AKB48が売れている理由はなんだと思いますか」とアンケートを取ったところ、297人中217人が「握手会や総選挙などファンが直接参加できるイベントを持っているから」と回答した。握手会はシングルCDの発売記念などに開かれ、シングルCDの初回限定版についている握手券を手に入れることで参加できる。2011年10月には3回、11月には2回の握手会を行っている。劇場公演とは、ドン・キホーテ秋葉原店8階にある「AKB48劇場」という劇場で、映画館ほどの近さでAKB48を鑑賞することができるというものである。この劇場は、平日は19時開演、土日祝日は12時と15時半の2回行われる。ほぼ毎日公演が行われ、12月の休館日も3日間のみであり、ほぼ毎日AKB48に会うことができる環境が用意されている。ライブよりも近くで、しかも定時になったら今までは待つべき対象であったアイドルが劇場で待っているのである。
では、「会いに行ける」ということにはどのような意味があるのだろうか。アイドルとはもともとの語源が「偶像」であることはみなさん御存じであるだろう。偶像崇拝の対象としてのアイドルは、本来は画面越しまたはライブという少ない機会で大多数の人と同じ空間を共有するだけだった。しかし偶像崇拝の対象に「会いに行ける」ことでより身近な距離感でアイドルと接することができるようになった。より身近な存在にあるということは、近で成長を見守っているという感覚を得ることができ、よりのめりこむ人が多くなる。つまりヘビーユーザー層の増加につながるのである。こうした点で他のアイドルグループと差異化ができたという利点もある。
AKB48は人数の多さによる「囲い込み」やCDなどの商品に生写真や握手券などの付加価値をつけることなど様々な特徴を有しており、ビジネスモデルとして参考になることはほかにもあるが、私が述べたいことではないので割愛させていただく。私はAKB48の明確な事業定義にこそ意味があったと考える。
「どちらの道を行けばいいか、教えてくれる?」とアリスはたずねました。
「どこに行きたいのか、行き先しだいだね」とチェシャ猫はこたえました。
これは、イギリスの数学者であり文学者でもあるルイス・キャロルが1865年に出版した『不思議の国のアリス』の1場面である。アリスが二つの道に差し掛かり、チェシャ猫に進むべき道の判断を仰いでいる。人生において複数の選択肢が存在し、どれを選べばいいのかと迷ったことはあるだろうか。そうした時、自分のなりたい像や目的が存在すれば意思決定は容易になる。自分の向かうべき目的地へ最も近づけると考えることができる選択肢を選べばいいからである。そしてその最終目的地というものは幸福に向かっているのではないだろうか。人によって何を幸福と感じるか、自分だけの幸福だけか、他者も巻き込んでこその幸福なのかなど個人の価値観に依るところは大きい。自分が感じる幸福に到達する通過点に何があるのか、そこを目標にして選択していくことが大切であると考える。未来を考えるためには現在を知らなければならない。ドイツの文学者ヘルマン・ヘッセは「すべての人間の生活は、自分自身へと向かう道である」と述べる。パーソナリティの形成には生物学的要因と環境要因があるとされ、日々の思考・行動の積み重ねによって自分というものが規定される。そのため、現在の自分について知るために、過去の行動や経験を振り返り、自分の価値観を知る必要があると考える。
冒頭に引用したアリスはこの後「どちらでもいいわ」とこたえ、チェシャ猫が「じゃあ、どちらに進んだって同じじゃないか」と更なる冒険へと、ものがたりは先へ進む。私はこれからも自分のなりたい姿や社会がどうあってほしいのかを追い求め、何度も再考し、また自分の資質を高めていこうと考える。
2011-11-30
■『声をかける』 基幹理工学部1年 宮川純一
2か月ほど前に、人生で初めて骨折した。その後1か月は何をするにもお金と時間と体力を沢山掛けなければならないので、骨折は個人的に大事件であった。今回は、骨折後医者に行き、その帰路を初めて松葉杖で街を歩いた時の体験について記す。
そもそも骨折した理由は完全な不注意だった。宴会の席で正座した状態から不注意に立ち上がったところ、バランスを崩して足の甲に全体重がかかって激しく転んだ。このとき骨折したのだ。だがこのときはしばらく痛みで立てなかったものの、捻挫ぐらいだろうと高をくくっていた。
割と痛みは強かったが何とか帰宅し、とりあえず行き着けの接骨院に行った。そこで初めて通常の皮膚の位置から1,2センチ上部まで膨れた上がった足の甲の腫れを見た。骨折に違いないから整形外科に行くことを勧められた。整形外科に行き、レントゲンを撮って骨折とわかった。次の瞬間には足にはギブスがはめられ、両手には松葉杖を渡され、気が付いたら病院から家まで松葉杖をついて帰らなければならない状況になっていた。
楽観していた私も、そこでやっと酷い状況になったと気が付いた。
ともかくはじめてだった松葉杖になれようとゆっくり歩いてみた。これが意外と辛い。両方の手の平に体重をかけるのだが、2,30歩目から腕が痺れだし、100歩も進むと手の平の付け根の痛みと痺れで、どうしても1度休憩が欲しくなる。一息ついてはまた歩き、少し休む。そうして結果普段なら自転車で5,6分の帰り道に移動時間だけで1時間近くかかった。
さて、その帰り道には様々な人がいた。
道行く人の多くは、ぎこちなく歩く私のほうに興味深げに目を向ける。商店街で少なくとも100人には凝視されただろう。中には、好奇心によるキラキラした目で、微笑みすらたたえながら、こちらを何度も何度も見るご婦人までいらした。私は心穏やかではなかった。歩行にひどく辛い思いをしているのに、さらし者になった様な気がした。街中ではあったがあまりの恥ずかしさと惨めさから発狂したいと思った。
そんな中、私は3人の方に声をかけられた。
一人目は体の調子を良くする新興宗教の団体に属する、50代くらいのご婦人であった。すっと近づいてきて、怪我や病気が酷かったが、その宗教の先生に診てもらってよくなった事例を懇切丁寧に説明して頂いたが、丁重にお断りした。
二人目は自転車に乗ったおじいさんである。すれ違いざまに、いきなり声をかけられた。「あなたも骨折ですか、でもいいですね若いから。俺なんてもう何か月も治らないんですよ」私には談笑をする余裕がなく、「それは相当ご不便でしょう大変ですね」と答えると「大変なんてえもんじゃねえよ」と捨て台詞を吐いてまた自転車に乗って行ってしまった。こんな状況なのにストレスの掃き溜めとは困ったものだと思った。
骨折と松葉杖が、宗教の勧誘や愚痴こぼしの餌食になる引き金になることを私は知らなかった。
二人に出会ったことで、ますますしょげ返って、それでも坂道に悪戦苦闘していたとき3人目が現れた。60歳代くらいのご婦人。例のキラキラした目でこちらをみている。私はなるべくそちらを見ないようにしていた。すると
「大変ですね、何かお困りじゃないですか。」
と優しく聞いてくださった。私は、もちろん特に何かをお願いすることはしなかったが、大変救われた気がした。世間では骨折した自分を弱者として狙うだけでなく、優しい手も差し伸べてくれるのかとそう感じた。
もしかしたらじろじろ見ていた人も、松葉杖をつく私に困ったところがなさそうか気遣って下さっていたのかもしれない。だが、声をかけていただくまで「あの目」を親切のつもりかもしれないとは思えなかった。
言葉だけでは、ものは伝わらないとお叱りを受ける機会も多いが、言葉に出さなくてはわからない観点が確実にあると、そう思った出来事だった。
ちなみに現在、足は完治し平常通りの生活に戻っている。
今となっては骨折したおじいさんを思い出すと胸が痛む。やはり話しかけて来て下さったおかげで伝わったものがあった。
声に出して言葉で伝えることは、やはり大切であると思う今日この頃である。
2011-11-29
■『涙のムコウ』 社会科学部1年 平野真琴
二十年ほど前に『五稜郭』という長編歴史ドラマが放映された。榎本武揚を里見浩太郎が、土方歳三を渡哲也が、伊庭八郎を舘ひろしが演じた大作である。
僕がこれを初めて観たのは小学四年生の頃であった。一番行きたいところは何処かと問われたら「五稜郭」と即答していた当時の僕は、近所のレンタルビデオ店内を徘徊中にこの作品と邂逅したのである。『五稜郭』は、武揚がオランダより帰国したところから始まり、箱館戦争の終結までを描く。ラスト、新政府に登用された武揚はロシアと交渉し、千島・樺太の交換条約を締結する。ロシアからの帰り、武揚はシベリアに立ち寄った。そこで彼は、広大なシベリアの荒野と蝦夷の地を重ねる。さだまさしが歌う『夢の吹く頃』をバックミュージックに、北の海に沈んだ開陽丸が現れ、土方歳三や中島三郎助ら戦死した面々が皆で手を振るシーンが入る。この時武揚は画面の中で目に涙を浮かべるのであるが、僕も心を打たれ、涙を流した。新しい時代への移行期に戦い散った武士たちが、蝦夷地開拓という志を遂げんとする武揚に想いを託している。その時の武揚の気持ちを考えると涙が出ずにはいられない。また彼らが積み上げてきたものの上に自分がいる、ということを考えると、やはり目頭が熱くなるのである。
その後も『五稜郭』をレンタルして涙を流したのであるが、高校生になって『五稜郭』のDVDを購入した。小学生の頃自分を感動させた物語を、手元に保存しておきたいと思ったのである。購入後、早速中身を取り出して鑑賞したが、エンディングソングの余韻と共に画面が真っ暗になっても、一筋の涙も流れなかった自分がいたのである。数回目ということもあり感動が薄れてしまったからかもしれない。しかし、かつてあれほど胸を打たれた作品を観て涙が出てこなかったということは、非常にショックなことであった。
振り返ってみると、最近テレビを観たり本を読んだりして、強く感動したり涙を流したりすることが殆どなくなってしまったような気がする。もしやすると感動に値する作品に出会っていないだけなのかもしれない。しかし年齢を重ねたせいであるのならば、それほど悲しいことはない。思春期は感受性が豊かになると言われるが、逆に色々なものを見てきたせいで感動する心を失っているのだとすれば、それほど切ないことはない。
そういえば最近一度だけ、作品を前に涙を流したことがある。高校三年生の受験勉強期、過去問題集の古文と格闘していた際の話である。ある女に強く想いを寄せていた男が、女の入内を知ってショックのあまり寝込んでしまう、というところから始まる話であった。最後に女は、男に向けて歌を詠む。
別るとも絶ゆべきものか涙川行く末もあるものと知らなむ
たとえ離ればなれになってしまったとしてもあなたとの関係が変わるわけではない。この歌の解釈を問う選択問題では、そのような訳が正解になっていたと記憶している。この歌を読んだ時、僕は一人勉強スペースであった図書室で涙を流し、その日はそれ以上勉強を継続することが不可能になった。
なぜ涙が出たのか。それは今でも分からない。強く愛した相手をとられてしまった男の無念に心を打たれたからかもしれないし、はたまた入内を決断しながらも心の底では男と結ばれることを望んでいた女の気持ちに同情したからかもしれない。だがそれよりは、受験に失敗して一人取り残されることへの恐怖からきたであるとか、数か月後に訪れる卒業の寂しさと重なり合ったからであるとか、そちらの方が適切なのかもしれない。本当のところはよく分からない。しかし、そういうものなのではないか。「琴線に触れる」という言葉があるが、それは突然やってくる。そして、言葉では説明できないのだ。テレビを観たり本を読んだりしてしばしば涙を流すよりも、理由も分からずふと心を打たれる瞬間がたまに訪れる方が素敵であるような気もしてきた。そんな瞬間が、またやって来てほしい。
『五稜郭』のラストシーン、ナレーションが流れる。
「この時、榎本の目に光る涙が何であったか、それは榎本武揚以外、誰一人知る由もない。」
自分の目に光る涙が何であるのか、自分自身にも知る由もないこともあるのだ。
僕が念願の五稜郭に足を運んだのは、高校一年生の三月頃であった。まだ雪も残り寒かったが、非常に嬉しかった。また行ってみたい。今度は桜の綺麗な時期か、土方が斃れ五稜郭に白旗が揚がった五月がいい。桜吹雪か五稜郭祭を目の前に、ふっと、涙が浮かぶかもしれない。
2011-10-31
■『オニイサン、カッコイイヨ』 政治経済学部1年 糸氏悠
私の洋服箪笥の中に少し小さなTシャツがある。真緑の布地にでかでかとアンコールワットが印刷されていて、正直趣味が良いとは言えないしサイズもつんつるてんである。しかし私はこのTシャツを見る度にある少女たちを思い、そして不条理な社会への変革意識に駆られるのである。
このTシャツを買ったのは私が中学生の時のカンボジア旅行である。この家族旅行の目的は全くの観光であり、私のカンボジアについての知識といえばせいぜいアンコールワット遺跡や内戦の遺物として地雷があるという程度であった。
カンボジアはおそらく東南アジアで最も貧しい国ではないか。首都の空港には小型飛行機が四機、いくらなんでも小さすぎる。町の中心地には小児病院があり外には300人ほどの子連れの母親が並んでいる。外には痩せこけた水牛がぞろぞろと歩いている。犬は野犬ハンターなるものに捕まって売られていくので見かけなかった。もしこの野犬が食肉用であったなら間違いなく私も食べているはずである。犬鍋は何回か出てきた。両親はこの鍋に当たってついにホテルから出ることはなかった。飯の不味さにげんなりとしている我々に、現地の人が「これはものすごくうまい!食べてみろ!」のようなことを言って見つめてくるので完食せざるを得なかったのだ。味はなかなか美味しかった気がする。
閑話休題、料理はともかく実際アンコールワットは素晴らしい遺跡であったのだが、私は旅行中ひどく憂鬱であった。乞食がとにかく多いのだ。移動用のワゴンから降りるたびに1クラス分の子供が集まってきてはお金をせびっていく。
「ダラー($)」、「オカネ」、「ヤスイ!」等々、彼らは日本語をよく話す。日本人で彼らに恵んでやる人(悪く言えば“カモ”)が多いのだと思う。
「オニイサン、カッコイイヨ」と言われて何かと思ったら、少女がアンコールワットのプリントされたTシャツを押し付けてきた。そうして私は5ドルでTシャツをかうことになったのである。ちなみにここでの工場労働者の日給は2ドルである。まさに“カモ”だ。
確かに最初は衝撃を受けたのであるが、やはり途中から鬱陶しくなってくる。私は善意半分、厄介払い半分で彼らにお金を渡した。
我々一家の雇ったクメール人のガイドは笑ってそれを見ていた。
私が最も衝撃を受けたのは子供の乞食の存在ではなく、この日本語も話せる博識で、にこやかなカンボジア人の豹変である。
ある日ベトナム国境沿いをボートで川下りしていくと、村が両岸に現れ、小さなタライがボートに近づいてくるのが見えた。タライの中には一寸法師のように子供がおり我々に無心してきた。かわいかったのでなんとなくお金をあげようとすると彼が私の手をつかんだ。まさにこの瞬間が私にとって最も衝撃であったのだ。
あげるな、と彼は言った。語感のあまりの冷たさに少し驚いていると、あれはベトナム人だ、と彼は続けて言った。でも日本人は遺跡も修理してくれるから好きだよと、彼はほがらかに言ったが、私は怖くて顔を見られなかった。
カンボジアの主要民族であるクメール人は誇り高い民族である。最盛期にはクメール朝が王都アンコールワットを建築し、高い文化をもっていた。しかし王朝が衰退した後はたびたびベトナムの侵略を受けた。ベトナムは朝貢によって中国文明を受け入れ、「インドシナの盟主」と称して小中華思想を形成した。クメールは夷狄(文明化しない野蛮人)や禽獣(獣に等しい存在)として蔑まれ、アンコールワットは熱帯雨林に埋もれ忘れ去られていった。
そしてフランス領であった時代、フランス人は直接統治して恨みを買うのを避けるためにベトナム人を教育して彼らに統治させていた。植民地支配への不満はベトナム人へ向いた。
独立後もベトナム共産党は親分肌で指図をしてきたので誇り高いクメール人の癪に障った。さらにポル=ポト政権下においてポル=ポトは杜撰な政策により飢餓に陥った国民の不満を逸らすためにその反ベトナム感情を煽ったのである。曰く、
「正しいことをしているのにうまくいかないのはベトナム人が妨害しているからだ!」
しかし、それに反発したベトナム軍が侵攻して、カンボジア軍は一蹴されポル=ポトは密林へ逃亡する。カンボジアはベトナムの支配下に置かれた。ポル=ポト政権下では、彼の虐殺は海外に全く伝わっておらず、このベトナム軍の侵攻によって救われたクメール人の数は計り知れない。しかし、ポル=ポトの虐殺はベトナムにとっても予想外の事実であり、カンボジア侵攻は決してカンボジア救済のためではなかったのである。
つい2、3年前に同じ社会主義を唱え、ベトナム戦争では共に戦った相手からの「裏切り」にクメール人は激怒した。未だにベトナム人を、あのポル=ポトより嫌う人は多いのだ。
この事件から、私は彼が怖くなった。この子供はクメール人なのか、それともベトナム人なのか、無意識に考えている自分に気づき、自分に非常に腹が立った。子供に民族もクソもあるものか、と思ううちに、私は子供の物乞いへ現金を渡すべきなのかと悩み始めた。
この疑問は日本に帰ってからより深くなった。
私はカンボジアに滞在中、現地の物乞いの生活がそれでうまく回っているのだから余所者が口出しすべきではないとも思っていた。それは、旅行者に物乞いに群がる子供たちが元気そうに見えたからである。確かに生活は貧しく教育も受けられない子供はたくさんいるが、餓死寸前という痩せ方をした子供はいなかったし、どぶ川で大はしゃぎしている子供もたくさん見ることができた。前述したとおり、工場労働者の日給が2ドルの中で、チップの1ドル札が比較的容易に手に入るのは魅力的であるし、それで食べていけるのであれば良いではないかと思っていた。
カンボジアの経済成長は、そしてその恩恵が国民へ行き渡るのはまだ時間がかかるだろう。国家の主体である国民が、ポル=ポトによる知識人抹殺で力を失ってしまったからだ。原始共産主義という“宗教”政治のなかで、官僚や教師など文字を読める者は皆殺された。更に「新国家建設に協力を!」というクメール・ルージュの呼びかけに応じ、海外に留学していた意欲ある知識人は勇んで帰国し、殺害された。
現在、45歳以上の識字率は20%以下であるが、44歳以下の識字率は80%まで回復している。カンボジアが復興し成熟するには若年層の成長を待たねばならないだろう。国が当てにならないとすると一人で食べていかなくてはならないが、ポル=ポト政権下に無計画に作られたダムや堤防はやはり何の役にも立たないし、地雷原を耕して稲を植えるしかない国民もいる。
しかしアンコールワットには安定して旅行客が訪れてくる。となると、裕福な彼らとうまくやっていくしかないということになる。
国が復興して経済が発展するまで貧しい人々は何とかして喰い延びなければならない。物乞いはその生き延びる手段の一つである。
だが所詮旅行者が1ドル2ドル流したところで貧困が解決するわけではない。いつ国が復興するのか。彼らは一生物乞いをするのだろうか。子供達だけで物乞いをしているわけではないのだ。その陰にはもちろん親もいるだろうし、子供の身体を故意に欠損させて地雷被害者を語らせる乞食マフィアなるものも存在するようである。子供へ渡した1ドルは親やマフィアの手へ。そして一部は麻薬や銃器に流れていくのである。子供はどうなるのだろうか。
さらに観光地を離れるとゴミ捨て場や鉱山など劣悪な環境で働き、暮らしている子供が大勢いる。またカンボジアは児童買春王国として有名である。国連のレポートではわずか6歳の子供が身体を売っていたという。これらの子供たちと旅行者のチップは何の関係もない。
私は帰国後に、カンボジアの民衆にとって真に必要なものは一時しのぎのチップではなく、教育と衛生であり、教育を通じて政治、経済、農業それぞれの面で指導者を作っていかねばなるまいと結論づけ、その考えは今でも変わらない。
日本のODAは、職員に不正流用されたり、独裁政権の軍事費となったりで、海外であまり評価を受けていないという話はよく聞く。また日本は湾岸戦争の拠出金として100億ドル以上出しているが、クウェート復興のためのお金はアメリカへと流れて雲散霧消しクウェートからは礼の一つもないという。これらのお金は本当に必要な地域には届いていないのだ。
物乞いにお金を与えるのは本当にその物乞いの生活を潤しているのか、彼らは本当に感謝しているのか。私は答えはNOであると思う。物乞いへのチップは決して彼らにとって感謝できるものではないのだ。物乞いへのチップは本当に必要な人へは届いていない。
私が子供に上げたお金は、どこへ行ったのだろうか。
私の「無知」が彼らをどれだけ傷つけたか私は嘆かざるにはいられない。そしてこのような体験をした私には声を大にして、この不条理を伝える義務がある。
私は世界中のあらゆる不条理について全力を尽くして知り、絶えず雄弁していくことを誓う。
■『ラスコーリニコフは何故凶行に至ったか』政治経済学部1年 伊藤宏晃
「もしおのれの思想のために、死骸や血潮を踏み越えねばならぬような場合には、彼らは自己の内部において、良心の判断によって、血潮を踏み越える許可を自ら与えることができると思います――」(『罪と罰』/角川文庫/米川正夫訳)
『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフはナポレオン主義思想の持ち主だった。ナポレオン主義とは、「ある高邁な目的のためには手段は問われず、行為は歴史により正当化される」という考えだ。そしてまた、人間はルールに従うだけの凡人と、それを書きかえる天才の二種類がいるという選民思想の持ち主でもあった。
物語の序盤でラスコーリニコフは金貸しの老婆を殺害する。殺害の動機は金品を奪うことであり、ごく一般的な強盗の動機に見える。しかし、どうやら動機は単にそれだけではないと分かるのが、ラスコーリニコフと彼を疑う判事ポルフィーリィが会話する場面であり、上記の台詞である。これによると、社会のためになるような天才(ナポレオンやニュートンなど)には「罪」を乗り越える権利があるとしている。そしてその理論を持って彼は自らの殺人を肯定する。
だが、ここで疑問が生まれる。「彼にその権利があったのか?」という疑問だ。実際、ラスコーリニコフは老婆殺しで得た金を社会にどう活かすかについて深く考えておらず、あまつさえ証拠隠滅のために金を捨ててしまう有様だった。彼の理論によれば、彼に殺害の権利などないことは明らかだ。
では、なぜラスコーリニコフは殺害に踏み切ったのか。それは自らが天才であることを示すためだ。人間を天才と凡人に二分してしまった結果、彼は自分が天才の側に属す人間でなければならないという強迫観念に囚われてしまった。そして、「天才は社会のルールを乗り越えられる」という考えが転倒し、社会のルールを乗り越える、つまり罪を犯すことによって自らが天才であるという確信を得ようとしたのだ。
ここで二―チェの思想が思い起こされる。ニーチェは一般大衆である「畜群」に対し、無意味な人生の中で自らの意思、善悪観に基づいて行動する人を「超人」とした。このことを踏まえると、ラスコーリニコフは超人思想の持ち主だったのではないかと思われる。
ラスコーリニコフの殺人は、徹頭徹尾彼自身のために行われた。まかり間違っても社会のためではない。彼は自身が陥っているニヒリズムを超克し、自身を価値あるものとするために(超人となるために)、罪を犯したのだ。「罪」はロシア語で「乗り越える」という意味を持つが、彼は「乗り越える」ことで自らが何者かであることの確信を得ようとしたのだ。
ラスコーリニコフがそこまで過剰な自意識を持っていたのは、社会から隔絶していたからだ。家族から離れ、大学も仕事を辞め、人付き合いもしない。その結果、自意識ばかりが肥大し、自らが価値あるものであることを示すことに囚われたのだ。それに気付いたのか、判事ポルフィーリィはラスコーリニコフに、君には「新鮮な空気」が必要だ、と説く。ラスコーリニコフが妄執から逃れるためには、「新鮮な空気」を取り入れること、つまり外の世界とつながることが必要だったのだ。
ここまでが「罪」の部分である。「罰」の部分と、ラスコーリニコフがどうなるのかについては自分の目で見てほしい。人によって様々な解釈ができるだろうが、それこそが古典の懐の広さであり、魅力なのだ。
2011-09-30
■『自明論』 政治経済学部1年 中村雄貴
電車の中には優先席というものがあります。私は最近、優先席で高齢者の方に席を譲らないで寝ているサラリーマンや若者をよく見ます。こういう光景を見て怒りを禁じえない人も多いのではないでしょうか。
もちろん、一般論としては私も同意見ですし、席も高齢者の方がいたら譲ります。
しかし、こういう優先席、それだけでなく電車の中での座席利用の在り方には違和感を禁じえません。
それはなぜか。
単純に、席を譲ることが損になるからです。
高齢者のことを労り、席を譲った人が立つという行為を強いられ、高齢者に気遣うことの全くない人々が座ったままで利得を確保する。
こういうあり方では、席を譲るという行為が普遍化されることはなく、永遠に高齢者は自らのハンディキャップにも関わらず立たされ続けるでしょう。
そして、高齢者のことを気遣った人だけが我慢を強いられ、道徳なき人はわれ関せずとばかりに優先席に座り続ける。
ここで思うのは、なんで行動した人が得をするように仕向けないのだろうということです。
結局、このように一部の人に我慢を押し付けるようなシステムが横行するようになるのでは、誰も幸せにはなりません。
そこで例えば、女性専用車両の仕組みを応用し、弱者専用車両に改組。乗車料を100円にして高齢者、女性についてはタダ、という特例を適用するなどが考えられます。
そうすれば、高齢者は自分たちだけそのハンディキャップに応じてゆったりとした空間に入ることができるわけです。
最早、多くの人に単一的な行動を押し付けることで制度を回すことは不可能です。昔は、高齢者に席を譲るという認識を多くの人が共有していたのかもしれません。
しかし、今は多くの人の行動の基盤となる常識はズタズタに分かれ、どんどん薄れているのではないでしょうか。
そこで必要になるのは、自然に行動してうまくいくような制度の構築だと、私は思います。
2011-09-17
■『鳥と私たち』 政治経済学部1年 藤田康宏
九月中旬に差し掛かっても残暑が引かないこの頃、私は日中自宅から片道20分で東京都吉祥寺にある井の頭恩賜公園にしばしば足を伸ばし木陰の下で時間をつぶしている。意識して運動をする必要のある大学生として毎晩夕刻にランニングをしており、暗闇と静寂に包まれた井の頭公園の風景は見慣れたものになっていたが、日中の情景は私にとって真新しいものであり夏の風物詩であるがやがやと鳴り響くセミの声の間からかすかに漏れ聞こえてくる鳥のさえずりに耳を傾けていた。夜には決して聞くことのできない高い音色の奏で手、聞くところによると鳥とは「すごい」生き物であるそうだ。
一説によると鳥は6500万年前に隕石の衝突によって絶滅したと考えられている恐竜の一部が生き残り、激変した環境に適応して現在まで生き残っている恐竜の末裔とされてる。両者の間には多くの類似点が存在している。恐竜の骨格と鳥の骨格はとてもよく似ており、ティラノサウルス等に羽と嘴を付ければたちまち鳥の骨格になってしまうそうだ。かつて巨体を生かして地上を闊歩していた王者恐竜とコンパクトな体で空を舞う鳥の間のイメージのギャップに興味をそそられた。実際私の実家では長らく手乗りのセキセイインコを飼っていたが、私の肩に乗っかるやいなやメガネのふちをかじりだしてその凶暴ぶりを発揮しており、私はさすが小さな恐竜だと彼のいたずらを半ば恐れ、半ば楽しんでいたのである。
鳥の奥深い点とは進化の過程にとどまらない。鳥は同時に賢い生き物でもある。身近に生息し、かつ賢いことで有名な鳥としてカラスが挙げられよう。車にくるみを引かせてくるみの殻をつぶす、人の顔を識別できる、やすやすとゴミ収集所のネットを破る等と例を上げればきりがない。2007年には慶応大学の研究グループがカラスの脳を輪切りにした脳地図の作成に成功し 科学的にカラスは知能が高い生き物であると証明した。
カラスは大脳が発達していること、大脳の中でも複雑な情報処理を行っている、ヒトの脳でいえば「連合野」に相当する「巣外套」「高外套」がハトなどに比べて格段に発達していることが判明しました。
鳥類の知能について有名な研究として、アメリカのバランダイス大学教授、比較心理学者のアイリーン・ペパーバーグ博士がアフリカ西海岸の森林地帯に分布するオウム目オウム科のヨウムを用いて行なった実験が挙げられる。ヨウムの体長は約33cm、体重300〜500g程度で平均寿命は50年前後 、集団を作って行動するためコミュニケーション能力、知能が高く人の言葉をしゃべれるのでペットとして人気が高い。1977年、ハーバード大学を卒業したばかりの博士は一歳のヨウムを研究室に持ち込んでアレックス(1976-2007)と命名して英語を教えこみ、ヨウムに「知能」が存在するかどうかの実験を行なった。アレックスは今まで鳥には出来ないと思われていた実に多くのことを成し遂げた。The Alex Foundation(アレックス財団)のホームページに載っているアレックスの説明を引用する。
Known as one of the most famous African Grey parrots in history, Alex pioneered new avenues in avian intelligence. He possessed more than 100 vocal labels for different objects, actions, colors and could identify certain objects by their particular material. He could count object sets up to the total number six and was working on seven and eight. Alex exhibited math skills that were considered advanced in animal intelligence, developing his own “zero-like” concept in addition to being able to infer the connection between written numerals, objects sets, and the vocalization of the number. Alex was learning to read the sounds of various letters and had a concept of phonemes, the sounds that make up words.
(歴史の中に名を残したヨウムのアレックスは、鳥類の知能において新しい道を切り開いた。彼は異なった物体、行動、色に対する100以上の異なった言葉を持ち、特定の要素から対象を識別できた。また6まで数えられ、7、8の練習中であった。アレックスの知能は動物としては発達していると考えられている数学の能力を示した。自分自身のゼロのような概念を発達させて、加えて1以上の数えられる数字と、数えることと、数の発音の関係を推論出来るようになった。アレックスはそれぞれの単語の発音を習得し、出来事の概念を持ち、発音して言葉を形作っていた。)
博士が実験を始めた当時はアレックスにとっても、博士にとっても厳しい時代であった。20世紀初めには動物が「知能」を持っているという考え方は全く相手にされず、彼女は学会から異端者とされてしまった。多くの研究者は、動物を機械のようにみなす行動主義の立場をとり、マウスを使った室内実験に没頭した。実験内容の具体的な内容とはオペラント学習、条件付け学習という。押すと餌が出てくるレバーがついた箱の中にマウスを入れて初めのうちは偶然にレバーを押して餌を得るが、次第にレバーを押すと餌が出てくることを学習して自発的にレバーを押すようになる、というものである。
お分かりのようにこの方法では実験対象が自分で考え行動しているかどうかを測定できない。単に条件付けに対する‘反応’に習熟しているかどうかが分かるのみである。仮に人間が同様な実験を受けてオペラント学習がうまくいったからあなたには「知能」がありますよ、と言われれば果たして本人は納得するであろうか。つまり当時は動物が「知能」を有していないという前提で研究が進められ、そのまま常識として動物に「知能」なしと結論づけられていたのである。存在しないから存在しないではなく、知らないから存在しない。
なぜ当時裏付けのない常識が当然とされていたのか。博士がアレックスとの研究、生活の集大成として発表した Alex & Me (アレックスと私)の中で彼女は、人々の中に動物には「知能」が存在していて欲しくないという感情が存在し、それは自分たちが特別で優れた存在でありたいという思いがあったからではないかと指摘していた。実際に自分達が他の動物と比べて優れていると信じている人間の方が大多数であろう 。「知能」についての論争は学会でも白熱して収集がつかなくなり、ついにはヨウムが人の言葉でコミュニケーションを行えるかどうか以前に科学者の間でコミュニケーションが成り立っていないという状況になったという。「知能」の問題に対しては論理面だけではなく感情面の問題でもあったのだ。
我々人間は動物と違うという考え方は以上の理由から根強いものがあったが、現在では人間の「知能」は動物のそれと質的に異なるのではなく、動物の「知能」の延長線上にあると考えられるようになってきたそうだ。
最後になるが、井の頭公園の一角にある井の頭動物公園にこんな動物が展示されている。
ヒト(檻の中に鏡が入っている)
「ヒト 学名:HOMO-SAPIENS 英名:WOMEN MEN 分布:いたるところ 宇宙まで 分類:霊長目 ヒト科」 「特徴 ・好奇心が強い ・あつかい方によっては大変危険 ・鏡の中のあなた」
確かニューヨークでは「世界一危険な動物」と称して同じような展示があったと聞いた。アレックスは私たちに、自分自身を客観的に捉えるべきだとの教訓を残した。彼は本当に賢い鳥であったとの思いを禁じ得ない。
2011-08-31
■『「十字架上の日本」と「正しさ」について』 社会科学部1年 松岡宏明
1945年8月15日正午、昭和天皇の玉音放送を持ってポツダム宣言の受諾が表明され第二次世界大戦は日本の降伏という形で終戦を迎えた。もっとも第二次世界大戦における終戦記念日をいつにするかという点については日本国内・日本国外でも諸説あるのだが現在の日本では「戦没者を追悼し平和を祈念する日」という意味での終戦の日を玉音放送の行われた8月15日としている。
毎年8月になると終戦記念フェアなるものを始める書店がある。終戦記念フェアのコーナーでは昭和天皇、近衛文麿、東條英機、広田弘毅、松岡洋右、木戸幸一、石原莞爾……といった人物を取り扱った数々の書籍が並んでいる。そのような空気に影響されてか私も今回のコラムでは松岡洋右と彼の演説「十字架上の日本」の話をしてみようと思う。
松岡洋右は山口県出身の政治家・外交官で日本の国際連盟脱退、日独伊三国同盟の締結、日ソ中立条約の締結など第二次世界大戦前夜の日本外交の重要な局面に代表的な外交官ないしは外務大臣として関与した。今回のコラムで扱う「十字架上の日本」の演説とは1932年12月8日、ジュネーブの国際連盟総会で日本首席全権の松岡洋右が英語で行ったおよそ1時間20分にわたる演説である。
この「十字架上の日本」の中で彼は「満州は第一に我々固有の権益に依拠し、第二に東亜における安寧秩序に基づくものである。日本独自の権益を主張する立場から言えば満州は日本の生命線なのである。」ということを主張し、連盟の日本非難に対してはそのモチベーションが、外交上の利害や安全保障の原則ではなく、「世論」に基づくものに過ぎないということを追及した。以下は「十字架上の日本」の中でも特に日本非難に対しての反論の一部分である。
「たとえ世界の世論が、ある人々の断言するように、日本に絶対反対であったとしてもその世界の世論たるや、永久に固執されて変化しないものであると諸君は確信できようか。人類はかつて二千年前、ナザレのイエスを十字架にかけた。しかし、今日、どうであるか。諸君は、いわゆる世界の世論なるものが誤っていないと、果たして保障できようか。我々日本人は、現に試練に遭遇しつつあるのを覚悟している。ヨーロッパやアメリカのある人々は、今20世紀における日本を十字架にかけんと欲しているのではないか。諸君、日本はまさに十字架にかけられんとしているのだ、しかし我々は信ずる。固く固く信ずる。わずか数年ならずして世界の世論は変わるであろう。しかして、ナザレのイエスがついに世界に理解されたごとくわれわれもまた世界によって理解されるであろう、と。」
イエスを処刑したピラト総督は本心ではイエスを釈放することを望み、群衆の前でイエスと強盗犯のバラバのどちらを恩赦によって釈放したらよいかを聞いたところピラトの予想に反して群衆はバラバを釈放すべきだと叫んだ。つまり、イエスの処刑というのは当時の世論を反映したものであったといえるのだ。しかし、現代の人々に「イエスとバラバどちらを釈放したほうがよいのか」と尋ねた場合その答えは当時の人々の多数派が出した答え、すなわち「イエスを処刑しバラバを釈放するべきだ」という答えと一致するだろうか。私はこのような質問をしたことはないので現代の人々がどう答えるかはわからないが、少なくとも松岡洋右は「イエスを処刑するべきではなかった」と考えていたのだろう。同様に、国際連盟の総会において日本は諸外国(特にヨーロッパの中小国家)から非難されることになったが日本が国際連盟を脱退せざるを得ない状況になるまで日本を非難するという諸外国の行為は果たして本当に正しかったのだろうか。確かに当時の「世論」を鑑みると日本を非難することは「正しい」ように思える。しかし、それは諸外国の国益を考えたとき本当に「正しい」行動だったのだろうか。日本が国際連盟から脱退することは日本にとって損失であったのは言うまでもないが自国の安全保障を国際連盟に頼っている部分の大きかったヨーロッパの中小国家にとっても損失だったのではなかろうか。
また、この演説を終えて帰国した松岡洋右は「日本の立場を国際社会に理解させることができなかったのだから自分は敗北者である。国民には陳謝する」とのコメントを出しているが、国民は彼を「ジュネーブの英雄」として大歓迎した。少なくとも戦前において、松岡洋右は国民やマスコミの間では一定の支持があり高評価を受けていた。しかし、現在はどうであろう、肯定的な評価をされているとは言い難いのではないだろうか。松岡洋右が国際連盟の総会で言ったように「世論」というものが不変ではないということが彼の評価についても当て嵌まったというのは何とも皮肉なことだ。
彼の演説と戦前と戦後での彼に対する評価は私たちに「ある時代、ある共同体の多数派によって『正しい』と受け入れられていることを『常に正しい』ということはできない」ということを改めて気付かせてくれるものではないだろうか。
2011-08-25
■『空間についての小考察』 社会科学部1年 清水健太
去る7月某日の午前、私は目白通りのとあるパティスリーを訪れた。一人きりの、ささやかな誕生祝いである。お店は繁盛している様子で、騒然としない程度にお客がやってきていた。ショーケースに整然と並んだガトーたちは、月並みな比喩だがさながら色とりどりの宝石のようだった。私はそこで、ケーキとコーヒーとを小一時間ほどかけて堪能した。
木の濃い茶色をいかした、落ち着いた雰囲気。その雰囲気に絶妙に調和した、パティスリーには珍しいビートのきいた音楽。ブランデーのきいた、少し大人なケーキとともに、大学や駅前の喧騒とはまるで正反対の、優雅で穏やかなひと時を過ごすことができたのだった。
ある空間には、その雰囲気にふさわしい服装や活動というものがある。短パンにサンダルでパティスリーに行くのは、どこか憚られる。コンサートホールでは、たとえ自分ひとりしかいなくても、大騒ぎしてはいけないような気持ちになる。ファミレスや居酒屋は、愛し合う者同士の沈黙とは相いれないだろう。空間の持つ雰囲気は、そこにいる人の心情や言動に、大きな影響を与えるのである。
午後から大学に行き、昼食を取った。とりながら、大学の持つ雰囲気についてしばし思いを巡らす。大学における空間とは、大きくは校舎とキャンパスである。校舎は、新しいものも古いものも、それぞれに意匠を凝らした造りになっている。その内部も、それが集まって作りだすキャンパスも、決して雑な空間ではない。だが、さっきまでを過ごしたパティスリー比べて、気持ちに余裕のない、無機的でプラグマティックな雰囲気であるように感じた。
自分は大学生として、日々多くの時間を大学で過ごす。勉学に励み、友人と語らい、課外活動に熱中する。だが、これらの活動を包む空間の多くは、機能優先で没個性的なものである。ふとした瞬間、自分の今に思いを巡らしたり、何も考えずに感傷に浸ったりするのには、本来適していない。人には、心の緊張を解き、じっくり自分と向き合うような時間が必要だと思う。大学のような場所にばかりいたのでは、心は知らず知らずのうちに疲弊して、余裕をなくしてしまう。そのように感じる人は恐らく自分だけではあるまい。
空間の方から、人を優雅で穏やかな気持ちに誘う、そんな雰囲気。あのパティスリーで感じたその雰囲気を契機に、特定の空間が醸し出す雰囲気、それが人に及ぼす影響の大きさと、活動に応じ適切な空間と雰囲気を選び取ることの大切さを感じた一日であった。
2011-07-31
■『英語万歳』 法学部1年 上田隆太郎
大学に入学して初めて、帰国子女という人々と接した。彼らはとにかく英語がうまい。英語の授業で彼らのプレゼンを聴き、発音を聴くと、それが分かる。どうしてそんなに上手いのかと尋ねるとアメリカ帰り、イギリス帰りということらしい。受験生の時は英語が得意科目であった私だが、今彼らの後に続けて英語をしゃべるのは正直気が重い。
「英語が上手い」今日これほどの大きなアドバンテージがあるだろうか。
まず大学の入学試験で英語が大変重視されている。早稲田大学はもちろん、多くの私立国立大学入試で英語は大きな配点を占める。なかには英語(それも実用英語)と小論文ができれば入学できる学校もある。大学院進学、就職においてもTOEICやTOEFLの成績がものをいう。会社に入ってからも、英語を使う機会はますます増えていると聞く。ユニクロ、楽天が英語を社内公用語としたことは大きな話題になったし、外国人留学生や帰国学生の採用枠も増え続けている。ある銀行では支店勤務の従業員にまで英語テストの受験を義務付けているらしい。英語ができる者は出来ないものよりも収入が高いという統計もあるそうだ。英語ができるものにとっては極めて有利な世の中だが、そうでない私のようなものにとっては不利な世の中である。
そんな中で私の問題意識(?) を刺激する興味深い意見を見つけた。筑波大学教授・津田幸男氏の「英語支配論」である。
津田氏によると英語の支配とは、「英語が世界中に広まっているがゆえに起こっているさまざまな不平等と格差と差別」のことである。
(http://www.tsukuba.ac.jp/public/booklets/forum/forum80/05.pdfより引用)
この場合の格差、不平等とは、英語話者が圧倒的に有利となるコミュニケーションの不平等や、精神、価値観、文化のアメリカ化、圧倒的量の情報が英語によって伝えられることによる情報格差などのことだ。
確かに英語は単なる「英語圏の地域語」ではもはやなく、世界中で英語を使えるものと使えないもの間に大きな格差を生み出す支配構造を生み出す道具になっているのだ。英語を母国語とするものを頂点に、英語圏に長期留学・長期滞在していた者と、英語が話せないものの間で、国際的な場だけではなく日本国内でも格差が生まれてしまう。
さらに思考の根本は言語にあり、その言語を国語から英語に置き換えることは思考をアメリカ化することに繋がるという考えにも頷ける。フランスでは、英語支配から国語を防衛するために1994年にフランス語使用法を可決した。英語に対して緊張感を持って向かい合っているのだ。日本ではどうか。日本には不必要な英語崇拝がないだろうか。英語が出来る=優秀の考えがあるのではないか。少なくとも私の周りではそうだった。
今年度から小学校で英語が必修科目になった。「日本語もわからないうちから英語を教えるとは何事か」「子供の日本語が乱れる」というような反対意見も多くあったが、現実問題として英語が少しでもできる人に有利な世の中であるのだから、小学校で教えないならば自費で子供に英語を学ばせようと考える家庭はでてくるだろう。すると子供を英語教室に通わせることのできる家庭の子供と、できない家庭の子供に格差が生まれるようなことが起こりうる。だから、子供たちに一斉スタートで小学校から英語を学ばせることに私は賛成だ。しかし彼らには英語一辺倒にはならず、日本語や日本文化をしっかり勉強してもらって、世界中の人に発信してもらいたい。そのために英語を道具として使い倒してもらいたいと思う。
■『青春の驕り』 文化構想学部2年 岡崎綾修
試験及びレポート提出が近づいてきた近頃、同学の皆様はいかがお過ごしなのだろうか。こう書くと、試験が近づいて神経が過敏になっている方から「勉強をしているに決まっているだろ」とお叱りを受けるかもしれないと少しく心配である。
というのも、他ならぬ小生こそレポート提出秒読み体制に入り、一分一秒をおろそかにせずひたすらパソコンの鍵盤を叩かねばならない義務を前にして神経が繊細になっていると見えて、どうも普段ならまったく気にしないようなこと、例えば今座っている文机の前の部分の畳が波打っているのは、丁度あぐらをかいた右足で押したり引いたりしているからだろうか、引っ越すときに敷金から畳の張替え代を引かれやしないだろうか、そういえばここにタバコの焦げ跡があるが、いくらばかり引かれるのだろうかなどと、とりとめもなく目につくものが気になって、課題の進行がはかばかしくない。
しかしあまり課題に気を取られて普段尻の下に敷いているものまでウジウジさせられるのも癪なので、せめて電車の中でくらい心安らかに読書しようと思い立って、書店でふと目についた三島由紀夫の不道徳教育講座を買ってみたが、これがなかなかおもしろい。
詳しい内容はここで敢えて述べないが、要はひたすら世の礼節や常識だのに対して、青年の特権を行使して天邪鬼なことを述べていると思ってよい。その若々しさに惚れ惚れしながら読み進めていると、ちょくちょく現代の社会通念から見ると噴飯物とさえいえる古臭い考えに対して、大真面目に、しかも我々からするとそれも旧時代の考えと思える切り口から批判していている部分に突き当たるたびに、カバーの折り返し部分を見返して、壮年にしてもまだ若者の傲慢さの残る三島由紀夫の写真と、大正14年生まれと書いているのを確認する。そうだ、三島由紀夫は小生の今は亡き祖父よりも年長で、しかも青年として死んだのだ。
思うに、考え――思潮と云っていい――にその時々で古い新しいはあるかもしれないが、考え方の若々しいものと老熟したものとの関係は、万古不変である。
我々浅学非才の若造たる学部生ごときがこういう場にせよなんにせよ、自らの言説を発信することの意義は、まさにその青くさいばかりの若々しさにこそあるべきであると思う。
政策弁論をする我々雄弁会員、ひいては各大学弁論部の学生は、壇上に登れば声を大にして政府の政策を批判し、己の思うところを雄弁する義務を負っている。しかし、知識において政権の政策担当者より秀でたる者は、なかなか存在しないだろう。それでも我々が弁論で意見を述べる意義があるとすれば、それはなんにでも「まあそんなものだよ」と受け入れることを潔しとせずに、かたっぱしから疑ってかかり、それを正しいと信じて、厚顔無恥にも敢然と王様は裸だと叫ぶ所にあるのではないだろうか。
波打った畳を押したりひいたりしつつ、そんなことを思った。