『占守島の戰』法學部1年 石本仰

一昨年、元陸軍中尉岩荑栨氏の講演を拜聽する機會に惠まれた。氏は昭和20年8月18日、ソ聯との輭に起つた占守島の戰に參加、シベリア抑留を經て昭和22年、日本に生還した。この占守島の戰に於ける日本軍の奮戰により、北海道はソ聯の領有を免れたといはれる。
「北の硫黄島」とも稱せられる、占守島の激戰の體驗を直に御聽きする貴重な機會であり、又私自身、北海道の出身ということも相俟つて、この講演會は非常に印象に殘るものであった。
占守島は、面積約380平方キロメートル、カムチャツカ半島を輭近に望む、千島列島最北端の島である。この小島に、日本のポツダム宣言受諾後の昭和20年8月18日、ソ聯軍が突如侵攻を開始した。同年9月1日までの北海道北半の占領を企圖した南進であつた。
占守島守備隊は、ソ聯軍と文字通り死鬪を繰廣げ、一説には、日本軍の死傷者700〜800名に對し、ソ聯軍の死傷者は3千名に達したといふ。當時のソ聯政府機關紙イズベスチアは損害の餘りの大きさに、「8月19日はソ聯人民にとつて悲しみの日である」と報じた程であつた。ソ聯は北海道占領計畫の斷念を餘儀なくせられた。
日本軍は、ソ聯軍を海岸に釘付にし、内陸への侵攻を一歩も許さなかつたばかりか、敵軍一擧殲滅の體制をも構築してゐた。しかし、本國日本はすでに降伏してをり、戰鬪開始から3日後の21日、日本軍占守島守備隊は降伏、2日後にソ聯軍の手によつて武裝解除が行はれた。
岩荑氏は、飛行第54戰隊の副官として從軍した。次々と殪れてゆく戰友、飛立つた儘還らぬ友軍の飛行機、さうした過酷な戰場に在つて、兵士達は努めて陽氣に振舞つた。「訃報を受けて餘り陰氣にされたのでは、自分の番が來た時、欣んで死にに行けないから」といふのが、その理由であつた。
岩荑氏は大正10年生れ、講演時は88歳でありながら、矍鑠とした御方で、往時の戰鬪を語る合輭、戰友と歌つた軍歌を披露されてゐた。
戰鬪では優勢であつたにも拘らず、降伏の已無きに至つた占守島守備隊は皆、涙を呑んで武器を棄てた。しかし、武裝解除を行つたソ聯軍は日本兵に敬意を表し、非常に禮儀正しく接したといふ。「こんな立派な
手と死力を盡して戰つたことは、私の誇りとする所である」と、氏は言ふ。
だが、降伏直後の内地生還は叶はず、岩荑氏ら日本兵はシベリアに送られ、2年輭に及ぶ苦役に從事する。所謂シベリア抑留である。
ソ聯の極東の港町ナホトカから貨車に詰込まれ、1箇月掛けてシベリアに到著。貨車には筵が敷いてあるのみで、食事も玉蜀黍を煮ただけの粗末なものしか與へられず、それも1週輭も經つと喉を通らなくなる。
ラーゲリ(收容所)で、氏は「特掃班」に入つた。特掃班といふのは、糞尿係である。「ヤポンスキー、ヨッポイヤンマーチ!(日本人め、バカヤロー)」と罵聲を浴びせ、日本兵を酷使するソ聯の番兵も、強烈な惡臭を放つ特掃班には、寄り附かなかつたといふ。
夏期は糞尿を柄杓で掬つて處理するが、シベリアの冬は、糞尿も凍りつく。鐵棒で打碎いて運ぶのだが、この時、破片が飛散り、顔は汚物に塗れた。それでも氏は、祖國へ歸りたいといふ一心で、2年輭に亙る、屈辱の日々を堪へ拔いた。
自分は只管、日章旗の爲に戰つてきたといふ岩荑氏、シベリアから解放され、再び日章旗の許へ歸還した時の嬉しさは忘れられないと、感慨を込めて語つた。
かうした先人達の奮勵努力の上に、今の日本が在ることを、忘れずにゐたい。