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2100-01-01

[] 伊予中世史への招待

近年中世史の研究が急速に進み、中世の見方・捉え方が様変わりしている。伊予においても同様で、中でも伊予守護河野氏の居城であった湯築(ゆづき)城跡の発掘調査の成果は、単に中世城郭の概念を変えたばかりでなく、中世そのものの見方に大きな影響を及ぼしたと言われている。

「伊予中世史への招待(仮称)」は、湯築城や河野氏を中心に置きつつ、関連する周辺地域までを含めて、近年の研究により明らかになった伊予の中世に踏み込んで行く。当ブログは、その過程で得られ集まった情報や資料を蓄積する役割を担って行く。

[] 湯築城跡保存・活用運動

長期にわたる『道後湯築城跡を守る県民の会』の運動の甲斐あって湯築城跡は国史跡に指定され、更に日本百名城に選定された。この状況変化を受けて会の名称を『文化財フォーラム愛媛』と変更し、「守る」から「活用する」運動へと転換した。

当ブログはその間の様々な情報・資料を蓄積する役割を果たして来たが、湯築城跡の保存・活用の記録を「伊予中世史への招待(仮称)」のサイトに移し保存することとなったのに伴い、このブログも同サイトの一部として今まで同様の役割を担うこととした。

『湯築城跡の保存・活用』運動の原点を永遠記憶に留めるため、湯築城跡が国史跡に指定された時の記念すべき写真を3枚紹介する。

f:id:yudukijou:20031023113644j:image

 築城跡の復元区域(展望台から撮影)

f:id:yudukijou:20030825145613j:image

 史跡に指定されたことを示す標識

f:id:yudukijou:20030825150125j:image

 築城跡の名を初めて記した標識

史跡に指定されるまでは、道後公園が湯築城跡であることを示す標識は一切無かった。この写真は「湯築城跡」の名を初めて明示した記念すべき標識を写したものである。

2010-06-25

[][]三島社と八幡

【喫茶室】から転載

=========================================================

Re: 栄室妙寿 投稿者:桂伯 投稿日:2010年 6月23日(水)22時19分0秒

> No.1338[元記事へ]

今城さんへのお返事です。

>  稲爪神社のご紹介、有難うございました。明石に1年程下宿していました、この神社は全然知りませんでした。当時はまだ歴史をそれ程知りませんでしたので、知っていても関心を抱いたかどうか判りません。

 

三島神社根岸無量光寺相模原、そして明石と、実にピンポイントで押さえておられたのですね。

 

他にはどこにいらっしゃいましたか?

いえ、プライベートを詮索するつもりはないのですが、過去行かれた場所を今一度振り返ってみられれば、その地元の人にしか知られていない事跡が他にも改めて再発見される確率が高いのかも知れませんね。

ところで、「・河野氏三島神社大山祇神社)をなぜ氏神としたのか」に関連しての話題なのですが、八幡神社との関係も気になるところです。

以下、愛媛県神社庁のページから検索した越智氏・河野氏が関係した八幡神社です(全てではないです、簡単かと思ったらくたびれました)。

八幡神社 四国中央市中曽根町729

 http://ehime-jinjacyo.jp/?p=1296%20class=

八幡大神社 四国中央市土居町野田甲1203番地

 http://ehime-jinjacyo.jp/?p=4224%20class=

還熊八幡神社 松山市御幸1-253

 http://ehime-jinjacyo.jp/?p=4518%20class=

八幡神社 松山市窪野町1098

 http://ehime-jinjacyo.jp/?p=5561

護運玉甲甲賀八幡神社 西条市上市甲460番地

 http://ehime-jinjacyo.jp/?p=2597

大亀八幡大神社 今治市吉海町八幡571番地572番地

 http://ehime-jinjacyo.jp/?p=1541

伏原八幡大神社 今治市朝倉上甲1881-6番地

 http://ehime-jinjacyo.jp/?p=600

 

越智益躬自身も八幡神社に関係しているようです。

 

大宮八幡神社 松山市上野町甲51

 http://ehime-jinjacyo.jp/?p=5557

八幡神、奈良時代に神仏混こう以降は八幡大菩薩については単に弓矢・武道の神としての信仰以上のものが何かあったのではないかと想像してしまいます。

呑舟さんが、大和へ行った越智氏が持って行ったのは八幡神社と書かれていましたが、このことは呑舟説の一証左になりますか(なってしまいますか)。

しかし、越智益躬関連では三嶋系神社も多いようです。

一宮神社 新居浜市一宮町1−3−1

 http://ehime-jinjacyo.jp/?p=7730

三島神社 東温市則之内字三島乙2615番地

 http://ehime-jinjacyo.jp/?p=4892

高縄神社 松山市宮内甲102-1

 http://ehime-jinjacyo.jp/?p=5159

浮嶋神社 東温市牛渕584番地

 http://ehime-jinjacyo.jp/?p=4816

三嶋神社 今治市祇園町1丁目1番63号(写真ででている獅子舞、稲爪神社のものと酷似!)

 http://ehime-jinjacyo.jp/?p=766

三嶋神社 今治市上徳字高森194・195番地

 http://ehime-jinjacyo.jp/?p=830

御鉾神社 今治市玉川町鬼原字惣六谷甲321番地

 http://ehime-jinjacyo.jp/?p=847

曰く「厩戸皇子が行啓になり・・・」

中神社 伊予市三谷2383

 http://ehime-jinjacyo.jp/?p=4266

そして、越智益躬ご神霊はここ

鴨部神社 今治市旭町5丁目2番27号

 http://ehime-jinjacyo.jp/?p=784

そもそも、三島神社についてさえも、よく知られていないところがあるようです。

神社

 http://kamojinja.web.fc2.com/kamojinja03.html

 

三島社と八幡社 投稿者:呑舟 投稿日:2010年 6月24日(木)05時06分49秒

> No.1363[元記事へ]

桂伯さんへのお返事です。

> ところで、

> 「・河野氏三島神社大山祇神社)をなぜ氏神としたのか」

> に関連しての話題なのですが、八幡神社との関係も気になるところです。

>

> 以下、愛媛県神社庁のページから検索した越智氏・河野氏が関係した

> 八幡神社です(全てではないです、簡単かと思ったらくたびれました)

●ご苦労さまでした。

 こうしたアプローチ面白いですね。

 三島社は摂津神社の由緒が一番史実に近いのではと思います。

 後に、伊豆三島瀬戸内海に分社されていったと思われます。

 八幡社は宇佐八幡総社として京都男山に分社し、伊予八幡様は概ね、男山よりの再分社が多いようですね。

 三島社には越智家が、八幡社には河野家がからんできますね。

 由緒をみると相当混乱もあるようです。

 よく見ると時代が全く合わないのです。

 「三代実録」を出典としている由緒は概ね信頼できると思われます。

  となると時代背景人物等の説明は「予章記」「河野家譜」とは違っていますね。

 細かく説明しようと記事にしていましたが途中でDATAが飛んでしまいましたので概略を書いています。

 古代越智氏の由緒に「散位」と記録したものがありますが、これは越智郡の国造家の一族 を暗示していると思われます。

 私の記憶が正しければ「散位」とは正式な官位を持たない者の意味だったと思います。

 続日本紀越智家の「貢物授官」の背景を彷彿させます。

 私は古代越智族は三島社を、河野氏はこれに八幡社を氏神として追加したと思っています。八幡源氏系、武家系の神として発展して行くからです。

 河野氏越智氏端系か源氏端系が越智本流を仮冒した証左とみています。

 ややこしいのは越智宗家の分かれも河野一族とされてしまい真贋が不明になっています。

 たとえば越智河野分流とされる寺町氏は正統越智分流と思われます。

 他にも越智宗家分流は散見されます。

 

Re: 三島社と八幡社の祇に想うことは 投稿者:海遊庵主 投稿日:2010年 6月24日(木)22時20分0秒

> No.1364[元記事へ]

呑舟さんへのお返事です。

> 桂伯さんへのお返事です。

>

> > ところで、

> > 「・河野氏三島神社大山祇神社)をなぜ氏神としたのか」

> > に関連しての話題なのですが、八幡神社との関係も気になるところです。

> >

> > 以下、愛媛県神社庁のページから検索した越智氏・河野氏が関係した

> > 八幡神社です(全てではないです、簡単かと思ったらくたびれました)

>

> ●ご苦労さまでした。

>  こうしたアプローチ面白いですね。

>

>  三島社は摂津神社の由緒が一番史実に近いのではと思います。

>  後に、伊豆三島瀬戸内海に分社されていったと思われます。

>

>  八幡社は宇佐八幡総社として京都男山に分社し、伊予八幡様は概ね、男山よりの

>  再分社が多いようですね。

・・・今一度御選択(洗濯・・坂本竜馬流儀)をお願いしたき想い也。

やっと・・今宵で、阿波の国・河野氏の御子孫とおぼしき河野(かわの)氏との仏縁にて恰も・・先祖の菩提に導かれる侭の由縁にて・出会う機会を授かりし摩訶不思議なる日は27日也!概ね準備も整いて候也・・さて、一連の大山大神を奉る大三島大山祇神社の話題も、桂伯さまのお導きにて、呑舟師のご賢察、ご見識にて賑わいを見ておりました。

道後・湯築城周辺の神社の義も・・古来からの歴史の深き奥の細道を想いを添えること仕切り為らん哉。

ところで、宇佐八幡宮は日ノ本〜津々浦々に鎮座まします八幡神社総本宮・・伊予之国の大山祇(袛)神社も『村の鎮守の神様今日楽しい祭り〜どんどんひゃらら〜どんひゃらら〜と・・』歌われるのは、総鎮守の神の座する神社は、伊予之国越智郡大三島也。

さて、呑舟師なれば既にご承知の義なれば、敢えて念を押す事も憚られる義にて候えども、宇佐八幡宮縁起にては、庵主の昔のよちよち歩きの時代に、別府大学のご教授中野某氏研究の学説が思い出され、『八幡信仰は、原始八幡信仰・応神八幡八幡大菩薩〜そして武神八幡大菩薩信仰への変遷の学説が記憶に残っております。

ぜひ今一度御選択(洗濯)をお願いします。(坂本竜馬の没頭中の土佐の国いごっそ魂)

 

Re: 三島社と八幡社の祇に想うことは 投稿者:呑舟 投稿日:2010年 6月25日(金)19時11分18秒

> No.1366[元記事へ]

海遊庵主さんへのお返事です。

> >  三島社は摂津神社の由緒が一番史実に近いのではと思います。

> >  後に、伊豆三島瀬戸内海に分社されていったと思われます。

> >

> >  八幡社は宇佐八幡総社として京都男山に分社し、伊予八幡様は概ね、男山よりの

> >  再分社が多いようですね。

> ・・・今一度御選択(洗濯・・坂本竜馬流儀)をお願いしたき想い也。

> やっと・・今宵で、阿波の国・河野氏の御子孫とおぼしき河野(かわの)氏との仏縁にて

> 恰も・・先祖の菩提に導かれる侭の由縁にて・出会う機会を授かりし摩訶不思議なる日は27日也!概ね準備も整いて候也・・さて、一連の大山大神を奉る大三島大山祇神社の話題も、桂伯さまのお導きにて、呑舟師のご賢察、ご見識にて賑わいを見ておりました。

> 道後・湯築城周辺の神社の義も・・古来からの歴史の深き奥の細道を想いを添えること仕切り為らん哉。

> ところで、宇佐八幡宮は日ノ本〜津々浦々に鎮座まします八幡神社総本宮・・伊予之国の大山祇(袛)神社も『村の鎮守の神様今日楽しい祭り〜どんどんひゃらら〜どんひゃらら〜と・・』歌われるのは、総鎮守の神の座する神社は、伊予之国越智郡大三島也。

> さて、呑舟師なれば既にご承知の義なれば、敢えて念を押す事も憚られる義にて候えども、

> 宇佐八幡宮縁起にては、庵主の昔のよちよち歩きの時代に、別府大学のご教授中野某氏研究の学説が思い出され、『八幡信仰は、原始八幡信仰・応神八幡八幡大菩薩〜そして武神八幡大菩薩信仰への変遷の学説が記憶に残っております。

> ぜひ今一度御選択(洗濯)をお願いします。(坂本竜馬の没頭中の土佐の国いごっそ魂)

 

●いやあ、眠いです。岡田JAPANがここまで頑張るとは予想していませんでしたので、ああ〜眠い

 

 宇佐八幡縁起は存知あげています。

 庵主様の記憶は正しいです。

 

 応神天皇の神霊となりますので、皇室からすると伊勢神宮とのからみがあり、やんごとなき方では少し見解が違って参ります。

 

 されど大山祗神と応神神とは別物ですから、方や渡来神、方や15代天皇神霊ですよね。

 もちろん上下のへだてがあるわけではありません。

 

 概ね傾向として古代越智族の話に出てくるのは大山祗神で、八幡信仰が始まるのは越智河野と並列で氏を言い始めた頃と思われます。

 源氏とかかわりだしたころかと。

 

 越智河野氏は双方の神を神仰してるみたいですが、古代越智族は八幡信仰はなかったのではないでしょうか?

 すべての八幡様を調べたわけではないので断定はできませんが。

 現在残る伊予八幡さまの由緒は由緒によっては?もあります。

 この点は三島社の由緒も一部?ですが。

 

 古代越智族とは為世、為時、以前ぐらいとみています。

 

 親孝、親経、親清あたりからは越智河野族ではないかと思っています。

 

 この辺りを境に予章記も予陽河野家譜も伝承から史実にガラっと近付いてきます。

 親清以降の分かれた支族を越智河野氏族、それ以前の分かれは古代越智族流ではと考えています。各家の伝承「系譜」が微妙に違うのです。

 

 どの家に伝わる系譜が史実に近いのかが研究課題です。

 

 ですから系譜や文書を他家のを含めて時系列的に編者の意図を加味しながら、検証しないと判らないと思っています。

 

 長い旅です。

 

Re: 三島社と八幡社の祇に想うことは 投稿者:海遊庵主 投稿日:2010年 6月25日(金)23時51分20秒

> No.1373[元記事へ]

 

呑舟さんへのお返事です。

 

さて、八幡神の数は全国で約4万社を超えると記す。

原始八幡信仰古代朝鮮半島から渡来文化を受容していたシャーマンの家筋・辛嶋氏と宇佐之国造りで『ウサヒコ・ウサツヒメ』を祀る宇佐氏であった。

これ等の氏族を司っていた豊国文化は6世紀まで続いたが、其の文化は相当高度なもので、その中から5世紀末に雄略天皇の病を治したと言う『豊国奇巫・とよくにのあやしきかんなぎ』やそれに続く『豊国法師』が生まれてきた・・と・・記すは・・別府大学文学部教授中野幡能氏の学説ですね!

巫道・道教・仏教と神道が融合して成立した謎の託宣神と・・解釈を付けているのも面白いですな〜。

それから、応神信仰は道教・仏教・シャーマニズムの中で培われた文化の中に、畿内大和から持ち込まれたのが応神信仰で、6世紀末、それを宇佐に持ち込んだのが、何となんと!

三輪山のシャーマン・大和伊福郷の出・『大神比義・おおがのひぎ・大三輪一族』であったかと?!。

続いて語るところは、この大神比義の宇佐入りに因って国造りの宇佐氏は没落し、宇佐氏の祭祀は大神氏に取って代わられた・・此処で応神八幡信仰が成立する・・と・・も記す。

辛嶋氏は大神氏のもとで宇佐八幡宮の禰宜となり託宣神八幡の祭祀を行ったとも。

とすれば?・・大三島大山積神(大山津見神)との違いも垣間見えるのが、難とも思えて為らないのが庵主の踏まえ方ですがねえ〜?・・maru阿弥師にも是非説いて頂きたいものです。

 

Re: 栄室妙寿 投稿者:桂伯 投稿日:2010年 6月26日(土)00時52分22秒

> No.1365[元記事へ]

 

今城さんへのお返事です。

 

今城さん、呑舟さん、海遊庵主さん こんばんは。

 

八幡神社の話、ありがとうございます。

伊佐爾波神社はお正月の風景として今城さんが写真で紹介されていたところですね。

 

頼義と親経の名が出てくるのですが、手元のコピーで「号河野新太夫伊与(ママ)入道頼義為當國司在国也与親経同志而四十九ヶ処薬師堂八ヶ処八幡宮立也」とあります。(あ、そうだ、呑舟さんの益躬の項目の各種底本の比較の話のおかげで、「三韓」の記述があることからこれが予章記長福寺本に依拠しているらしい事が分かりました。どうもありがとうございます。)

頼義は滞在する先々で八幡神社を作らせまくったようで、例えば、鎌倉の鶴岡八幡宮も、石清水八幡宮を由比ヶ浜辺にお祀りしたのが始まりだそうです。

 http://www.hachimangu.or.jp/about/lineage/index.html

 

しかし、なぜ親経が「同志」なのか不思議に思っておりました。頼義とは実は同祖の関係だったということだったのでしょうか。それとも薬師堂を立てるという今で云うところのボランティア的な行為を同じく志してという意味だったのか、それとも単に「命じられて」と書きたくなかったからだけなのか、よくわからないでいます。比率から見て三島神社ももう少し立てておいてもよさそうなのにと思ってしまいます。

 

それから、稲爪神社のすぐそばにも越智益躬は祀られているのですが、そこは越智神社という名から、後世江戸中期には勝手に八幡神社にされています。そんな例もあるようです。

 http://blog.goo.ne.jp/kimmy_v-kobe/e/4ff8e3d00f793755df30709abb923924

 

以下、親経の名が出てくる愛媛県内の神社のリストです(八幡系に限っても10社)。

・伊佐爾波神社 松山市桜谷町173番地 http://ehime-jinjacyo.jp/?p=448

・生石八幡神社 松山市高岡町917番地 http://ehime-jinjacyo.jp/?p=7071

・正八幡神社 松山市福角町北辻649 http://ehime-jinjacyo.jp/?p=5537

八幡神社 八幡浜市かみやま510 http://ehime-jinjacyo.jp/?p=8302

・喜多浦八幡大神神社 今治市伯方町北浦清鼻甲2463 http://ehime-jinjacyo.jp/?p=2395

・森正八幡神社 東温市南方八幡森1960番地 http://ehime-jinjacyo.jp/?p=4889

八幡大神社 四国中央市土居町野田甲1203番地 http://ehime-jinjacyo.jp/?p=4224

八幡神社 四国中央市中曽根町729 http://ehime-jinjacyo.jp/?p=1296

八幡神社(前組)上浮穴郡久万高原町前組3000 http://ehime-jinjacyo.jp/?p=5635

・五社八幡神社 上浮穴郡久万高原町西谷字郷角12679 http://ehime-jinjacyo.jp/?p=5576

・伊曽能神社 伊予市宮下1972 http://ehime-jinjacyo.jp/?p=3702

・湊三嶋大明神社 松山市港山町1925 http://ehime-jinjacyo.jp/?p=4982

 

---------------

ところで、以下は神社関連の話題ではあるのですが、伊豫中世史とは直接には

あまり関係がない全くの無駄話です。

これまで一般人にはほとんど知らされていなかった事なのですが、政府の某機関とウラで何か密接な関係を持っていたらしいことが露顕した二つの寺社についてです。

その証拠文書も公開されていたことに最近になって気がつきました。(既にご存知の方もおられたかも)

単に自分で読んでいて面白かったというだけです。ヒマであればご覧下さい。

http://www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=23059

http://tobifudo.jp/index.html

https://ssl.tksc.jaxa.jp/sss/sss10/pdf/S1-5.pdf

 

寺社そのものではありませんが、上記の文書の関連情報です。

http://www.yomiuri.co.jp/space/news2/20100615-OYT1T00383.htm

http://www.nec.co.jp/ad/hayabusa/story/03/index.html

https://ssl.tksc.jaxa.jp/sss/sss10/pdf/S2-8.pdf

 

Re: 栄室妙寿 投稿者:呑舟 投稿日:2010年 6月26日(土)07時22分16秒

> No.1377[元記事へ]

 

桂伯さんへのお返事です。

 

> 頼義と親経の名が出てくるのですが、手元のコピーで「号河野新太夫

> 伊与(ママ)入道頼義為當國司在国也与親経同志而四十九ヶ処薬師堂

> 八ヶ処八幡宮立也」とあります。

> (あ、そうだ、呑舟さんの益躬の項目の各種底本の比較の話のおかげで、

> 「三韓」の記述があることからこれが予章記長福寺本に依拠している

> らしい事が分かりました。どうもありがとうございます。)

>

> 頼義は滞在する先々で八幡神社を作らせまくったようで、例えば、鎌倉の

> 鶴岡八幡宮も、石清水八幡宮を由比ヶ浜辺にお祀りしたのが始まりだそう

> です。

 

●そうですね。八幡社は源氏氏神としたので鎌倉時代に武士階級に普及したとされていますね。

八幡太郎義家は石清水八幡に由来していますよね。それ以前に石清水八幡宮の社領も全国

に分布しそこには八幡様をお祭りしたとされていますね。

>

> しかし、なぜ親経が「同志」なのか不思議に思っておりました。

> 頼義とは実は同祖の関係だったということだったのでしょうか。それとも

> 薬師堂を立てるという今で云うところのボランティア的な行為を同じく

> 志してという意味だったのか、それとも単に「命じられて」と書きたく

> なかったからだけなのか、よくわからないでいます。

> 比率から見て三島神社ももう少し立てておいてもよさそうなのにと思って

> しまいます。

 

●親経らが源氏の出自とされているのは仮冒とされてますね。

 この辺りから越智氏を出自とするのが?になってきてしまいます。

> それから、稲爪神社のすぐそばにも越智益躬は祀られているのですが、そこは

> 越智神社という名から、後世江戸中期には勝手に八幡神社にされています。

> そんな例もあるようです。

●この記事は以前にも見ましたが、7世紀ぐらいの話に18世紀以降の殿様が理解を示す

 と言う由緒は少し飛躍がありすぎるなと思っていました。

 

> 以下、親経の名が出てくる愛媛県内の神社のリストです(八幡系に限

> っても10社)

 

●お調べいただいて有難うございます。

 見させていただきました。

 河野氏八幡社も信仰しています。

 越智河野が直接繋がる由緒はないように思えます。

 これも7世紀ぐらいの話から12世紀の話に由緒がポンと飛ぶのが多いので後付け由緒で はと思っています。

 証拠がないから「・・・・言われています」と伝承の形をとっていますね。

 

 久万高原町の八幡社にいたると神亀5年とそれらしき年代が創建と書かれてますが、

 神亀5年は728年となりますので、この奥久万(熊)あたりがこの時代に開拓されていて それなりの集落があったとは思えません。

 このころの記録では738年伊予国司は大伴ニラマロとされています。

 越智氏がこの前後国司ではありません。

 いわゆる平安時代は伊予越智郡越智氏(国造家)はいるのですが、これらの由緒に出 てくる越智○○は正史にはでてこないのです。

 たぶん「予章記」あたりをから引っ張ってきたのかなと思われます。

 

 ですから時系列に並べて検証しないと判らないと思っています。

 

 予章記は罪な本です。あらゆるところに影響を与えています。

 

Re: 栄室妙寿 投稿者:桂伯 投稿日:2010年 6月27日(日)22時03分58秒> No.1378[元記事へ]

> No.1378[元記事へ]

呑舟さんへのお返事です。

な〜るほど、古代史(プレ・中世史)についてまでも遡って、その資料に対する中世以降のこれまでの様々な同定・解釈を再度自分の目で洗い直すところから始める旅ですか、、、

うーん、私には気が遠くなるようですね。

その意味では、イトカワからサンプルを持ち帰るという課題の方が未だしも、イトカワの存在が位置も含めて既に分かっていた事、課題達成のための方法論は、その実際の立案・実行についてはまた別の問題であるとしても、16世紀のデカルト以来既に確立されているので見通しを立てる事自体にはさほどの困難さがなかったという事に比較すると、呑舟さんの方が果てしなく遠く厳しい道ですね。

どういう手段を採るべきかの以前に、先ず以って、求める解は果たして存在するものか(現実的に入手・証明できるものか)という疑義と戦いながらの旅になりますからね。

既存の解釈史料(2次資料)に頼らざる得ない部分があるにしても、捏造、ミスリード、黙殺が入ってくる可能性があるので、それを峻別する眼力とそれを裏付ける資料の入手・選別・発見と、、、

正しい考証については、残念ながら私の能力では日和らせてもらわざるを得ません。

中世の伊豫のその時々の体制側の論理で改ざんさせられた部分も実際多いのでしょう。

無誤無謬説はまたそれ自体が糊塗せんとする捏造を往々拡大再生産し行くものですから、「この部分は異論あり」とした上で見ていく方がよっぽど健全ですね。

しかし、その各々の神社等に中世以降現在までの人々がそう認識して奉った神恩感謝の念の積分値の持つ重さも現実のものだと思いますので、それについては私自身はそのままに尊重しておくことにしたいと思います。

(平泉澄博士でさえも、皇紀が500年ばかり長すぎる事に対しては、それは讖緯の 説の責任であって(この解釈を最初に立てたのは那珂通世らしい)、そのような間違いが出るほど我が国の歴史は古いものであり、それはむしろ楽しい事なのであ〜ると云いくるめておられたくらいですから・・・)

---------

以下本当は仮面の忍者赤影のことを書いたのですが、思い直して削除してもらいました。

管理人さん、お手数おかけしました。

前言撤回、二言を呈するとは、切腹ものです。前代未聞の恥曝しでした。

お見苦しい醜態、ご覧の皆様にもひらにお詫び申し上げます。

教育的なものに差し替えます。

【小室直樹博士の日本教講義 国家神道教育が我が国の近代化に持った意義】

http://www.dailymotion.com/video/xxhxe__politics

2010-06-20

[][]栄室妙寿

【喫茶室】から転載

=========================================================

栄室妙寿 投稿者:黒川 投稿日:2010年 6月13日(日)09時52分40秒

上蔵院河野家過去帳を見ていると、「栄室妙寿大姉」と云う方が、通直姨(おば)とあります。「栄室妙寿大姉」は剣山城主黒川通博の室で、河野晴通女四人有り、一人は毛利甲斐守元清室、一人は黒川肥前守通博室、一人は来島三郎九郎通総室、一人は正岡右近太夫通高の室となっています。と見ると、当時は女姉妹続きで、道後(河野宗家)、道前(黒川家)、府中(正岡家)、島方(来島家)、となり、天正陣後は毛利元清や小早川の縁で中国に渡ったのでしょうか?高野山文章には黒川通尭、通廣が、2回にわたり、河野宗家の命で伊豫のから行く人の宿房は上蔵院ときつくお触れを出しています。天正四国討伐や長宗我部の進行が無ければ、姉妹の縁で少しは平和だったのかも知れません。

 

Re: 栄室妙寿 投稿者:呑舟 投稿日:2010年 6月13日(日)14時27分28秒

> No.1278[元記事へ]

黒川さんへのお返事です。

> 上蔵院河野家過去帳を見ていると、「栄室妙寿大姉」と云う方が、通直姨(おば)とあります。

「栄室妙寿大姉」は剣山城主黒川通博の室で、河野晴通女四人有り、一人は毛利甲斐守元清室、一人は黒川肥前守通博室、一人は来島三郎九郎通総室、一人は正岡右近太夫通高の室となっています。と見ると、当時は女姉妹続きで、道後(河野宗家)、道前(黒川家)、府中(正岡家)、島方(来島家)、となり、天正陣後は毛利元清や小早川の縁で中国に渡ったのでしょうか?高野山文章には黒川通尭、通廣が、2回にわたり、河野宗家の命で伊豫のから行く人の宿房は上蔵院ときつくお触れを出しています。天正四国討伐や長宗我部の進行が無ければ、姉妹の縁で少しは平和だったのかも知れません。

●そうですね。湯月の押さえとして重要な地区へ楔を打ち込んでいたようですね。

黒川家も高野山信仰が篤かったようですね。

別に

 「栄林宗秀 霊位 予州黒川通幸公建立 永禄元年戊牛年七月十一日」

とありますが、この戒名はどなたですか?

又、別に

 「明室壽光 霊位 予州黒川殿為内室 文禄三年申牛年卯月廿一日

とあります、この予州黒川殿はどなたでしょうか?

今、話題の土居清良も上蔵院を宿坊に使っており、上蔵院では河野家一族として清良を扱っていますね。

土居清良が生前の天正六年正月五日、自分自身で高野山に登り生前戒名を受けています。

 

Re: 栄室妙寿 投稿者:黒川 投稿日:2010年 6月13日(日)19時24分52秒

> No.1279[元記事へ]

呑舟さん。 こんにちは。ご質問の「栄林宗秀 霊位 予州黒川通幸公建立 永禄元年戊牛(午)年七月十一日」の通幸公は何処の系図に出てきません。また、通幸公が書面に出てくるのは、この上蔵院文書のみです。ただ、この文、私が持っているのは、多分、史談会所蔵の写しと聞いていますので、もし写し間違いで通尭であれば、なんとなく解りますが。。また戒名に付いても不明です。もう一つの、ご質問の「明室壽光 霊位 予州黒川殿為内室 文禄三年申牛(甲午)年卯月廿一日」についても色々と調査しましたが不明でした。今後の調査を待ちます。また宗太郎通長などの戒名も見えます。豊臣の御世になっても徳川の御世になっても、上蔵院を伊豫の武将が宿坊にしたのは変わりなく、著名な武将の残した切手が上蔵院文書に見えます。

別件ですが、呑舟さん。「予陽河野盛衰記」のP112に出てくる、大野東人とは、大野の方ですか?御教示願います。

 

Re: 栄室妙寿 投稿者:呑舟 投稿日:2010年 6月13日(日)20時00分53秒

> No.1280[元記事へ]

黒川さんへのお返事です。

●そうですか不明ですか?

 今後、気をつけてリサーチしましょう。

別件ですが、呑舟さん。「予陽河野盛衰記」のP112に出てくる、大野東人とは、大野の方ですか?御教示願います。

●先日送信して頂いた「予陽河野盛衰記」は取得に失敗しましたのでなんとも言えません。

 前後の頁を含めて「喫茶室」」にUPして頂けると目安は付くと思われますが。

 現在の所、手元の大野関係文書に大野東人は見つかりません。

 歴史上は大野東人(おおのあずまんど)は平安時代の蝦夷東北地方)の平定に平安京

 ら遠征に出かけた将軍が有名です。このころは大野家の遠祖も都にあって大伴姓を名乗り

 大野東人らと蝦夷遠征に当っていますので氏族が違います。

 

Re: 栄室妙寿 投稿者:海遊庵主 投稿日:2010年 6月17日(木)00時29分16秒

> No.1280[元記事へ]

黒川さんへのお返事です。

> 呑舟さん。 こんにちは。ご質問の「栄林宗秀 霊位 予州黒川通幸公建立 永禄元年戊牛(午)年七月十一日」の通幸公は何処の系図に出てきません。また、『通幸』公が書面に出てくるのは、この上蔵院文書のみです。ただ、この文、私が持っているのは、多分、史談会所蔵の写しと聞いていますので、もし写し間違いで通尭であれば、なんとなく解りますが。。また戒名に付いても不明です。もう一つの、ご質問の「明室壽光 霊位 予州黒川殿為内室 文禄三年申牛(甲午)年卯月廿一日」についても色々と調査しましたが不明でした。今後の調査を待ちます。また宗太郎通長などの戒名も見えます。豊臣の御世になっても徳川の御世になっても、上蔵院を伊豫の武将が宿坊にしたのは変わりなく、著名な武将の残した切手が上蔵院文書に見えます。

> 別件ですが、呑舟さん。「予陽河野盛衰記」のP112に出てくる、大野東人とは、大野の方ですか?御教示願います。

 

Re: 栄室妙寿 投稿者:黒川 投稿日:2010年 6月17日(木)19時02分31秒

> No.1296[元記事へ]

海遊庵主さん。

こんにちは。上蔵院文書は唯一、伊豫の黒川があったと言う証明文の一つですので、私も「通幸」なる人が、どのような方か知りたいです。通幸公建立と書いていますので、戒名の人は亦ちがう人なので、その人も気になります。

以前、大阪に縁戚の葬儀に参列した時、当日に墓に納骨した時に聞いたのですが、骨も、仏と名が着く部分(鼻仏や咽仏)の骨は、取り出して別の骨壷に入れて、他の骨はそのまま自家の墓に納骨し、仏骨は期間を於いて、高野山に納めに行くと聞きました。(その値段●●万円)との事でした。昔からそのようなしきたりが有り、高野山に墓を持つ、納骨する、などの習があると思います。上蔵院文書は銀を何貫、布を何疋(1疋は2端?)など収めたと切手に書いています。火事で焼けた文書が残っていれば、もう少し詳細が解ったかもしれません。

 

Re: 栄室妙寿 投稿者:呑舟 投稿日:2010年 6月18日(金)04時41分36秒

> No.1301[元記事へ]

黒川さんへのお返事です。

> こんにちは。上蔵院文書は唯一、伊豫の黒川があったと言う証明文の一つですので、私も

> 「通幸」なる人が、どのような方か知りたいです。通幸公建立と書いていますので、戒名の人は亦ちがう人なので、その人も気になります。

> 以前、大阪に縁戚の葬儀に参列した時、当日に墓に納骨した時に聞いたのですが、骨も、

> 仏と名が着く部分(鼻仏や咽仏)の骨は、取り出して別の骨壷に入れて、他の骨はそのまま

> 自家の墓に納骨し、仏骨は期間を於いて、高野山に納めに行くと聞きました。(その値段●●万円)との事でした。昔からそのようなしきたりが有り、高野山に墓を持つ、納骨する、

> などの習があると思います。上蔵院文書は銀を何貫、布を何疋(1疋は2端?)など収めたと切手に書いています。火事で焼けた文書が残っていれば、もう少し詳細が解ったかもしれません。

●興味あるお話ですね。

 榮林宗秀 →この人が男か女か? どちらとも取れますが私は女ではないかと見ています。

男なら他の戒名が男を意味する居士、禅定門を故人に付けているからです。

例外的に故人ではなく生前戒名を意味する「逆修」の場合は男女双方に四文字戒名が見られます。詳しくは高野山に聞かないと分かりませんが?

 霊位   →とあるので亡くなった人でしょう。

       女なら、通幸の室か姉か母親かではないかと見ています。

 予州黒川通幸公建立  →キーワードは公の字と思われます。

       公の字を使うと云うことは、一城の主、即ち殿様の立場にあった人では?

       永禄元年七月十一日とありますので、1558年7月11日現在、通幸なる人物

       は生きていたことになります。

       本人が登山したのか代参なのかは上蔵院文書を確認する必要がありますが。

       たぶん丁寧に調べていけば通幸が誰か分かると思います。

       ?永禄元年当時、城主で生きていることがポイントでしょう。

       ? ?に該当する人物はそう多くないと思われます。

          改名もしくは伝えられている人物の別名かもしれません。

感想として、これも高野山に聞かないと分かりませんが

 ?本山納骨は相当時代が下がってからではないでしょうか?

  戦国時代から慶長時代にかけての名だたる人物の墓とされてるものは実は墓ではなく供養塔と思われます。よって実態的には骨はないと思われます。

  現在高野山納骨儀式はありますが、骨やゆかりの品(毛髪・爪等)は本山ではなく取次ぎの宿坊に安置されているようです?

  「河野氏過去帳」においても「取次ぎ宿坊」の名が出てきます。必ずしも上蔵院だけではないようです。

  宿坊は現在でも百いくつかあってそれぞれが立派な寺院です。

  有名な人の供養塔がたくさんある、一の橋から奥の院までの参道は所謂、霊気を感じません。大名が競い合って大きな供養塔を江戸時代に建立したものが多いようです。

  河野通直は戦国時代の建立ですから一回り小さな仕立となっています。

  現在でもよく見ると、主だった供養塔敷地の入口に管理宿坊の名が刻されています。

  河野通直親子供養塔の入り口には上蔵院は外され現在の管理宿坊「金剛三昧院」の刻印石柱が立っていました。上蔵院焼失の後に設置されたと思える若い石柱でした。

 ?もうひとつ感想ですが、有名大名等が競って供養塔を建立していますが、本山認識はないのではないでしょうか?

  本来の宗派が違う人たちが混合して建立しています。

  鎌倉時代以降人気の曹洞宗総本山永平寺】(武家は殆ど改宗?)の家の供養塔も有りますし、徳川幕府浄土宗総本山知恩院】を庇護してますから高野山本山ではありませんし。宗派を超えての聖地とされていたようです。

  同様な立場の比叡山延暦寺にはこのような供養塔ラッシュはないのですが?

  もちろんその前の総国分寺の「奈良大仏さん」にもそのような現象がない。

 ?面白いのは、徳川御三家等の主要な徳川家の供養塔は台座から上の部分は破局されているようで、まともな供養塔になっていません。

  確認しないとわかりませんが明治新政府が(特に長州一派が?)徳川300年の恨み(「毛利家は減封しない」との関が原の戦い直前の約束を家康が反古にしたことを意味)をここでも晴らしているようでした。

  徳川将軍菩提寺の一つ「上野寛永寺」は明治政府が破却をし、主な宿坊であったところは押しつぶして、現在上野駅にしてしまい。寺だけ形のみ残し、残りの墓地の大部分は恩賜公園にしてしまい。動物園や美術館等になった。

  今も動物園の真ん中に塀でかこって気づかないようにしてあるが、数基の立派な徳川家の墓が隠されています。

なにか脱線してしまいましたね。

 

 上蔵院文書は全部焼けたのではないようです。

 今、目にしている「河野氏過去帳」も生残って金剛三昧院から出たようです。

 過去帳等は寺にとって檀家台帳(今様なら顧客名簿)ですので、他の重要文書とともに真っ先に持ち出されると思います。罰当たりですが本尊より優先度が高いかも知れません

 上蔵院文書を引き継いだとされる「金剛三昧院」に確認すると、「沢山ありますので

 よく分かりません、どうしてもと言う場合は住職宛に手紙で問合せして下さい」とのこと

 でした。まともに調べてくれそうではありませんでした。

 尚、高野山大学図書館には「上蔵院文書」は移管されてないそうです。

 

Re: 栄室妙寿 投稿者:呑舟 投稿日:2010年 6月18日(金)05時19分54秒

> No.1304[元記事へ]

黒川さんへのお返事です。

そうそう言い忘れました、「上蔵院文書」の河野家関係を調べていた石野弥生先生なら分かるかもしれません。今城さんつてはありませんか?

 

Re: 栄室妙寿 投稿者:今城 投稿日:2010年 6月18日(金)12時12分51秒

> No.1305[元記事へ]

呑舟さん

石野先生が湯築城資料館館長の時代なら、資料館に行けば会えたのですが。

愛大でやっていらっしゃる講座は、一般にも開放されていたのではなかったかな。

何で見たのか覚えが無い。もの忘れが酷くなりました。シクシク

 

Re: 栄室妙寿 投稿者:今城 投稿日:2010年 6月18日(金)16時33分55秒

> No.1308[元記事へ]

呑舟さん

 検索してみたら、NHKカルチャーセンターで「伊予中世史話」と題する石野先生

講座が、7−12月の半年間、毎月第一月曜日に開催されるようです。

 その内容は、

伊予国(現愛媛県)の中世史は、謎に満ちています。

・村上水軍はどこから発生したのか

河野氏三島神社大山祇神社)をなぜ氏神としたのか

西園寺氏という貴族は、なぜ伊予国に土着して武士化したのか

・戦国時代になぜ伊予国中央部では合戦(戦争)が少なかったのか等々、

きりがないほどです。さぁ、いっしょに伊予中世史の謎の解明に向けて船出しましょう。

だそうで、興味はありますが、¥10,710(会員)ということで・・・

 

Re: 栄室妙寿 投稿者:呑舟 投稿日:2010年 6月18日(金)18時29分34秒

> No.1309[元記事へ]

今城さんへのお返事です。

●早速のお誘い有難うございます。

 さりながら、私は現在 名古屋近郊を徘徊しておりましてとても瀬戸内海を渡れる状況ではございません。そそれれるテーマなのですが。能島の水軍博物館現在の能島水軍末裔氏による講演も気になっているのですが、如何せん地の利がありません。

 講義禄が手に入ればいいのですが?

 

Re: 栄室妙寿 投稿者:黒川 投稿日:2010年 6月18日(金)20時57分20秒

> No.1305[元記事へ]

呑舟さん。今城さん。こんばんわ。

> そうそう言い忘れました、「上蔵院文書」の河野家関係を調べていた石野弥生先生なら

> 分かるかもしれません。今城さんつてはありませんか?

●石野先生は一度、小松にて「河野氏一門黒川氏の政治的位置について」と言う題で講演されています。その時に、上蔵院文書の黒川通幸について質問させて頂きましたが、先生も解らないとの事でした。宗太郎と妙寿、栄寿については話が出たと記憶しています。

 また、別に長福寺文書を紹介され、妙寿は血の道が酷く通直公が気を使い見舞い文を書た文書を見つけたみたいな事を紹介されていました。長福寺にも、まだ埋もれた文書がある かも知れません。私も高野山を時間かけて行きたい今日この頃です。

 

Re: 栄室妙寿 投稿者:桂伯 投稿日:2010年 6月19日(土)17時38分38秒

> No.1309[元記事へ]

今城さんへのお返事です。

> ・河野氏三島神社大山祇神社)をなぜ氏神としたのか

益躬「・・・播州大蔵谷西三嶋大明神勧請社立」(某末裔?の伝承書より)

史料から実証的に読み解く中世史ではなく、単なるオカルト系噂話の域を出ませんが、下記、時間がある時にでもどうぞ。ご参考まで。

【越智益躬と稲爪神社

http://blog.goo.ne.jp/kimmy_v-kobe/e/b49a4bc28e1f66887110968b22fbff14

【稲爪神社秋祭り

http://homepage1.nifty.com/hayashida-tatami/inatume.htm

明石稲爪神社の秋まつり/牛乗り神事と神幸祭の写真(牛と天狗?に注意)】

http://kobe-mari.maxs.jp/akashi/inazumejinja_akimatsuri.htm

【失われたユダヤ10支族は日本に来ていた(天狗?の意味するもの?)】

http://v.youku.com/v_show/id_XMjYxOTc0MTI=.html

【失われたアークと十支族の探索に、ロスチャイルド家来日する(宇野正美00/01/19)(「角折敷三文字」の意味するもの?)】

http://video.google.com/videoplay?docid=5060773590624437679#docid=3191043469565067131

(漫談になっていて、質疑応答の時間もないので「突っ込みどころ」満載でしょうが)

サッカーの試合、日本は4位になると予想する人もいるそうですね。

 

Re: 栄室妙寿 投稿者:呑舟 投稿日:2010年 6月19日(土)18時59分4秒

> No.1317[元記事へ]

桂伯さんへのお返事です。

●稲爪神社の紹介有難うございます。

 なかなか面白い伝承ですね。

 「予章記」の一ページが具現化されているようです。

 只、気になるのはこの稲爪神社の創建がいつになるかですが?

 神紋として傍折敷三文字(写真で見る限りでは算木の三)ですが、大山神社の古紋は傍ではなく折敷三文字(この場合は書体の三)だったはずなのですが

 牛が出てくるのは平安時代の牛車行列の名残りなのではないでしょうか?

 越智と鉄人との戦い時代のものとは考えにくいですね。

 牛車はおもに女と子供の乗り物でした。

 確か、芥川龍之介は火炎地獄の現象として牛車の中の姫君もろとも焼き殺す描写をしているのでイメージが湧くかと思います。

 なぜかこの牛車行列菅原道真を祭る神社に多いのですが?

 この牛車の車輪の直径は2M近くあって乗り物そのものが巨大なものだったと記憶します。

 中は団地間2畳ぐらいで都の大路以外では使用できないような代物です。

 源氏物語絵巻を想像されるとよろしいかと。

 HPの注釈に明石の大蔵谷あたりで景色が良くて鉄人が油断したと云うのは嘘でしょう。

 今でも明石も大蔵谷あたりからの景色は後ろは山で、前は明石海峡でその向こうに淡路島がボーと見えるだけで、上陸したと言われる播磨室津からの景色の方がはるかに絶景です。出典が何かこの場合分かりませんが、この筆者は明石大蔵谷と播磨室津を実際には訪れてはいなくて書いたのでしょう。

 しかし、「予章記」の一節を伝承する神社伊予以外で引き継がれていることには感銘いたしました。

 この鉄人と言うのは鉄の鎧をまとっていた民族と解釈されます。

 逆に言えばこの当時は倭人は鉄の鎧を持っていなかったと解釈されます。

 鉄の武器化は古代ヒッタイト族を思い出します。

 鉄を支配する者が世界を支配したのでしょう。

 

Re: 栄室妙寿 投稿者:呑舟 投稿日:2010年 6月19日(土)23時33分49秒

> No.1312[元記事へ]

黒川さんへのお返事です。

●「妙寿は血の道が酷く通直公が気を使い見舞い文を書た」

 卒時ながらこれは具体的にはどのような意味でしょうか?

又、長福寺の隠れた文書も気になりますが、黒川通博時代の高野聖の拠点であったとされる高音寺(松山市高木町)の手文庫の中にも秘蔵の書があるのではないかと睨んでいます。

 軽快なフットワークを楽しみにしています。

 

Re: 栄室妙寿 投稿者:黒川 投稿日:2010年 6月20日(日)00時23分47秒

> No.1321[元記事へ]

呑舟さんへのお返事です。

> ●「妙寿は血の道が酷く通直公が気を使い見舞い文を書た」

>

>  卒時ながらこれは具体的にはどのような意味でしょうか?

>

> 又、長福寺の隠れた文書も気になりますが、黒川通博時代の高野聖の拠点であったとされ る高音寺(松山市高木町)の手文庫の中にも秘蔵の書があるのではないかと睨んでいます。

 ●呑舟さん。こんばんは。

   小松史談にこのように発表されています。

   通直は出家して、湯築場近くの龍穏寺に入り海岸(和尚)と呼ばれたころ、壬生川氏の許に逗留していたらしく、そこで黒川氏に嫁していた妙寿の病気がちなのを気遣い薬や医者を遣わすと(長福寺文書)病気と書いていますが血の道が酷い(生理痛)と聞いたような?←自信なし。と石野先生の紹介でした。

   また、河野通宣の室(永寿)を道後の大方と云い、黒川通博の室(妙寿)を道前の大方と正岡経成書状(上蔵院文書)のいあるとも。。

 ●鉄人の記載ですが、小千益躬は橋立の命じて蟹ヶ坂にて2千の伏兵をし、鏃の矛で吭を刺す。残党は、須磨垂水辺まで逃げたが追って生け捕りにした。

  首と共に出江の橋立を以って京都に奏達し、小千益躬を伊豫の国司に任ぜられた。

  残党も小千益躬に下されたが、その後放つ、この時、播州大蔵谷に一社を建て、鉄人を刺した、矛を納めた。三島大明神と崇めける。

  その後、小千益躬は伊豫に帰国したが、残党身の置き場なき侭に徘徊し、人の財産を盗み、後に大勢で伊豫に押し渡り、乱暴狼藉し阿党(非常の悪逆)と為した。

  小千益躬は兵を出し悉くカナメ捕り誅戮戮し、和気郡三津浜の北に一埋めけり。

  時の人恐れて、その場所を鬼谷と云う。とあります。

  鬼谷と言う地名は和気にあるのでしょうか?気になります。

 

Re: 栄室妙寿 投稿者:呑舟 投稿日:2010年 6月20日(日)00時56分49秒

> No.1322[元記事へ]

黒川さんへのお返事です。

「呑舟さん。こんばんは。

>    小松史談にこのように発表されています。

>    通直は出家して、湯築場近くの龍穏寺に入り海岸(和尚)と呼ばれたころ、壬生川

>    の許に逗留していたらしく、そこで黒川氏に嫁していた妙寿の病気がちなのを気遣い薬や医者を遣わすと(長福寺文書)病気と書いていますが血の道が酷い(生理痛

>    と聞いたような?←自信なし。と石野先生の紹介でした。

>    また、河野通宣の室(永寿)を道後の大方と云い、黒川通博の室(妙寿)を道前の大方と正岡経成書状(上蔵院文書)のいあるとも。」

● なるほどそうかも知れませんね。

  それと「大方}というのは大奥様、即ち正室のことを当時大方と呼んだみたいですね。

  永壽を大方と言うのは毛利系の文書に見られますので安芸備後地方の方言と思っていましたが伊予でもそのように使われていたのですか?

「鉄人の記載ですが、小千益躬は橋立の命じて蟹ヶ坂にて2千の伏兵をし、鏃の矛で吭を刺す。残党は、須磨垂水辺まで逃げたが追って生け捕りにした。

>   首と共に出江の橋立を以って京都に奏達し、小千益躬を伊豫の国司に任ぜられた。

>   残党も小千益躬に下されたが、その後放つ、この時、播州大蔵谷に一社を建て、鉄人を

>   刺した、矛を納めた。三島大明神と崇めける。

>   その後、小千益躬は伊豫に帰国したが、残党身の置き場なき侭に徘徊し、人の財産

>   盗み、後に大勢で伊豫に押し渡り、乱暴狼藉し阿党(非常の悪逆)と為した。

>   小千益躬は兵を出し悉くカナメ捕り誅戮戮し、和気郡三津浜の北に一埋めけり。

>   時の人恐れて、その場所を鬼谷と云う。とあります。

>   鬼谷と言う地名は和気にあるのでしょうか?気になります。」

●そうですね、そのように書かれてますが、どこまでが虚構でどこからが事実

 分からないのが辛いですね。

 只、正史には鉄人来襲はないのですよね。

 何かが誇張されて伝えられたとは思うのですが。

 越智郡の国造家の越智氏にそのような伝承もなく、「日本書記」も「続日本紀」もなにも 語りません。

 

Re: 栄室妙寿 投稿者:黒川 投稿日:2010年 6月20日(日)01時07分17秒

> No.1324[元記事へ]

呑舟さんへのお返事です。

●「大方」という呼び方はですが、文書にあるみたいですから伊豫ももしかしたら、毛利元清あたりに習ったのでしょうか?此処は識者に聞かないと解りませんです。

 そうでしたら、正岡家は府中の大方といわれたのでしょうか?想像してしまいます。

 

Re: 栄室妙寿 投稿者:呑舟 投稿日:2010年 6月20日(日)01時12分35秒

> No.1322[元記事へ]

黒川さんへのお返事です。

思い出しました!

上蔵院文書は伊予史談会に116通、秘蔵されていることになってますよね。

黒川さんのHPの資料編はこの116通の一部ですか?

 

Re: 栄室妙寿 投稿者:呑舟 投稿日:2010年 6月20日(日)01時20分55秒

> No.1325[元記事へ]

黒川さんへのお返事です。

『「大方」という呼び方はですが、文書にあるみたいですから伊豫ももしかしたら、

>  毛利元清あたりに習ったのでしょうか?此処は識者に聞かないと解りませんです。

>  そうでしたら、正岡家は府中の大方といわれたのでしょうか?想像してしまいます。』

伊予系の文書に出てくるのですか?

 毛利元清が出てくるとなると、平岡氏と宍戸(完戸)氏がからんできますね?

 

Re: 栄室妙寿 投稿者:黒川 投稿日:2010年 6月20日(日)01時21分33秒

> No.1326[元記事へ]

呑舟さんへのお返事です。

私の所有しているのは、もらい物なので、出所不明ですが、多分伊豫史談会所蔵のコピーと思います。東大にも有ると聞いていますが、どちらも写しと思われます。

 黒川の関係部分のみ持っています。違うサイトの土居の戒名も一つみえますね!

 今は、史談会所蔵の閲覧はかなり厳しいと聞いています。会員で尚且つ会長さん?の許可無くしては閲覧できませんと聞いた事があります。

 私みたいな、素人が調査するには、無理が多すぎるのです。

 

Re: 栄室妙寿 投稿者:桂伯 投稿日:2010年 6月20日(日)01時23分34秒

> No.1318[元記事へ]

呑舟さんへのお返事です。

呑舟さん、黒川さん、こんばんは。

>  只、気になるのはこの稲爪神社の創建がいつになるかですが?

神社の創建時期等由緒の詳細は兵庫県神社庁のページででも記載はなかったので、残っていないものと思われます。

>  神紋として傍折敷三文字(写真で見る限りでは算木の三)ですが、

>  大山神社の古紋は傍ではなく折敷三文字(この場合は書体の三)だったはずなのですが傍折敷三文字については過去の諸投稿を拝見したのですが、いろいろ話題になっていましたが変遷については結局良く分からないようですね。

因みに小生が手元に持っているこの前見て頂いたコピーでは、つまり天徳寺で模写したものをもとに寛文年間ころに書かれたと推定される身内の伝承書では、「幕之紋因縁之事」として添付の写真のように2種類だけ記載されています。

右のもの:角折敷三文字云是也 自天神六代面足尊至 二十代後三並 角折敷三文字

     其時代ヘギ(?ヘギオシキと書いてあるのか判別不能)折敷無

    (三並のところの記述も「其内三番目也」とある他は概ね同じです)

左のもの:後頼朝公ヘギニ三文字賜故幕紋ヘギノナリニシテ中(ニ)三文字(ヲ)書也 如(リ)先(規?自分では読めません)(若しくは)角(ノ)折敷三文字云也

通遠−彦六・通次以降は今の宮崎県都城市の南の中郷・宮丸を本領として土着化し、字義通り一所懸命だったようで、宗家・本家から隔離された状態だったためか縮三文字や算木の三への変遷(進化)はしていないようです。

家紋という言葉は出てこなくて「幕之紋」なので、頼朝公に賜ったという外枠さえ尊重していれば、中の「三」の書き方は筆で書く時の物、印刷する物、建築構造物に取りつける物等では成り行き上の多少の違いは気にしなかったのかも知れないと思えます。

(馬印、指物、船・建築物につけた物などは基本的には遠くから識別できれば、それで十分だという気もしますので。)

>  牛が出てくるのは平安時代の牛車行列の名残りなのではないでしょうか?

>  越智と鉄人との戦い時代のものとは考えにくいですね。

>  牛車はおもに女と子供の乗り物でした。

>  確か、芥川龍之介は火炎地獄の現象として牛車の中の姫君もろとも焼き殺す描写をして

>  いるのでイメージが湧くかと思います。

>  なぜかこの牛車行列菅原道真を祭る神社に多いのですが?

>  この牛車の車輪の直径は2M近くあって乗り物そのものが巨大なものだったと記憶します。

>  中は団地間2畳ぐらいで都の大路以外では使用できないような代物です。

>  源氏物語絵巻を想像されるとよろしいかと。

牛車はたしかに源氏物語でも2台の牛車が道を譲れ、譲らないで乱闘に至ったというくだりがあったようですね。

牛は戦闘用・乗用として使うというよりも、生贄か何かに使うつもりだったのか、何れにせよ牛を聖なるものとして扱う天狗(?)のように鼻が高い渡来人の関与を連想してしまいました。

宇野氏の「祭司レビ人」の漫談が面白いと思ってしまったのですが)

>  HPの注釈に明石の大蔵谷あたりで景色が良くて鉄人が油断したと云うのは嘘でしょう。

>  今でも明石も大蔵谷あたりからの景色は後ろは山で、前は明石海峡でその向こうに

>  淡路島がボーと見えるだけで、上陸したと言われる播磨室津からの景色の方がはるかに

>  絶景です。出典が何かこの場合分かりませんが、この筆者は明石大蔵谷と播磨室津を実際には訪れてはいなくて書いたのでしょう。

なるほどそうですか。現場実証主義というのは大切なことですね。

>

>  しかし、「予章記」の一節を伝承する神社伊予以外で引き継がれていることには

>  感銘いたしました。

>

>  この鉄人と言うのは鉄の鎧をまとっていた民族と解釈されます。

>  逆に言えばこの当時は倭人は鉄の鎧を持っていなかったと解釈されます。

>

>  鉄の武器化は古代ヒッタイト族を思い出します。

>  鉄を支配する者が世界を支配したのでしょう。

鉄については、他にもタタラ製鉄技術を持っていた出雲から丹後丹波地方にかけての

反大和朝廷部族の事とかも連想してしまいます。

藤原不比等あたりが封印してしまったのだと云われていますが、本当のところどう

だったのか、私も興味があるところです。

・・・・・

ところで、オランダには負けたのですね。あまりに軽薄な予想でしたか。

運命占いと云えば、はやぶさ6月9日15時に最後の精密誘導が完了した後は、

6月13日22時51分に大気圏突入し23時08分に着地するまでの190万kmを、計算通り

の時間で(秒速約5km/s)、着地場所の誤差も数kmだったそうですね。

4日前の時点で、Newton力学理論の教える通りに運命付けられていたわけで、

Newton力学理論の偉大さと、精密計算・制御運用を間違えずに行ったJAXAの実力

にはあらためて感心します。

それにしても、190万km彼方にあるため、制御信号・計測信号の片道伝播遅延時間

だけでも6.3秒はあって、その間にも秒速5kmで飛んでいるから30kmくらい時々刻々とズレていくから制御は難しそうなのに、着地誤差がたった数kmだったとは!!

私には本当に驚きです。

あと、ハード系の故障が目立ちましたが、予め冗長なシステム・機構・回路

設計を事前に仕組んでおいたことと、それを見事に生かしきった機知と機転に

富む柔軟な運用についてはさすがでしたね。

ハード系の信頼性については打上げ積載重量の制約から元々厳しかったのかも

 知れませんが、今回の失敗例は十分検討し次回に生かしてもらいたいものです)

カプセルに、イトカワ星人が入っていないようなのが唯一残念でした。

(糸川博士はまじめにお茶目だったそうですから、それくらいは期待していいか

と思ったのですが・・・)

小惑星探査機「はやぶさ」(MUSES-C)のTCM-4、WPAへの精密誘導完了06/09】

http://www.jaxa.jp/press/2010/06/20100609_hayabusa_j.html

ISASニュース 1999・4 特集:糸川英夫先生を送る】

http://www.isas.ac.jp/ISASnews/No.217/ISASnews217.html

【たまたま検索で見つけた記述(朝日新聞は今も昔も・・・)】

http://plaza.rakuten.co.jp/hamadamakiko/diary/200610200000/

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Re: 栄室妙寿 投稿者:黒川 投稿日:2010年 6月20日(日)01時35分43秒

> No.1329[元記事へ]

桂伯さんへのお返事です。

> 呑舟さんへのお返事です。

●桂伯さんはじめまして。宜しくお願い致します。

呑舟さん。さっきの話は説明足りなくてすみません。「文書に書かれている」との事は、長福寺の文書の事です。石野先生小松史談で紹介しています。

 

桂伯さん。以前もこの紋の事で書き込んだ事があるのですが、予章盛衰記では概ね下記のように記しています。

 

傍折り敷に三文字世間に語り伝えて誤れる説多し。本は三?(くの字がもう1本書いているが辞書にナシ)(三?とかいてスハマ)にて、蓬莱方丈瀛州の三つの島の形なり。三並熊襲退治の時、三?は影計りの紋にて士卒見分け難し、私にまた替える事も仕がたく、案じ煩うてありけるが、夢中に告げあって、汝が名をかえり見るべし。四方四隅に三徳を並べたるは我が神徳なり。是を以って家の符綬とすありければ、それより八角の内に三文字を書きしなり。すみ切りにてはなさきを自然ともよう仕たれ共、実は切たる角は震兌離歟の四方なり。長く引きたるは乾坤良選四維となる。これ隅なり。土は方(けた)なり。国の形四方四隅を囲み、その中に位する者は天地人の三方、智仁勇の三徳にして大山祗の全体なり。この義初巻前簾に詳なり、その心を鎔る紋なり。縮みたるは、核子無分別より次第に上長する徳を含める者なり、延びんとする勢いなり、これより後旗の紋海潮に浮かみ、漣に三文字ちじみ、又、通信鎌倉にて餐膳の列三番目に相当たる事は、時に取ってこの理叶いしなり。但し、昔は嫡家の外は縮三文字を付くる事を恐れるなり。三文字計り、三この如くは嫡家別れの外は用捨せし、常の三文字なり。その余は思い思いの紋を付けしなり。

 

Re: 栄室妙寿 投稿者:桂伯 投稿日:2010年 6月20日(日)17時42分48秒

> No.1330[元記事へ]

黒川さんへのお返事です。

コメントありがとうございます。

下記のゆづきの一連の投稿だったのですね。

【8675 予章記の「一?」とは  今城  02/05 13:51 】

http://www.ehime.net/bbs/yuduki/?8851

手持ちのコピーの三並のところの記述は下記の通りです

「為ニ新羅退治ノ 大将十人被渡 其内三番目也 任テ伊豫王子下国ノ例ニ 幕紋一(スハマ)也 於異国舩予シ紛乱ノ為メニ 折敷ヲ角違ニ挟立影移海水ニ三文字ニ見ル (?)是折敷三文字也」

 

海遊庵主、maru阿弥さん、今城さんが家伝や予章記での該当箇所を解説されたのとも微妙に違っています。「其内三番目也」というのと「三並」の三の意味が大きいのかなと初めは自分では思っておりました。

 

しかしいろいろと拝見していると、家系図はその末裔以外には史料としての意味はあまりないと呑舟さんが書かれていたことがよく分かりました。

不確かなものが出てくるだけで、本来の正当なものまで一緒に疑われる事になってしまう訳ですね。

 

管理人さんへ、

スレッドの使い方はやっぱり難しいですね。私のこの例のように原題からかけ離れてしまっているチャチャを入れてしまったり、逆にせっかく立ててもらったスレッドも話が続かなかったり、本来であれば直ぐに話の続きの回答を返すべきところで回答が遅くなって話を止めてしまったり。

初期値さえ決まってしまえば、その後の展開が完全に予言できるNewton力学ではないから仕方がないのでしょうが。

しかし、素人としては雑談という形でないとなかなか加わり難いです。

混乱を生じせしめてすみませんでした。

 

> 桂伯さんへのお返事です。

>

> > 呑舟さんへのお返事です。

>

>  ●桂伯さんはじめまして。宜しくお願い致します。

>   呑舟さん。さっきの話は説明足りなくてすみません。「文書に書かれている」と

>   の事は、長福寺の文書の事です。石野先生小松史談で紹介しています。

>

>   桂伯さん。以前もこの紋の事で書き込んだ事があるのですが、

>        予章盛衰記では概ね下記のように記しています。

>

> 傍折り敷に三文字世間に語り伝えて誤れる説多し。本は三?(くの字がもう1本書いているが辞書にナシ)(三?とかいてスハマ)にて、蓬莱方丈瀛州の三つの島の形なり。三並熊襲退治の時、三?は影計りの紋にて士卒見分け難し、私にまた替える事も仕がたく、案じ煩うてありけるが、夢中に告げあって、汝が名をかえり見るべし。四方四隅に三徳を並べたるは我が神徳なり。是を以って家の符綬とすありければ、それより八角の内に三文字を書きしなり。すみ切りにてはなさきを自然ともよう仕たれ共、実は切たる角は震兌離歟の四方なり。長く引きたるは乾坤良選四維となる。これ隅なり。土は方(けた)なり。国の形四方四隅を囲み、その中に位する者は天地人の三方、智仁勇の三徳にして大山祗の全体なり。この義初巻前簾に詳なり、その心を鎔る紋なり。縮みたるは、核子無分別より次第に上長する徳を含める者なり、延びんとする勢いなり、これより後旗の紋海潮に浮かみ、漣に三文字ちじみ、又、通信鎌倉にて餐膳の列三番目に相当たる事は、時に取ってこの理叶いしなり。但し、昔は嫡家の外は縮三文字を付くる事を恐れるなり。三文字計り、三この如くは嫡家別れの外は用捨せし、常の三文字なり。その余は思い思いの紋を付けしなり。

 

Re: 栄室妙寿 投稿者:呑舟 投稿日:2010年 6月21日(月)05時26分14秒

> No.1329[元記事へ]

桂伯さんへのお返事です。

> ちなみに小生が手元に持っているこの前見て頂いたコピーでは、つまり天徳寺で模写した

> ものをもとに寛文年間ころに書かれたと推定される身内の伝承書では、「幕之紋因縁之

> 事」として添付の写真のように2種類だけ記載されています。

> 右のもの:角折敷三文字云是也 自天神六代面足尊至 二十代後三並 角折敷三文字

>      其時代ヘギ(?ヘギオシキと書いてあるのか判別不能)折敷無

>     (三並のところの記述も「其内三番目也」とある他は概ね同じです)

> 左のもの:後頼朝公ヘギニ三文字賜故幕紋ヘギノナリニシテ中(ニ)三文字(ヲ)

>      書也 如(リ)先(規?自分では読めません)(若しくは)角(ノ)折敷

>      三文字云也

●分かり易い写真有難うございます。

 オシキは神様に貢物する盆みたいなもので、河野家とは関係なく大山神社トレードマークです。只現在はヘギオシキ(角切=変形八角形)写真の左、で古紋は写真の右です。

理由は単純で当時オシキを作る職人はヘギ(角切)の技術と習慣がなく菱形のオシキを作っていたからです。

証拠として大山神社の一番古い建物の神紋は写真の右の紋です。現在の公式大山神社の神紋は傍折敷三文字です。左の写真

河野通有弘安の役に掲げていった幕紋は大山神社の古紋(写真右)です。

これは大山神社河野通有寄進「弘安の役」の流れ紋として拝観可能です。

2009-12-06

[]道前・道後の境は必ずしも国府に非ず

2009/11/29に子規博で行われた川岡先生の講演「道後の由来」で、道前・道後の境について興味あるお話をなさいました。談話室ゆづきに投稿するのが本当ですが、地図を貼れませんので、こちらで紹介します。

(以下講演の該当部分要旨)

通説では国府を境として道前・道後に別けると言う。しかしこれは疑問がある。

平家物語伊豫の道前と道後は高縄山で別けられると言う意味記述がある。また豫章記に道前・道後共に7郡ずつを解される記述があり(注1)、そのためには高縄山粟井のラインが境でなければならない。

隠岐諸島では下の地図に見られるように、南西の島が島前(どうぜん)、北東の島が島後(どうご)と呼ばれている。


大きな地図で見る

隠岐国府は北東側の島の東部にあり、その国府が境であるなら、島の東側の一部のみが島後の筈である。現実には島全体が島後であるので、境は国府では有り得ない。(注2)

注1:図録の8ページ

注2:地図を二段ほど拡大すると、北東の島の中央より少し東に隠岐国分寺が表示されます。国府は未発見ですが国分寺の近くにあった筈です。

2009-11-23

[][]河野通有所縁の台東区三嶋神社の紋

【談話室ゆづき】から転載

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#8525 先の補足、および台東区下谷の三島神社  通縋  11/21 23:55

海遊庵主さん、コメントありがとうございます。

私が書いていた金氏のバイアスとは、氏がいわゆる在日の人で、我が国の文化に対し

必要以上に貶めて見る一方、氏の自国の事情は贔屓目に見すぎているきらいも少し

あるように私には感じられたという事を申したつもりでした。そういった背景がある

ことに留意しながら傾聴するのであれば、逆に我々が気がつかないでいる点を教えら

れる事も多いはずだと思いました。

平泉澄博士は、正しい日本人となる為には日本の歴史を知りこれを受け継がねばなら

ない、神話というものはそのためのものなのなのだから、特に上代のことについては

厳密な考証は超越したものであってもよろしいというようなことを仰っておられた

ように思いますが、ここの掲示板を読み書きされる方は、もうそのレベルは十分卒業

されており、自由闊達な見方というのは議論されてもおもしろかったろうにと思って

いた次第でした。

(現在の我が国が現代の朝鮮、シナから蒙っている数々の難儀なことについては、

 この掲示板では言及しないでいる節操さはもちあわせているつもりです。中世の事

 でないのでいずれにしろ場違いではありますが)

先の私の投稿について補足させてもらえば、神社の起源は先祖崇拝であったと最初に

喝破したのは、金氏の著作でも本居宣長だと書かれていたように思います。金氏はそれ

を踏まえて、古墳の手前に遥拝の場所を決め置いたのが古代朝鮮での神社の起源である

とのことのでした。

(余談になりますが、朝鮮では神社は古代時代以降は残っていないとのことです。

 つまり、古代朝鮮からの渡来人は神様ごと一族がまるまる日本に完全に移住して

 しまっているので、現代の朝鮮の人々と現日本人は直截的には別物だということに

 なるそうです。金氏はこのことを指摘されても、反論ができなかったと書かれて

 いました。)

神社の起源は先祖崇拝であったということからもっと面白い話ができると思うのです

が、それは今はさておき、ここの掲示板(どなたかが、どこか)で紹介されていた

台東区下谷の三島神社を本日参拝してきたのですが、すこし驚いたことがありました。

社殿正面向かって千木の交差する部分(下記の東京都神社庁のページに写真があります

 http://www.tokyo-jinjacho.or.jp/syoukai/04_taitou/4031.html

これの、左にある木の枝の先にある部分)に紋章がつけてあるのですが、それが十五菊

の中心部に折敷(正八角形)に三が置かれた形になっていました。

このような例は他にもあるのでしょうか。少なくとも、同じく台東区の元三島神社

本三島神社の社殿にはなかったように思います。

どなたか次回参拝されて宮司さんに会われた方には、由来を聞いてきてレポートして

教えてもらえればありがたいです。

#8537 15菊紋  maru阿弥  11/23 11:15

通縋様が取り上げられました15菊紋、喫茶室に画像をアップしておきました。

ご参考までに

松山河野通有も確か菊の紋を使われていたのを思い出します。下谷のとは、違いますが。

皇室に遠慮して、親王の流れが15、14の菊紋を使われたといいますから、その由来かもしれませんね。

私も初めて見た紋であります。

 

#8538 謎が深まりますね!・・興深い  海遊庵主  11/23 11:45

喫茶室で拝見しました。神々しい興味津々! 由緒を知りたいですね。

 

#8539 曰くのありそうな紋ですね  今城  11/23 14:50

 maru阿弥さん、サンキュー

 珍しいと言うか、不思議な紋ですね。家紋辞典に載っているのでしょうか。台東区の三嶋神社だけに有るのでしょうか。元三嶋神社や本三嶋神社の紋はこれでなく、別の紋なのでしょうか。ほかでは使われていないのでしょうか。

 「15菊に角切り折敷に三文字」紋(仮称)の由来と、台東区三嶋神社だけに付いているとすると、その理由は何か、知りたいことだらけです。

 

#8540 下谷の宮司さまにお問い合わせ  maru阿弥  11/23 15:26

宮司様にも、問い合わせを致しましたが

深い由来は、ご存じないとのことでありました。

16枚でなく、15枚にされたのは多分親王の筋で間違いないでしょう

松山河野通有の菊の紋もお伝えしましたら、ご存じなかったようで

驚かれていました。

また、年末に坂の上の雲が大河ドラマで放送され

子規、秋山兄弟が出て来ますが、ともに伊予水軍、河野水軍の末裔である旨

お伝えしましたら、子規先生も河野水軍の末裔であられますか

と驚かれるものですから

そうです、河野氏にとっては重要な人物で

愛媛では河野と名乗らなくても、越智・河野氏とゆかりの深い方々ばかりです

坂の上の雲の大河ドラマは

伊予水軍・河野水軍の末裔達のドラマでもありますとお伝えしますと、

非常に喜ばれておられました。

 

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【喫茶室】から転載

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15菊紋 投稿者:maru阿弥 投稿日:2009年11月23日(月)11時08分50秒

今年の春撮影の15菊紋。

河野通有関係は、不思議に菊の紋と縁がありますね

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東京都台東区三島神社の写真 投稿者:海遊庵主 投稿日:2009年11月23日(月)00時13分51秒

今城殿お探しの東京都台東区河野通有由縁の三嶋神社の写真です。

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台東区には元三嶋神社も! 投稿者:海遊庵主 投稿日:2009年11月23日(月)00時32分6秒

台東区には、三嶋神社と元三嶋神社の二社があるのですね!・・元三嶋神社も送っておきます。

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