湯築城跡保存・活用運動

 長期にわたる『道後湯築城跡を守る県民の会』の運動の甲斐あって湯築城跡は国史跡に指定され、更に日本百名城に選定された。この状況変化を受けて会の名称を『文化財フォーラム愛媛』と変更し、「守る」から「活用する」運動へと転換した。
当ブログはその間の様々な情報・資料を蓄積する役割を果たして来たが、湯築城跡の保存・活用の記録を「伊予中世史への招待(仮称)」のサイトに移し保存することとなったのに伴い、このブログも同サイトの一部として今まで同様の役割を担うこととした。

 『湯築城跡の保存・活用』運動の原点を永遠に記憶に留めるため、湯築城跡が国史跡に指定された時の記念すべき写真を3枚紹介する。

 湯築城跡の復元区域(展望台から撮影)

 国史跡に指定されたことを示す標識

 湯築城跡の名を初めて記した標識
 国史跡に指定されるまでは、道後公園湯築城跡であることを示す標識は一切無かった。この写真は「湯築城跡」の名を初めて明示した記念すべき標識を写したものである。

伊予中世史への招待

 近年中世史の研究が急速に進み、中世の見方・捉え方が様変わりしている。伊予においても同様で、中でも伊予守護河野氏の居城であった湯築(ゆづき)城跡の発掘調査の成果は、単に中世城郭の概念を変えたばかりでなく、中世そのものの見方に大きな影響を及ぼしたと言われている。
 「伊予中世史への招待(仮称)」は、湯築城河野氏を中心に置きつつ、関連する周辺地域までを含めて、近年の研究により明らかになった伊予の中世に踏み込んで行く。当ブログは、その過程で得られ集まった情報や資料を蓄積する役割を担って行く。

「探索・探訪」移転のお知らせ

「探索・探訪」は「はてな」の Hatena Diary を使っていましたが、機能改善などのため Hatena Diary は近日中に更新停止となり、Hatena Blog に統一されることとなりました。そこで「探索・探訪」も Hatena Blog」に移転することし、名称も「湯築城探索・探訪」と変更いたします。移転作業は既に始めておりますが、作業が集中しているため、移転完了までにはかなりの日数が掛るようですが、移転できた記事から表示されます。移転が完了するまでは「探索・探訪」も従来通り表示されます。
お知らせは以上です。今後共宜しくお願い申し上げます。
 
新しいURLを此処に記します。
湯築城探索・探訪」http://yudukijou.hatenablog.jp/

湯築城出土瓦と墨書土器雑感 (4)(伊豫漫遊書庫から転載)

February 9, 2007
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 湯築城出土の軒平瓦が岡豊城や中村城の瓦と同じ紋様を持つ。ただし、版木や窯は同じではない。瓦の大きさと厚さも異なる。今判っていることはここまでである。これだけで土佐と関係ありと断じるのは無理。同じ紋様の瓦はこの三つの城以外に出土しないのだろうか。
 シンポジウムの資料の中に、岡山でも同紋の瓦が出ていることを示すと解される図がある。これの説明を聞き漏らしたのか、当日説明を聞いた覚えがないので確かめる必要がある。もし湯築城・岡豊城・中村城以外からも同紋の瓦が出土しているなら、そちらとの関係をきちんと分析して、初めて湯築城の瓦がどこと関係しているのかが判明する。更に、どこの土か分析する必要がある。現時点で湯築城の出土瓦が土佐と関係ありと結論付けるのは時期尚早であると思う。
 次に疑問なのはこの瓦がいつ、どのよな建物に使われたのか、そして、いつ、どうして捨てられたかである。長曽我部氏の四国制覇は豊臣軍の侵攻で後一歩のところで挫折したと思われる。一歩譲って湯築城も陥としたとしても、その後、岡豊城と同紋の瓦を使った建物を造る時間的な余裕は無かったと思われる。では誰がいつこの瓦を使った建物を造ったのか。今は不明である。
 捨てられた時期は、発見された場所が東門近くの排水溝であり、その排水溝は湯築城が廃城となるまで使われていた筈であることから、湯築城が廃城になった時、またはその後と考えるべきである。
 出土したのは軒平瓦と軒丸瓦で、平瓦は少なかったらしい。これは紋の入った瓦は捨てられ、紋の付いていない平瓦は再利用されたことを窺わせる。

 今一つ、土州様の文字が記されている墨書土器も現時点では謎と言うべきだろう。墨書土器で「様」を付けたのは異例と聞いたような気がする。それは兎も角として、「土州様」とは土佐の当主であろう。それは時期から考えて長曽我部氏なら元親であろうが、元親が湯築城に来たことがあるとは考え難い。来ていないとすると、土州様とは誰なのか、何故土州様と記したのか、現時点では説明不能と思われる。土佐の領主で湯築城に来た人がいるだろうか。居たとしてそれは誰か。文献史学の方から追求すべきことであろう。

 このように疑問は殆ど解明されていない現時点では、岡豊城と同じ紋様を持つ瓦の出土と、土州様と書かれた土器があったことの二つだけで、土佐との関係を推測するのは不可能であり、これを以って長曽我部氏が湯築城を陥とした証拠とみるのも早計であり、更なる研究の進展に期待するしかない。
注:一部追加(2007/02/10)。訂正(2007/02/11)

土州様と書かれた墨書土器についての考察 (6)(伊豫漫遊書庫から転載)

February 11, 2007
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1.「土州様」と書かれた墨書土器はいつごろのものか。
 出土した場所は湯築城拡張部であることから、湯築城拡張時(1535年)以後のものと考えられる。
【注】出土場所は南西の隅と聞いたと記憶するが、出土場所と出土した層を確認する要あり。

2.土州様とは誰を指しているのか。
 土州様とは土佐の領主(支配者)であろうから、湯築城拡張以降の土佐の支配者の変遷を整理してみる。(訂正:土州様とは土佐守を指す言葉で、土佐の支配者ではない。従って、土佐の支配者を探るのは意味が無いことだが、下記の年表は消さずに置く。)

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    年       事跡                       土佐領主(支配者)

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 1535年(天文4年) 湯築城拡張 (弾正少弼通直)

-----------------------------------------------------(この時期は一条氏)                           
 1568年(永禄11年) 鳥坂山合戦 長曽我部氏は一条氏に随って兵を出している。

 1569年(永禄12年) 長曽我部氏と一条氏は境を接するに至る。                 
-------------------------(長曽我部氏が土佐の領主となるのはこれより後。)

 1573年(天正元年) 室町幕府滅亡

 1574年(天正2年) 長曽我部元親一条兼定を豊後に追放。

 1575年(天正 3年) 長曽我部元親、土佐平定。------------(これ以降は元親)

 1582年(天正10年) 本能寺の変

 1584年(天正12年) 元親、讃岐平定。(6月)

 1585年(天正13年) 元親、秀吉に敗れ、土佐一国を安堵さる。
             河野通直(牛福)、小早川隆景に降伏。

 1587年(天正16年) 福島正則が伊豫を拝領。湯築城は廃城となる。
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 上記年表から見る限り、元親が土佐を実質的に支配したのは、早く見ても1569年であり、その前は一条氏が上位にある。長曽我部氏が名実共に土佐の支配者となったのは、1574年か1575年である。この間、一条氏か長曽我部氏が湯築城を訪れる機会があったであろうか。一条氏は鳥坂山合戦の前から宇和の西園寺氏と戦いを繰り返し、長曽我部氏も土佐の実権を握った後、度々伊豫に侵攻し、河野氏西園寺氏と戦っている。この状況下で河野氏時代に湯築城を訪れる機会があったとは考えられない。
 可能性が残るのは、河野氏滅亡後小早川隆景が伊豫を拝領していた2年間ではなかろうか。この2年間に元親が湯築城に来たことは無いだろうか。

3.土州様とは土佐守のことか?
 ここまで書いて気が付いたのだが、土州様とは土佐守の官位を持つ人を指しているのかも知れない。そうであるなら土州様を一条氏や長宗我部氏でなくても、この時期の土佐守の官位を持つ人物を検討すべきである。歴代土佐守を記した資料は無いだろうか。

湯築城で出土した瓦について (2)(伊豫漫遊書庫から転載)

February 15, 2007
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 ここに記す湯築城で出土した瓦の考察は、「談話室ゆづき」に投稿したものであるが、後々、岡豊城と同文の瓦及び土州様と書かれた墨書土器の考察を纏める際に必要と思われるので、一部加筆・修正してここに収録しておく。

#5406 湯築城で出土した瓦  今城  02/15 18:25

 湯築城で出土した瓦について思う所を述べて見ます。

1.瓦の紋様
 出土した瓦の紋様は、岡豊城及び中村城の瓦と同じですが、版木は異なります。この紋様はほかには無いのかどうか、この点を確認する必要があります。つまり、上記三つの城以外に存在しない場合と、ほかにも存在する場合とでは、見方が全く異なります。

2.瓦の製作時期
 上記三つの瓦の製作時期を明確にすることが必要です。湯築城出土の瓦は、城内のどこで使われていたのか不明です。拡張区域で使われたものなら、年代は50年程の間に限定されますが、そうでないなら製作時期は、可能性として200年或いはそれ以上に広がります。もし非常に古いものであるなら、上記三者のうち一番古い可能性も有り得ます。分析で製作時期を調べる必要があります。

3.廃棄された時期
 これはほぼ特定出来そうです。出土した場所が大手門近くの排水溝であり、この排水溝は湯築城が廃城になるまで使われていた筈ですので、そこに捨てられていたからには、廃城になった時かそれより後となります。考えられるのは加藤嘉明松山城を築いた時で、この可能性が強いのではないでしょうか。つまり、使える物は持って行き、不要なものを捨てたと言うことです。平瓦の出土が少ないのは、再利用された可能性が高いことを暗示します。もう一つの可能性は、福島正則の時代で、湯築城が廃城になったときです。

4.製作者
 紋様が同じと言うことは、同一工人または同一工人グループの手になるものと考えられます。しかし、それがどこの工人であるか、現時点では不明です。

5.製作場所
 湯築城の瓦と岡豊城の瓦は硬さが違いますので、製作場所、竈は異なります。土を分析すればどこの土であるか判るはずと思います。その結果によって製作場所も手懸りが得られるのではないでしょうか。

 以上述べた事柄は、私が詳細を知らないだけかも知れませんが、この瓦を考える上で抑えて置く必要があるでしょう。

「土州様」と書かれた墨書土器について(伊豫漫遊書庫から転載)

February 16, 2007
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 「土州様」と書かれた墨書土器について、現時点での考えを整理しておく。

1.墨書土器の説明文
 『土師質土器に文字を書いたものが出土しています。「月」「太」「仲」「洗」などはっきり読み取ることができます。
 墨書土器が捨てられていた土器溜りでは、「妙祐」「土州様」など人の名前と、「茶」「泉」「仙」などの文字が書かれた杯が出土しています。行司のあとに、使用した皿や杯に、その場で文字を書いて捨てたものと思われます。』

2.この説明文に関する疑問点
 捨てるものに何故文字を書いたのか。理由があるのか、単なる落書きか。

3.使われた時期
 土師質土器は一度使ったら捨てるのが普通。出土した場所が湯築城の拡張区域であるので、使われた時期は湯築城拡張後、1535年以降と推測するのが自然である。

4.土州様とは誰を指すか
 豫州殿とは伊豫守を名乗る人物、同じく對州は對島守、豆州は伊豆守であるから、土州様とは土佐守を名乗る人物と考えるべきである。従がってこの「土州様」を特定するには、湯築城拡張の時から廃城になるまでの間に、土佐守を名乗った人物は誰か、その中で伊豫に来たのは誰かを明らかにすることが先決である。なお、土佐守を名乗る人物とは、正式に官位を授かった人だけでなく、土佐守を自称する人も対象として調べるべきであろう。

5.該当する人物は
 長曽我部元親と延原土佐守の二人。これ以外に居たかどうか。

6.土佐守を名乗る人物が伊豫に来たことがあるか
 元親が土佐守になったのはいつか。その後、伊豫に来たか。来たとすればいつか。
 延原土佐守は伊豫に来たか。