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yuhka-unoの日記 Twitter

2016-04-01

自分の命を人質にして相手を脅迫する人たち

20:13 |

能町氏、雨宮氏、抗議を行う - Togetterまとめ

能町みね子・雨宮まみによる北条かやへの抗議 - Togetterまとめ

北条かや氏の、取材・調査上の倫理違反や、著作者としての不誠実さ・責任感のなさについて、能町みね子氏や雨宮まみ氏など、複数の人たちが、何が悪かったのか懇切丁寧に抗議しているにもかかわらず、北条かや氏から出て来る言葉は、「嫌われて悲しい」「悔しい」「死んでお詫び」といった言葉ばかり。これを読んで、私は、小保方晴子の件と、「自虐おわび」という言葉と、かつて自分が遭遇した、自分の命を人質にして相手を脅迫する人のことを思い出した。私は、その一件以来、この手の人に対しては、「ああ、こいつの要求を叶えてやる必要なんてないわ」と思ってしまうようになった。


自分の命を人質に相手を脅迫するタイプの人は、虐待DVストーカー等の、対人依存傾向が強い人たちに多い。「別れるって言うのなら、死んでやるぞ!」「あなたが構ってくれないと、死ぬしかない」「お母さんが全部悪いんでしょ!お母さんが死ねばいいんでしょ!」という類のものだ。

一般的な自殺願望の人は、「死ぬ」ことが目的になっているけれど、こういう、自分の命を人質に相手を脅迫するタイプの人は、「死ぬ」ことではなく「相手を自分の思い通りにさせること」が目的になってる。「死ぬ」と言ったり、実際に死のうとしてみせたりするのは、その手段でしかない。こちらの罪悪感を刺激してコントロールしようとしているわけだ。

ただし、大抵の場合、本人にその自覚はないと思う。本人の中では、あくまでも、「あまりのことに、死ぬほど精神が追い詰められているワタシ」という自己認識になっており、自分には相手を脅迫する意図なんてない、ということになっている。なので、「脅迫するのはやめろ」と言っても「脅迫なんてしてない」という言葉が返ってくる。


私もかつて、この手の「あなたが私の要求を叶えてくれないと、死ぬしかない」みたいな人に遭遇したことがあった。私は、ある程度相手距離が保てる環境にあったことや、この手の人に対する知識が少しなりともあったことから、「もし私がここで言う通りにしたら、これに味をしめて、今後、何度も同じ手口で脅迫してくるだろうし、私以外の人にも、同じことをするだろうな」と思って、頑として応じなかった。相手は暗にこちらの罪悪感を刺激してコントロールしようとしてきたわけだけれど(本人はそれを絶対に認めないだろうけど)、「もし本当にこの人が死んでも、一切私のせいではない」と思うことにした。「相手を自分の思い通りにさせること」を目的として「死ぬ」と言ってくる人に対しては、「あなたが死のうと死ぬまいと、それはあなたがあなたの責任と判断において行うことであり、私には一切関わりのないことです」ということだ。


私が遭遇した人もそうだったけれど、こういうことをしてくるタイプの人は、「自分の責任」という感覚が希薄な傾向があると思う。まぁ、「自分の責任」という感覚が希薄だからこそ、「私が死んだらあなたの責任だ」と(直接的に、または、暗にほのめかして)脅迫してくるわけだけど、そこは、こちらに投げられた「責任」を、「あなたが死のうと死ぬまいと、それはあなたの責任です」と、あちらに投げ返すだけである。

そして、相手が何を抗議しているのかを考えて、内省して、以後それをしないようにするという「成長」ができない人だとも思う。だから、謝り方も、ただその場を収めるために、ひたすら「ごめんなさいごめんなさい」と言うだけで、相手のためでなく、完全に自分のための「お詫び」であり、極めて不誠実だった。こちらの望むこと(こちらの話を聞いて、何が悪かったのかを理解して、以後しないように気をつけること)は一切せず、逆に、「お詫び」をしながら、私に対して色々なことを要求してきた。今後何をどう改善していったら良いのか、本人はわかっていないしわかろうともしないので、また同じことを繰り返すだろうということが、容易に想像できた。年齢の割には発言内容が幼く、「ああ、この人は、ずっと精神的な成長をしないまま、ここまで来てしまったんだろうな」と思ってしまった。


この手の人に対して、「なんとかしてあげなければ…」「自分がこの人を変えてみせる」「この人の問題を代わりに解決してあげたい」と思っても、これは素人が素人判断でできることではないので、プロに任せるしかない。対人依存症の人にとって、依存対象と見なした人は、アルコール依存性者にとっての酒、薬物依存症者にとっての麻薬なので、むしろ、こういう態度は、本人にとってはかえって毒だろう。

依存症の世界では、「イネーブラー」と言って、依存症者の世話を焼いたり尻拭いをしてあげたりして、結果的に依存症者が依存症者のままでいることを助長させてしまう人が、本人の周辺にいることが多い。自分が「イネーブラー」になってしまわないように気をつけたほうが、自分にとっても本人にとっても良いのだと思う。

また、アルコール依存症の形成を助長するものとして、アルコール依存症になる人の周囲には、酒代になりうる小遣いを提供したり、過度の飲酒で生じる社会的な数々の不始末(他人に迷惑をかける、物品を壊す、等)に対して本人になり代わり謝罪したり、飲酒している本人の尻ぬぐいをする家族など、イネーブラー(enabler)が存在することが多い。イネーブラーは飲酒している当人の反省を必要とさせず、延々と過度に飲酒することを可能にしてしまうとされる。逆に、一切のイネーブラーがいなくなったり、医師から死を宣告されたりしたことをきっかけに、本人が「底つき体験」(「どん底体験」ともターニング・ポイントとも呼んだりする。“このままでは大変なことになる”という意識の発生)をし、それをきっかけにアルコール依存症から立ち直ることがある。

アルコール依存症 - Wikipedia


尚、自殺しそうな人がいた時に警察を呼ぶのは、たとえ本人が通報を拒んでいたとしても、ごく当たり前の行為なので、今回の件でも、親切な方は、警察に通報して差し上げても良いんじゃないでしょうか(鼻ホジ)。もし実際に自殺っぽいことを試みたら、まぁ、救急車くらいは呼んであげても良いと思う。それ以上のことは何もしないし、する必要もないと思うけど。


「自虐おわび」について。

それは、「私が悪かった。私が、私が……」

と、必要以上に自分を責めるおわびで。

最近、そういう人がとても多いように思う。

「自虐おわび」と言ったら言いすぎだろうか?

そういう人は、おわびと称して、

自分探し」をしているような節がある。

(中略)

おわびの時間は、自分のためではなく、

利他。 迷惑をかけた相手のために費やすものだ。

ほぼ日刊イトイ新聞 - おとなの小論文教室。

自己保身に走ろうと、自虐おわびに走ろうと、結局、根は同じ、「私がいいか、いけないか」が最大の関心事になってしまっている。関心が内向きであることに変わりはない。「自虐おわび」は、自分が悪い、自分はダメだ、といいながら、その実、相手に「そうではない」と打ち消してほしい、「いやあなたはできるから」と認めてほしい、わかってほしい、許してほしいと、無自覚に人からパワーをもらおうとするから始末が悪い。

―新人諸君、半年黙って仕事せよ (山田ズーニー・著)―


余談。

北条かや氏の言う「リスクを取る」の中身が、戦場ジャーナリスト的なそれではなく、ウケる画が撮れるなら人権侵害も構わんみたいな、取材対象者を見世物にしてしまうマスゴミ的なそれだった。冒頭での飛田新地での「調査」とやらの方法もマスゴミのそれだし、そこを抗議されてるんだけどな。

多くのコミュニティでは、調査者というのは上から降りて来てかれらから奪って行く人たちだと感じられています。奪われるのは、情報、時間であり、そして調査の主体ではなく客体であるという感覚から、尊厳も奪われると感じられています。コミュニティを尊重し、学術的生産物(論文など)における回答者たちの位置づけを尊重することは、社会調査を行う者同士のお互いのためにもなることです。ここで「位置づけ」というのは、つまり回答者こそが学術的生産物の「中心」にいるのだ、ということです。

翻訳『調査対象者、回答者、参加者の保護について』:卒論を書いている大学生や、独自調査をしようとしている団体は、ぜひ一度読んでください | 包帯のような嘘

調査において、取材対象者を中心に考えることができないところ、おわびの場面で、おわびする相手を中心に考えることができないところ、雨宮まみ氏から「こじらせ女子」という言葉を奪っているところ、全部共通していると思う。


【追記】

ブコメから。

id:sasoridan 「じゃあ死ねば」これが平気で言える心の強さが要求されるな

「じゃあ死ねば」と言うのではなく、こちらは「死ね」とも「死ぬな」とも言わずに、徹底して「それはあなたが決めることですね」という態度を取るということです。

「死ねば」とか、相手の生き死にに関与するような言葉をこちらが言ってしまうと、相手に「だって、あなたがそう言ったじゃないか!」と言われて、そこをつけ込まれるので、その隙を与えないようにする戦略を取るということ。

「死ぬな」と言うと、「私に死んで欲しくないって言ったでしょ。だから言うことを聞いて」とくるし、「死ね」といえば、「じゃあ死にます。(だって、あなたがそう言ったから)」と言って、手首を切ったり道路に飛び出したりするし、「○○さんに死ねって言われたから〜」とか言い出すので。

id:hilda_i 皆北条かやに後ろ指させるくらいパーフェクトな若者時代を送って来たのね。すごいわ。

彼女、今年で30歳だそうです。もう「未熟」で通用する年でもないと思う。もっとも、若者がやってもダメなものはダメだし、やられた人たちは怒って良いけどね。

2016-03-23

「残したらもったいないから」―他人の胃袋をゴミ箱にする人たち

00:05 |

外食で、最初に注文する時に頼みすぎる、あるいは、料理を作る時に作りすぎてしまって、後で「残したらもったいないから」と言って、無理矢理食べてしまう人。本人だけが食べるのなら、どうぞご勝手にだけれど、同席している他人にまで食べることを強要して、一緒に行った人に多大な苦痛を与えてしまう人がいる。私だって、残すのはもったいないと思うし、食べ物を無駄にするのは嫌いだけれど、こういう人たちは、食べ物を無駄にしているとしか思えない。


そもそも、なぜ食事をするのかというと、健康に生きるためだ。だから、食べ過ぎて健康を害していたのでは、食べる目的としては本末転倒なはずである。食べ物を食べ物として活かすことができるのは、胃袋の許容範囲内に止めているところまでだ。それまでなら、食べ物は美味しく、楽しみをもたらし、栄養になる。しかし、許容量を超えた食べ物は、苦しく、十分に栄養として吸収されないまま、下痢や吐瀉物となって排出され、体調不良を招き、生活習慣病を招き、体にとって害でしかなくなる。食べ物を害にしてしまうということは、結局、食べ物を無駄にしているということだ。

「残したらもったいない」という義務感で食べる料理は、本当においしくないし楽しくないし、苦しいだけなんだよね。食べ物とお金と料理人の手間を無駄にしているとしか思えない。食べ残しを、ゴミ箱に捨てるか、人の腹に捨てるかの違いでしかないと思う。


たぶん、こういう人たちは、「自分が頼みすぎて・作りすぎて、食べ物を無駄にしてしまったのだ」という現実に直面するのを避けるために、他人に食べさせたがるのだと思う。とりあえず食べたという事実を作り出してしまえば、残して廃棄されてしまう食べ残しを直視しないで済む。そのためには、他人に多大な苦痛を与えようとも、知ったことではない、ということだ。「食べ物を無駄にしてしまった」という現実を無視するために、「自分のせいで、相手に苦痛を与えている」という現実も無視するのが、こういう人たちである。

この人たちのやっている行為をはっきり書くと、「相手の胃袋をゴミ箱にして、自分が発生させた食べ残しを捨てる」だ。そして、現実を直視することから逃げ続けているから、また同じ行為を繰り返してしまう。


依存症治療の世界には「イネーブリング」という言葉がある。

ネガティブ文脈では、個人のある種の問題の解決を手助けすることで、実際には当人の問題行動を継続させ悪化させるという、問題行動を指している 。第三者の責任感、義務感によって、結果的に当人の問題行動を維持させている。イネーブリングはアディクションの環境要因の中心である。

典型的パターンは、アルコール依存症患者とその共依存配偶者のペアである。イネーブラーアルコール依存者の問題行動を「尻拭い」するような行動をとってしまう。例えば職場に病欠連絡を代わって行う、散乱した酒瓶を隠す、患者の言い訳作りに協力したりする。イネーブリングはアルコール患者の心理的成長を妨害し、また共依存者の陰性感情を増大させる。こういった共依存者は、アルコール依存患者の被害者ではあるが、同時に加害者ともみなしえる。

イネーブリング - Wikipedia

つまりは、「相手の問題行動を継続させ、後押ししてしまう行為」のことである。


こういう人に付き合って、無理に食べてしまうのは、この「イネーブリング」に当たる行為だと思う。なぜ付き合って食べてしまうのかというと、相手のほうが立場的・権力的に強くて断れないという、パワハラ的な要素が原因になっているケースの他に、食べさせられるほうも「残したらもったいない」と思っているから、というケースが、けっこう多いと思う。

だが、私は思う。自分の許容量以上の料理は、摂取しないほうが良い。こういう人相手には、断れるのなら断ったほうが良い、と。確かに、その時には、多くの食べ物が無駄になるだろう。だが、「自分のせいで、食べ物を無駄にしてしまった」という現実を直視してもらわないことには、この手の人たちは、同じ行為を繰り返して、被害者を増やし、食べ物を無駄にし続けることになる。この人たちの「尻拭い」をしてあげる必要はない。むしろ、一度、しっかり現実を直視してもらったほうが良い。


私の父は、過去記事『甘やかされているようで全然甘えられていない子供たち』『「もったいないお化け」の世代間連鎖』で書いたように、他人とシェアする前提の料理を注文し過ぎて、家族にしんどい思いをさせていた。父は、私たちの胃袋をゴミ箱にして、自分が発生させた食べ残しを捨てていたんだな、と思って、ああ、これってイネーブラーだと気がついた。私たちは、いつも父の悪癖の尻拭いをさせられていたのだ。父のせいで、私は外食恐怖症になった。

父は、口では「多かったら残してもええで」と言うのだが、内心ではそうは思っていないということが、ひしひしと伝わってきたので、私たちは残すことができなかった。父自身が、多かったら残すということを実行していないと、一緒に食事をしている子どもたちも、心からそうは思えないのだ。これは私にも言える話で、私自身が残すということを自分に許していなかったら、それは、口で言っていることと思っていることとが違うということになるだろう。


相手の許容量を超えて酒を飲ませることが「アルハラ」なら、相手の許容量を超えて料理を食べさせることも、ハラスメントになるだろう。「フード・ハラスメント」とでも言うのだろうか。食物アレルギーを持っている人にアレルゲンとなる食品を摂取させようとするのも、「フード・ハラスメント」に当たると思う。

「ご飯は残さず食べましょう」「食べ物を無駄にしてはいけません」は、いついかなる時も正しいわけではないのだ。


口癖は「良いビジネスマンとは、よく食う奴だ」。一緒に食事に行くと、ずっと「食え、食え。もっと食え」などと言われるのだという。B男さんは、期待に応えようと、昼間のステーキから、深夜のラーメンまで残さず食べ続けた。その結果、1年で8キロも体重が増えてしまった。お腹を壊して、体調のすぐれない日も多い。

「食え。食え。もっと食え」体育会系上司による「大食い」強要・・・パワハラになる?|弁護士ドットコムニュース

健康被害が出ているんだから、立派にパワハラだと思う。

比べるのは嫌だけれど、私の祖母も私の話を聞かない。

一緒に料理店に行くと、いくら私が要らない、食べられないと泣きそうになりながら断っても、自分が子供時代のひもじい思いをした辛さから良かれとどんどん料理を注文し、挙句自分が食べられなかった分を私に「食べれるでしょう」と差し出す。

今はもう必死に粘ることを覚えたが、中学生のころはガチ泣きをしながらご飯を食べたことも、何度かある。祖母は私が泣いていても、見えていないのか全く悪気が無く「食べれるって」と言う。

手芸屋さんで洗脳されそうになった話。

はっきり言う。これは暴力で、虐待だ。本人にその自覚はないだろうけれど。相手の話を聞かない・意思を尊重しないのは、ハラスメント加害者の特徴。

ごはんはちゃんと残しましょう。 - COPYWRITERSBLOG

yuriなまえyuriなまえ 2016/03/26 19:59 なんでも度過ぎれば引っかかりが出てきますね人間社会は。
じゃあどれぐらいがいいのかって言われても人それぞれ。
難しい。

後藤後藤 2016/04/06 00:08 気が弱いって大変だね。本人に向かって、「頼みすぎですよ」とひとこと言うより、ブログで長文を書いて「パワハラだ!」って毒づく方を選ぶんだから。どちらが実際に効力を持つかは明白なのにね。

私の胃袋をもうゴミ箱にさせない私の胃袋をもうゴミ箱にさせない 2016/05/21 00:18 激しく同意します。
たとえ美味しいものであったとしても、満腹を超えてなお食べなければならない・残せない状況は本当に本当にきついです。

上下関係かつ、世代の違いによる感覚の違い、、、
それは変えられないので、食事に行く機会そのものを減らしました。と言いますか、自己防衛反応なのか自然に減りました。

「食」は根本。衣食住のひとつであり、三大欲求のひとつ。
頼み過ぎという概念自体がない・理解できない人とは、そもそも根本が相容れないのだと悟りました。

芥子芥子 2016/05/27 02:02 こうして勧めてくるような人には断っても「いいえ」を選べないRPGの無限ループ生産機になるんですよね。例え泣いて訴えても本質を理解しない。
人間関係もろとも切って捨てるぐらいしか対処法が思いつきませんし、そうできる図太い性格ならさぞかし楽しい人生を送れるんだろうと思えます。

w 2016/05/28 21:34 どうせ言っても理解しないんでしょ、言わないでも理解してよ!

ものすごい図太い

2016-02-24

おしゃれ、したかったよね。―服が捨てられなかった私の話―

18:42 |

過去記事『「もったいないお化け」の世代間連鎖』で、物を捨てることについて書いたけれど、私にはどうにも捨てられない物があった。それは服だ。数年前、自室の大掃除をして、要らないものをあらかた処分して、その時に不要な服も選別したのだけれど、他の物は捨てられても、服だけはどうにも捨てられずに、長いこと部屋の隅の大きな袋の中に入れたままでいた。穴が空いたりボロくなったりした服は捨てられるけど、物としてまだ十分着れるけれど要らなくなったものが捨てられない。リサイクルショップに持っていけば良いのだけれど、私は車を持っていない上に出不精なので、結局持って行けずに、部屋の隅を占領されたままだった。


そんな時、娘を育てるシングルファザーの人が、授業参観に行った時、他の女の子はおしゃれな格好をしているのに、自分の娘の格好が地味だったことに気づいて、服を買ってあげたエピソードについていた、このコメントを見た。

4. 楽しいことないかなぁ...の名無しさん 2013年11月26日 15:51

女の子が着飾ることを覚えて楽しんで何が悪いの?

生活脅かすほど散財するならそれは叱られないといけないけど。

自分はデブであんまり洋服も買ってもらえず、母親もいるのに

なぜかパッツンのおかっぱでおしゃれさせてもらえない子だった

(訴えたら、ブスだから似合わないよpgrという反応)

そんなだから、自分が稼いで洋服を買えるようになるまで

スカート2枚と夏のTシャツ2枚、冬のセーター・トレーナー2枚

みたいな状態で、大人になっておしゃれしようにも、どういう服を

着たらよいのか、今の流行から外れてないか、それが自分に似合うのか、

ほんとうにまったくわからなくて苦労した。

試行錯誤してる間に友人から笑われたことも何度もある。

女の子は(男の子もだけど)子供の頃からある程度は流行りに

あわせたおしゃれはさせて慣れさせるべき。

大人になってからの10数年を試行錯誤ですごすとか、時間の無駄使い


楽しいことないかな : 事故で妻と両親が死亡。男手一つで娘を育ててきたが、授業参観で『やばい』と思った。


「わかる」と思った。本人がおしゃれに興味がないのなら、別にしなくても構わないけれど、本人に興味があってしたいのに、全くさせないというのは、酷いよね。それはおしゃれ以外のことだって何だってそうだけど。

私は、長らく自分のことを、「おしゃれに興味の薄い、流行に疎い子」だと思って生きてきた。特に学生時代はそうだった。でも本当は、10代の頃の私も、それなりにおしゃれがしたかったんじゃないかと思う。だが、母親がブラジャーすらまともに買ってくれないほどケチだったし、子供がおしゃれするなんて考えてくれない人だったから、最初から諦めていた。おしゃれに興味がない子のふりをしていたのだ。

「いい子」と一緒だ。母親の望む「面倒見の良いお姉ちゃん」を内面化して、本当の私は抑圧されていたのと同じ。本当の私は、おしゃれに全然興味がなかったわけじゃない。それなりにしたかった。私の「おしゃれに興味のない、流行に疎い子」というのは、当時、母親が望んだ私の姿だったのかもしれない。


おしゃれ、したかったよね。


考えてみれば、小さい頃は、将来ファッションデザイナーになりたい、なんて言っていた時期もあった。着せ替え人形で遊ぶのが好きで、人形の服を自分で手作りしたり、雑誌のキャラクターの服を考える企画に投稿したり、自分で考えた服を描いた紙束をテープで綴じてまとめた本みたいなものを作ったりしていた。そんな私が、おしゃれに興味がないわけがなかったのに。


母は、私の胸が膨らみかけた頃、その時期の女の子がするようなスポーツブラタイプのブラジャーは、三枚ほど買ってくれたと思う。しかし、もっと胸が成長して、大人用のブラジャーが必要になった時、母にそれを言うと、母は、自分のお下がりのおばちゃんベージュブラを一枚よこしただけだった。当然、圧倒的に枚数が足りなかったので、追加でもう一枚くらいもらったような気もするが、10代後半の女の子がするような、きれいでかわいいブラジャーは、とうとう全く買ってもらえなかった(そのことを話した友達に、お古のブラジャーを貰ったりはした)。

肌着も、男の子が着ているような白のタンクトップを与えられ、それも縁が穴だらけでレースみたいになっていた。当然美容院にも行ったことがなかった。

当時は、不思議と「こんなおばちゃんが着るようなブラジャーで恥ずかしい」とも「かわいいブラジャーが欲しい」とも思わなかった。「とにかくブラとしての機能を果たすものが欲しい」と思っていた。飢えていると、「おいしいものが食べたい」と思うよりも、「とにかく腹を満たせるものが欲しい」と思うようなものだろうか。


眼鏡も、小学生の頃に初めて買ったものを、ずっと買い換えてもらえずに、高校生になってもそのまま使っていた。ダサいというのもあったが、それ以前に、買った時より視力の低下が進んでいたので、ものがよく見えなくて困った。席替えの時は、いつも前の席にしてもらっていた。

当時、「宇野さんは、なんでいつも前の席にしてもらっているの?」と訪ねてきたクラスメイトがいた。私は、事実そのまま「視力が悪いから」と答えていた。今から思えば、あのクラスメイトたちにとっては、親に眼鏡が合わないと言えば買い換えてもらえるのは、空気が存在するように当たり前のことで、なぜ買い換えないのかと問うていたのだろう。

一方で、私自身は、ブラジャーのことを含め、生まれた時からそういう環境で育ってきたので、特に自分の母親がおかしいとは思っておらず、むしろ、うちは少し厳しいだけで、他の子は甘やかされている、うちは良い教育をしていると思っていた(後に、これは典型的な虐待家庭の子供の感覚だと知った)。

結局、私の二代目眼鏡は、高校三年生になってから、私自身が自分のお年玉で購入した。


とにかく、おしゃれ以前の問題だった。母親の無意識の「あまり変わった職業に就かず、安定した普通の人生を歩んで欲しい」「面倒見の良いしっかり者のお姉ちゃんでいて欲しい」「おしゃれに興味のない子でいて欲しい(金がかかるから)」という願望を内面化していた、そんな高校時代だった。


まぁ、うちの経済状況は、決して良いとは言えなかったことは確かだ(とはいえ、必要な分の下着や眼鏡が買えないほど困窮していたとは思えないが)。でも、「おしゃれしたいけど、うち貧乏だから仕方ないね」と思っているのと、「おしゃれに興味のない子」を内面化させられるのは、やっぱり違うと思う。前者の場合は、お金がないならないで、自分なりに妥協するなり納得するなりするし、自分で稼げるようになったら、自分の願望を叶える行動が取れるけど、後者の場合は、それが実行可能な状況になっても、心理的に親の支配を受け続けるからだ。

「欲しい」と思うこと自体は、別に悪いことではない。「欲しいけど、お金ないからしょうがないね」と思っていればいいだけのことだし、それはごく当たり前のことだから。大多数の人は、自分の願望をほどほどに満たしつつ、適当なところで妥協しているものだ。問題は、「欲しい」と思う気持ち自体が抑圧されていることだった。「欲しい」と思う気持ち自体が抑圧されるということは、自分は何が好きなのか、何をしたいのか…つまり、「自分が何者なのか」ということが、わからないようにさせられることだから。

子供は、金がないことそのものでは、あまり親を恨まないが、自分の気持ちを尊重してもらえなかったことでは、親を恨むものだと思う。


田房栄子著『呪詛抜きダイエット』は、「親からいじめられていた」ということを認めたくなくて、無意識のうちに、あえて太るような行動をして、みじめな自分になるという親の「呪い」についての話があったけれど、片付けられない、物が捨てられないというのも、けっこう親の「呪い」が影響している部分があるんじゃないかと、自分自身を振り返ってみても思う。

私の、他の物は捨てられても服がなかなか捨てられない、穴が開いたとかそういう服は捨てられるけれど、まだ十分に着れてそこそこオシャレでもあって、でも自分は着ないなぁ…という服が処分できなかったのは、親から「おしゃれしたい」という気持ちが抑圧されていたからだと思う。

たぶん、その捨てられない服は、私の執着みたいなものの表れだったんだろう。自分のことを「おしゃれに興味の薄い、流行に疎い子」だと思い込まされていた私にとっては、心の奥底では、おしゃれな服というのは、憧れだったし、ずっと欲しいものだったんだろうね。私が服を処分するためには、自分の中の「おしゃれしたい」という欲求を満たしてあげる必要があるんだろう、と思った。


当時流行っていたコギャルな格好がしたかったとは、別に今でも思わないけれど、17歳の自分に、それぐらいの年齢の子が着るような、きれいなブラジャーと肌着を買ってあげて、小学生の頃に初めて買った時のままの眼鏡を買い替えてあげて、美容院に連れて行ってあげたいな。

ねいのーねいのー 2016/02/29 02:45 初めまして、支配者は…の記事から参りました。
不幸自慢になりますがうちの母親は中学生になり多少胸が成長してきた私にブラジャーの一つも買わなかった。
娘はいつまでも子供のまま、女になっていくことを許さない糞親でした。
80過ぎて初期の認知症を発症していますが、早く死ね!としか思えない。
離れて暮らしているのが今は不幸中の幸いです。

2015-10-29

「女が男を部屋へ招いたらセックスOK」って、世の中には異性愛者しかいない前提の考えだよね。

19:03 |

「女が男を部屋へ招いたらセックスOK」という考えは女にとって恐怖でしかない - 外資系OLのぐだぐだ


まぁタイトルの通りなんだけど。同性の友人知人を家に招いてセックスなしで過ごすのは、普通によくあることで、というか、同性だったら家に招いてもセックスとか考えるわけないだろっていうのが、なんとなく世の中の常識になっていて、一方で異性の場合だと、「家に招くのはセックスOKの合図。だからセックスする気がないのなら家に入れるな」なんて、私はおかしいと思うんだよね。

世界的には、同性婚できるところが増えていて、日本でも渋谷区で同性パートナーシップ条例ができて、世の中の流れとしては、確実に「同性愛者は存在する」ということを前提とした社会を構築する流れになっている。こうなると、セックスしていいかどうかは、「異性・同性にかかわらず、家に招いたらセックスOK」となるか、「家に招くことは、セックスOKの合図ではない。相手が言葉ではっきり意思表示をした場合のみセックスOK」となるかのどちらかになるだろう。そして、世の中がどうなっていくかというと、私は後者になっていくと思う。現に、同性婚ができる国では、そういう方向に行っているみたいだし。


そういえば、以前、仕事で付き合いのある60代か70代の男性から食事に誘われた40代女性の話を読んだことがあった。元記事を探したが見つからなかったので、リンクは貼れないけれど、確か、食事が終わってから、男性のほうが「こうして二人で食事をしたということは、そういう関係だと考えて良いということだね」と言い出しだので、全くその気がなかった女性のほうは慌ててしまい、否定すると、男性にどういうつもりで来たんだと聞かれ、「おいしい料理が食べられるな〜と思ったから」と答えた。男性のほうは「男女が一緒に食事をしたということは、そういう関係になると了承したこと」「女性とそういう機会を持つことが、男として現役の証」という認識を示したのに対して、40代女性が「私たちの世代では、男女関係はもっとフラットで、そんな仲じゃなくても食事くらいする」と説明したという内容だった。

以前見たワイドショー番組でも、「最近は熱愛発覚というのが難しくなってきた」「昔は、二人っきりで食事をしたら、もうそういう関係だと見なされていたけれど、今の若い人たちは、食事くらい普通に行きますからね」というようなことを言っていた。


今や、男女が一緒に食事をしたからといって、そういう関係だと捉えるのは古くなっている。ということは、「女が男を部屋へ招いたらセックスOK」も、これからは古い考えになっていくんじゃないかな。あと何十年かすれば、若い世代の人に対して「女が男を部屋へ招いたらセックスOK」という認識を示したら、「は?古っ」「いつの時代の話だよ」「ほら、あのくらいの年齢の人って、男女関係をやたら特別視してた世代だからさぁ」などと思われるようになるかもしれない。

異性愛同性愛もあるんだし、友人同士で普通にするようなことを異性としたからって、セックスOKとは限らないよ。二人で食事をするのも家に招くのも、友人だったら普通にすることなんだから。なので、異性同性問わず、セックスする時は、「あなたとセックスしたいんですけど」「はい、いいですよ」という意思確認をきちんと行ってから、ってことにしたほうが良いよ。それが一番間違いがなく、シンプル。実際、レイプ犯って、本気で「合意だった」と思い込んでいるケースが多いそうだから。


こんな事件もあった。

大阪府の男性職員が先月、路上に止めた車の中で20代の女性にわいせつな行為をしたとして逮捕されました。

2人はお見合いパーティーで知り合い、その日が初めてのデートだったということです。

(中略)

警察によりますと、福原容疑者と女性は6月末にお見合いパーティーで知り合い、当日が初めてのデートだったということです。女性は「いきなり襲われた」と話していて、抵抗して車から逃げ出し、その日のうちに警察に被害届を出しました。


―2012年8月16日 『20代女性にわいせつ 大阪府職員“初デート”で逮捕|MBSニュース-MBS毎日放送の動画ニュースサイト-』の記事より―

典型的なデートレイプ。「デートOK=セックスOK」じゃない。「二人で食事=恋人同士」じゃない。「家に招く=セックスOK」じゃないんだよ。


セックスをする上で、同意を得るという行為はとても大事なことである。いや、むしろ同意は絶対に必要だ。ロマンティックなデートの終わりに、顔と顔が段々と近づいてきた頃。「ねぇ、キスしてもいい?」と聞いて、同意を得てからキスをする。セックスの最中に、「どう?」「気持ちいい?」「痛くない?」と相手を気にかける。相手がダメと言ったり、嫌がった場合はすぐに止める。これはもうベーシック中のベーシックである。

しかし、悲しいことにそんな簡単なことを理解していない人が多すぎる。相手が何も言わなければ、何をやってもいいと思っている人。相手にたくさんお酒を飲ませて、酔った勢いならやってもいいと思っている人。自分の恋人だからって、いつでも自分がやりたい時にやれると思っている人。相手に嘘をついて、コンドームなしで挿入してもいいと思っている人。相手が嫌だと言ったら、「僕のこと愛してないの?」「私が嫌いになったの?」と感情的な言葉を使って相手の同意を得てもいいと思っている人。そんなのは決して同意ではない。それでセックスをしたところで、それはセックスではなくレイプである。

キャシー|第9回 同意のないセックスはセックスじゃない|LGBTのためのコミュニティサイト「2CHOPO」

リンク先の記事は、セックスする流れになったけど、相手がコンドームをつけずに挿入しようとしたので、拒絶したという内容。状況によっては、途中から「NO」になることだって、十分ありえるよね。

斉藤健二斉藤健二 2015/11/02 04:42 >「ねぇ、キスしてもいい?」と聞いて、同意を得てからキスをする。セックスの最中に、「どう?」「気持ちいい?」「痛くない?」と相手を気にかける。相手がダメと言ったり、嫌がった場合はすぐに止める。これはもうベーシック中のベーシックである。

この人がどれくらい恋愛したことあるのか、どれくらいの数の人間の恋愛話を聞いたのか、疑問に思った。逆にそんなこと質問されたくない、という意見を割と聞いてきたからだ。それなのに“ベーシック”と断じている。自分の意見にとって都合の良い“ベーシック”を創作する人間など信用できない。そうなって欲しいというただの個人的な願望だろう。先の文章は引用するに値しないのではないか。

すべてが理性的に回れば世の中の理解は楽だろう。すべての人間にとっての理想郷も夢ではない。しかし現実はそうではない。理性と本能は複雑に混じりあい、そこに個体差(個性)が混じり合う。常々思うことなのだが、「世の中はこう変わるべきだ」と自分の正義を本気で信じている人間は怖い。あくまでそれが「自分にとっての理想」であることを自覚していない人間だ。絶対的な正義なんてない、なんて陳腐な議論であるが、しかし真実でもある。レイプが犯罪であるというのは真実だが、レイプが悪だというのは真実ではなく感想だ。自分の正義を信じるならば、世の中の常識が変わるのを待つ必要はない。何が言いたいのかというと、「常識だ」というのは正しさの根拠にはならないということだ。その点において、文中に引用されている“60代か70代の男性”とキャシー氏は同じ間違いを起こしている。

とここまで書いて分かったのだが、キャシー氏は日本人ではないのか・・・。国が違えば常識も違うわな。せっかく書いた文章を消すのもなんなので投稿しまーす。

痣暗煮梅痣暗煮梅 2015/11/15 18:07 人の同意を無しに勝手に一方的な感情で
お互いの同意が必要な事とか
相手の事を勝手にやるキチガイが増えましたよね。

ninitanninitan 2015/11/16 19:28 レイプは悪だよ、一番上の人頭大丈夫?

はやかはやか 2015/11/16 19:33 男ってほんとクズばっかだな。死ねばいいのに

t.kt.k 2015/11/18 11:45 言いたいことはわかるし正論なんだけど、正論過ぎて情緒に欠けるなという感想(´・ω・`)
普通(って言ったら語弊があるけど)セックスまで行くような関係性の場合、開始の合図は言葉によらない場合が多いし言葉にすることで白けるってこともあるからね。
言葉による拒絶を受けたら素直に従うべきとは思うけど。

t.kt.k 2015/11/18 11:45 言いたいことはわかるし正論なんだけど、正論過ぎて情緒に欠けるなという感想(´・ω・`)
普通(って言ったら語弊があるけど)セックスまで行くような関係性の場合、開始の合図は言葉によらない場合が多いし言葉にすることで白けるってこともあるからね。
言葉による拒絶を受けたら素直に従うべきとは思うけど。

sadasadsadasad 2016/01/18 11:21 この人の恋愛臭そう。ガキみたいだな。

sadasadsadasad 2016/01/18 11:21 この人の恋愛臭そう。ガキみたいだな。

エアエア 2016/03/07 16:23 招き入れる方も
そうなってもおかしくない状況に陥るかもしれないと認知しておく必要はあると思う。
それが嫌なら自分がOKだと思えないなら安易に部屋に入れないのが一番だと思う。
手を出さないのが失礼だと思い混んでる男の人もいるしね。

恋愛関係で殺人事件やらが多い昨今は安易に部屋なんか招き入れない方が身のためだと思います。

後藤後藤 2016/03/09 17:22 お前らなんで二回言うねん!

後藤後藤 2016/03/09 17:22 お前らなんで二回言うねん!

2015-09-08

モテないことでバカにされない社会が良いと思うわけ

21:04 |

 

20歳前後の頃だったかと思うけど、中村喜春という人のエッセイを読んだことがあった。この人は戦前に新橋芸者をして、結婚して離婚し、戦後アメリカに渡り、アメリカがすっかり気に入って、留学生の世話などしながらアメリカで暮らしたという、なかなか面白い経歴の人だった。著者がこの本を書いたのは、たぶん80歳を超えてからだったんじゃないかと思う。

ときめきが大事だと言い、おしゃれが好きで、地味な着物を着ることを嫌い、男性との付き合いもそれなりに沢山ありそうな人だと思うのだが、「人生で本当に悲しい別れは3度あった」と書かれていた。恋愛絡みの別れだった。

もうひとつ、これは男性が書いたエッセイで、その人は奥さん公認で他の女性とデートをする人なんだけど、「もし病気になって死が近いということになったら、女房の他に会いに行きたい女性は二人いる」という。

 

私はこれらの本を読んで、「沢山お付き合いしてそうな人でも、人生の中で本当に惚れる人って、3人くらいなのかもしれないな。なら、私も人生の中で3人くらい本当に惚れることができたら、それで良いんじゃないの?」と思った。

高校生の頃、片思いではあったけれど、自分の意志とは無関係に惚れてしまうという体験はしていた(『「理想の母」の姿をしていた恋』参照)。一方、私は出不精だし社交的じゃないし、広く交友関係を持つタイプではなく、親しい友人が片手で数えるほどいればそれで満足できるタイプなので、活発に合コンしてデートしてウェイウェイ盛り上がるようなお付き合いができるような人間じゃないことはわかっていた。

テイラー・スウィフトみたいに、どの恋愛も長続きせず、元カレリストが長くなるような付き合いをするのも、色々言われるけど、いい年して誰かと付き合った経験がないというのも、色々言われる。でも、自分が望んでいないことや合わないことを無理矢理しても、なんか違うんじゃないかって、当時、なんとなくそんなことを思ったんだよね。

 

それに、モテるということは、当然、自分がモテたいと思う相手から言い寄られることばかりじゃないわけで、モテたくない相手に言い寄られた場合に、上手くあしらうということができないと、色々しんどいんじゃないかと思う。私はコミュニケーション能力が高くないので、相手を上手くあしらっておくということができるとは思えないし、あまり気心の知れていない人と二人で食事に行くくらいなら、一人で図書館にでも行ったほうが楽しいという性格なので、モテることに対してそれほど旨みがあるとも思えない。

そりゃ、自分にとって付き合う気がない人からでも、恋愛対象としてアプローチされると、自己肯定感みたいなものがめっちゃ満たされるとか、そういう人なら、モテの旨みもあるだろうけど、私はそういうのは面倒臭いと感じてしまうので、モテには不向きだと思う。

美人は得だという人を見るたび、この人は身内に美人がいないのかなと思う。美人が得をするのではない。人心掌握に長けた人が美人扱いされ、周りを転がしていい思いをするのだ。小保方さんはそのすぐれたサンプルだったと思う。こういう女性は美人ではなく、美人意識が高い人だ。

美人と金持ちの人格は軽視されがち - はてこはときどき外に出る

と、ここまで話すと大概「女の嫉妬でしょう」と勝手に納得している人がいるけど、違うんだなぁ。男なんです、問題は。勝手に惚れる→振られる→いやがらせ。これは学生時代からあったことなのでそういうことが起きないように警戒していたんですが、やはり、という感じでした。俺の好意を踏みにじりやがって、みたいに逆恨みする男性は本当に多かった。わたしの三十余年の人生では。相手が傷つかないよう20枚くらいのオブラートに包んで丁重にお断り申し上げても、次の日から、ねちっこい嫌がらせが始まるわけです。

美人に生まれたら

 

その後、インターネットを通じて、レイプ被害者の人の話やセクシャルマイノリティの人の話を読むうちに、これまで自分がこの社会の中で、なんとなく違和感を感じていたことが、だんだん輪郭を持って理解できるようになっていった。そして、「全ての人は、性別・セクシャリティに関わらず、いつ誰と性的接触をするか・性的関係を持つかを、自分で決める権利がある」という、ひとつの答えにたどり着いた。つまり、これを無視したり侵害したりする行為が、セクハラであり性暴力なのだと。そして、互いの合意があれば、色んな人とセックスしていても、ヤリマンビッチと非難されるいわれはないし、逆に一生処女童貞でもその人の自由なんだと、そう思うようになった。世の中にはアセクシャルノンセクシャルの人もいるんだしね。

私に必要なのは、私がモテなくてもバカにされない社会だった。まぁ確かに、互いに理解し合えると感じられる恋人がいたら良いなとは思うけど、無理して誰かと付き合うくらいなら恋人はいないほうがマシだし、もし本気で「恋人が欲しい!」という気持ちになったら、そのための努力をすれば良い。ただ、いつそういう気持ちになるかは、個々人でタイミングが違うと思うし、その人のタイミングで良いと思う。

 

もしモテなくてもバカにされない社会というものがあったら、モテるかどうかは、楽器が上手く弾けるかとか、絵を上手く描けるかとかと同じような話になるんじゃないかな。演奏家の世界では、楽器が上手く弾けるかどうかがほぼ全てだけれど、その世界から一歩出たら、それは世の中に沢山ある能力のうちのひとつに過ぎず、全く関係ない場でわざわざその能力の有無を持ち出されて、あれこれ言われることはない。全ての人がやらなければいけないわけではないし、いつから、どの程度までを目指して取り組むのかも、その人の自由だ。モテるモテないの問題でつらいことのひとつは、全く関係ない場でもモテるモテないを持ち出されて、自分が評価されてしまうことだから。

ただ、モテなくてもバカにされない社会になったからといって、モテない苦悩がなくなるわけではないと思う。それは、演奏家になりたいけれどもなれなかったとか、楽器が弾けるようになりたかったけど、自分には全然才能がないらしいとか、そういう、自分が望んでなりたかったものを諦めなければならないという苦悩は、やっぱりあるだろう。それはもちろん、とてもつらいことだけれど、ただ、それはその人個人の問題であって、社会からとやかく言われる筋合いはないということだ。

よく「何人の女とヤったか」を自慢する男の人っているけれど、そんなものは、オタクフィギュアを何体持っているかを自慢するようなものだ。同じ趣味仲間の内輪でしか通じない価値観だとわかった上で言うのならともかく、全世界で通用する自慢話だと思って言っているのなら、けっこう痛いと思う。どちらも、興味のない人にとってはどうでもいい話なのだから。

 

私はたぶん、母に進路を誘導され、やりたくもないことをやりたいのだと思い込まされ、本当にやりたいことを抑圧されてきたので(『「普通」の親が子供を追い詰める』参照)、できるだけ、自分が何をどの程度望むのかを、社会とかの他者に勝手に決められてコントロールされたくないという思いがあるのだろう。例えば、自分にモテたいという欲求があったとして、その理由を、「男の本能が〜」「男は精子を撒き散らして〜」みたいに、「自分は」ではなく「男は」でしか語れない男の人ってよく見かけるけど、それは、自分自身の意見を語れずに、「普通は」「常識は」でしか語ることができないのと同じだと思う。

二村ヒトシ著『すべてはモテるためである』の中で、「なぜモテたいと思うのか? どういうふうにモテたいのか?」という部分を徹底的に問いかけているのは、自分の願望や欲望を、「普通は〜」「常識は〜」「男は〜」ではなく、自分自身のものとして具体的に言語化するためなのではないかと思う。その人の言う「モテたい」という言葉が、もし、親や世間から刷り込まれた「良い学校に行って就職したい」という程度のものでしかなかったとしたら、その人は自分が本当は何をしたいのかもわかっていない。

「自分がなんなのかよく分からない状態」の人は、社会的善悪や正不正の『基準』を強烈に求めるようになる。自分の考えがないから、意見がない。だから『世間体』や『常識』で自分の言葉を語らなきゃいけなくなる。(中略)そういう人は、「世間体」や「常識」が実は実体がなくてふやけたようなものだという意識は全くない。むしろ絶対に全人類がひれ伏さなければならないモノだと思っているから、使用の仕方も相当に横暴である。

自分がなんなのかよく分からない状態: むだにびっくり

世の中には、処女童貞だとオコサマで、非処女童貞だとオトナというような価値観があるけど、私は、自分のことを自分で決められるのが大人だと思う。

 

すべてはモテるためである (文庫ぎんが堂)

すべてはモテるためである (文庫ぎんが堂)


うわぁうわぁ 2015/10/09 20:24 未だにこんなこと本気で書く人間がいることに驚く。
マジョリティであること自体が差別というところまで行き着いたのなら、
次の行き先はこの世ではないね。

ひさびさのはてなひさびさのはてな 2015/10/19 16:38 びっくりして日付を見直して見たら、今年だった。
更にびっくりした。

ここのブログ主さんって、昔のはてな華やかりしころの「非モテ論争」に参加していなかったっけ。自分の勘違いかな。

あの頃から、非モテは承認欲求に関する問題だと散々話が為されていたと思うんだけど。
そういうの真っサラにして一からまた同じ話組み立てるんですかー。
そんな10年くらい前に散々語り尽くされた話をまた、なかったことにして話始めないで下さいよw
てか、その手の過去ログとかないの、はてなって。

↑ 2015/10/22 18:44 何か上のコメントの最初の部分、意図が伝わりにくくてケンカ売ってるように見える。

結婚してないで「この年で……」みたいに周りに言われても私は私の勝手だと思うし、そのまま孤独で死んでも気にしない。

人間の物の考え方なんて、時間で変わるもんだし長い年月でものの見方がいつまでも同じだってほうが不気味だし、自分の気付かないうちに変わってる場合もあるし。

「あの時、ああ言ったんだから貫けよ」みたいな分を書かれても、困るだけな気がする。

やべぇやべぇ 2015/10/22 18:55 コメントの返信がごっちゃになってる。
上のコメントの最初の部分は、一番上に書き込んであるコメです。
背景に日付が馴染んで見えてませんでした。てっきりないものかと。

PEROPERO 2015/10/31 15:31 最近のブログ主殿のテーマは、アスペルガー宣言以降、ちょっと引いて見ていたのだが、これは、自分の身に照らして、その通りだと思う。

私は、高校生の時に、機動戦士ガンダムのアムロを見て、”あれはオレだ”と直感した。エレクトロニクスオタクである。(笑)

それはさておき。

1970年台〜1980年代に青春時代を過ごした私が見た日本社会に、”モテが全て”、なんていう価値観は存在しなかった。

俳優の松田優作は、”太陽にほえろ”で一躍有名になったが、ハンサムとは程遠い、細身の質実剛健であったと思う。

この時代には、”男は顔じゃない”という社会的合意があった。モテようが、モテまいが、人生に関係ない!というスタンスが社会にあった。

ところがである。

昨今は、小学生の頃からバレンタインチョコレートを贈り、中学から綿密デート計画、というから、驚きである。

笑えるのは、大学に行く頃には、男女交際のプレッシャーでヘトヘトになり、就職する頃には、男女関係が皆無になるという。

私の頃は、男女交際が最も進行するのは大学から就職後にかけてだった。(つまり、結婚適齢期)

私は昔からモテを意識しない。現在も全く意識しない。おかげで、勉強も仕事も地位も人並み以上のものを獲得できたと思う。

今の若年社員は、女性の尻ばかりを追っかけていて、勉強や仕事はそっちのけ。これでは、日本も沈没する訳である。

非モテ系の私が言うと、説得力に欠けるのだが、日本の高度経済成長の時代、”女の尻”は人生に於いて、2番目3番目の順位であった。

ちなみに、古代ローマ帝国は、ヨーロッパ全土を支配したが、その末裔であるイタリアに、その覇気は、全く感じられない。

現在のイタリアは、正に”モテ文化”の中心である。モテ文化は、国を破壊するのだ。(笑)

PEROPERO 2015/12/08 14:34 最近、若者の行動がヘンだと感じる様になった。私の視線を感じると、何故か、ポーズを取る男性が散見される。

私は男性なので、私に色目を使うバカは居ないだろう。どうやら、人目を感じると、それに呼応して、ポーズを取っているらしい。年齢は、高校生ぐらいから35歳までだろうか。

そういう”変わった若者”が過去になかった訳ではないが、どうも近年、目につく。

私が高校生の時(1970年代)は、赤の他人の誰かにポーズを取るバカは芸能人くらいで、”他人は完全無視”が若者の既定路線であった。

ところが最近は、他人を無視する筈の高校生が、他人の目を気にしてポーズを取る。

興味深いのは、”事件の容疑者”として逮捕された若者が、カメラ目線でポーズを取っている姿である。特に驚くのは、カメラを発見して喜ぶ容疑者である。ここ数年の傾向だ。

更に、大学生が会社に就職して、上司が自分の面倒を始終見てくれないと、うつ状態に陥ると聞く。

総じて、”かまってちゃん”が増えているのだ。

小学校で、登校時に先生が門前で挨拶し、何時でも先生が生徒を気にかけ、声をかける。下校時でさえ、老人達のボランティアが要所で子供達に声をかけ、見守られる。構われない時間の無い存在、それが21世紀日本の子供達である。

私が育った過程を顧みてみれば、1日中親にかまわれた幼児期、大人との距離が生じて行く小学生、独立した個人として扱われ始めた中学生・・・と時を経るごとに大人との距離が増して行くのが普通であった。そして、大学では完全に放置。それが当然であった。

これがあらゆる国で進められている、”子供の独立”の過程なのだが、どうやら、近年の日本では、始終、かまわれないと気が済まない人間が増えている様である。

ちなみに、”他人に注目されたい”と願う欲求は、10歳程度までのもの、つまり幼児の欲求である。

心が幼児のまま成育した高校生が、赤の他人に注目して欲しくて、ポーズを取る。逮捕された容疑者が報道陣のカメラを見つけて素直に喜ぶ。バカな写真をとって、ネットに投稿する。

20歳を過ぎても小学生の様に、他人の注目を望む姿は異様であるが、その底流にあるのが現在流行の”モテ文化”である。

近年の若者の”モテ文化”の傾向を見ると、特定の異性に対するものではなく、異性、或いは同性の集団に対する”モテ”、即ち、集団からの人気を欲している様に見える。そもそも、”モテ”が日本で注目され始めたのは、1980年代後半のバブル期からである。当時は、特定の異性に対するモテがターゲットであったが、その後の学校内におけるいじめを回避する為の手段としての、”集団モテ”が生まれた。

それが象徴的に具現化したのが、女子から女子へのバレンタインチョコレートである。バレンタインチョコレートは、女性から男性への贈答であるが、”友チョコ”と言われる同姓への贈答が増えている。これは、明らかに集団モテを意識したものである。(この源流は、多数の異性に配られた”義理チョコ”)

”集団モテ”は、周囲の人間全てからモテたい(=愛して欲しい)という幼児欲求が元であり、日本語で表現すれば、”媚(こび)”に相当する。

面白いのは、集団モテと幼児化が合体した様な現象が、近年起きている。それが、渋谷のハロウィーン騒ぎである。

彼らは、いわゆるオタクでは無く、普通の若者達である。普通の若者達が、幼児然とした格好で街を練り歩く。正に、集団モテと幼児回帰をワンセットにした内容である。

オタクのコスプレ、というのは場を心得ていて、街中ではやらない。無条件でコスプレを認めてくれる仲間内だけで行うのが、オタクのコスプレである。場を心得ているから、彼らは大人である。だから、警察に逮捕される事も無い。

ところが、渋谷の連中はオタクとは一線を画している。大衆の面前で堂々とやり始めたのだ。これは、明に幼児性を誇示する現象であり、当然、暴力行為も発生し、今年も数人が逮捕された。

この現象は、明らかに幼児への退行現象である。”モテ文化”などと気取っているが、その正体は、他人に注目されたい、という幼児性の発露に過ぎない。

それを理解していた”大人”が居た時代は、モテなくてもそれを気にしなかったし、バカにする輩も居なかったのである。