yuhka-unoの日記

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「まとも」な人間が育つには、「まとも」な環境が必要

震災機に解散、ボランティアになった暴走族
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110418-OYT1T00295.htm
 
 茨城県大洗町を拠点に活動していた暴走族の解散式が17日、水戸署で行われた。今後、津波で大きな被害を受けた同町の復興のため、がれきの後かたづけや浜辺の清掃などを行うボランティアチームとして再出発する。

 解散したのは、同町の高校生など15人で構成された「全日本狂走連盟愚連隊大洗連合ミスティー」。メンバーが入れ替わりながら約30年間、同町や水戸市などで、集団でバイクを乗り回し、爆音を響かせてきた。

 解散のきっかけは東日本大震災。避難所などで「敵」と思い込んできた近所の大人や警察官から「飲む水はあるのか」などと気遣われ、「暴走なんかしている場合じゃない」という気持ちが強くなったという。泥まみれになった町役場の清掃に参加するメンバーも現れた。

 解散式では、暴走族の少年総長(16)が「今まで地域の人に迷惑をかけた。今後、暴走行為は行わない」などと宣誓書を読み上げた。「族旗」も水戸署大洗交番所長に手渡し、同町職員や警察官らから拍手が送られていた。総長は「これからは同じ境遇の少年たちも巻き込んでボランティアとして頑張りたい」と誓った。
(2011年4月18日10時42分 読売新聞)

こういう話があると、「不良がまともになっただけ。前からまともな人は沢山いる」と言う人がいるけれど、ちゃんと愛してくれる親の元に生まれたら、大抵放っておいてもまともになるが、そうではない親の元に生まれたら、まともになるのには大変な努力がいる。そもそもスタートラインが違う可能性があることを考えなければならない。
親を始め、人生の初期における大人との関わりは、その後の人との関わりの基礎になる。運悪く、自分の周囲には味方になってくれない大人ばかりという環境に生まれてしまったら、「大人は敵」と思うようになって当たり前だ。
 
桐生市で小学六年生の女の子がいじめを苦に自殺した時、学校や教育委員会のひたすら保身に走る姿勢は、世間からの批判を浴びた。私は憤りを感じつつも、学校や教育委員会の対応自体には少しも驚かなかった。いじめが起こった時の教師や学校の対応が、所詮あの程度だということを、過去に身をもって体験しているからだ。
あの時から私はしばらく教師を信用しなかった。私は「いい子」ではあったので、外面は大人受け良く振舞ったが、内心ではずっと「教師なんて皆、口では生徒のことを思っているようなことを言っておきながら、その実子供のことより自分の立場が大事なんだろ」と思っていた。だが、その後良い先生に出会えたので、「教師にも良い人とそうでない人がいるだけだ。クラスにも良い子とそうでない子がいるのと同じように」と思うようになった。
実際、教師は聖職者ではなくただの人間だし、学校も生徒を守るところではなくただの集団組織だ。その辺の一般企業と同じで、何か不祥事があった時に、真摯に対応するところもあれば、ひたすら保身に走って不誠実な対応をし続けるところもあるだけだ。
 
深夜徘徊をする若者の中には、虐待を受けている子や、直接虐待を受けていなくても、両親の仲が冷え切っていてピリピリした空気が漂っているなど、家庭の中に居場所がない子が相当数いるそうだ。家庭から逃れるために家を出るしかないのに、家を出たら出たで、社会から冷たい視線を浴びせられ、クズ扱いされる。居場所の無い子供を売春に薬物に利用しようと、大人たちが手を伸ばす。これでは社会全体で子供を虐待しているようなものだ。こういう境遇に置かれた子供にとっては、大人はまさしく「敵」だろう。
群馬県では、青少年の夜間外出を規制する条例を作った結果、中高生の喫煙や窃盗が増加したそうだが、当然の結果だ。
 
この記事の出来事からわかることは、不良を更正させるのに、「甘えるな」だの「自衛隊に入れろ」だのといった言説は、全く的外れだということだ。本当に必要なのは、愛情と居場所と自分が必要とされているという実感だ。逆に言えば、今までの人生で、それらがあまりにも不足していたから不良になったとも言えるのだろう。