Hatena::ブログ(Diary)

yuhka-unoの日記

2011-08-29

ネットの可視化、リアルの不可視化―近頃の若者の「わからなさ」について―

22:53 |

.@nucco 例えば、子どもが、缶蹴りや鬼ごっこをして遊んでいると安心するけれど、DSの画面を見つめてひたすら黙っているという場面を見ると、なんか不安になるというのは、見守る側の大人の素朴な感情としては、どうしてもあると思うんですよ。そこをどうしたらいいんだろう、というか。

http://heis.blog101.fc2.com/blog-entry-216.html

たぶん、このDSで遊んでいる子供に対する不安感というのは、一見して何をしているのかわからないという不安感なのだろう。缶蹴りや鬼ごっこなら、子供がどういうルールや世界観の下で、何を考えながら行動しているのかが一見してわかる。しかし、これがゲーム機だと、そういった世界観や思考というものは、画面の中と子供の脳内に存在しているものであり、一見して何をしているのかがわからない。もっとも、この手のゲーム機で遊んだ経験のある最近の親なら、何をしているのかある程度わかるのだろうが。

 

私は、イラストを描いて自分のサイトに掲載したり、イラストの資料のために中世ヨーロッパの食事風景を調べてみたり、ブログで自分の思ったことを書いたり、ブログについたコメントからふとアルファベットの歴史を調べてみたり、動画サイトで自分の好みに合う音楽を探して聴いたり、そこで戦前戦後の歌謡曲に興味を持ったり、それらの過程で他人と交流したりしている。

しかし、これらの行動は、インターネットをしない私の母から見れば、ただパソコンの前に座って何かをしているようにしか見えない。(もっとも、最近の母は、弟がプレゼントしたiPadYoutubeを見るようになったので、多少は考え方が変化したかもしれないが。)

 

年長者はいつの時代も「近頃の若者はわからない」と言うものだが、今と昔では、その意味合いが若干違ってきているように思う。一昔前ならば「なぜ若者があんな行動をするのかわからない」という意味で言われていたのだろうが、今では「そもそも若者が何をしているのかわからない」という意味になってきているような気がする。

昔の若者は、スポーツカーに乗っていた。今の若者は、ボーカロイドで楽曲を作っている。前者はとりあえず、「近頃の若者は、ああいう車に乗っている」ということはわかる。後者は、ネットの世界に身を置かない限り、若者がそういうことをしているということすらわからない。

年長者にとっては、「若者の○○離れ」というふうに、若者が離れていっているものはわかるが、逆に若者が何に近付いているのかがわかりにくい時代になったのではないだろうか。加えて、昔よりも個人の趣味が多様化しているから尚更だ。

 

そういえば、以前見た成人の日の新聞の社説にも、似たようなことが書いてあったっけ。

成人の日社説がウザい件 - テラの多事寸評

http://d.hatena.ne.jp/thinking-terra/20110110/1294657156

 

 しかし電車でゲームや携帯に没頭する君たちを見ると大丈夫か、と心配が先に立つ。世間の情勢を知れば、暗くなるからと、現実から目をそむけているのではないかと疑いたくもなる。

 年配者の杞憂(きゆう)であれば幸いだ。

2011年1月10日の朝日新聞社説だが、元記事が消えているのでこちらへリンク。

私はこの記事を読む数日前、電車の向かいの席で、女性のあからさまに猥褻な写真と、猥褻なキャッチコピーが載っている新聞を広げているおっさんを見たのだが、まぁそれはともかく、この記者の心配も、ゲームや携帯が、一見して内容がわからないからなのだろう。文庫本や新聞なら、少なくとも表紙からどういう内容なのか想像がつく。

もっとも、本や新聞の全てが高尚なわけがなく、大して現実の役に立たない、下らない内容のものも多いわけだし、今時携帯でニュースを見ることもできるわけだから、私は電車の中で本を読むのも携帯を見るのも、大して変わらないと思っている。

それに、電車の中でゲーム機や携帯を使っている人が、普段全く新聞も本も読まないとは限らない。その若者が電車にいる時以外の行動は、記者氏からは見えない領域だ。

 

人は、「見えない」ものは「ない」ものだと思ってしまいやすい。「自分の立場からは見えないが、そこには何かしら存在しているのだろう」というふうに考えるのではなく、「存在しているのだろう」とすら考えられない。

ゲーム機や携帯に親しんでいない者からすると、ゲーム機や携帯を操作する者は「思考が見えない→思考がない→何も考えていない」というふうに思ってしまうのだろう。上の社説を書いた記者氏だって、固定電話で通話している人や、テレビを見ている人を見て、「大丈夫か」「現実から目をそむけているのではないか」などと思ったりはしないはずだ。それは、記者氏が固定電話やテレビには親しんでいて、それらの機器を使っている人の思考がわかるからである。

インターネットは、様々なものを可視化したが、逆にリアルの世界では、様々なものが不可視化されているのかもしれない。しかし、可視化されようと不可視化されようと、そこに存在しているものは変わらない。立場によって、認識できるものとできないものが違うだけで。

 

 

【関連記事】

「見ていない」ものは「ない」ものではないということ

とおりすがりとおりすがり 2011/10/27 05:32 六百デザインの「嘘六百」
時折綴る「子供にゲームをさせよ論」のコト(リンクからどうぞ)

こんなエントリもあったりして

SchneewittchenSchneewittchen 2012/02/03 13:41 たとえば、会社などで長時間、パソコンに向かいっきりで仕事してたとします。
上司は、時おり、今、何を やっているのか、どこまで進捗したのかなどと訊ねてくることがあります。
こういった場合の「わからなさ」「見えなさ」に対する危惧と、
子どもの場合の それとは、まったく同じということはないでしょうね。